空間

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1.発端 - 01

 

 あらゆるものが変化を遂げていく。
 握り締めた盾はあまりにも重く、もう手放してしまいそうだった。

 

 

 桜の花びらが宙を舞い、やわらかな風が皆の背を押す。
 俺が学園に入学してから今日でちょうど一年が経過することとなる。二度目の入学式が学園内で行われ、上級生となった俺は新たに迎えられた生徒たちを黙って見つめていた。
 隣では面白くなさそうな顔をしているルームメイトが立っている。いつもならまたつまらないことで不機嫌になっているのかと思うところだけど、今日ばかりは相手の気持ちが痛いほどよく分かってしまった。
 俺と同じ部屋で暮らし、同じ時を刻んできた相手――加賀見亮介の機嫌が悪い理由。それはこの入学式というイベントそのものが原因なのだろう。入学してきた生徒は閉鎖された空間に閉じ込められ、やがては卒業式を迎えなければならない。それがそもそもの恐怖だということをここにいる人々はまだ知らない。
『この学園の生徒は一生ここから出られない。なぜなら、連中はこの閉鎖された空間の中で一人残らず殺されるからだ』
 亮介の科白が頭の中で幾度も再生される。彼がどんな思いでこの言葉を俺に与えたのか、それを考えると何もかもが分からなくなってしまいそうだった。
 この学園で何が起こっているのか、晃や陰はそれと関係があるのか、キアランが売っている薬や亮介たちの行為が黙認されている理由は何なのか――断片だけが見えていて、明白になった事実は何もない。俺はこの一年で何を知ってきたのだろう。
 無知を咎める気はないが、目を向けることもない人々が並ぶ様を俺はまっすぐ見ることができなかった。だけど彼らは知る機会を得られないんだ。何も知らないまま灰となるなら、幸せでいられただろうか。
 やがて入学式は平穏に終結し、生徒たちは各々の教室へと帰っていく。
「弘毅」
 自由行動が可能になった途端に名を呼ばれた。そちらに顔を向けると、先程まで不機嫌そうだった亮介が俺を見つめていた。心なしかその表情は怒っているようにも見える。
「どうしたんだ、亮介」
「それはこっちが聞きたい。お前、ずっと不安そうな顔してたじゃないか。何か……悩み事でもあるのかよ」
 周囲の人間に聞かれない為だろうか、亮介は声のトーンを落としてひそひそと話しかけてきた。ただでさえ亮介と一緒にいると彼のファンたちがうるさいんだから、こういったささやかな気遣いは涙が出るほど嬉しかったりするもんだ。
「ちょっと亮介の言ってたことを思い出しちまったからさ」
「……聞きたいって言ったのはお前の方だろう。それで勝手に気分が悪くなられても困る」
「ああ、分かってる」
 知りたがっていたのは俺自身だ。無理を言って亮介に教えてもらったのは俺の責任であり、相手に罪はない。
「ただ、お前の気持ちも分からなくはない。俺も初めて聞かされた時はどうしようもなく不安だったからな」
 くいと腕を引っ張られたかと思うと、相手は身体を近付けて手を握ってきた。他の誰にも気付かれないようこっそりと、だけど強い力を込めて握ってくる。
 彼の体温を感じるとなんとなく落ち着くことができた。同じ悩みを共有しているからだろうか、亮介が俺の不安を分かってくれるだけで救われる心地がする。もしかしたら相手も同じように考えていて、だから手を握ってくれているんだろうか。当時彼を救える人はきっと誰もいなかったんだろうから。
「ま、卒業式までまだまだ時間があるし、今はまだ気にしないでおこうぜ。それより早く教室に行かないと新しい先生に怒られるぞ」
「新しい先生、ね」
 これから知るはずの情報なのに、亮介はまるであらかじめ知っていたかのような口調で呟いていた。生徒たちにそれぞれのクラスは公表されているが、まだ誰が担任になるかは知らされていない。一年の時の担任があまりにもアレだったから、今年こそはいい先生が担任だと嬉しいんだけどなぁ。
 亮介と二人でたくさんの人に囲まれつつ新たな教室へ向かう。二年になったので教室は二階にあるようだった。学内を知り尽くしている亮介の案内で俺たちの居場所が与えられたその部屋へと足を踏み入れた。
 扉をくぐった途端、妙な熱気が全身を撫でていく。
「か、加賀見君! まさか君がこのクラスだっただなんて!」
「これからよろしくお願いします、皆さん」
「おお!」
 教室内で好き勝手なことをしていた連中は一気にこちらに注目し、何やら口々に亮介を称える言葉を喋り始めた。ここでもやはり亮介殿は大人気であられるご様子で、俺は肩身が狭い思いをしなければならなくなる。いや、それももう慣れちゃったけどさ。
 亮介が歩くと道が開かれ、彼は皆の導きにより自分の席に辿り着いていた。何なんだあのお姫様的な待遇は。後に残されている俺が惨めに見えてくるからやめろよ、おい。
 複雑な気持ちのまま自力で席を見つけ、俺はそこに座り込む。
 ざっと教室内を見回してみると、いくらか俺の知っている顔を見つけられた。でも特別仲が良くなった奴は誰もおらず、晃や陰の姿も見られない。あの二人とはクラスが別々になっちまったってことか。残念だけど仕方がないな。
 しかしそうなると、この教室内で何の気負いもなく付き合えるのは今のところ亮介だけということになるのか。だけどあいつと話すにはそれなりの度胸が必要だし、俺が亮介と「お付き合い」してることは周囲に知れ渡っているとはいえ、熱心なファンに睨まれることは覚悟しなければならないんだよな。そうなってくるとこの教室内で気楽に話せる相手は一人もいないということになるんじゃなかろうか。
 なんだか急激に晃と陰のことが恋しくなってきた。あの二人って今まで特に考えなかったけど、俺にとって大事な奴らだったんだな。いなくなった後で気付いても遅いけど、これからはもっと感謝の念を込めて付き合うべきなのかもしれない。
 そんなどうでもいいことで頭を悩ませていると、既に聞き慣れたチャイムが頭上を通過していった。教室内が静かになり、ざわめきがすうっと何かに吸い込まれるように消え去る。
 やがて教室のドアが音を立てて開き、新しいクラスの新しい担任が俺たちの前に姿を現した。
「おはようございます」
 若々しい声に、場違いのようにも見える白衣。癖が抜け切れない髪は茶色に染まり、四角いフレームの眼鏡がその目の奥の光をカモフラージュする。
 あまりにも見慣れすぎたその姿を目の当たりにし、俺は大きく目を見開く他にどう反応していいか分からなかった。そう、俺たちのクラスの担任とは、他でもないあの円輝美という名の変態――じゃなくて変人教師だったのだ。
「このたびこのクラスの担任となった円輝美です。これから一年間よろしく。仲良くしてね」
 まるで子供のような自己紹介をし、円先生はいかにも軽そうな笑顔に切り替わった。この表情もすっかり知り尽くしてしまっており、本音を隠す為の仮面だということも俺はきちんと理解していた。
「もう二年だし自己紹介の時間は必要ないか。じゃあ今日決めることをさっさと決めて、後は自由時間にしてしまおうか」
 生徒たちの気持ちを読み取ったかのようなことを先生は言っていたが、実際それは円先生自身の願望のようにしか思えなかった。この人って学内でうろつくより自室にこもってる方が好きそうな性格だし、早く終わらせて自分の世界に帰りたいんだろうな。なんて教師だ。
 そんなこんなでクラス内の決定事項が次々と提示され、早く帰りたい生徒たちは特に揉め事も起こさずスムーズに事を運んでいた。おかげで一時間もしないうちにクラスは解散となった。教室内で最も嬉しそうな顔をした先生が誰よりも早く姿を消してしまったことは言うまでもないだろう。
「弘毅、部屋に帰ろうか」
 ぼんやりと教室内を眺めていると、離れた席に座っていたはずの亮介が俺の隣に立っていた。ついでに彼のファンらしき連中が背後あたりで見えないシェルターを形成している。
 しかし亮介の方から声を掛けてくるのは珍しいことだった。普段なら教室内で俺と話をすることもほとんどないし、俺よりファンと過ごしていることが多いのでなんだか不思議な気分になる。連中から亮介を奪い取って優越感を得たというか、彼らの悔しそうな顔を遠目から確認することが妙に気分を高揚させてきた。
「お前、ファンの奴らを放置してていいのかよ?」
 廊下を二人で歩きながら、またしても手を繋いできた相手に訊ねてみる。二人きりになった途端に営業スマイルは封印されたが、それでもその素っ気なさが今の俺には安心できる要素となっていた。
「あんな連中、適当に話をするだけでいいんだよ。いちいち連中の要望に応えてたら身が持たねえからな」
「そ、そうなのか」
「しかし黒田とクラスが離れるとはな。学園長のジジイは相変わらずのサディストだ」
 生徒のクラスを決めているのは学園長なのだろうか。そもそも晃は俺のことを学園長に話したことがあるのだろうか。もし学園長が俺と晃が友達になったことを知っていたら、クラスを別にすることを躊躇うと思うんだけどなぁ。いや、それはあまりにも考えが甘すぎるか?
 学年が変わっても寮の部屋が変わることはなく、住み慣れた部屋に戻ると気持ちが落ち着いた。
 制服の上着を脱いでハンガーにかけ、ソファに座って一息つく。亮介は鞄を机に置いてこちらへ歩み寄ってきた。まだ何か話し足りないことでもあるのだろうか。
「なあ弘毅」
 彼の声がいつになく静かだった。そっと肩に手を置かれ、徐々に整った顔が近付いてくる。
「な、何だよ」
「今から――しないか」
「へ」
 言葉足らずな相手の誘い。だけどこれは初めてではなく、おかげで俺には彼の言葉の意味がよく分かってしまった。
「ちょ、だってまだ昼だぞ? なんで急に、そんなこと」
「久しぶりに大勢の顔を見て、その誰もが違うと感じたんだ。俺はどうやら……お前がいいらしい」
「え、その」
 ストレートで正直な感想を聞かされ戸惑ってしまう。亮介ってこんなに素直な奴だっけ? 本音を幾重ものベールで包み隠して、正反対のことを言って誤魔化そうとするのが加賀見亮介という人の特徴じゃなかったっけ?
「亮介――んっ」
 キスされる。食い付くような乱暴なキスだった。だけどさすがはプロというべきか、痛みや息苦しさは感じられず、代わりにもたらされたのは相手を手に入れたいという欲望の一かけらだった。
 唇が離れたなら、今度は俺の方からキスをする。
「まだ不安か?」
 細い喉から飛び出した相手の声が部屋に響いた。それが何を示しているのか、俺には分からない。
「卒業式のこと、円センセーが担任であること、黒田が同じクラスじゃなかったこと――お前の兄貴が学内にいるかもしれないということ。お前を最も不安にさせていることは何だ? 言ってみろよ、俺がそれを壊してやるから」
「いいよ、そんなことしなくても」
「よくない」
 ズボンのベルトを細い手が外してしまう。俺は彼の手を止めることもせず、ただ相手の気持ちを受け止めようと耳だけを澄ませていた。やがて盾を失った脚の間に亮介の手が伸び、最も敏感な部分が直接触られる。
「ん、うう――」
 彼との行為はこれで三度目で、慣れてきたかと思っていたのに身体は必要以上な反応を起こしてしまう。全身が敏感になっているようで、ただ皮膚を触れられただけでもどこかへ意識が飛んでしまいそうだった。
「どうしたんだ、今日はずいぶん素直じゃないか」
「そ、そんなこと……お前だってそうだろ。いつもはそっぽを向いてばかりなのに、なんで今日は、こんなに――」
「バカを言うな、俺は毎日素直で正直で隠し事なんか一つもしたことがない素晴らしい人間なんだぞ」
 嘘八百を並べながらも相手は手の動きを止めてくれない。そればかりか徐々に力と速度が増していき、頭の中を言葉にできないほどの快感が支配していく。
 このまま続けると歯止めが利かなくなりそうだった。俺は震える手を相手の肩に乗せ、ぐっと彼の細い身体を引き寄せる。
「亮介、亮介」
「何だよバカ、二度も呼ばなくても聞こえてるぞ」
 肩から頭へ手を移動させ、やわらかな髪を撫でた。とても綺麗な髪である筈なのに、それはすぐに指に絡まってしまう。顔を近付けると甘い花の香りが感じられた。何を錯覚したのか、俺は無意識のうちに彼の髪を一房唇の上に乗せていた。
 吹っ切れない思いがある。足枷は想像以上に重く、だから俺は無理に壊す必要があった。髪を食べ損ねた後は相手の鎖骨へ標的を移し、白い首筋に少しだけ歯を立てて噛んだ。
「お、おい弘毅――てめえ、一体どこでそんなこと覚えたんだ」
「どこで?」
 俺の何倍も経験を積んできたはずの亮介がうろたえている。なぜ彼が戸惑う必要があるのだろう。俺はゆっくりと彼の首筋に舌を忍ばせた。先端が麻痺したかのように、そこからは何の味も得られない。物足りなさは俺を再び首の上へと誘導させた。
 そっと頬に手を添え、キスをすると見せかけて寸前で止める。片手で邪魔な髪を持ち上げて、露わになった耳朶を唇で挟み込んだ。
「あ……」
 それまで同じように続いていた彼の手がわずかに乱れた。耳の裏に舌を滑らせ、軽く噛む。
「やめ、耳は――!」
 赤く染まった白い肌が綺麗だった。相手の腕を掴み、それまでと二人の体勢を真逆に入れ替える。ソファに背を任せた亮介を抱き締めた。
 いつの間にこんな気持ちを抱いたのだろう。一体いつから俺は、彼をこんな目で見ていたのだろう。
 失いたくなかった。未来に諦めしか見出せない彼に、どうにかして希望を見つけて欲しかった。亮介は俺の背に腕を回した。この細い身体を何人が貪った? 彼の背が折れそうなほど脆いことに、そのうちの何人が気付いていたのか?
「お前は以前言っていたな、いつかこの学園を出たら、一緒に来てくれないかって。俺はいつでも構わない。お前のタイミングでここを出よう。そして一緒に――大人になろう、亮介」
 何も迷う必要はないんだ。この学園が何を抱えていようと、知ってしまった俺たちにはここから逃げる権利がある。立ち止まり、示された道を進むだけで破滅するのなら、背徳に与する選択をして無様に逃走するしかすべはない。
 幸せになる為に犠牲が不可欠だというのなら、俺は彼と行くことを望もう。この手が掴んだものが虚栄でも構わない。世間にとって嘘だとしても、俺にとっては真実なのだから。
「……弘毅」
 様々な含みのある呼び声が耳元で揺れた。肩に手を置かれ、そこに力が込められ身体を離される。彼は迷子のような顔をしていた。暗闇に一人取り残された、家のない子供のような表情をしていた。
「……」
 彼の唇が動く。だけどそこから紡がれるはずの言葉はなく、涙色の瞳がかすかに震えるだけだった。声のない声が今は全く聞こえてこない。
「亮介?」
「やめろ」
 相手は顔をそらし、目を閉じた。俺は彼の肩に手を置く。頬に手を添え、顔をこちらへ向き直らせた。長いまつ毛が少しだけ動き、やがて隠された瞳が再び俺の姿を捉える。
「どうしてやめなければならないんだ? 誘ってきたのは、お前の方じゃないか」
「だって――だってお前は!」
 唐突に服を掴まれ、声色の変わった振動が胸を打った。
「前からそうだ! お前は俺とする時も、他の誰かに触れられた時も、いつだってお前の気持ちがそこにないじゃないか! どうしてお前は俺を見てくれない? なぜお前はいつも――いつもいつも、別の人間の影ばかり見ているんだよ!」
 彼の瞳から涙が流れていた。熱を持ったそれは俺の腕に落ち、肌を滑ってソファの下まで落下する。
「俺はそんなお前が欲しいんじゃない――兄とか妹とか、そういったしがらみを持たないお前が欲しいんだ!」
 身体が近付き、彼は俺の服に顔をうずめた。抱き締めようと背に手を回すと強い力で振り払われた。俺の前だということを忘れているのか、彼は全ての感情を曝け出して子供のように泣いていた。
「ごめん」
 謝っても何もなかった。亮介はただ俺の中で泣き続けるだけ。
「お前がそんなふうに思ってるなんて、少しも知らなかったよ」
「だから……お前はバカなんだ」
 涙に濡れた声が俺の心を突き刺した。見えなかった相手の心が見え始めていた。俺はそっと彼の涙を拭ってやる。
「もう泣くな」
「泣かせたのは、お前だ」
「分かってるよ」
 震えたままの相手を抱き締める。今度は拒まれることもなく、彼は俺を受け入れてくれた。だけど途端に傷跡が疼き出した。まるで過去を忘れようとする俺を咎めるように、ずきずきとした痛みが身体の中を駆け巡っていく。
 電話が鳴った。部屋に取り付けられた電話が騒音を奏でている。俺はそれを気にする亮介をより力を込めて抱き締めた。何があろうと俺の元から離れて欲しくなかったんだ。
 過去の記憶が俺の行動を彩っていることは理解している。誰の思想に影響を受け、なぜこんな不安定な心を抱くようになったかということも、すっかり知り尽くしている心地でいた。そんな俺が人を愛することが出来るのだろうか。いいや、出来るかどうかじゃなく、俺は何の雑音もないまま、心の底から誰かを愛したかった。
 歪められた愛情を受けたせいだろうか、それとも裏切られて臆病になっているせいだろうか――いつから自分は閉鎖的な心を築き上げたのだろう。俺はこの檻の鍵を持つ者が、他でもない亮介であると信じていたかった。

 

 +++++

 

 夜が来ると室内は静寂を張り巡らせていた。
 入学式の日はいつも客を取っていないらしく、亮介の商売は定休日となっていた。一足先にベッドに横になっていた彼はもう目を閉じており、耳を澄ますと小さな呼吸音が聞こえてくる。俺は足音を立てないよう気を付けて彼の隣に立った。
 相手を起こさない為に息を潜める。床の上にしゃがみ込み、俺だけが知る横顔を眺める。整った顔はやはり綺麗だった。長いまつ毛もピンクの唇も、性を感じさせないものの不思議な魅力が秘められている。いつしか俺はそんな姿に惹かれていたのかもしれない。どうして彼からの誘いを簡単に受け入れることができたのか、その答えがようやく分かったような気がした。
 そっと足音を忍ばせ、一人で部屋を出ていく。すっかり暗くなった廊下は物語の中よりもずっと恐ろしく、それ故に安心できる空間となっていた。
 一歩ずつ地面に足を置き、床があることを確認しながら歩いていった。時間をかけて辿り着いた先は俺の求める目的地であり、間違いがないか確かめてからドアノブに手を掛けた。
 小さな音を立てながらドアは開く。
「……弘くん?」
 闇の中で彼はまだそこに立っていた。俺はゆっくりと近付き、几帳面に並べられているビンに視線を走らせる。どれも分からないものばかりで俺が見る意味は皆無だった。
「頼みがあるんだ、キアラン」
「どうしたの、一人で来たの? 亮ちゃんは――」
「あいつには内緒にしてくれ」
 輪郭も分からない相手の手を探り、それを見つけてぎゅっと握り締める。暗闇の中にある双眸が俺を不思議そうに眺めている感覚があった。
「君がそう言うのなら内緒にするけど、頼みって一体……」
 戸惑う彼に正直な願いを打ち明ける。
 それを聞いた相手は息を呑み込み、やがて両の目からたくさんの涙を零してしまった。……

 

 

 

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