空間

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1.発端 - 02

 

「健康診断?」
「そ。その為に部屋まで来いってさ」
 新学期が始まって一週間が経った頃、俺は亮介が告げた不可解な現実に頭をひねらせなければならなかった。
「健康診断だなんて、ついこの間に終わったばかりじゃないか」
「それは学校の健康診断だろ。それとは別に調べることがあるとか言ってたぞ」
「はあ……」
 亮介が言うには、円先生が俺を呼んでいるらしい。その名目は健康診断ということになっているが、あの人のことだから何か下心があってもおかしくないような気がした。正直言って行きたくない。
「心配するなよバカ弘毅、この優しすぎる天使のような亮介君も一緒について行ってやるから」
「そ、それはありがたいけど」
「つーか俺も円センセーに呼ばれてるんだよ。たぶんお前と同じで健康診断のことだろうけど」
 とりあえず亮介が一緒に来てくれるなら安心することができる。でもあの円輝美という名の教師は一瞬の油断もできない男であり、少しでも気を緩めていたら一気に拘束され襲われてしまうのだ。そもそもなんで男である俺がこんな不安を抱えなければならないのか。とにかくあいつは変態だから、決して二人きりになってはならない。
「それじゃ、行くか」
 振り返った亮介は俺の手をぎゅっと握り、そのまま玄関へと歩いて行った。

 

 

 二年生になってから亮介はやたら俺と手を繋ぎたがっていた。
 入学式の日から不思議に思っていたが、それは彼の言う「久々に大勢の姿を見て不安になった」からではなく、もっと別の理由から俺と手を繋いでいるらしい。もちろんへそ曲がりな亮介殿が素直に理由を教えてくれるわけがなく、今もまだ俺は彼の真意を知らないままだった。
 そんなわけで今日も今日とて二人仲良く手を繋ぎながら目的地へと向かっていた。見慣れた円先生の部屋の前に立ち、亮介が軽くノックをする。
「おい円、来てやったぞ」
 返事が聞こえる前に亮介は扉を開けて中に入ってしまった。もしここに亮介のファンがいたりしたらどうするんだろう。そんなことを少しだけ期待してみたが、部屋の中にいたのは円先生ただ一人であり、世の中うまくできてるもんだなぁと感じる他にはなかった。
「やあ、加賀見君。それに水瀬君も、よく来てくれたね」
「用事ならさっさと済ませろよ。ほら、血でも何でも採っていけ」
 偉そうな態度でソファに座った亮介は、右腕の袖をまくり上げて白い肌を空気にさらしていた。俺も彼の真似をしてソファに腰掛け、同じように腕の袖をまくっておく。横に並ぶと亮介の肌の白さが際立って見えた。
「気が早いねぇ、二人とも。それじゃ遠慮なく」
 胡散臭い笑顔を浮かべつつ、円先生は机の中から注射器を取り出した。その鋭い針を亮介の腕に突き刺し、赤く燃える血を採取する。
「次は水瀬君だね」
 にこにこしながら注射を刺され、どんな顔をしていいか分からなくなってしまった。子供じゃないがやっぱり注射は痛い。ぐいぐいと血液を搾り取られ、それが終わるとなんとなく腕から力が抜けたように感じられた。
「これで終了と言いたいところだが、今日は尿検査もお願いするよ」
「まったく、仕方ねえな」
 先生は俺と亮介に紙コップを手渡してきた。亮介はそれにも慣れている様子で、さっさと部屋に設置されているトイレへ引っ込んでしまう。
 しかし俺はついさっきトイレを済ませたばかりだった。
「あのさ、先生。水か何かない?」
「おや……もしかして、タイミングが悪かったかい?」
「うん、まあ」
 物で散らかっている部屋の中には小型の冷蔵庫があり、先生はそこからミネラルウォーターを取り出した。それを俺に手渡してくる。
「たくさん飲んでね。全部飲み干すくらいに」
 やたらと期待を込められた眼差しで見られ、飲みにくいことこの上なかった。なんでこの先生はいちいち俺の動作を見てくるんだ。早いところ解放されたかったが、その為には水をたくさん飲むしか方法はなかった。
 俺がのんきに水を飲んでいると、すました顔をして亮介がトイレから出てきてしまった。重くなったであろう紙コップを先生に渡し、それからこっちを冷めた目で見てくる。
「お前、いつになったら部屋に帰れるんだ?」
「俺が知るかよ……」
 派手に怒られるかと思ったが、今日の亮介は比較的大人しかった。俺の隣に座って一息ついている。とりあえず俺を一人だけ残して部屋に帰るようなことはないらしかった。
「それより先生、これって何を調べる検査なんだ?」
 腹の中が水で満たされてきた頃、いい加減暇だったので気になっていたことを聞いてみた。俺の前には相変わらずなポーカーフェイスが佇んでいる。亮介といい円先生といい、ここの人たちは皆本当の顔を隠して生きているように見えた。そしてそれは俺自身にも当てはまることだと知っている。
「人づてに聞いた話なんだけど、水瀬君と加賀見君は恋人同士になったらしいね」
 何を言われるのかと思いきや、先生まで俺たちの色恋沙汰に興味があるらしい。それは教師としてどうなんだよ。しかしなんでこの流れでその話が出てくるんだ。
「名目上そうなってるってだけだよ。こうした方が、何かと都合がいいと思って」
「それでもお互いに悪い条件じゃないから恋人になったんだろう? 君たち自身が気付いていないだけであって、本心ではこの状況を喜んでいるんじゃないかな。少なくとも僕にはそう見えるよ」
「いや、その……」
 御託を並べられても困るだけだった。ちらりとすぐ傍にある顔を見てみると、亮介は眉をひそめて複雑そうな表情を作っている。
「恋人ができた後に受ける検査といえば一つしかないだろう? 君たちにお願いしたのはそれだよ」
「……は?」
 相手が言っていることの意味が全く分からなかった。なんだ、恋人になったら新しい検査を受けなければならない決まりでもあるのか? そんなの全然知らなかったぞ。そもそも昔「恋人ごっこ」をしていた時は、そんな検査なんか受けなかったけどなぁ。
「おい円、バカな弘毅が分かってなさそうな顔してるぞ」
「おや」
 経験豊富な亮介さんはやはりよく分かっているようだった。俺だけガキみたいで恥ずかしかったが、この機会に新たな知識を得られるのならそんなことはもうどうでもよかった。
「じゃあ、水瀬君。恋人が愛を深める為にする行為とは何だと思うかい?」
「え? ええと」
 いきなりそんなことを聞かれても、頭がくるくるしてなかなか答えが出てこなかった。俺は一度深呼吸をして亮介のことを思い出してみる。彼と正式に「お付き合い」を始めた後、俺たちは何か特別なことをしただろうか。
「キス、とか?」
「水瀬君は可愛いね」
 真面目に答えると不可解な返答があった。この教師は俺が子供だからってからかってるんだろうか。急激に喉が渇いたので水を大量に飲んだ。
「バカだなお前、円が言ってんのはキスより先のことだ」
「それって――え?」
 キスより先の行為、要するに性行為ということか? だとしたら、この検査の意味も見えてきた。
「そう。君たちにお願いしたのは性病の検査だよ。無論、君たちはベッドの中でよろしくやってるだろうから心配だったんだよ」
「ちょ」
 この先生は何かを大きく勘違いしているのではなかろうか。つーかなんで恋人になったらいきなりそういうことに結び付くんだよ。この思考回路が彼の変態度を表しているのかもしれない。
「確かに俺と亮介は付き合ってるけど、そういうことはしてないぞ」
「え? 一度もないのかい?」
 目を丸くした相手に「そうだ」とは言えなかった。だって俺は過去に二回ほど亮介と関係を持ってしまったのだから。一回目は夏休みだったから付き合う前だけど、二回目は言い逃れできない時期だからなぁ。
「だ、だいたい、なんであんたにそんなことを教えなけりゃならないんだよ。別に関係ないだろ!」
「加賀見君は意外と好きな相手には弱いんだねぇ。もっとおねだりすればいいのに」
「おい、無視すんな!」
 標的を俺から亮介に変えた先生は言いたい放題だった。誰かこの人なんとかしてくれ。
「このクソ円、変な妄想するんじゃねえよ! こんな奴におねだりなんかするわけねえだろ!」
「でも加賀見君、本当は水瀬君に……」
「馬鹿みたいなこと言ってんじゃねえ! 俺はもう帰るからな!」
 先生のフリーダムさに怒った亮介はさっと立ち上がり、入口の方へと歩いていってしまった。まさか亮介の奴、俺をこの場に置き去りにするつもりか? 頼むからこの先生と二人きりにさせないでくれ!
「亮介! 待て、待ってくれ、お願いだから俺を一人にしないでくれー!」
「加賀見君がそう言うのなら、僕が水瀬君を戴いちゃおうかなぁ」
 怪しげな響きを持つ先生の呟きに亮介はぴたりと動作を止めた。くるりと踵を返し、無言のまますたすたと先生の前に戻ってくる。その身体からは異様なオーラが放出されまくっていた。
「ねえ円先生? ここにいる水瀬弘毅君はこの僕のものになったんだ、僕から奪うことは許さないよ」
 恐ろしかった。物腰はやわらかく口調も穏やかなものだったが、そこには誰が見ても明らかな殺気が含まれていたのだ。もし相手が彼の言葉を否定したなら、瞬時に心臓を刃物で刺されそうな恐ろしさがあった。亮介の奴、何をそこまで怒ってるんだよ。
「ふふ、冗談だよ。確かに僕は人のものを盗ることも好きだけど、君たちの純粋さを壊したいとは思わないからね」
「純粋さって……おい円! また余計なことを考えてんじゃねえだろうな!」
「どうだろうねぇ」
 元に戻った亮介は穏やかではなかった。それが普段通りと言えばそうなのだが、だからって喧嘩をすることもないだろうに。
 俺は二人を残してトイレに逃げ込んだ。俺とは住む世界が違う二人と付き合っていると、時々肩身が狭くなることがある。というよりも話についていけなくなる。いくら周囲に惑わされようとも、俺はずっと平凡な人間でいたいんだ。
 この学園へ来た本当の理由は、普通の生活に戻ることだったから。
 普通の生活をしたい。普通に学校へ行って、普通に友達と遊んで、普通に恋愛して、普通に生きていたかった。それが叶わなくなったのはいつからだろう? 一体どの瞬間から、俺の世界は壊されてしまったのか――。
 考え事をしつつも紙コップを満たすことは忘れなかった。その重さを確かめてからトイレの外へ出る。
「よう弘毅、やっと終わったか」
「……亮介。お前は何をしているんだ」
「はあ? 見て分からないのかよ」
 この数分間に何が起こったのかは知らなかったが、偉そうな亮介殿はソファに座って優雅にケーキを食べていた。彼の前には涙目になっている円先生がいる。なんとなく数分前の光景が想像できてしまう辺りが恐ろしかった。
「あのね、加賀見君。そのケーキは大事な教え子に贈る為に買ったケーキであって……」
「だからこの大事な大事な教え子である俺が食べてやってんだろうが。それとも何だ? てめえは俺が大事な教え子じゃないとでも言いたいのか? ああん?」
「確かに加賀見君は大切な生徒だと思ってるよ。でもこれは君の為に買ったものじゃなくて、他の子にあげるものだから、その」
「弘毅、お前も食えよ。このイチゴいい味してるぞ」
 なんだかすっかり呆れてしまった。本当にこの亮介さんという奴は、人を困らせる為に生まれてきた人間なのだろうかと疑いたくなってくる。
 だけど俺は知っていた。亮介は本気で他人を困らせるようなことはしないんだ。取り返しのつかないことに手を伸ばすことを躊躇い、後でどうにでもできることには容赦なく破壊の槌を振り回す。その采配が彼の天才たる所以を表しているのかもしれないな。
 俺は亮介の隣に座り、彼に手渡されたフォークを使ってイチゴを口に入れた。亮介が絶賛する通りそれは美味しかった。生クリームとスポンジも切り崩し、イチゴの甘酸っぱい中へ放り込む。
「まったく、君たちは仕方ない子たちだね……後でケーキの料金を持って来ておくれよ」
 さすがに円先生もやられっ放しではなかった。彼のささやかな抵抗を聞いても、亮介は反論したりはしなかった。彼のこういうところがすごく好きだ。
「それから水瀬君。君はミネラルウォーターの代金も持ってくるように」
「え?」
 にこりと笑顔になった先生は優しげな声色で俺に話しかけてきた。思わず手が止まり、相手の顔をまじまじと見てしまう。
「あの水、くれるんじゃなかったのか?」
「おや? 僕はあげるだなんて一言も言わなかったはずだけど?」
「……」
 何なんだこの先生は。まるで子供みたいなことを言いやがって。でもこれを断ると明らかに俺が悪いので黙るしかなかった。
 この時間がずっと続いて欲しかった。一緒にお菓子を食べたり、喧嘩をしたり、つまらないことで盛り上がったりして、そんな普通の時間がずっと欲しかったんだ。
 ああ、永遠に続くものなど何もないことを知っているのに。

 

 

 夕方になると俺は財布を片手に廊下を歩いていた。それはもちろん円先生にお金を払う為であり、亮介は突然の来客のせいで部屋を出られなくなっていた。だから俺が亮介の食べたケーキ代も渡すことになっていた。
 一人きりで先生の部屋を訪れることは不安だったが、亮介にはただお金を払うだけなんだから大丈夫だろうと言われてしまった。要するに何かされる前にさっさと帰れということなのだろうけど、はたしてそれが本当に可能なのかどうか。
 とにかく俺は警戒しつつ先生と会わなければならない。本当になんで俺はこんなことを真剣に考えなければならないんだろう。世の中間違ってるぞ。いや、この学園の中限定で間違ってるのか。
 何度も行き来していたせいか、俺はすっかり先生の部屋の位置を覚えてしまっていた。なんとなく嫌だな。今すぐにでも忘れてしまいたい衝動に駆られるのはなぜだろうか。
 とりあえず部屋の前に立ち、ノックをする為に手を持ち上げる。
「――先生」
 手がドアに触れそうになった時、部屋の中から声が聞こえてきた。よく見てみるとドアが少しだけ開いているようだ。
 来客中なら待っていた方がいいだろうか。
「じっとしてて。痛くないからね」
「は、はい」
 中にいる生徒も健康診断をしているのかもしれない。それが誰なのかは声を聞いただけでは分からなかったが、その口調からして緊張しているようだった。
「あ、う――」
「大丈夫かい? 痛かったら教えてね」
「へ……平気、です」
 何をしているのか知らないが、部屋の中はシリアスな雰囲気に包まれているらしい。それにしてもこの声、どこかで聞いたことがあるような気がする。扉越しだからはっきり聞こえなくてよく分からないな。
 俺は好奇心からそっと扉に耳を当ててみた。それでもほとんど何も変わらなくて、ふと目についた扉の隙間に視線を滑り込ませてみる。おかげで部屋の中の様子が少しだけ分かった。
 聞き覚えのある声の主とは晃だった。いや、あのぼさぼさな癖毛が見当たらないことから考えて、晃ではなく陰なのだろう。彼と向き合っているのは円先生で、陰は先生の膝の上に座っていた。
 二人の距離が異常に近い。
 なんだか嫌な気持ちになってきた。お金を払うどころではない、目の前の光景が気になって引き返すことができなくなっている。俺は二人の様子を食い入るように見ていた。先生の手が陰の身体を抱き締めていて、言葉も少ないまま秘密の合図が飛ばされている。
「分かっているね、陰? まだ出してはいけないよ」
「う――」
 傍らにベルトが落ちていた。それは茶色のものと黒いものの二種類で、白衣の下から伸びる円先生の足が隣にあった。
 この狭い部屋の中で二人の影が一つになっている。深く深いところで――繋がり合っている。
「先生、輝美先生……!」
「駄目だよ、もっと我慢しなさい」
「俺、もう――」
「いけない子だね」
 無意識のうちに一歩後ろに下がっていた。おかげで中の様子が見えなくなり、でも声だけは聞こえてきて気分が悪くなった。
 その場に居たくなくて、気が付けば俺は走って逃げていた。何がどうなっているのか分からなかった。あの二人は何をしていたんだ? 彼らはどういう関係で、何の為にあんなことを――。
 自分には関係ないはずなのに、あの二人が何をしようとそんなの勝手なのに、どうしてこんなに嫌な気持ちになるんだろう。覗き込んだのは俺の意思なのに、なぜあの二人が悪いのだと決めつけたくなるのだろう?
 陰は俺の友達で、円先生は確かに嫌なところもあるけど、それでも俺を守ってくれるはずの人なんだ。俺は彼らのことをよく知っていると思い込んでいて、知らないことなんかないと思っていて、だから裏切られたような気がした。俺の知らないところで勝手なことをしていて、それがなんだか許せなかった。陰の笑顔が、唇から放たれる言葉が、俺の耳に届く前に落下し、先生の抱擁が、強引なキスが、俺に触れる前に粉砕される。二人の姿が遠かった。一人だけ取り残されているようで――嫉妬なのか疎外感なのか分からない感情だけが俺の中で芽生えている。
 転びそうになる足をどうにかして操り、俺は一つの扉の前に立っていた。その隣にあるベルを躊躇いもなく鳴らす。
「……弘毅? どうしたんだ、何か用か?」
 出てきたのは陰とそっくりな顔だった。だけど彼を取り巻く空気が陰とは違っているから、俺は陰と彼は別人だと認識することができた。
「晃、陰が」
 俺の手は持ち上がり、相手の腕を掴んでいた。倒れ込みそうな身体を制止し、意思だけは失わないよう気を付けながら彼に思いの丈をぶつける。
「陰が、円先生の部屋にいて――」
 喉に何かが詰まっているかのようにうまく喋ることができなかった。しかし晃は俺の言葉を最後まで聞くことはなく、何かとんでもないことを聞いたかのような表情になり、そのまま俺を突き飛ばして廊下を走って行ってしまった。すぐに彼の姿を見失ってしまう。
 開け放たれた状態の扉を閉め、俺は晃が消えた廊下を走って辿った。行き先なんか知らなかったけど、彼がどこに向かったかだなんて誰に聞かなくとも分からなければならなかった。まっすぐにのびる廊下と長い階段を駆け抜け、張り詰めた空気が広がっている場所に辿り着く。
「お前、陰に何をした!」
 真っ先に届いたのは晃の怒声だった。それは一年以上付き合ってきて初めて聞いた声だった。正面からそれを受け止めた相手は困ったような表情をしている。
「僕はただ健康診断をしていただけだよ」
「嘘ばかり言うな! 身体の調子を見るとか言って、陰を好き勝手に使ってるだけだろ!」
「そんなことを君に言われるとは心外だなぁ」
 言い合いをする二人の隣にはおろおろした様子の陰が立っていた。口出しすることもできず、交互に二人の顔を眺めている。俺はそっと陰の隣に近付いた。
「弘毅? どうしたんだ」
「もういい! 部屋に帰るぞ、陰!」
「あ――」
 晃に腕を掴まれ、陰は連れ去られてしまった。もし今の話が続いていたら、陰は俺に何を言っただろうか。円先生のように嘘で誤魔化すだろうか、それとも俺には本当のことを話してくれただろうか? そんなこと、俺は陰じゃないから分からない。
「やれやれ。晃も仕方ない子だな」
「先生」
 部屋に引っ込もうとする先生を捕まえる。相手はちょっと驚いた目でこっちを見てきた。俺が覗いていたことには気付いてなかったのだろうか。どうせなら気付いていて欲しかった。
「何か用かい? 検査結果は数日待ってもらいたいんだけど」
「そうじゃない」
 まっすぐ彼の目を見ることができない。さっきのことを思い出してしまうから、白衣の下の身体を見たくなかった。財布を握っている手が震えている。
 聞きたいことがたくさんある。知りたいことが際限なく溢れてくる。口を開いてみるけど、唇も舌も渇き切っていた。目の奥がちかちかして、白と黒が幾度も入れ替わり現れる。
「水瀬君?」
「……」
 両手を前に突き出した。そうしなきゃ相手が俺に触れそうだったんだ。彼の目線は俺の手に注がれた。そこには財布が乗せられていた。
「ああ、ケーキとミネラルウォーターの代金だね。わざわざご苦労さま」
 俺は代金を支払った。お札と小銭を先生の手のひらに乗せ、相手が金額を確かめている間は下に俯いていた。
「確かに受け取ったよ」
「……それじゃ」
「もう帰るのかい? よければもっと話を」
 相手の科白が終わる前に俺は走り出していた。一刻も早くこの場から逃げ出したくて、後ろを振り返ることもなく全力で走った。

 

 

 

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