空間

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1.発端 - 03

 

 夕刻の室内は哀愁に満ち、更に誰の影もなかったことがより孤独に拍車をかけたのだろう。
 部屋に戻ると亮介の姿がなかった。どうやら出かけているらしく、扉にはきちんと鍵がかけられている。俺は主のいなくなった空間へ足を踏み入れた。
 疲れた身体をソファに押し倒し、目を閉じた。この静寂が心地よかった。それなのに心は不安に苛まれ、もやもやとした気持ちだけが胸の内に広がっていく。
「ただいま」
 始まったばかりの休息は小さな声により中断させられてしまった。声が聞こえた扉の方へ視線をやると、見慣れた亮介が一人でそこに立っていた。俺が部屋を出た時は客の相手をしていたけれど、それはもう終わったということだろうか。
「ちゃんと金は払ってきたか?」
「……うん」
「はあ? なんだよてめえ、疲れた顔しやがって。そんなに金を払いたくなかったのかよ?」
 亮介に隠し事はできない。エスパー能力を持つ彼は何でも見抜いてきて、俺の考えを全て言い当ててしまうのだ。俺が何を考えているか読み取ることなんて朝飯前で、だから説明せずとも分かってくれると思っていたのかもしれない。
 本当はそんなこと、有り得ないと知っている。
「なんでもないよ」
 俺は相手に笑ってみせた。自分でもぎこちない表情になったと感じられた。
「ふん、そうかよ」
 何を察したのかは分からないが、俺の目を見た亮介はそれ以上何も聞いてこなかった。だから俺はまた目を閉じた。暗闇の中に逃げ込み、全て忘れてしまう道を選んだ。
 嫌なことなど見なくて済むように。

 

 

 その夜はなかなか寝付けなかった。いつもなら眠りの中に沈んでいる時間でも意識がはっきりとしており、周囲の音に敏感になって余計に睡眠が妨げられていた。
 定休日でもない今日は亮介の元に客が訪れている。玄関で少しの会話を交わし、亮介は客を丁寧な物腰で部屋の中へ案内していた。今回の客は上級生らしかった。彼の胸に潜むバッジが電気に照らされきらりと光る。
「なあ亮介君。絹山さんが商売をやめたことは知ってる?」
「え? それ、何の話ですか?」
 俺は布団の隙間から二人の姿を眺めていた。今はソファに座って他愛ない話をしているらしい。テーブルの上には二人分のカップが並べられていた。薄暗い部屋は独特の雰囲気を作り出し、どこか別世界の光景を見ている感覚に陥る。
「今後は勉強に専念したいからやめるんだって。亮介君、これから忙しくなるかもしれないね」
「それは……困ったなぁ。今でもすごく忙しいのに、これ以上お客さんが増えると大変だなぁ」
「俺はいつだって亮介君の味方だ、困ったことがあったらいつでも相談しに来てくれよな!」
 ぽん、と客は自身の胸を叩いた。それを目の前にして亮介は何かを考え込んでいる様子だった。相手はおそらく亮介の蔭に気付いていない。
「亮介君、誰が何と言おうと俺は君が好きだ」
「ありがとうございます」
 話しながら客はソファから立ち上がる。ゆっくりとした動作で亮介の元へ近寄り、彼の小さな肩に手を置いた。
「だから――水瀬君と別れてくれないかな」
 そっと耳打ちするように、水音の如く静かな囁きだった。
 客は後ろから亮介を抱き締めた。亮介の長い髪が客の顔に触れ、彼はそのまま無防備な亮介の首筋に唇を押し付けた。何をされても亮介は動じず、一言も喋らなかった。ただ客の思うようにしてくれればいいと言わんばかりの顔で虚空を見つめている。
 大きな手が亮介のブラウスを丁寧に脱がせていく。空気の下にさらされた白い肌は人工的な光に照らされ、歪な美しさを妖艶な何かに変換していた。客は亮介の肩に噛み付いた。少しだけ歯を立て、そのすぐ後に舌を這わせて傷を癒す真似事をする。
 指の一本一本が亮介の身体をまさぐっていた。未知の領域を侵す時のように、注意深く貪欲に肌の上を滑っていく。白い荒野はやがてほんのりと赤みを帯びていき、客の両腕は亮介の身体をすっぽりと包み込んでいた。
 客は亮介を後ろから立たせ、俺の隣のベッドへと誘導する。
 亮介の身体がベッドに沈み込んだ時にささやかな風が巻き起こった。布団の隙間からそれは俺の顔に届き、不快感が募った。二人とも俺が覗き見をしていることには気付いていなかった。亮介の上に覆い被さった客が相手との距離を縮めていく。
 唇と唇が触れ合い、お互いが求め合っていた。長いキスだった。亮介の腕が持ち上がり、相手の背中に回される。
 ――どうしてだか身体が震えた。気持ちが俺の知らない域に達していた。わけの分からない感情だけが湧き上がり、身体のあちこちから噴出しそうだった。それを堪えても誰も俺を褒めてくれない。
 おそらく無意識のうちに、俺は布団から飛び出していた。驚いた顔の二人を他人事のように眺め、客の腕を掴んで強引に玄関まで引っ張っていく。
「何をするんだ、放せ――」
 聞いたことのない声だった。だけどそれは俺を拒否するまでには至らず、名前も知らない相手を部屋の外に追い出した。身体を廊下に押し出し、相手が振り返るその前に扉を閉めてしまう。後にはきっちりと鍵をかけて部屋に入れないようにした。二人しかいないこの空間を閉鎖して、俺は安堵を得た気分になっていた。
「弘毅、てめえ……また邪魔をする気か? 何度俺の邪魔をすれば気が済むんだ、お前は」
「何度だってしてやる」
 だけど俺は駄目だった。この程度ではまだ不安定で、悪い夢から抜け出すことができていない。
「何度でも、何度だって、お前の邪魔をしてやる! 亮介!」
「な――なぜ」
「亮介!」
 部屋の外から騒音が響いていた。誰かが扉を激しく叩いている。鍵のかかった壁は決して崩れることはないだろう。俺は耳に蓋をしてベッドに歩み寄った。
 顔を火照らせている亮介は俺をじっと見上げていた。
「こんな商売、もうやめろ! 俺が許さない、絶対に許さないからな!」
「お前、なんでそんなに……怒ってるんだ」
「怒ってるだって?」
 握り拳をベッドに打ち付けた。やわらかな布団が苛立ちを優しく緩和してくれる。でもそれだけでは足りない! 何もかもが足りないんだ!
 相手の両肩をぐっと掴む。彼の瞳が少し歪んだ刹那を見逃さなかった。
「俺のどこが怒ってるっていうんだ」
「明らかに怒ってるじゃないか! お前はこんな乱暴な奴じゃなかっただろ、一体何があったんだ、何がお前の気を苛立たせてるんだ」
「そんなもの――」
 彼の姿が俺の眼に映っている。彼の全てが俺の手の中にある。そう思っていたのに、現実はそうじゃなかった。俺は彼の何を手に入れたというんだ? 簡単に指の隙間から零れ落ちてしまう。砂のようなそれを掻き集めようとしても、城も影も作れないそれは最早触れられないものになっていた。
 手を伸ばしても、手を広げても、彼は決して手に入らない。俺のものにはならない。
 俺のものにならないと、彼は勝手なことをする。彼は俺の思い通りにならない。俺の望む人間にはならないし、俺を不安にさせることばかりをする。
 不安が苛立ちを生み出すのなら、俺はどうすればいいというのか。答えのない迷宮で永遠に回り続けるべきなのか。刃の冷たさも知らぬ子供が、何を見たつもりで口を開けばいい?
 相手の唇を奪う。
「弘毅?」
「お前は――俺のものだよ、亮介」
 身体を押し倒したなら、相手は深淵に横たわっていた。俺は目をぐっと開いてそれを見た。彼を取り巻く負のものが初めて俺の前に姿を現したのだと思った。その全てを食い尽すように俺は彼の身体を押し潰す。二度とこの闇から抜け出せぬように。
 相手の身体を両手で抱き締める。強い力を込め、細い背を折ってしまうほどの覚悟で触れる。
「見たくないんだ」
「え?」
 ベッドに顔をうずめていたので相手の表情など分からなかった。見えるのは暗闇だけで、でももう恐ろしいことなんてない。
「お前が商売をしている姿を見たくない。お前が知らない人になるのが怖い。ずっと友達だと思ってたのに、あんなでも守ってくれる大人だと思っていたのに……だけど、本当は、どうしてこんなに悲しいのかが分からないんだ!」
「弘毅、お前一体……何があったんだ」
「亮介! 俺は許さないから、薬の為だろうと何だろうと、許さないからな!」
 頭がくらくらした。めまいと吐き気が襲ってくる。こんなものはわがままだと分かっているのに、なぜ俺はこの感情を抑えることができないのだろう。俺から遠ざかっていく人たちを見ていたくなかった。知っている姿だけが彼らの全てだと思い込んでいて――裏切られたような気持ちで、信じられなかった。信じたくなかったんだ、俺がそれを肯定したら、今まで見てきた何もかもが偽物だったと認めることになりそうだったから!
「俺の為にやめろ」
「……」
 身体を下から押し上げられ、抱き締めていた腕が離れてしまった。そのおかげで相手の顔が見えるようになった。亮介は俺を睨むように見上げていた。彼の瞳の鋭さが心地良い。
 ふと刺々しさが頬を走り抜けた。遅れて聞こえたのは乾いた音で、俺の顔は横に向けられていた。数秒が経過してからようやく俺は相手に頬をはたかれたのだと理解できた。
「な、何――」
「まだ目が醒めないか?」
 再び同じことが繰り返される。今度は反対側の頬をはたかれたらしかった。
 彼の手に触れられた部分がじんじんしている。
「もう一回してやろうか?」
「……いいや」
 俺は首を横に振った。頭の隅に引っ掛かっていた靄が晴れていく過程が感じられた。胸のつっかえも肩の荷も消えてなくなり、淀みのない水面が俺の身体を迎え入れてくれる。
「ごめん。俺、変なもの見ちゃったから」
「そんな事だろうと思ったさ。お前バカだから正直に感じ取っちまったんだろ」
「うん……そうかもしれない」
「それで、何を見たんだ? 言ってみろよ」
 ゆっくりと身体を持ち上げながら相手は俺に訊ねてきた。それはまるで優しい先生のようで、彼は俺の心の傷を癒そうとしているのかもしれない。俺は何をしているんだろう。友達に迷惑をかけるなんて、本当にバカみたいじゃないか。
「円先生の部屋に行った時、見ちゃったんだ。先生と陰が――セックスしてるところ」
「はあ?」
 真面目に答えると大仰な返事が示されてしまった。眉をひそめて口を大きく開け、亮介は胡散臭そうな目でこっちを見てくる。
「センセーと陰が? センセーの部屋で? 黒田じゃなくて陰の方だったのか?」
「うん、後で晃に報告したら、慌てて二人の元に向かってたんだけど」
「しかし……まあ、あのセンセーは変態だからな。教え子に手を出してても不思議じゃあないだろ。それで? お前はそれを見たから気が変になってたってことか?」
 改めて確認を持ちかけられると恥ずかしさが込み上げてくる。もっと声を張り上げて怒られても当然だと思っていたのに、亮介はそんなことを一切しなかった。そればかりか俺の本音を聞き出そうと図り、俺自身が気付いていないことを教えてくれようとしているのだと分かった。
「なんていうか、ショックだったんだよ。あの二人があんなことしてただなんて。突然二人が知らない人になったみたいな気がして……怖かったんだと思う」
「それだけか?」
「うん――最近ちょっと寝不足で、寝れない日が続いてたせいかもしれない。キアランから貰った睡眠薬もあんまり効かなくて、不安定になってたのかも」
「寝不足? おい、睡眠薬って何の話だ」
 心配をかけたくなかったから黙っていたことだった。キアランにも口止めして、一人で解決しようと頑張っていたんだ。それなのにあっさりと教えてしまったのはどうしてなんだろう。しかし俺はそれに対し驚くほど後悔をしていなかった。
「卒業式のこと、聞いたせいかもしれない。春休み辺りからなかなか眠れなくなったんだ」
「……」
 俺の前にある顔が静かに表情を変えていった。そこに含まれる感情が何なのかは分からないが、彼の音のない言葉は全て届いていると思った。長いまつ毛に囲まれた目が幾度かまばたきを繰り返す。
「眠れないなら、疲れてしまえばいい」
 やがて張り詰められていた糸が千切れ、亮介は俺の頬に手を当てた。ただこれだけでは彼の意図を読み取ることは至難の技だった。それなのに相手は俺に難問を押し付けたがるんだ。
「お前が悪いんだぞ、途中で客を追い出しやがったから。おかげで俺の身体はまだ欲しがったままだ」
「――え、何、そういうこと? 今から?」
「疲れ果てるまでこき使ってやるから有り難く思いな」
 何やら不敵な笑みを浮かべつつ、相手は俺の下半身に手を伸ばした。いきなりのことで動揺してしまったが、ズボンの上からなぞられるその手付きに身体は正直に反応した。ある程度の硬さを持つと亮介は確認するように手を離し、すぐに俺のズボンの中に直接手を突っ込んで触り始めた。
「ちょ、ちょっと……待てってば!」
「てめえの意見なんか聞く耳持たねえよ」
「だってお前、以前言ってたじゃないか。俺がこういうことする時って、昔のこととか思い出しちまうから、そんな奴とはやりたくないって――」
「ああ、そうだな」
 提示されたのは素っ気ない返事だった。彼は手の動きを休めることもなく、寧ろ速度を増して俺を高めようとしてくる。すっかり抵抗できなくなった俺は相手の肩に手を置いて呼吸を整えるしか方法がなかった。ズボンの中が窮屈になり、邪魔なものを全て剥ぎ取ってしまいたくなる。
「あ、あの、亮介」
 言いたいことがたくさんあった。自制心と快楽を求める心が双璧を成していて、俺はどちらに従えばいいのか分からない。自制心を司る部位は俺の手に命令を下し、俺のそこに触れている亮介の腕を掴ませた。一方で快楽を求める心は胸の内に炎を生み出し、それが焦げ付く様を楽しげに眺めている。
「お前が誰を思い出そうと、誰の姿と重ね合わせようと、そんなことはどうでもいいと気付いたんだよ。だってこの亮介君が過去の幻影なんぞに負けるわけがないからな」
「え、あの」
 相手の言っている意味が全く理解できなかったが、要するに亮介は普段のナルシストモードで乗り切ろうとしているのだと感じられた。俺の手を振り払い、乱暴だが丁寧な手付きでズボンを脱がせてくる。
「ふん、身体は正直だな。こんなにしやがって」
 一度ぴんと指で弾かれ、身体をかがめた相手の口が俺のそれを咥え込んだ。角度と硬さを持ったものは簡単に相手の口内を支配してしまい、喉の奥に先端がぶつかったような気がした。実際はどこがどうなっているかなんて分からなかったけど、細かいことを気にしている余裕はなくて、俺の為に夢中になって口を使っている相手が恐ろしいまでに愛おしくなっていた。
 俺はそっと彼の髪を撫でた。いつかは触っただけで怒られたのに、今の相手は唾液で俺の身体を濡らしている。
 手で触れられた機会は春休み中にもあったけど、口でされるのは久方ぶりで、だから鼓動が速まるのを止められなかったのかもしれない。身体の中心から発生した熱は隅々にまで行き渡り、更に亮介の舌使いが快楽を助長してゆく。
「亮介、ちょっと――ま、待って!」
 これ以上されると我慢できそうになかった。焦って相手の頭をぐいと押したが、俺よりもお強い亮介殿は意思を汲んではくれず、なんとなく意地悪そうな顔になってそれを続けた。根元を触る彼の指と、押し当てられる唇のやわらかさ、そして口で吸い上げる絶妙な力加減が何よりも良くて――身体の火照りが絶頂に達してしまいそうだ。
 一瞬だけ星が視界を埋め尽くした。気が付けば相手は全ての動作をぴたりと止めており、俺は彼の口の中で達していたらしい。相手は身体を離して起き上がり、何かを吟味するように口の中に溜まった液体を指でかき混ぜ始めた。
「相変わらず不味いな」
 ごくりとわざとらしく音を出して亮介はそれを飲み込む。
「しかし、まさか口だけでいくとは思わなかったぞ。さてはお前、相当溜まってたな?」
「別に、そんなんじゃ」
「溜まってんなら遠慮せずに言えよ。お前の恋人は俺なんだから」
 思いがけない科白を浴びせられ、俺は何も言い返せなくなってしまった。どうしてだかこういうことをする時の亮介はいつもより優しい気がする。客を相手にしている時の癖が出ているだけだろうか。ああ、そうじゃなければいいのに。
「もう一回出せよ」
 しかし喜びを与えられたのは束の間で、優しい言葉の後に控えているのは冷徹な命令でしかなかった。やはり亮介は亮介なのだと確認させられた心地になってしまう。なんだかそれが可笑しくて、思わず顔が綻んでしまった。
「なんでそこで笑うんだ」
「ああいや、気にするなよ。それよりも、これで終わりには……してくれないんだよな」
「当たり前だろう」
 声を低くした相手は俺の上着を脱がせてきた。続いて自分のズボンも脱ぎ捨て、お互いに一糸纏わぬ姿になる。よく見ると彼もまた硬くしているようだった。誰に触られたわけでもないのに、俺への奉仕だけでそういう気分になるものなんだろうか。
 再び手と口で高められる。一度出して疲れているはずなのに、相手の裸を見ていると先程より簡単に登り詰めることができた。白い肌に手を伸ばすとさらさらしていて気持ち良かった。彼が俺を悦ばせている間に俺は相手の身体をまさぐり、あらゆる場所を指で触って確かめてみる。彼は今、確かに俺の前に居るんだ。これは幻でも夢でもない。俺はきちんと目を開けて彼の姿を見ている。
 両肩に手を置かれ、そうした相手は俺の脚の上に身体を乗せた。どうやらこれは初めて彼と交わった時と同じ体勢になっているらしい。
「も、もう入れるのか?」
「準備は最初からできているからな」
 相手の誘導で入り口を見つけ、俺は傷付けないようゆっくりと中に侵入させた。上から彼が下りてきて、すぐに根元まで埋まってしまう。口とは違った気持ち良さが俺から理性を奪いそうだった。しかしそれは以前とは形の違った快楽であり、だけど何がそう思わせているのか分からない。
「何をしてるんだ、さっさと動けよ」
 上に乗っている亮介は俺よりも立場が上だと示したいらしかった。薄暗い部屋なのでよく見えないが、彼の頬が微かに紅潮しているように見える。俺は導かれるように彼の腰に手を当てた。与えられた玩具を掴むように相手の身体を支え、ベッドのバネを利用して下から突き上げる。
 彼の内部が俺の中心に纏わりついていた。言葉では表せないような刺激がまっすぐ脳内に伝わり、怖くなって後ろに引いてしまうほどそれは良かった。油断をしていると病み付きになりそうで、もしかするとこれは薬の中毒より恐ろしいものなのかもしれないという考えが生まれてきた。俺は余計なことを考えながらも身体の動きを止めなかった。過去の様々な記憶が俺を邪魔しようとしたが、今は目の前にある一人の人間が愛おしくて仕方がなくて、この瞬間といつかの永遠を手放したくなかった。幾度も相手を突き上げ、抑えようとしている声を無理に出させる。
 これはおかしなことなのだろうか。俺は頭が変になっているから、この不潔な行為を快く思っているのだろうか。だったらなぜ亮介は止めないのだろう。彼は慣れているとはいえ頭がいい人間だから、俺の間違いなど容赦なく捻り潰してしまえるはずだ。それなのに黙認しているということは、俺はおかしくなったわけじゃないのだろうか。俺は普通の人間に戻れたとでもいうのだろうか。
 二人の吐息が混ざり合っていた。相手の口から漏れ出る声は驚くほど高いキーを保ち、それを聞くたびに俺の身体は相手を求めた。彼が男であることなど忘れていたかった。もしかすると俺は、彼を――愛しているのかもしれない。
 愛している。友達としてではなく、ルームメイトとしてでもなく、恋人として愛している。まさかと思った。そんなはずはないと首を横に振ろうとしたが、俺は彼を喘がせることに夢中になっていた。普段では決して見せてくれない姿を目の当たりにして、俺は心を正常に保つことができなかった。関係ない箇所を手で探り、相手の身体をベッドの上に押し倒した。ふと思い出したことがあって俺は彼の耳を噛んだ。あまり力を込めず、歯形が分かる程度のやわらかい噛み方をした。そのまま下の穴を貫くと相手は一層反応を大きくした。彼は耳が弱いことが確定した。
「おい――バカ、おいっ!」
「え? どうかした?」
 汗に濡れた声が下から聞こえてきた。少し抽挿の速度を緩め、彼からの合図を待った。相手は長距離のマラソンをした後のように息を乱しており、なかなかまとまった言葉を教えてくれない。ただ待つことは退屈だったので俺はまた速度を元に戻した。
「忘れてたが、お前、ゴム……付けてないだろ」
 何を言われたのかすぐには理解できなかった。やがてまざまざと思い出したのは過去の二回の行為であり、その時は確かに彼の言う「ゴム」を装着しての交わりであったことに気が付いた。俺は突然ぞっとした。今の俺は亮介や円先生がいつも気にしていたことに背を向けていて、この快楽が終われば恐ろしい何かが待っているのではないかと考えると寒気が走った。
 それなのに俺はやめたくなかった。このまま続ければ怖いものが俺を襲うかもしれないのに、目先の幸福に目がくらんで俺は相手の身体を手放さなかった。
「聞いてるのか、おい!」
「もう……仕方ないだろ。入れちまったんだから」
「それは、そうだが――あっ!」
 喋っていた途中だったからか、彼は比較的大きな声を漏らした。それをもっと聞きたくて俺は更に激しく彼を突いた。彼が困っている姿や、焦っている顔を見ていたかった。普段どうやっても見られない相手の姿を見たくて、限界を知らない子供のように相手を貫き続ける。
 俺の望みは何だろう。どうしてこんなことを願うのだろう。俺は彼を壊してしまいたかった。手に入れる為に壊すのではなく、ましてや色を塗り直す為に壊すわけでもない。それでも湧き出てくるこの願いの正体は一体何なのか、過去に受けた心的外傷が魅せる幻に似た何かなのかもしれなかった。
「あ、うあ――弘毅、ああっ!」
 乱れた息の中に、俺の名前が混じっていた。それを聞くと俺の心臓は大きく跳ね上がった。
「亮介、俺、もう」
「ええっ! 待てよ、まだ――我慢しろ!」
「無理だって、そんなの――」
 制止しようとする相手の言葉を無視し、俺の身体は勝手にそこへ達してしまった。その直前に俺は彼にキスをした。唇を塞いでいる中、下の方では欲望の塊が相手の中に流れ込む。過去二回の行為と違って邪魔な物がない今回は、直接相手の身体へと浸み込んでいったようだった。
「お、お前……なんてことしてくれやがる!」
 唇を離すと亮介に怒られてしまった。何がそんなに気に入らないのか分からないが、経験豊富な彼に俺が敵うはずがない。
「許可なく勝手に中に出すんじゃねえよバカ! 今回は俺が相手だったからよかったものの、相手が女だったらどうするつもりだったんだよ!」
「どうするって……女じゃないって分かってるからそうしたわけで」
「男でも中に出されるのを嫌がる奴だっているんだよ、独りよがりな判断をするなって言ってるんだ」
「ごめん」
 素直に謝り、相手から身体を離した。結合していた部分から俺が放出した白いものが零れ、綺麗に洗濯されていたベッドに嫌な感じの染みを作る。
「べ、別に俺は……嫌だとか思ったりしねえけどよ。もし今後お前が誰かと付き合った時、そういうことしたらみっともないから教えてやっただけだ。だからそんな、今は落ち込まなくてもいいんだよ、鬱陶しい」
「亮介は優しいな」
 相手はぱっと顔を真っ赤にした。もともと赤かった気がしたが、今は暗闇の中でもはっきり分かるくらい紅潮している。その鮮やかさは芸術レベルだった。
「そう思うんなら、さっさと俺をいかせろよ。一人だけ先にいくなんて――生意気だ」
 顔をそっぽへ向けながら、相手は俺に命令のような懇願をする。俺はなぜ彼が先程「我慢しろ」と言ったのか理解した気がした。もし俺の考えが当たっているなら、相手はなかなか可愛いところのある奴だと感じる。
 そんな彼を愛しく思えないのなら、それはきっと何かの病気を患っているに違いない。
「口でした方がいいか?」
「どうせ下手だから手でいい」
 口ですることに抵抗がないわけではなかったが、今は彼を悦ばせてやりたかった。相手の返答に幾らかほっとして俺は手を伸ばした。隠されていない彼の中心部に触れ、その硬さを確かめながら扱き始める。
「こ、この……下手くそ!」
 先程より余裕が出ているのか、相手は俺に文句を言ってきた。それでも徐々に息は乱れ始め、湿った吐息が俺の顔に当たる。彼をこのまま頂点へ導いてやってもよかったが、一体どこから出てきたのか分からない悪戯心が俺の手を更に下へと押しやっていた。空いている方の手が彼の下の穴を探り、白い液体が零れ落ち続けているそこを一本の指で蓋をする。
「バカ、どこ触って――」
「こっちが淋しいかなーと思って」
 人差し指でかき混ぜると変な感触しか得られなかった。だけど相手の反応は扱いているだけの時より明らかによくて、俺の行動で感じさせることができるという事実がなんだか嬉しかった。つい調子に乗って指の数をもう一本増やしてしまった。
 しかし彼を困らせようとしていたのに、実際に困ったのは俺の方だった。相手があまりにもいい反応をしてくれたから、それを間近で見ていた俺はまた興奮を得てしまったのだ。何やらむず痒いものが身体を走り、俺は穴を弄っていた手を引っ込めて自分の手で自分を慰めた。
「お前、おい、まさかまた……」
「うーん、ごめん。やっぱ相当溜まってたみたい」
「……今更だがお前が一人でしてるとこ、見たことなかったな。トイレででもしてるのかと思ってたが、してないのか」
 二人分の刺激を送りつつ、俺は自分の身体の変化に驚いていた。思い返せば亮介の言う通り、俺はあの事件があって以来性的な行為を無意識のうちに避けていたところがあった。それがいいことなのか悪いことなのかは分からないけど、本来生物が持つ機能を抑えることはやはり危険なのかもしれない。
「なあ亮介。時々でいいから、また相手して欲しいんだ。俺、たぶん一人では抜けないから」
「それは……兄貴の件があったからか?」
「うん。あれ以来、一人でできたことがない」
 亮介は何も答えなかった。彼の本心が分からなくて不安だったが、時間が経ってそれなりに回復すると、俺はまた相手の中にお邪魔した。奥まで侵入しても相手は怒ったり嫌がったりしなかった。これが彼の肯定の合図だと俺はちゃんと知っている。
 今度は亮介の方が先に達し、それを見て高まった俺はすぐに彼の後を追った。さすがに三度目となると極端に薄いものしか出てこなくて、身体も疲れ果ててベッドの上に倒れてしまった。
「おやすみ、弘毅」
 最後に聞こえたのはとても優しい亮介の声で――愛しい人の隣で身体を横たえ、俺は深い眠りへと下りていった。

 

 

 

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