空間

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2.支配 - 03

 

 過程がいくら大仰でも、結果は唖然とするほどはっきりしている事がある。
「冗談じゃない!」
 俺の隣で怒っているのは亮介だった。彼は当事者じゃないのに感情を大きくしている。それを俺はまるで他人事のような目で見ていた。
「どうしてこんな結果になったんだよ、明らかにおかしいじゃないか!」
 本当に怒らなければならないのは俺である筈なのに。
 先日の生徒会投票の結果、生徒会長に選ばれたのは高原和希であった。そして副会長は細田孝明で、俺たちの努力は全て無駄になってしまったことになる。生徒会演説の後に練った計画は亮介の気迫により押し進められていたが、それでもなかなか順調に多くの生徒たちを亮介の下僕にすることができたように思えていた。だけど結果はこの様で、確かに納得できない部分もある。
 あまりにもあっさりと計画を折られ、俺はなんだか驚きを通り越して何も感じなかった。しかし感情が豊かである亮介は結果を見て以来常時怒っており、俺はどうしてだかそっちの件で悩まなければならなくなっていた。
「こうなったら直訴するぞ! ついて来い、弘毅!」
「ええー」
「そんな気の抜けるような声を出すんじゃねえよバカ!」
 俺を連れ出すのはいつだって亮介だった。
 廊下に出て亮介はずいずいと進んでいく。誰かの姿が視界に入るとゆったりとした歩調に変わり、相手が見えなくなると瞬時に肩を怒らせながらの歩き方に戻っていた。前から思ってたけどずいぶん器用な奴だよな。こんなところで才能を発揮してどうするんだよと思う。
 やがて俺たちが辿り着いた場所は、なぜか学園長の部屋の前だった。
「亮介さん亮介さん、どうして俺たちは学園長の部屋の前にいるんでしょうか」
「決まってるだろ、選挙結果に不正がないかを調べる為だ! 行くぞ!」
 遠慮の欠片もない開け方で扉を排除し、亮介はそのまま部屋の中へ入ってしまった。相変わらずの態度は日常的なお茶目さだったが、それでも今は何かが違うのだと俺にも伝わってきた気がした。
 入学してから初めて入る部屋は少なくなっていたが、ここはまだ俺の知らない空間だった。見慣れぬ場所はそれだけで不安が襲ってくるものだ。だから俺は亮介の影に隠れるように立っていた。
「加賀見君、それに水瀬君も一緒か。どうかしたのか」
 部屋の中には立派な机と椅子があり、そこに学園長が腰掛けていた。普遍的な光景なのにどこか違和感がある。もちろんその正体は分からないけど、なんだかそれが気色悪かった。
「どうかしたのかじゃねえよ、何なんだあの結果は! なぜ高原和希――いや、水瀬聡史が生徒会長に選ばれてるんだよ!」
「ああ、そのことで来たのか」
 何やら心当たりがあるような態度で学園長は頷いた。彼の低い声を聞き、俺はふと相手と電話で話していた時のことを思い出した。
 そういえばあの時は急に電話の相手が変わったんだった。他のことで切羽詰まっててよく考えたりしなかったけど、どうしてあんなことになったんだろう。俺の知らないところで何が起こっていたのだろうか。
「俺のファンと絹山のファン、それにキアランの所に来る客――その全員が高原和希を避けたとは考えにくいが、それでも半分以上は俺の思惑通りになっているはずだ。その半分という数字はこの学園内の高等部の半数以上を占めていることは分かり切ったことで、だったら高原和希が生徒会長になるなんてことは絶対に有り得ないことなんだ。それなのになぜこんな結果になっているのか? 簡単だ、その答えは、何者かの手により票数が操作されたということだ!」
 びしりと学園長の顔を指差し、亮介はドラマのワンシーンの如くやたら劇的な表現をしていた。それを学園長は何も映さない目で見ている。
「確かに加賀見君の言う通りだ」
 他のものを何一つとして変化させず、口だけ動かして学園長は答えを示した。
「やっぱりそうかよ! 誰がそんなことをしたんだ、まさかジジイ、てめえか?」
「私がそんなことをするはずがないだろう。もちろん私以外の教師の仕業でもない。……君たちが思っている以上に、侵略は進んでいるということだ」
 謎かけのような言葉がひょいと投げかけられた。俺は何度かまばたきをして目の前の空間を見つめる。幾らか目を凝らしていると、ふと明確な何かが見えた気がした。それは俺を嘲笑う誰かの口元だった。
「この学園のコンピュータは既に彼の手の中にある。取り返そうとする我々の威嚇を見事に避け続け、彼は独走を始めてしまった。更にその行為を同室の友人が手助けしていてね――二人とも頭がいいものだから、我々も追いつけなくて困っているんだよ」
「じゃあもっと困ってる顔しろよ!」
 なんだか意味の分からない言葉が聞こえた気がしたが、大事なことは一つだけだった。それはこの学園はもう安心できる場所じゃなくなっていたということ。俺は結局、自分の家よりも危険な場所に舞い込んでしまったのだ。
 逃げ場など最初から存在しなかった。本当に逃げたいと願うのなら、正面から向き合って戦わなければならなかったんだ。その覚悟がなかった俺の結末は、こうあるべきなのかもしれない。
「いつかはこんな日が来るとは思っていた――だからこそ、水瀬君を加賀見君の隣に置いたんだ」
「え」
 俺と亮介の声が重なる。
「分からないかい? 私は弘毅君を聡史君から守ってもらう為に、加賀見君と同室にしたんだよ」
 相手は学園長で、もちろん俺はここに来るまで彼のことを知らなかった。それなのに相手はもうずっと昔から何もかもを知っていたようで――実際は有り得ないのだろうけど、この未来でさえ見えていたのではないかと思えるほどだった。
 俺が亮介の傍にいることは決められていたことだった。彼との距離が近付くことも、近付き過ぎて二人の影が一つになることも、学園長は最初から分かっていたとでもいうのだろうか。亮介が俺を守ることと同じように、俺が亮介を未来へ導くことも計画のうちに含まれていた?
 頭でいくら考えても真実は分からなかった。
「もともと聡史君は強引に学園に入学してきたんだ。それ以降も私に干渉することが多くて、だが一方で君に近付こうとしていたらしい。そのたびに私や他の教員が彼を止めていた。だけどそれもやがて限界が訪れるだろう。その時の為に加賀見君がいるんだ。加賀見君、君は――弘毅君にとっての最後の砦なんだよ」
「な……」
 思いがけない事実を聞かされたからか、亮介は目を白黒させてぽかんと口を開いていた。頭のいい亮介でもこれは予測していなかったのか、すんなりと受け入れられないといった様子で学園長の姿を見つめ続けている。一方で俺はやたらと納得できていた。
 初めて亮介と会った時、彼は俺と同室になったことにかなり苛立っていた。それは彼の意思が通用しなかった証であり、他のことは何でも手に入れられていた中で唯一手にできなかったものだったからなのだろう。それほどまでに学園長は俺と兄さんの関係を危ういと感じていたのだ。大事な亮介の意見をへし折ってでも通さなければならなかった決定事項――それが、未来を諦めている亮介に、俺という不安定な精神を守らせるということだったんだ。
 お互いがお互いを意識し合うことで、最初こそ上手くいかなかった関係ではあったけれど、俺たちは影響を与え合っていい方に進んでいるように思える。これらが全て学園長の描いたシナリオ通りだとしたら癪ではあるものの、それでも俺は彼に感謝したいと感じていた。俺は亮介と同室になることができて、本当によかったと思っているから。
「そうかよ」
 ふと小さな呟きが聞こえてきた。それは亮介の口から発せられたものらしかった。だけど彼の表情が全く見えてこない。
「最初から俺は、あんたの掌の上で踊らされてたってことかよ」
「そう捉えられても仕方がないかもしれない。だが加賀見君、どうすれば弘毅君を聡史君から守れるかと考えた時、我々に残された選択肢は君しかいなかったんだ。多くの生徒たちに愛されている君なら、多少無理をしてでも弘毅君を守ることができる。だから」
「もういい!」
 大きな音を立てて亮介は机を叩いた。部屋じゅうに響いた音に驚き、俺は亮介の鋭くなっている目を見て怖くなった。
「あんたはいつも勝手なことばかりをする! 俺が望まないことを無理矢理押し付けてくる! 俺はあんたの何なんだよ! 何の説明もなしに嘘を振りまきやがって、俺に一体どうして欲しいんだよ!」
 それは初めて見た彼の横顔だった。
 いきなりぐいと腕を掴まれ、怒ったままの亮介に連れられて俺は部屋から追い出されてしまった。学園長は去っていく俺たちに言葉をかけることはなく、何やら不穏な空気のままで俺は自室へ戻らなくてはならなくなってしまったらしかった。
 改めて俺は亮介とは似ていないと感じざるを得なかった。

 

 +++++

 

 部屋へ戻ると亮介はへなへなとソファに崩れてしまった。
「疲れた」
 一言だけ口から漏らし、背中からもたれ掛かって目を閉じている。俺はその様子をちょっと離れた場所から見ていた。彼に声をかける気にもなれなかったし、自分のベッドに腰掛けて窓の外へ視線を投げ出す。
 気が付かないうちに外は夜になっていたようだった。
「もう寝るか」
「……今日は定休日なのか?」
「んー」
 もそもそとした動作で相手は身体を起こし、そのすぐ後でぐっと俯いてしまう。そしてしばらく黙り込んだかと思うと唐突に顔を上げ、天を見つめているような表情で小さく唇を震わせた。
「予約は入ってるが、やる気が起きない。仮病でも使ってやるか」
「珍しいな、そんなことするなんて」
「俺だって人間だ。気が乗らない時だってあるさ」
 分かり切ったことを相手は言っていたが、俺はそれすら忘れていたのではないかと気が付いた。なんだか頭の芯がぼんやりしていて、自分の置かれている状況がよく分かっていないようだ。
 本当は俺がこの事件の中心にいるはずなのに、どうして遠くから見つめることしかできないのだろう。
 それは期待しているからだ。誰かが事を起こし、それがいい方に転がることを願って、俺はただ一人で息を潜めてその時を待っているだけ。自分から動かなければ何も変わらないことを知っているのに、期待と諦めが大きすぎて自分でも制御できなくなっているんじゃないだろうか。
 俺はそっと立ち上がり、亮介の前でしゃがみ込んだ。
「なあ亮介」
「……」
 返ってこない答えに満足し、俺は彼の顔を覗き込んだ。二人の位置は初めて会った頃から変わっていない。
「俺は亮介と一緒の部屋になれて嬉しかったよ。いや、最初はとんでもなく不安で仕方なかったけど、お前のことを徐々に知っていくたびに、お前と一緒の部屋でよかったと思ったんだ。今だってお前と一緒にいると安心できる。怖いものなんか何もないって思えるんだ」
「まるで……告白だな」
「ああ、そうかもな」
 二人とも笑っていなかった。これは真剣な話なのだと誰かに知らせたかったからかもしれない。だけど実際はどうなのか二人とも知らなかっただろう。周りにどんなふうに見られていようと、俺たちのことは俺たちですら知りようがない。
 すっと身体を持ち上げ、俺は彼の肌に触れるように抱き締めた。ソファの上から相手を押し潰した。彼の髪から甘い香りが漂っている。
「たぶん、お前以外の奴じゃ駄目だったんだと思う。晃でも陰でもキアランでも駄目だった。話すつもりじゃなかったことも全部話して、それ以上にお前自身のことも知りたくて――たぶん、だけどさ。たぶん、こういうのを、恋っていうんだよな」
 相手の手が俺の背に回された。それが意味するものは何だろう。
「バカだなお前。襲われかけてテンパって、キアランのこと聞いてビビってたくせに、結局そっちに行っちまうなんて」
「そうだな、俺はバカなんだ。痛い目に遭ったはずなのに、どうしてまた繰り返そうとしてるのか自分でも分からないよ」
 きっと俺は兄さんのことが好きだった。単なる兄弟として好きという感情の他に、憧れが変形した愛情を抱いていたんだろう。それは危険な感情だった。もしかしたら俺のその歪な愛のせいで、兄さんはおかしくなってしまったのかもしれない。
 じゃあ誰が一番悪かったんだ? 一番の悪人なんて、一体誰が決められただろう。おそらく全ての人が純粋だった。綺麗すぎるガラス玉を大事に守っていて、一点の黒い染みに気が付かなかったから壊れてしまった。
 一度壊れ始めたら、あまりにもあっけなく全てなくなってしまったけど。
「いつか言ったよな。俺はお前のことが好きだって。でもあの時は、その気持ちが何なのかよく分からなかった。だけど今ならはっきり言えるよ。はっきりと、言わせてもらうよ。――俺はお前のことがとてつもなく好きだ」
 それは愛しているということ。水瀬弘毅は加賀見亮介を一人の人間として愛しているということだった。ようやく自分の気持ちが理解できたかもしれない。単純なことだ、俺はいつも傍にいてくれる彼のことを、いつからか本気で愛するようになっていたということだったんだ。
 怖くはなかった。気持ちを言葉にすることも、それを相手に伝えることも、自らの内に芽生えた形のないものも、いつか壊れるのだとしてもそれは俺の誇りだったから。忘れかけていた感情が、彼のおかげで甦ってくれたんだ。
 亮介は黙っていた。俺の背中に手を回したまま、ぎゅっと力を込めて服を掴んできた。俺はちょっと彼から身体を離し、相手の目の奥を覗いてから唇を重ねた。
 人が誰かに惹かれる理由は様々だろう。見た目が好みだとか、限りなくどうでもいい理由しか持っていない人だっている。俺の場合は内部を優先することが多かったけれど、そのどれもに理想の像が存在していた。それは他でもない兄の姿であり、いつでも俺は彼の幻影を追い求めていた。
 だけど、どうしてだろう。今になって惹かれている相手はその偶像とは似ても似つかない魂だった。乱暴で自信家で自己陶酔を繰り返す自分本位な奴なのに、俺は彼の隣に居続けたいと願っていた。それは彼を救いたいという同情心からくるものではなく、彼に救われたいという下心から生まれたものでもない。ただ彼と話をして、共に遊んで、同じ空気を吸うだけで満足できるようになっていた。可能ならばこの世の全てとさよならして彼と二人きりの世界に行きたいと願う程に!
「亮介は、こんなこと言われるの……嫌?」
 近付き過ぎている二つの生命は歪んでいるのかもしれない。そうだとしても、俺はもう戻りたくなかった。
「嫌じゃ……ねえけど」
 ゆっくりと視線をそらし、亮介は頬を赤らめていた。俺は相手の肩に手を置く。
「お前にそんなことを言われる時なんか、永久に来ないと思っていたから驚いた」
「そっか」
 俺の気持ちを否定しない亮介は大人しかった。手で髪に触れても怒ったりせず、今なら何をしても許してくれそうな雰囲気が出来上がっていた。
 彼の本当の気持ちは分からない。俺を好きになってくれるかどうかも分からないし、この先二人の関係がどうなっていくかなど神ですら知らなかっただろう。俺はそれでもいいと思った。先の分かり切った未来なんて要らないし、必ずお互いの気持ちを知り合っている必要もないと感じたから。俺は俺で彼は彼だ。どれほど二人の距離が近付いたとしても、影のように簡単に一つになることはできないのだから。
「眠い。もう寝る」
 ぱたりと目を閉じ、亮介は俺の腕の中で独りごちた。それを聞いた俺は手を離さなければならなかった。なんとなく彼を手放したくなくて渋っていたけど、相手に迷惑をかけたいわけじゃないから身体を離した。
 彼は一人でベッドの中に横たわってしまった。俺のことなどお構いなしに、ただ疲れた身体を休める為に深い眠りについたようだった。……

 

 

 深夜、俺はふと目を覚ました。
 何か物音が聞こえたような気がした。暗闇の中で頭を動かしてみるけれど、慣れない目では何一つとしてはっきりと捉えられない。
 やがて諦めて目を閉じようとした刹那、隣のベッドから明瞭な音が俺の耳を貫いた。
「ぐ――」
 それは亮介の呻き声であり。
「えっ?」
 相手のベッドの上に黒い影があった。その下敷きになっているのは紛れもなく亮介で、二本の腕が彼の首に伸びていた。
 俺の目に映ったのは、亮介の首を誰かが絞めている光景で。
「や、やめろ!」
 がばりと起き上がって相手に飛びついた。誰なのかを確認する間もなく体当たりをぶちかまし、相手の大きな身体をベッドの上で押し潰した。背後で咳の音が聞こえてきた。亮介が生きていることを確認し、俺は胸を撫で下ろしていた。
「邪魔をするな、弘毅」
 押し潰していた相手の口から聞こえた声により、俺は現実に戻ってくる。
「これはお前の為なんだから」
 闇の中で俺を見る瞳はよく知っているものだ。遥か昔から、それこそ生まれる前から見続けてきたような眼が俺を見ている。
「どうして、こんなことを」
「お前を守る為だよ、分からないか?」
「分からない! もう帰ってくれ、俺の前に現れないでくれ、兄さん!」
 俺には逆らえない相手はゆっくりと立ち上がり、何も言わないまま部屋を出ていった。
「亮介も――もっと騒いでくれれば、すぐにでも助けてやれたのに」
「……」
 振り返った刹那に見えた相手の頬に一筋の涙が光っていた。その意味を俺はよく知らなかったが、彼がいつか言っていた「未来」のことを考えるとぞっとした。
「――許さないからな」
 抵抗を諦めようとしていたのだとしたら。
「俺に黙って勝手に終わらせるなんて、絶対に許さないからな! お前の未来はお前だけのものじゃないんだ、俺を惹き付けた責任として、最後まで足掻いてもらわなきゃ許さない! もう……一人きりで生きているわけじゃないんだから」
「弘毅」
「見たくないんだよ、俺の手の届く範囲での死なんて、もう二度と」
 過保護になっているのかもしれないと思った。或いは独占的な感情が働き、それが暴走する準備を整えているのかもしれない。
「ごめん……なさい」
 最後に聞こえた小さな声は想像以上に震えていて、感情的になった自分を責めたい気持ちに苛まれてしまった。

 

 

 

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