空間

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3.喧噪 - 01

 

 一度こじれた関係は簡単に元に戻らない。
 そのくせ関係をこじらせることは簡単で、何もかもが容易だと勘違いをしている。

 

 

 生徒会選挙の件が終わってから、俺は比較的平和な日々を過ごしていた。
 あれから兄さんの姿を見かけることもなくなったし、亮介ともそれなりにいい関係を築いている。彼に対する告白も意味を成してくれたようで、亮介は俺のことを必要以上に苛めたりしなくなってくれた。とはいえ俺への嫌がらせはやはり残存しているらしいのだが。
 だけどこの平和はなんだか恐ろしいものだった。嵐の前の静けさとはよく言ったもので、近い未来に何か残酷な結末が待ち受けている気配を感じる。俺はそこへ向かってまっすぐ加速して落ちているのだと気が付いた。隣に亮介がいることは必然だったのかどうか分からないが、一人きりじゃなく彼と共に落ちるなら世界の果てでも生きられそうな気がした。
「やあ、弘毅」
 一人で物思いにふけっていると声をかけられた。振り返ると多くの本をバックに陰が立っている姿が見えた。
「どうしたんだ、何か探し物?」
「いや、そういうわけじゃ」
 二人が立っている場所は図書館の中であり、頻繁にここへ出入りしているらしい陰がこの地にいるのは当然の光景だった。しかし俺は別に本好きというわけでもないし、今日だって何か目的があってここへ来たわけじゃない。強いて言うならば現実逃避をしたかったんだ。未来の足音から耳を塞げるような、何か夢中になれるものがあればそれでよかった。
「顔が暗いな。何か思い詰めていそうだ」
「ん……分かる?」
「弘毅は晃とよく似ている。感情が顔に出るタイプだよな」
 相手に告げられた事実はやたらと現実感がなかった。
「だけど、悩みの原因ならだいたい分かる。お兄さんのことだろ?」
 陰には生徒会選挙の際に協力してもらい、その時に兄さんのことも話してしまった。もちろん何もかもを話すことはなかったが、俺の兄さんが危険な人であることは理解しているだろう。だから俺は何も隠すことなく彼と接することができる。
「自分でも何に悩んでるのかよく分からなくてさ……なんとなくだけど、怖いんだ。これから何が起こるのかって考えたら、身体が震えてしまって」
「そっか」
 図書館の端の席に二人で座り、俺は陰と向き合って心情を吐露する。周りに誰もいなかったから普通でいられたのかもしれない。受け止めてくれる人が陰だったから、嘘で取り繕おうとしなかったのかもしれない。
「あまり軽率なことは言えないけど、現在何も起こっていないならそれでいいと思うようにすれば楽になれるんじゃないかな。少なくとも俺はそう考えるようにしているから」
「え、どうして」
「どうしてって、そりゃ……俺はいつ用済みになるか分からない存在だし」
 唐突に相手が人工的に造られた人間であることを思い出した。普段の生活の中では決して感じられない違和感が今になって彼の周囲を飛び交っている。
「用済みになんかならないだろ。まず第一にそんなこと、晃が許さないだろうし」
「……そうだといいけどな」
 相手はちょっと悲しそうに微笑んだ。そこには何か確信に似たものが潜んでいる気がした。だけど俺は口を挟まない。
「そういえば最近、晃と全然会ってないな……元気にしてる?」
「まあ、いつも通りバカだよ」
「バカってオイ」
 最後に晃と会ったのはいつだっただろう。もうずいぶん久しく彼の明るい声を聞いていないように感じられる。あの無駄に元気で軽やかな青年は俺にとって何だっただろうか。
 ああそうだ、あの事件があったおかげで俺は晃と話しにくくなっていたんだった。いろいろあったおかげで重大なことまで忘れそうになっている。思い出せるうちは大丈夫だ、俺はまだ駄目になったりしていない。
 目の前にいる陰を見て不思議な感覚を得た。俺は今、あの事件の真相を聞きたくなっている。訊ねれば彼ならきっと教えてくれるだろう。でも俺はそれを知ってどうするつもりなんだ?
「なあ、陰」
 口は勝手に開いていた。選び抜かれた言葉もまた、俺の意志と繋がっていない場所で息を始める。
「陰と円先生って――どういう関係なんだ」
 隠さない俺の科白を聞いた相手は少しの間黙り込んでいた。しかし時計の針が一周もしないうちに俺に反応を示してくれた。
「その質問の意図は? 弘毅は一体何を知りたいんだ?」
 亮介と似て頭のいい彼は卑怯な返し方を知っている。そんな強さを見せつけられたら、俺はもう弱者の如く素直に打ち明けるしかなかった。
「見たんだよ。陰と先生が……その、性行為してるとこ」
「なるほど」
 相手は落ち着いていた。
「あれは健康診断だよ」
「嘘だ」
「まあ嘘だね」
 そう言って陰はくくっと笑う。それは彼があれを「通常」と認識している証拠だった。
「俺もあの行為の意味は知っている。先生はあくまで健康診断と言い張ってるけど、そんなものじゃないことはもちろん分かってるよ。ただ俺はね、あの人には逆らえないんだ――この世界の中で俺は、晃と学園長と輝美先生の三人にだけはどうあっても逆らえない。そんなふうに造られた命だから」
 自らのことを語る陰の目は何も映していなかった。どうして彼がそんな目をできるのか、普通の人間である俺には理解できない。俺と彼とでは何もかもが違いすぎるんだ。その違いは人間の間でも存在するものなのに、どうしてここまで巨大な壁を感じてしまうのだろうか。
「晃は陰の「オリジナル」だから。学園長は陰の「親」だから。そこまでは想像できる……でもなんで円先生なんだ? あの人は陰の家族ってわけでもないんだろ?」
「ある意味家族だね。輝美先生は俺を造った張本人だから」
「え?」
 相手の口から出た言葉が理解できなかった。俺の頭が理解することを拒んでいるようだ。
「何だって?」
「俺は学園長の命令で輝美先生により造られた晃のクローン。だからその三人に逆らうことはできない」
 提示された事実はあまりにも明白で――でも俺にとっては曇った窓ガラスのようだった。
 あの先生が陰を造った。それはそのままの意味であり、おかしな解釈をする必要のない事実だったんだろう。俺が知らないところで黒田家と円先生の間に繋がりがあったというだけのことだった。
「知ってるかどうか分からないけど、この学園の教師は全員研究者で、他の職員もまた施設のことを理解している人間ばかりなんだ。世間にはもちろん公表してないし、外から人を雇うこともない。ここはそういう空間なんだ」
「ま、待てよ。人を雇うことがないって、じゃあここにいる人たちは……」
「全員世襲制。あらかじめ内部で婚約者が決まってて、感情とは関係なしに婚姻が行われる。ついでに産むべき子供の数も決められてるようだな。まったく頭がどうかしてる連中だよ」
 淡々と語る陰は内部の事情に詳しいようだった。当事者だから当たり前なんだろうけど、どうしてだかそのことを晃は知らないような気がしたんだ。陰だからこそ知っているような――俺は晃や陰を酷い偏見で包んでいるのかもしれない。
「一応言っとくけど、このことは他の生徒には口外するなよ? もしそれがばれたら俺、きっとすぐに壊されるし」
「もちろん言わないよ。けど……亮介の奴は既に知ってそうな気が」
「ああ、彼は学園長に気に入られてるからね。いろんなことを知らされてるみたいだな」
 口外するなとは言うくせに、俺たちは他の生徒が出入りする図書室の片隅で話をしている。周囲に人の姿が見当たらないとはいえ、俺たちは一体何を考えているんだろう。自分で自分の馬鹿さ加減がおかしく思えてしまった。
 だけど誰も笑わない。
「その……晃のことだけどさ。あいつ、もしかして円先生と仲悪い?」
 ふと思い出したことがあって訊ねてみた。何でも知っている陰はどんな質問にでも答えてくれると思っているのだろうか。
「弘毅は晃が輝美先生と喧嘩してるとこ見たんだっけ」
「一度だけだけど。それも喧嘩っていうか、ただ晃が一方的に怒ってただけだったみたいだけど……」
「思い出した。確かにあの場面に弘毅もいたね。晃は輝美先生に対してはいつもあんな態度になるんだよ。さすがに授業中とかは普通にしてるようだけど、プライベートじゃあれが普通」
 彼が先生に対しあれほど感情を昂らせている姿はあの時しか見たことがなくて、普段の接点に何の問題もなかったから俺はなんだか信じられなかったんだ。仮にも担任として一年間付き合ってきた間柄だし、俺みたいにやたらちょっかいを出されていた気配もなく、普通の生徒と普通の教師という関係だとばかり思い込んでいた。それなのに現実は違ったらしい。その理由はやはり、円先生が陰を造った人間だからなのだろうか。
「晃は思い込みが激しいんだよ」
「え」
 ぽつりと呟いた陰はどうしてだか淋しそうな表情をしていた。
「彼は先生が俺を奪ったと思い込んでる。あくまで俺は晃のクローンで、優先するのは晃なのに、それを忘れたかのような態度で先生を責めるんだ。本当にあいつはバカだよ」
「……そう思ってるなら、円先生の部屋に行かなければいいじゃないか」
「だから俺は先生の命令に逆らえないんだってば。そういうプログラムが施されてるから」
 話を進めていると唐突にファンタジーな単語が飛び出してきた。プログラムだなんて、いよいよ本格的に機械っぽくなってきたな。しかしそれって実際どういうものなんだろうか。意思が別の方に向いていても身体が勝手に動いてしまうってヤツなんだろうか。
「なるほど、分かった。お前はあの変態教師の変態な命令に好き好んで従ってるわけじゃないってことだな」
「う、うーん……まあそんな感じだと思ってくれていいよ」
「なんだよ、歯切れが悪いな。本音はあの変態の変態的行動にノリノリで従ってるのか?」
「そんな変態変態って連呼しなくても」
 あの教師のどこが変態じゃないのか教えて欲しいもんだ。俺に対する目線もそうだし、結局陰の身体を使ってることも事実だったんじゃないか。それだけの材料が揃っていれば変態と呼ばれても仕方ないだろうに。
 彼との話で分かったことはたくさんあったけど、確信を持って理解できたことは一つしかないような気がした。
「陰は、円先生のことが好きなんだな」
「まあね」
 そう言った相手は少しだけ申し訳なさそうに頬を赤らめていた。

 

 

 図書館を出た俺は陰に連れられて円先生の部屋を訪問することになっていた。なぜそうなってしまったのかというと、端的に言えば俺の知的好奇心がそうさせたのだった。
 あんな複雑な話を聞かされても俺の頭じゃ細かく理解することはできず、だったら陰よりもっと詳しそうな先生に聞いた方が理解できるのではないかと考え、ついでに先生がなぜ陰の身体を使ったのかという理由も聞きたかったので直接訊ねることにしたのだ。
 今は一人じゃなく陰が横にいてくれるから安心できる。それでもちょっとだけ不安なのは、やはり隣にいるのが亮介じゃないからなのだろうか。俺は心のどこかであいつの乱暴さに安堵を覚えていたのかもしれないな。
「失礼します」
 扉をノックしてからすぐに陰は部屋の中に入ってしまった。亮介には負けるけど陰もなかなか図々しいところがあるな。慣れた様子の彼の背を追い、俺も慌てて室内へ侵入した。
「おや……今日は珍しい組み合わせだね。どうしたんだい」
 いつものエセ笑顔を顔に貼り付け、円輝美は散らかった部屋で俺たちを迎え入れてくれた。
「すみません先生。俺、弘毅にいろいろ教えちゃいました」
「えっ」
 あっさりと告白した陰の科白に先生の顔がぴりりと凍りつく。やっぱりあれは部外者には聞かれちゃまずい話なんだろうな。そんな話をなぜ俺なんかが知ることになったんだろうか。
 確かそもそもの原因は晃と友達になったことだったな。今まで晃は他の誰かに話したりしなかったんだろうか。そしてなぜ俺には話してもいいと思ったりしたのだろうか。
 考えれば考えるほど、彼の本心が遠ざかっていくようだった。
「何を教えたんだい、陰」
「この学園のこと。俺が先生に造られたってこと」
「まったく困った子だね、君は」
 すっと眼鏡を外し、先生は椅子の背もたれに身体の柱を預けていた。俺と陰は物で埋もれているソファの上に腰掛ける。
「それで次は何を知りたいのかな」
 相手の目はまっすぐ俺の生命を貫いていた。大人の視線が身体じゅうを通過し、俺はなんだか縮こまってしまう。
「……卒業式のこと」
 口から滑り落ちたのは本当に知りたかったことだろうか。
「加賀見君から聞いたのかい」
「詳しいことは話してくれなかったから、俺は事実が知りたいんだ。卒業式の日に一体何が起こっているのかってことを」
「予想はできているんだろうね? 最悪の結末も、考えられる範囲で考え尽くしてみたかい?」
 俺は迷うことなく頷いていた。どんな真実が目の前に降りてこようと、そんなものにいちいち驚いている暇はなかったのだから。俺にとって大切なことは他にある。この事実を知りたいと願うのは、その大切なことを守る為に必要だからなんだ。
「なんて――僕がそれを君に教えたら、学園長に怒られちゃうからね。残念だけど教えられないよ」
「卑怯な奴」
「そ、そう言われても……」
 ぽろりと出た本音が相手の胸を突き刺したのか、円先生は表面だけでは深く傷付いたようだった。もっと他に傷付くべき点があるような気がするが、それはどうでもいいのだろうか。
「じゃあ別の質問。あんた、陰を一体どうしてるんだ」
「はあ」
 なんとも間の抜けた返事が相手の口から零れた。俺が言っていることの意味が分かっていないようだ。
「だから、あんたが陰を造った親であることは知ってるし、陰があんたのことを嫌ってないことも知ってる。でもそれだけの理由でどうしてあんな――やらしいことをさせてるんだよ」
 ストレートに聞くと先生はびっくりしたように目を大きくさせて口を閉ざした。そういえばこの先生には俺があれを見たことを知らせてなかったんだっけ。もう感付いているものだと思って話してしまったけど、突然今までの関係が崩れてしまいそうで怖くなってきた。
「陰、君は……一体どこまで話したんだい」
「先生。それは俺が話したことじゃなくて、弘毅が直接目で見て確かめたことですよ」
「わあわあ、誤解だ水瀬君! 僕は君に本気じゃないわけじゃないんだ、ただ陰は不安定な身体をしてるから、時々ああやって機能を確かめる必要があって」
 何が起きるのかと思いきや、目の前で繰り広げられたのはみっともない言い訳だった。何なんだこの教師は。ていうかどさくさに紛れて俺に本気だって告白してんじゃねえよ。
「何が機能を確かめるだよ。単に変態的な趣味を陰に押し付けてるだけじゃねえか」
「だから違うんだってば、僕は本当に陰をそういう目的で抱いているんじゃないんだよ」
「あっそ」
 俺は亮介の真似事をして相手からふいと顔をそらした。こいつとまともに話ができると思った俺が馬鹿だったらしい。今は相手がどんな言葉で取り繕おうと、全てが嘘に聞こえてしまっただろう。
「そんなに疑うのなら仕方がない。陰、手伝っておくれ」
「え、何を?」
「水瀬君に僕の気持ちを伝えるんだ。僕がどれほど彼に本気になっているかということをね」
 あまりにも怪しすぎる科白が耳に届き、俺は急激に逃げ出したい衝動に駆られた。反射的にソファから立ち上がったが、俺の足が動く前に何かが動作の邪魔をしてきた。それは俺の太ももの辺りをがっちりと掴んでいる。
「離してくれ、なんかとんでもないことが起こりそうなんだよ!」
「そ、そう言われても……」
 俺を止めているのは困った顔をしている陰だった。先程の話の中で出てきた「プログラム」とやらが影響しているのか、どうにも彼の意思と行動は一致していないらしい。
 陰の手から逃れようともがいていると、ふっと誰かが傍に寄ってきた気配があった。警戒するまでもなくそれは円先生であり、きちんと眼鏡を掛け直した相手の顔がすぐ近くにある。
「覚えておくといい、水瀬君。クローンとはこういう使い方もできるんだよ」
「えっ――」
 思いがけない言葉に息を詰まらせていると唇を塞がれた。いや、さっきの科白全く関係ないじゃん。何が言いたかったんだこの教師は。
「ええい、やめろよ! 俺はあんたに気なんかない!」
「自分が造った存在はね、よっぽどのことがない限り親を裏切らないのだよ。そして中に施された設定通りに動いてくれる。これほど便利なものは他にあるまい。だから少し利用させてもらったまでのこと」
「……それが本音なのかよ」
「何度も言うようだけど、欲望の為だけに身体を使ったわけじゃないよ。君に言っても理解してくれないかもしれないけどね」
 彼の言葉の端々から事実と嘘とが見え隠れしていた。その境界線はよく分からないけど、どうやら全てが嘘というわけではないらしい。
 のんきに頭を回転させていると肩を掴まれた。そのままソファに座っていた陰の上に押し倒され、俺は先生と陰の二人に挟まれてしまう。
「そしてこれが僕の偽りじゃない気持ちだ」
 再び強引に唇を塞がれる。前からは円先生に押し潰され、後ろからは陰に身体を掴まれ、身動きができない。
 キスされたまま先生の手が俺のシャツを捲り上げていた。肌の上を彼の手が滑り、くいと乳首をつねられる。
「だから、やめろって」
「こんなに本気で向き合っているのに、君は加賀見君しか見ないんだね」
 なんだかぞっとした。逃げられない状況が恐ろしく思え、相手の不透明な感情が闇のように身体にのしかかってくる。喉の奥に何かが引っ掛かった心地がした。それが上手く外れてくれなくて、声が出なくなる。
 抵抗できない俺を相手は好きに弄び始めた。ベルトを外してズボンと下着を脱がされ、下半身だけ裸にされる。脚の間に手を伸ばされてそこを直接触られた。必要以上に驚いた俺は雷の直撃を食らったような感覚を得た。
「怖いのかい? 大丈夫、すぐ気持ち良くなれるよ」
 俺の感情を知っているくせに相手は意地悪なことを言う。それは亮介よりもっと格が上の口上だった。
 大人の手つきが事を順調に運ばせていた。強く刺激されて俺は簡単に昇ってしまう。陰に見られているはずなのに、身体の欲望を抑えることができなかった。失ったはずの声も徐々に戻ってきたが、それは意味を成さない言葉しか発しない。
「う、やめ――」
「おっと、まだいってもらっては困るね」
 そこへ到達しそうになった直前、相手は嫌味っぽいことを言って手を離した。指を下の方へ下ろしていき、窪んでいる箇所へぴたりとあてがう。
「今日こそは僕の気持ちを君にあげるからね、少し待っていておくれ」
 くらくらする頭で俺は相手の動作を眺めていた。俺に触れていない方の手が彼自身の白衣の下をまさぐり、茶色いズボンの中から角度を持ったものを取り出している。
「さあ、入れるよ」
 何の準備もしないまま彼の身体が俺に侵入しようとしていた。入口を探し当てられ、先端がそこに触れる。力ずくで穴を広げようとし、歪な感覚が脳を激しく揺さぶった。
 ――目の前に銀の煌めきがよぎる。
「う……うあああっ!」
 脇腹が刺されたように痛くなった。ずきずきとした鈍い痛みが断続的に訪れ、おかげで下半身の刺激やら何やらが完全に分からなくなっている。だけどそれでよかったかもしれない。別のことに夢中になっていれば、汚いことを知らずに済むのだから。
 光に目がくらんで相手の顔もよく見えなかった。シルエットがあの人のものと重なる。その大きな手が首に伸ばされた気がした。実際は触っていないのかもしれないけど、俺の中の記憶が首をぎりぎりと絞め付けてくるんだ――。
 景色がぶれる。焦点が定まらず、地震に襲われたかのように世界が揺れていた。胸の内がざわざわとする。気分が悪くなって吐き気に襲われた。
「が――っ」
 胸の辺りを押さえ付け、俺は相手を突き飛ばして床の上に胃の中のものを吐いた。全て吐き出しても気分はすっきりせず、しばらく呼吸を整えなければ黄泉の中に飛ばされてしまいそうだった。
「大丈夫かい?」
 やがて聞こえてきた声により現実に戻る。
「……あんたのせいで酷い目に遭った」
「途中でやめるつもりだったんだけどね、まさか入れる前にあんなことになってしまうなんて」
 あれは冗談だったとでも言いたいのだろうか。だとしたら、やはりこの人は嘘つきだ。
「もう帰る」
「僕に聞きたいことがあったんじゃなかったのかい」
「こんな状況で聞けるかよ!」
 散らばっていた服を装着して扉の向こうへ足を進ませた。一秒でも早くこの部屋から出てしまいたくて、俺はもう振り返ることなく廊下へと逃げ出したのだった。

 

 

 

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