02

 ぼんやりするのにも気力が必要だった。まず俺は何一つとして考えずに座っていようと思ったけれど、それがなかなか難しいのだ。頭の中を完全に無にすることはかなり骨が折れる仕事であり、結局はいろいろとつまらないことを考えてしまうのが人間ってもんなのだろう。
 まあそんなことはどうでもいいや、俺としては早く目が覚めてほしいところだが、最近は疲れがたまっていたのか、えらく夢が長いように感じられる。でも実際起きてみたらそんなに時間は経ってなかったってことは結構あって、あるいはこれが当然なのかもしれないな。ふむ。
 なんてことを考えていると上から――いや、下から出てきたのか? とにかく視界の中に虫が入ってきた。黄色と黒の縞模様がついている、クモみたいな気色悪い虫だ。しかしなんつー色だよ、いかにも危険そうな色じゃないか。
「ん?」
 よく見てみると一匹じゃなかった。三匹か四匹……いやそれ以上いる。というより増えていってる気がする。気色悪いって。
 そもそも俺は虫の中ではクモが一番苦手なんだ。さてはそうと知っているから出てくるんだな、こいつらめ。畜生、クモのくせに生意気な。
 その憎たらしいクモ連中は俺の足の上に乗っかってきたり、服にしがみついて登ってこようとしたりする。俺はそいつらを手で払いのけてやった。ぱらぱらと下には落ちるものの、また懲りずに登ろうとする馬鹿な奴がいる。さらには全体の数が増えており、鬱陶しいったらありゃしない。
 いい加減むかついてきたので一匹を踏み潰してやった。ぺしゃんこになる黄色と黒のクモ。へっ、おかしなことをするからそうなるんだ。人間様に迷惑をかけるんじゃねーよ!
 この調子で他のクモどもも踏み潰してやろうかと思った矢先、手に冷たい水みたいなものがかかった。正直びびった。驚きつつも手を見てみると、何やら毒々しい紫色の液体がねっとりとくっついている。無駄に気色悪い。っつーかなんじゃこりゃ。
「うっ?」
 なんだか手が痺れてきた。変な液体のせいだろうか。冗談じゃない、得体の知れない液体なんかで麻痺するなんて、なんて質の悪い夢なんだ。そういえば昔にも似たような夢を見たっけ。あの時は、そうだ、確か必死に水で洗っていたな。でもその後で解毒薬を手に塗りたくって……。
「ちょっと、君?」
 頭上から声が響く。顔を上に向けると、誰かがいるらしいことだけが分かった。穴はそんなに深くはないけど、太陽の逆光によって相手の顔は真っ黒にしか見えないのだ。声から判断すると女の子らしい。ちょっと期待してしまう。
「大丈夫? 今すぐ引き上げるから、さあ、手を出して!」
 まるで事態は急を要するかのような台詞を吐き出した後、相手は手を穴の中につっこんできた。まあ出られるに越したことはないか。この変なクモ連中からもおさらばできるし、相手はもしかしたら可愛い子かもしれないし。って、いかんいかん。これじゃ下心がありすぎじゃないか。俺はもっと真面目で健全でなければならんのだ。面倒なことはしたくないけどね。
 伸ばされた手を握り相手に身を任せると、ぐっと強い力で引っ張られてあっという間に世界が回転した。そのまま地面に全身をぶつける。あのー、夢なのに痛いのは一体どうして?
「もうっ、君っ、何考えてたの?」
 顔を上げると相手の顔が見えた。が、俺が観察する前に言葉の群れが襲いかかってくる。
「魔物のトラップにかかってもぼんやりしたままで、しかも毒をくらいながら平然とするなんて! せっかく神様からもらった命なんだからもっと大事にしなさい! 死ぬのはね、逃げるってことと同じなのよ! 君はそれで納得できるの? 自殺なんてしたって、いいことなんかなんにもないんだから!」
 うーむ、どうやら相手は俺が自殺しようとしていたと思っているらしい。勘違いもはなはだしいところだ。
「俺は自殺なんかする気じゃなかったけど」
「えっ、そうなの? だったらどうして魔物の巣の中でのんきに座ってたの?」
「つーか魔物って何」
 本音を口にすると相手は目をぱちくりとした。
 改めて相手の姿を観察してみる。年は俺と同じくらいで、なかなか華奢な体つきをしている。ほっそりした腕に、すらりと伸びる美しい脚。俗に言う「ないすばでぃー」ってやつだろうか。そして顔の方は――。
「ん?」
 なんだか変なものを見た気がした。いやいや気のせいだろう。いくらなんでもそんなことはないさ。大きく頭を振り、もう一度相手の顔を拝見させていただくことにする。
「はい?」
 駄目だ、変わらない。何回見ても同じなのか。
 なんともおかしなことに、相手はかなりの童顔の持ち主だった。童顔と言ってもほんの少しばかり幼い顔をしているんじゃない、高校生かそこらの首の上に幼稚園児の顔を乗せたような、そんな感じだ。これを変と言わずして何と言えばいいというのか! しかし気色悪い! なんてこった!
「ど、どうしたの?」
「どうって、どうって君!」
 これで平然としていられるわけがなかろうて!  俺の狼狽を目の当たりにしてか、相手は吹き出して笑い始めた。いや俺だって好きで狼狽したわけじゃないってのに。笑わないでくれよ、頼むから。
「分かってるわよ、この顔でしょ? そうよね、変よね……」
 おや、笑いが止まった。さらに空気が湿っぽくなり、相手はどこか淋しげな顔になる。
「ごめんね、驚かせてしまって。この世界じゃ新しく会う人って本当に少ないから」
 また俺は驚いてしまった。なんてリアルな夢なんだ、と再び思う。相手の感情が流れるように俺の中に入ってくるみたいだ。悲しい。すごく悲しい。なんでだよ。なんでこうなるんだ!
「で、でも、確かに驚きはしたけどさ、君のその顔、すごく――」
 いや、何を言い出しているんだ俺は。慰めの言葉でもかけてやるつもりなのか? ちょっと自惚れすぎじゃねえか、それって? でももう、止められない。
「すごく、何?」
「……可愛いよ」
 うおお、恥ずかしいことを言ってしまった! 確かに相手は超童顔だけど、同い年くらいの女の子に「可愛い」だなんてことを言うなんて! 人生初だぞ、これでも!
 俺の顔は真っ赤になっていたに違いない。慌てて俯いたので相手の顔は見えない。きっと驚いているだろう。それか微笑んでいるか、どっちかだ。つーかこんな顔を相手に見せられるわけないじゃないか。ああ、言ってから後悔する俺。馬鹿みてえ。
「か……」
 ん?
「可愛いって言うなぁぁぁあああああ!!」
 その後の一秒間、俺の視線は高速で回転する素晴らしき世界をとらえていた。次に気がついた頃には、俺の体はどこもかしこも悲鳴を上げており、そういや「満身創痍」って四字熟語があったっけ、ということしか考えられない状況になっていた。手の痺れなんてもう気になりません。それよりずたずたにされた全身の方が痛いですから。
 教訓。相手――まだ名前も知らない女の子の前で、「可愛い」は禁句である。らしい。
 その相手は俺のすぐ傍で申し訳なさそうに手を合わせ、ごめんねと繰り返すのであった。

 

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