17

 哀愁感漂う夕焼け空の下、俺は一人で復旧作業の終わった町の姿を眺めていた。
 夕焼けってわけもなく悲しくなってくるよな。オレンジ色なのがいけないんだろうか。でも絵の具のオレンジを見ても、他の場所で使われているオレンジを見ても、悲しさなんかこれっぽっちも感じられない。それでも夕日からは悲しみを得る。これって一体どういうことなの?
 コクさんの薬の材料となる卵を持って帰還すると、サラは街の入り口で待ち構えていたディトと共にコクの元へ走っていった。俺はというとまるで邪魔者のようにその場に取り残され、典型的な仲間外れ状態に陥ってしまったのだった。わざわざ二人の後を追いかけてコクさんの様子を見に行くのもなんだかばつが悪かったので、俺はとりあえずキーラの家に戻ることにした。家には誰もおらず、ようやく欲しがっていた休息を得ることができたわけだが。
「哀愁っつーか郷愁だな、こりゃ」
 キーラの家には偉そうなことにベランダがある。夕焼けになるまではずっと部屋の中でゴロゴロしていたけれど、夕日のオレンジが見えるとベランダへのそのそと這い出してしまった。そしたら予想以上にオレンジが綺麗で、ついついその場から離れられなくなってしまったというわけだ。
 何気なく見つけたものがあまりに探していたものとかけ離れていて、でもどうしても見捨てることができなくなってしまった、そんな状況に立たされているんだろう。皮肉なことにさ、この景色、日本で見たものとそっくりなんだ。こんなもの見せられたら誰だってホームシックになる。俺だって強がったりもするけど、まだまだ親から離れられない子供なんだぞ。親や家が懐かしく思える。はっきり言って今すぐ帰りたい。それなのに帰れない。それは何故? 決まってる、あのあほ大僧正様の馬鹿げた召喚術のせいだ。
「豊、こんな所にいたのか」
 後ろからソルがやって来た。姿はガキだけどすでに二十歳になっているお兄さん。そのうえ勇気と力と知恵とを兼ね備えていて、このレーベンスの町を仕切っている支配者――じゃなかったリーダーだ。
 俺のことを唯一本名で呼んでくれる人。
「家が恋しいか?」
 そしてぎくりとすることを平気で言ってくれる人でもあった。なんで分かるんだこいつは。読心術でも持ってるのかよ。
「最初から言ってるだろ、俺はこんな世界を救う気なんてさらさらないんだ。さっさと元の世界に帰りたい。闇の意志だとかアナだとか、もうどうでもいいんだよ」
「そんなことは分かっている。だからお前にとって有益な情報を与えに来たんだ」
「ん?」
 ぽろりと想像外の台詞を吐き出してくれるお兄さん。何、その有益な情報って。まさかとは思うけど、元の世界に帰る為の方法が分かったとか? それだとこの上なく嬉しいんだけど、世の中そう都合よく物事が進むわけないもんなぁ。
「この世界に住んでいるのはおれとキーラ、サラ、ディト、コク、リガーじいちゃ、アナ、そしてもう一人。確かお前がまだ会っていないのは最後の一人だけだったと思うが」
「まあそうだけど。でもそれがどうしたんだよ?」
「最後の一人の名はルーチェといい、様々な研究をしている科学者だ。彼女は主に闇の意志の謎とこの世界のことについて調べているが、空間を操作する為の何かを発明したと以前言っていた」
 へえ、空間を操作ねえ。ますますファンタジーだなこりゃ。でもファンタジーといえば魔法であったはずなのに、こっちに来てからそれらしいものを見たのはキーラの召喚術だけだ。それも結構淋しかったりする。しかも大地は枯れかけだし。こんな世界、守る必要もなければ奪う必要もないと思うんだけどなぁ。闇の意志ってのもわけ分かんねえ奴だよな。
 おっと今はこんなことを考えている場合じゃなかった。えっと、空間を操作する為の怪しげなものを発明した変人がいるって話だったよな。
「空間を操れるということは即ち、別世界への出入りも容易になると思われるんだ。現に昔、この世界の生き残りの住人達は彼女の発明した物を使って異世界へ渡った。その時の発明した物はもう壊れてしまったが、おそらく新しい物をまた作ったんだろう。……それを使えば豊、お前の世界にだって繋がるかもしれないんだ」
 あれ。ということは何? 俺、もう帰れるかもしれないってこと? まだほとんど何もしてないのに。
「彼女は今レーベンスには住んでいないが、会いに行ってみてはどうだろうか」
「必ず会いに行きますともお兄様」
 小さなソルの手をぎゅっと握り締める。多少驚かれるかと思ったが、ソルは予想でもしていたのだろうか、全く動じることなく俺の熱い握手を受け取ったのであった。それも、喜びも悲しみも映していない無表情のままで。
 だけど俺にとってはそんなことはもう気にするべきことじゃなかった。だってもうすぐ帰れるかもしれないんだ。あくまで可能性にすぎないんだけど、ソルの話だとなかなか有力な候補らしいし。なんて言ったっけ、ルーチェ? どこぞのお菓子の名前みたいな人だけど、科学者ってことはまず間違いなく変人だ。ふむ、第一印象をいいものにしないと瞬間的に追い出されるかもしれないぞ。最大限に用心しつつ会わなければなぁ。キーラやサラには悪いけど、やっぱ俺は元の世界に帰りたいし。そしてイギリス旅行を満喫するのだ。あの大英帝国の名残を感じながら。
「ではキーラ達にそう伝えてくる。しかし今日はもう遅い。出発は明日になってからだ。今日は明日に備えてゆっくりと休息を取っていろ」
「おっけーおっけー、まかせんしゃい!」
 陽気に答えてみせたが、ソルは相変わらず無表情だった。そのままベランダを出て、奥の部屋へと消えていく。
 今の俺は意気軒昂だ。何故だか知らないけど鋼鉄の防御も身に付いているし、明日になったらこの淋しい世界からおさらばできるんだ。これほど嬉しいことが他にあるだろうか? いやないね、今まで生きてきた中で、まず間違いなくダントツで喜ばしいことなんだ!
 しかし俺がコクさんの薬の為に奮闘している間にもちゃんと帰れる方法を調べてくれてたなんて、やっぱりソルはリーダーなんだなぁ。あの大僧正様は何してたか知らないけど、きっと偉そうに街の復旧作業の指揮を取って自分は何もしていなかったんだろう。なんかそんな気がする。あいつってモヤシ君だし。
「それにしてもお兄様ってば頼りになるよなー」
 過度の嬉しさに負けて気持ちを声にまで出してしまった。うはは、明日が楽しみだ。どうせまた延々と歩かされるんだろうけど、元の世界に帰れるならそれがどうしたってんだ!
「豊君、だったかな」
「ほえっ?」
 終わりのない喜びを噛み締めていたその時に、びっくりするような声が聞こえてきた。反射的に振り返ると扉の所にコクが立っていた。なんだ、この人って寝てたんじゃなかったのか?
 そんな俺の疑問もよそにトンネル親父――じゃなかった、トンネル青年はすたすたと歩いて俺の隣に立った。そして病人さながらにオレンジの夕日をゆっくりと見上げる。なんだ、何がしたいんだこの人は。つーかいつの間に俺の本名を覚えたんだ。まったく暇そうで羨ましいったらありゃしない……って今は俺も暇を持て余してたか。なんてこった。
「ソルから聞いたよ、明日、ルーチェ殿の所へ行って元の世界に帰るんだってね」
「ん、ああ……」
 うわあこの人俺を引き止めに来たんだよ絶対。このいかにも残念そうな口ぶりや会話の始め方からするとそうに違いない。もうちょっと分かりづらく振る舞えよな、そんな使い古された手法じゃあ、俺じゃなくたって分かっちまうぞ。
「おめでとう」
 ――は?
 次に飛んでくると予想していた言葉とは全く違うものが放たれ、一瞬ぽかんとしてしまった。今、なんて言ったコイツ。『おめでとう』だって? いやいやコクさん、そいつは誰かに対して祝う時の台詞だぜ。人を引き止める為の文句といえば、『行かないで!』だってことはもう古代からのお約束で……。
「私は君を引き止めたりはしないよ。君にだって君の生活がある、それだけはちゃんと分かっているつもりだからね」
「なんだぁ、そういうことか」
 腹の中のもやもやがぱっと晴れたような気がしてほっとした。要するにこのトンネル青年は、家につるはしなんかを飾ってあるくせに常識ある人間だってことだ。
「ついでにあんたも別の世界とやらに行ったらどうなんだ? ここに残ってても何もできないんだろ?」
 コクはなんだか知らないが病気を抱えているらしい。それでげほげほと咳をして、毎日家にこもりっきりだとしたら、正直あのキーラよりも闇の意志復活阻止計画に必要なさそうな人だ。そしてそれはコク本人だって分かっているんだと思う。それでもここに留まっている理由が、俺にはどうにも思い当たらないのだ。俺だったら即座に帰るのに。
「それはもうソルに何回も言われたことだ。しかし私は逃げたりしないよ。この地を去らざるを得なくなった人々の、最後の微笑みと背中の先に、悔しさから溢れた涙を見てしまったからね。そしてそれはキーラもサラも、ソルも同じことなんだ。だから皆はこの荒廃した大地の上でも、まだ頑張ることができるんだ。……」


「――まだ?」


「え?」
 ふと声が響いてきた。どこから? 誰の声が? コクも俺と同じようにびっくりして、きょろきょろと周りを見回し始める。せっかくコクのいい台詞をとりあえず聞いてたのに、変な声のせいでそれが見事にぶち壊されちまったんだ。確かにコクの意見はなんかよく分からなかったけど、それでも真面目そうに語ってたんだからいい話だったんだろう。それをたった一言、『まだ?』だけで破壊するだなんて、犯人は一体どこのどいつだ。
 どうやら俺の知らない人の声だったらしいから、キーラでもサラでもソルでもないんだろう。ましてやディトでもじいちゃでもない。つーことは、何だ、ルーチェって人か? でもその人ってこの町には住んでないとか言ってなかったっけ。じゃ一体どこのどなたが?
「そうやって人間は頑張る。頑張って、壁を壊して、目的を達成する為に努力を重ねる。それなのに報われなかった時、この世のものとは思えない程の絶望を知る。すると今度は逃げ出す準備を始める。……人間なんて、そんなものだ。まだ頑張れると強がっていても、いつか壊れることを知っていて、常にその恐怖が来る覚悟をしているふりをしているんだ」
 心臓の鼓動が高まる。
 長ったらしいお言葉を言ってくれたのは、きっと俺の知らない人なんだろう。見ず知らずの赤の他人。なのにさ、何故かすごくドキドキするんだ。ありふれた表現として使われる恋愛のそれじゃなくて、近くに人がいたらきっと分かるくらいに心臓がばくばくいってるんだ。おそらく恐怖。夢の中とかで危険な経験をしたらよくこういうことになってた。でもなんで? そんなに危ない台詞だったか、今のが?
 それは後ろから聞こえた気がする。
 振り返れない。振り返りたい。振り返っては、いけない? ……どうして?
 身動きができなくなっていた。世間でよく言う金縛り状態だ。必要以上に心臓の鼓動は高まるばかりで、一向に収まる気配が見られない。おいおい冗談じゃねえぞ、こんな展開、少年漫画にはなかったことじゃないか。いやあったか? どっちでもいい、けど俺がこんなことに巻き込まれるなんて、それこそどっかの設定が間違ってるんだ。じゃなきゃ人違いだ。だって俺は、本当にただの一般人なんだから。
 心臓の鼓動が高まるだけならいいものの、今度は息が苦しくなってきやがった。何もしてないのに無茶苦茶だ。畜生、俺ってそんなに運がなかったっけ? まさかこれで呼吸困難になって死亡だなんてことにはならないだろうな。それこそ不幸の中の不幸だぞ、卑怯な!
「何者だ!」
 コクの鋭い声が飛ぶ。それによっていささか息が楽になった気がした。なんか知らんがナイスだ、トンネル青年よ!
「お前には関係ない」
 再びあの変な声が響いてきた。よく聞くと不細工な親父の声じゃない。どっちかと言うと少年のような少女のような、とにかく子供っぽい明るい声を無理矢理低くしているような声だった。なんだよ子供かよ。じゃあ恐れるに足りず、だから落ち着け俺の心臓よ。
 ゆっくりと目を閉じ、心臓の鼓動が収まるのを待つ。暗闇しか見えなくなるとすぐ安定してきた。へっ、さすがに暗闇は落ち着くってか。昔からそれだけは変わっちゃいない。
 ぱっと目を開けて変な声の主の方へと視線を投げかける。そいつは俺の背後、つまりベランダの手すりの向こう側――足場もない空間の中を、ふわふわと宙に浮いていやがった。
 ねえ。それって明らかに魔法じゃないの? 魔法が使える人って限られてるとか何とか言ってたんじゃなかったっけ。
 そいつは俺が振り返っても微動だにしなかった。じっとしたまま宙に浮いている。真っ黒のローブを全身に纏っており、肝心の顔は深々とフードを被っていて見えないので性別も分からない。いかにも怪しげな格好をして宙に浮いている。もう『怪しいレベル』はマックスだ。間違いなく敵。うんそうに決まってる。
「白石豊」
「は?」
 変な真っ黒野郎に本名を呼ばれた。それでついつい反抗的な返事をしてしまった。なんでテメーが俺の名前知ってんだよ。という問いはややこしくなりそうなので口に出さないようにしておこう。
「お前に一つだけ言っておく」
 少しも変わらない口調でそいつは言う。また俺かよ。ってことはこいつもアカツキとやらの関係者か? それともアナの手先だとか。
 風も吹かない静寂の空間の中、場違いのように宙に浮いている黒ローブの野郎は、誰でも聞き取れるほどはっきりとした口調で、それでも憂いを隠さずに堂々と言ってのけた。
「たとえ何が起きようとも、お前を絶対に元の世界には還さない」

 

 

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