18

 黒い深淵に近づいていく。
 それを止めるすべも知らないのに。

 

 下から何かが飛んできた。それは夕日に照らされて一瞬きらりと光り、宙に浮いている黒ローブの野郎に直撃した。うわぁ、いってぇ。見事に左腕に突き刺さっている。よく見るとそれは短剣だった。ということは何だ、サラが下から投げたのか?
 ちょっとベランダから下を見下ろしてみると、おお本当にサラがいる。おまけにキーラまでいる。さしずめ騒ぎに気づいて集まってきた野次馬ってとこだろう。それにしちゃあ、いきなり攻撃を仕掛けるってのはやりすぎなんじゃないのか?
 下の観察も終わったので顔を上げてみると、同時に耳元で風が切れる音がした。その後に浮き上がる俺の髪。そして背後で響く『すとん』という間の抜けた音。見ると、黒ローブの野郎の腕から短剣が消えている。ああなるほど、そいつを俺に向かって投げてきたんだな。しかし俺はちょうど体勢を変えて運よく当たらなかった、と。
 ……つーか危ねえな! 今更だけど。
「ガキが……出しゃばってくるな!」
 ふっと聞こえた囁きのような怒声。それはどう考えても黒ローブのもので、そいつは今度は両手を胸の前で合わせる動作をした。むむむ、何やら魔法でも使いそうな予感がするぞ。しかも思いっきり俺の方を狙ってるし。
 ってのんきに構えてる場合じゃなかった! 本当に魔法なんかを使われたら一瞬でお陀仏だ。なんとか逃げないと。いや逃げたりしたら近くにいるコクさんが巻き添えを食らっちまう。それ以前に逃げられるかどうかも怪しい。だけどこのままじゃいけないってことだけは、妙に思えるほどよく分かっていた。
「ま、待て! 俺の話を聞け!」
「黙れ」
「いやそんな即答しないで!」
 俺の努力も虚しく、相手の周囲に変な光が現れ始めた。絶対に魔法を使うつもりだ。酷い奴だな、こいつ。待てって言ってるのに。
「塵と化せ!」
 勢いのある声と共にぐっと片手をこっちに突き出す。なんてこった、俺の寿命はここで途絶えるのか! せっかく元の世界に帰れると思ったのに。せっかくイギリス旅行が帰ってくると思ったのに!
 冗談じゃない、こんないきなり現れた訳の分からない黒ローブの野郎に、故郷の世界でも夢の世界でもない場所で、俺の知らない方法で殺されるだなんて、これが人間の我慢できることだろうか? 無知だとそんなにいけないっていうのか、無知であるだけで罪だっていうのか! 冗談じゃない! 分からないことばっかりに埋もれたままで、何一つとして理解することなく、妙な独りよがりの理由だけで、殺されちまうっていうのかよ! ふざけんなよ!
 ……というふうに腹の底で怒ってみると、小説やゲームなんかでは主人公の秘めたる力が解放され危機を乗り越えた、っていう話がよくあったよな。そうならねえかな。そうなってほしいな。実際はそんな都合のいい話なんて、すぐに作られるわけないってことも知ってるけど。
「アカツキよ、安心しろ!」
 そうして第一に聞こえてきたのは、最も場違いなような大僧正様のお言葉だった。
「奴の魔法はこの私が封印したぞ!」
 おやまあ。
 黒ローブの野郎はじっと硬直して動かない。ポーズ的には格好いいが、この展開だと他の誰よりも間抜けであることは間違いないんだろう。ひょいとベランダの下を覗いてみると、紺色の二つの目がこれ以上ないという程の自信に満ちて輝いていた。うっわぁ、偉そう。とんでもなく偉そう。
「図に乗るな、ガキがっ!」
 止まっていたかと思うと急に吠える黒ローブ。そしてぐるんと体をひねり、ちょうど俺に背中を見せる格好になった。そうしたら当然のごとく、ローブがふわりと宙に浮く。俺はその端っこをちょっと掴んでみることにした。少し体を前のめりにしたら簡単に掴めてしまう。それに気づいた黒ローブはフードごと顔をこっちに向けてきた。でももう遅い、俺はそれを思いっきり引っ張って、キーラの家の中へ黒ローブの野郎をふっ飛ばしてしまった。
「おお、いいぞアカツキよ!」
「ナイスよアカツキくん!」
 下方の変なギャラリーは無視するとして。
 格闘技経験もゼロに等しい俺に投げられた運悪い可哀想な黒ローブは、あり得ないほど驚いているコクの視線の先で完全にのびていた。床に仰向けになって転がっている。しめしめ、この隙に顔を覗いてやろう。ひたひたと足音を消してそいつに近寄っていくと、黒いフードの下から金色に光る髪が出ていることに気づいた。
 金色の髪ならこっちに来てから見たことがあるぞ。あの無駄に長い名前のラスボス決定な姉ちゃんだ。ってことは何だ? こいつはあの姉ちゃんが変装しているとかそういうオチなのか? でも声は明らかに違うし、よく見るとあの姉ちゃんより背が低い。それにあの姉ちゃんだとしても、なんでわざわざ変装しなきゃならないのかということがさっぱりだ。やっぱり別の人ってことだろうか。
 とにかく考えていても何も分からない。それよりもこの黒のフードを取る方が手っ取り早く分かるんだから、そうすればいいんだ。何を悩む必要があるのか、自分で考えていて分からなくなってきたぞ。
 黒ローブのすぐ傍にしゃがみ込み、気づかれないよう注意しながらフードに手を伸ばす。この瞬間にぱっと目を覚まして顔が拝めなかった、というのは漫画じゃありがちな展開だが、今回はどうやらそんな劇的な展開は避けられたらしい。だけど喜んでる暇なんてなく、俺は逆に驚かされる結果となってしまった。
 だって。
「アカツキよ、よくやったぞ! それでこそアカツキの後継者だ!」
「ちょっと黙ってなさいよ、キーラ」
 どたどたとうるさい音を響かせながら下にいた二人が室内に転がり込んでくる。しかし俺は黒フードの下に隠されていた顔を見たせいで、そんなことにいちいち気を遣う余裕なんてなかったのだ。
 だって、こいつ。
 目をかっと見開いて涙を流しながら、ぴくりとも動かないんだ。
「気絶しているのだろうか」
 隣に来たコクが口を開く。気絶している? そんなことあるか。だったらなんで、まだ涙が溢れ続けてるんだよ?
 何なんだこいつ。明らかにおかしいじゃないか。数少ない魔法が使える奴だから、少しくらいおかしくたって変じゃないってことなのか? そういえば俺もいつの間にか鉄壁防御を手に入れてたし、そういうものなのだろうか。いやいやそれだけで決めてしまうのはよろしくないはずだ。きっと何かがあるはずだ、それこそ劇的な展開にふさわしい設定か何かが。
「見たことない子ね。別の世界から来たのかな?」
 サラの呟きで理解する。ああそっか、この世界の生き残りじゃないんだね。この世界と俺の世界以外の事情なんて知らない。むしろ知りたくもない。寝転んでいるこいつの顔を見ていると、厄介事に巻き込まれそうで怖ろしく思えてきた。
 子供のような、子供でないような。また男のような、女のような。黒ローブはそんな中途半端な顔をしていた。何もかもがはっきりしない。そんなにこいつは俺を困らせたいのかよ。
 不安でありながらもじっと観察を続けていると、黒ローブは突拍子もなく咳をした。病人のように何度も繰り返すことはなく、たった一度きりだったけれど。そうしてゆっくりと体を起こす。フードはすっかり取り払われてしまっていたけど、それを被り直そうとする素振りは見せなかった。金色の髪は肩にかかる程度の長さだ。
 大人しく座っている黒ローブは下に俯き、一見すると落ち込んでいるように見える。前髪が邪魔で目は見えなくなってしまったが、もしかしたらまだ泣いてるのかもしれないな。
「君は一体どこから来たのだ? そして、どういうつもりでアカツキにあのようなことを言ったのだ」
 偉そうに大僧正様はすっかり静かになった黒ローブに問う。っていうか『あのようなこと』って何? そんないい加減な質問じゃ答えられるものも答えられないんじゃないのだろうか。
 俺の心配がそのまま適用されたかのように、黒ローブは黙って何も言葉を吐き出さなかった。そればかりかさらに下に俯き、顔を隠そうとしているようにも見える。そんなに顔を見られたくなかったのかよ。なんか、やっぱり変な奴だなぁ。
「キーラ、そんなに偉そうに聞いたら誰だって答えたくなくなるわよ。……ねえキミ、ちゃんと話してくれないと私たちだって困るのよ。キミの目的がいいものなのか悪いものなのか、私たちは今はなんにも知らないんだから。話してくれたら分かることだってあると思うの。だから、聞かせてくれない?」
 人が変わったように優しく聞くのはサラだ。さっきは思いっきり短剣投げてたくせに。やっぱりあなどれんぞ、この童顔少女は。可愛い顔して何をするか分かったもんじゃない。
 そんないささか不自然なサラの問いにも黒ローブは答えなかった。ずっと沈黙を守るつもりだろうか。なんか、だんだん腹が立ってきたぞ。あれだけ人騒がせなことをしておきながら、そしてあんな嫌がらせみたいなことを言っておきながら、自分がやばくなったらだんまりだなんて。それって結局、ただのエゴじゃないかよ。
「おい、お前」
 試しに呼びかけてみたものの返事はない。予想はしていたけど、決して心地いいものなんかじゃなかった。
「嫌なら事情なんか話さなくたっていい、別に俺は興味なんてないからな。けど、名前くらい名乗れよ」
 喋り終えると隣から痛い視線を感じた。何だよ、本当に事情なんざ興味ないんだから。それにこいつは俺のことを狙ってたんだからお前らにゃ関係ないだろ? 関係ないことにいちいち首を突っ込んでほしくない。……と素直に言えばいいのに言えなかったのは、ようやく掴めそうな機会を逃したくなかったからだ。
 黒ローブは少し顔を上げた。そのままゆっくりと顔を持ち上げ、俺に視線をぴたりと合わせた。
 光のない薄い青色の瞳が俺を見ている。
「私の名前は……ルイス」
 その両目からはまだ、涙が流れ続けていた。

 

 

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