27

 全てを受け止めなくてもいい。
 全てを愛さなくてもいい。
 本当に必要なことは、もっと他にあるはずだから。

 

 四階に辿り着くと二人の姿が見えた。銀髪少女は司教の隣で無表情のまま立っており、赤い髪の司教様はなぜだか知らないが床にしゃがみ込んでいた。両手で顔を覆っており、そこからは司教である威厳など少しも感じられない。
「司教、何してんだ」
 ヴィノバーの声に反応して司教様は顔を上げた。手で隠されていたその表情は、もしかしたら純粋な悲しみだったのかもしれない。しかし今では別のものに塗り替えられていたので、俺には何一つとして分からないままだった。
「ヴィノバー、こっちに来なさい」
「ん」
 怪我だらけのヴィノバーは俺とキーラから離れ、一人で司教の傍まで歩いていく。どこからどう見ても怪我人のはずなのに、普段と変わらないように歩くからとてもそうは思えないんだ。
「さあ、お前も彼女に謝るんだ」
 何やら不可思議なことを言った司教は、俺が驚く暇もなく、隣に立っていた銀髪少女に向かって頭を下げた。彼は床に座り込んだままだった。その様はもはや土下座のようにしか見えない。
 リザという名の銀髪少女は黙っていた。黙って土下座する司教を見ていた。顔にはいつも通りの表情しか浮かべない。しかしその瞳の中には、確かな光が宿っているように見えた。
 俺はますます分からなくなってしまった。なんで司教やヴィノバーが謝る必要があるんだろう。別にあいつらは悪いことなんて何もしてないだろ? そりゃ喧嘩はしてたけどさ、それだって相手がリザだったわけじゃない。意味が分からない。変なことばっかりだ。司教様だけは常識があると思っていたのに。そんな簡単に、偉い人間がただの修行僧に土下座なんかしてもいいのか。
「ごめん、リザ――」
 言われた通りにヴィノバーは謝った。土下座はしなかった。ただそっと手を差し出して、握手を求めているように見えた。
 時が止まる。
「お前の謝罪の言葉など聞きたくもない」
 怒ったような声でそれだけを言うと、リザはさっさと階段を下りていってしまった。
 取り残された俺たちにはどうすることもできない。しゃがんだままの司教は顔を上げた。ヴィノバーは手を下ろした。二人ともリザの消えた階段の方を見ているだけで、彼女を追いかけようという意思はないようだった。
「なぜ……」
 ふっと静寂を破ったのは、小さな小さな司教の声。
「なぜなんだ……」
 消え入りそうな声で呟く様は、どうにもこうにも見ていられない痛々しさがあった。
 こっちが泣きそうになってくる。やっぱり駄目だな、俺は。
「なぜ私の代だけでこんなにも問題が起こるんだ!」
 突然勢いよく立ち上がる司教様。そして腹の底からの叫び。
 いやちょっと待って。何か変なこと言ってなかったか、この人。
 司教はくるりと方向転換し、俺たちに背を向けてすたすたと部屋の中を歩いた。そして机のところに辿り着くと、大きな音を響かせて机を叩いてしまった。
 なんだなんだ、何が始まるってんだよ一体? いつものあの落ち着きはどこに行ったんだこの人は?
「そうだ――私の父の代では驚くほど何もなかったというのに、毎日平和に祈ってりゃ一日が終わっていたというのに、なぜ私の代になってからこんなにも問題が山積みになってしまったんだ!」
 誰に言うでもなく声を上げる司教様。きっと俺たちがいることなんて完璧に忘れているだろう。何、この人、怒ってんの? それとも嘆いてんの? どっちにしろ俺には口出しできない。つーか普段の司教の姿を知ってる人には絶対に無理だと思う。
 机から手を離した司教はまたふらりと歩き出し、今度は窓の近くで立ち止まる。
「最初は、そう――私が父の跡を継ぎ、司教になって一年も経たない時だった」
 あ、なんか語り出しちゃったよこの人。
「町に魔物の集団が押し寄せてきて大変だった。なんとか退けて安心したのも束の間、その混乱に乗じて盗人が現われて町や大聖堂を荒しまくっていったんだ」
 そりゃまた災難でしたわねぇ。
「そして町の大飢饉、ヴィノバーの暴走、いじめ問題、新興宗教、宣戦布告、コルネス司祭……。ああ、やっぱり私は司教に向いてなかったんだ!」
 語り終えた司教様は窓の外に見えるお空に向かって何やら叫んでいた。そしてまたくるりと方向転換し、ヴィノバーの元へふらりふらりと酔っぱらいのように歩いていく。
「うう、ヴィノバー!」
「な、泣くなよ司教」
 床に膝をついてヴィノバーの両手をぎゅっと握りしめた司教様は、ぼろぼろと大粒の涙をこぼしていた。それをヴィノバーが慰める。どういう図だよこれ。挙句の果てにはヴィノバーが司教の頭をなでる始末だ。
 もう俺たちのことなんて頭の中に残ってないんだろうな。ヴィノバーにすがりついて大泣きする高貴な人の姿は、どこぞのいじわるされた子供のようにしか見えなかった。いつも垣間見せていたあの情けなさが一気に増幅されたようで、でも本当はまだまだ背伸びをしていただけだったのかもしれない。だってこの人って司教って言ってもまだ三十歳にも満たないらしいし、大人と呼ぶにはちょっと早すぎたような、そんな気がするんだ。それなのに司教だなんて偉そうな地位について、多くの人の注目を浴びて、親の代より多くの問題に直面したとかいうのはどーでもいいけど、司教としての自分を必死に作り上げてたのかもしれない。真面目そうな人だし、神を信じるような純粋な人だから、頑張ろう頑張ろうって自分に言い聞かせて、嫌なことも嫌と言えずに生きてきたのかもしれない。それって全部推測にすぎないけどさ、子供のように泣いてる姿を見ていると、きっとそうなんだろうなって思えてくるんだ。やっぱり苦労していたんだろうなぁ。俺には想像できないような苦労も味わったんだろうな。そんな彼を慰めてやれるのは、ヴィノバーしかいないんだろうな。彼のことを分かってやれるのは、すぐ傍にいるヴィノバーだけなんだろうな。
「ヴィノバー、お前だけは、お前だけが、頼りなんだよ」
「な、何だよ突然」
 少しばかりヴィノバーは戸惑っているようだった。今まで司教のこんな姿を見たことがなかったんだろう。だけど戸惑っていても、ちゃんと彼の言葉を聞いていられるようだった。聞いて、返事をして、受け止めていられるようだった。
「どうか私の前からいなくならないでくれ。どうか私の手を握っていてくれ。こんなものはわがままだってことは分かっている。由緒正しき大聖堂の司教がすることじゃないってことも分かっている。だけど、でも。本当に、もう何を信じていいか分からないんだ。昔、お前がいじめられていることを知ったあの日、私は修行僧たちを叱ってしまった。そしてその件はもう終わったものだと勘違いしていた。それなのにまだ続いていて、お前が苦しんでいることも知らないで、私は修行僧たちのことを信じ切っていたんだ。彼らはとてもいい人だと。とても優しくて、ヴィノバーも彼らと仲良くやっているんだろうって。ありもしない事実を勝手に作り上げて、それを後生大事に抱えて、自分の目で見て確認しては安心していたんだ。お前が私に本当の事を言えないことさえ、私には分かっていたはずなのに。私はお前を見てやることができなかった。見ることさえできなかったんだ! それなのに私はお前を大切に思っている。こんなこと、言って許されるわけがないだろうが、私はこの大聖堂にいる他の誰よりも、お前のことを大事に思っているんだよ。お前のことを、守ってやりたいと思っているんだよ。守ってやりたいのに、受け入れてあげたいのに、結局私は、お前を理解することもできずに、ただ怯えて暮らしていただけだったんだな」
 なんという人だろう。
 俺は、少なくとも俺はまだ、こんな人間を見たことはなかった。
 それ故、心の奥から悔しさがにじみ出てくる。
「私は……お前を恐れているんだ、ヴィノバー。あの一件が多くの人々を恐れさせたのと同じように、私もまた、お前のことを恐れてしまっているんだ。情けない奴だと笑ってくれても構わない。だけど、だけど、私はお前を嫌ったりはしない。拒絶したりはしない。たとえどんなことが起きようとも、お前を傍に置いておきたいんだ。だから――情けない私には、お前を外に出してやることができないんだ。お前が外に出て、知らない場所へ行って、そこで何らかの刺激を受けて、暴走してしまうことを恐れている。またお前が多くの人を傷つけてしまうんじゃないかって。多くの人の命を奪ってしまうんじゃないだろうかって。そう考えたら、お前を外に送り出すことができなくなってしまったんだ。無論、いつまでもこんなことを続けるべきじゃないことは分かっている。いつかはお前も外へ出て、いろんなことを自分の目で見て、いろんなものに関わらなければならないんだと分かっている。……でも私は怖いんだ。お前の暴走が怖いんじゃない。お前が皆から嫌われるのが怖いんじゃない。怖いのは、私が本当に怖れているのは、お前が私の知らない場所で、消えてなくなってしまうことが一番怖いんだ」
 ヴィノバーを取り巻く話の根底が、なんとなく見えてきた気がした。でも今はそんなことはどうでもよかった。
 俺はなんだか驚いていた。目の前がぼやけていたから、どれくらい驚いていたかは分からなかった。司教が言った「怖い」という単語が俺を驚かせた原因だった。だって自分が大事にしている人に向かって、「怖い」なんてことを俺たちは言えるのだろうか?
 もし大事な人のことを怖いと思っても、大概の人は嘘をつくだろう。相手に対して、あるいは自分に対して。そんなことを言ったら相手を傷つけると分かっているし、怖いと思っていることを否定したくもなるだろう。なのに、ここにいる子供のような司教はそうしなかった。多分、本当に思っていることを言ったんだろう。でもそれって……相手を遠ざけてしまうんじゃないの? 嘘を言わないのはいいことだけど、時には嘘をつかなければならないことだってあるはずなのに。
 ――違う。
 違うんだ。きっと違うんだ。そういうことじゃないんだ。そんなことなんかじゃ、なかったんだ。そして司教はそれをちゃんと知っていた。理解していたんだ。
 これが司教である威厳かな?
「わがままばかりを言って、ごめんな。お前は外に出たがっているのに、私は駄目な親だな。駄目な兄だな。いや、もう家族にさえなれないのかもしれないな。そんな私を、お前は許してくれないだろうな。決して許してはくれないだろうな。ああ……! 私は、なんということを……」
「何言ってんだよ」
 ヴィノバーは床にしゃがみ、司教と目線を合わせる。
「あんたはいつも、どうしようもない俺の悪戯や、明らかに俺が悪い喧嘩や、俺が物を壊しちまった件なんかを全部許してくれたじゃねーか。それに俺だってあんたのことを大事に思ってる、つーか尊敬してるから。だからそれくらいであんたのことを嫌ったり、許さなかったりすることはねえよ。外に出たいってのは本当だけど……けど、あんたがそう思ってんのなら、我慢するよ。出たいって気持ちは変わらないけど、やっぱり俺だって、あんたを心配させたくはないから。あんたには笑っていてもらいたいから」
 にこり、と笑う。その顔はとても綺麗。傷だらけで血で汚れているはずなのに、不思議なほど綺麗なんだ。
「ありがとう……」
 司教は目を閉じて、ヴィノバーの体を抱きしめた。それは全くゆっくりした動作じゃなかったが、ヴィノバーは当然のようにそれを受け止めていた。
 穏やかな時が流れていた。
 ふと隣から肩を叩かれる。そちらに顔を向けると、黙ったままのキーラがいた。少し真面目そうな顔で俺を見て、静かにゆっくりと首を横に振った。それを見て俺は一つ頷いた。そうするとキーラは口元を緩ませた。
 自然に俺も微笑んでいた。くるりと踵を返し、階段を下りていく。もやもやした気持ちでいっぱいだった時に通った道を、今は清々しく優しい気持ちで辿っている。この建物の中では決して味わえないだろうと諦めていたものを、俺は全身全霊で感じ取っていたんだ。
 客室に戻ると椅子に座った。相変わらず座れる場所が椅子しかないんだ。こうなったら寝る時は司教に抗議しに行かなければならないな。
「よかったな」
 俺の隣の椅子に座りながらキーラが言う。
「何がよかったんだよ? まだ何も解決してないのに」
「いいや、解決したさ」
 それだけを言ってキーラはにこりと笑った。心の底からの嬉しそうな顔。もしかしたらこんなものを見たのは、これが初めてなのかもしれない。
「そっか」
 笑いかけてくれることが、こんなにも救われることだとは思わなかった。
 これをいつか誰かに教えてあげよう。この幸せは、たくさんの人に味わってほしいから。

 

 

 全てを受け入れなくてもいい。
 全てを許せなくてもいい。
 本当に必要なのは、何よりも素直に接することなんだ。
 だから人は分かり合うことができる。
 だから人は幸福の色を知る。
 たとえそれで身を滅ぼすことになったとしても、後悔せずに全てを理解できるだろう。
 それって、とても素晴らしいことだと俺は思う。
 顔も知らない他の誰かも、俺と同じことを考えているかもしれない。
 そして知らない人はどうか気づいてほしい。自分の力で、自分の考えで。
 きっとそれこそが真の幸福に繋がるだろうから。

 

 

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