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今ここで微笑んでいられるのは。
今ここで何かを守ることができるのは。
居心地の悪かった空間も、気持ちの持ち様だけですっかり変わったように見えるから不思議だ。今ではもう煌びやかすぎる机やタンスに目が慣れてしまい、シャンデリアが天井から降ってきたとしてもきちんと対処できてしまいそうな気がする。
ラットロテスの客人用の部屋にはベッドが持ち込まれていた。気の利いた司教様がベッドがないことに気づき、無口な仮面門番をこき使って一階からここまで運ばせていたんだ。あの門番野郎もやっぱり司教には逆らえないらしい。見た目だけじゃ全く神とか信じてなさそうなのに、ここにいるってことは信者の一人ってことなんだろうか?
「アカツキ、キーラ」
「お、ヴィノバー」
そうやって手に入れた心地よい空間の中でゴロゴロしていたら、ひょっこり現れたヴィノバーに誤った名前で呼ばれてしまった。いやもう慣れたけどさ。キーラがそう呼びまくるから、すっかり俺はアカツキ君呼ばわりよ。まあ未来で本名を教えたところで意味はないと思うけど。
「あんたらさ、いつまでもここにいても仕方ないんじゃねーの?」
「なに、ヴィノバーくんってば俺たちを追い出すつもり? のけ者にするつもり? いじめだ、これは誰が何と言おうといじめだ! うわーん司教様助けてー!」
「てめえ……海に放り投げるぞ」
ちょっとからかっただけでも死体運びの兄ちゃんはキレる。キレるったらキレる。いっつも怒ってるんじゃないかって思えるほどすぐキレる。そのくせ、普段は話しかけるとにこにこして答えてくるから、面白いんだ。
「というのは冗談として。何か用?」
「おっとそうだった。あのさ、二人とも、一緒に手伝ってほしいことがあるんだ」
「む」
怒りがすっと消え、途端に真面目そうな顔になる相手。くるりと変わる表情は、いつ見ても見事なもんだ。
よく見てみるとヴィノバーはその手に紙切れを掴んでいた。司教様から渡されたメモだと推測される。手伝いと言って思い浮かぶのは、いつか驚かされたことのある墓掘りだ。また穴でも掘れと言うのだろうか。
「俺さ、司教のおっさんにおつかいを頼まれたんだ。例の新興宗教の教祖って奴に手紙を届けてくれって。それで、本当なら大聖堂の誰かと一緒に行ってもらうはずだったけど、ほら、あんなことがあった後じゃん? あれで司教のおっさん、かなり怒ってるみたいでさ。だから本来一緒に行くはずだったメンツをボツにしたんだそうだけど、そしたら俺一人だけが行くことになっちまうだろ? それだけは駄目だから、あんたらに頼んでみろって話なんだ」
なんだかややこしそうなことをヴィノバー殿はおっしゃっていた。つーかそれならヴィノバーに行かせないで他の奴に頼めばいい話じゃん。なんでわざわざそんな面倒なことを。
なんて、分かってるけど。司教はきっとヴィノバーを外に出してやりたかったんだろう。遠回しな親バカだな。
けど。
「アカツキよ、いい機会ではないか。この時代の事情を知るチャンスだぞ」
「別にこの時代の暗雲に興味はねーけど。ずっとこの大聖堂にいるってのも暇だから、行ってもいいぜ」
とても頑張っていたから、俺も協力してやろうって気になってきたんだ。それにどこか共感できる部分があるから。
「本当に? 本当に、いいのか? 結構遠いぞ?」
え、遠いの。
……って駄目だ駄目だ、俺はもう行くって決めたんだから。そう、距離なんか関係ない、関係ないんだ、関係ないはず。
でも遠いって。どれくらい遠いのヴィノバーくん。
「あんたら知らないと思うから言っとくけど、ここは一応島なんだ。まあまあ広い島だけど、大陸と比べたら雲泥の差。だからどこに行くにしても必ず船が必要になってくるんだ。あんたら、船には乗れるのか?」
「失礼な。船くらい乗ったことあるもんね」
いくら俺が現代っ子で家にこもってばっかだったとは言え、学校の行事やら何やらで船には二、三回くらい乗ったことがある。俺をどこぞの引きこもりのように扱うのはやめなされ。
しかしヴィノバーって結構物知りだな。疑心暗鬼にしろ雲泥の差にしろ、一般の会話でポンと出てくるような言葉じゃないものがよく出現する。なんか司教様はヴィノバーが子供時代に聖書を全部暗記したとか言ってたけど、それもあながち間違っちゃいないってことなんだろーか。ふむ。
あれ。ってことは何? こいつって頭いい系? 単純で正直な奴ってのは馬鹿って決まってるものなのに。裏切りやがって、こん畜生!
「船に乗れるなら安心だな。ほとんど海上での旅になると思うけど、まあ危険が伴うものでもないだろうし。あ、でも魔物だけには気をつけろよ? 海の中にも魔物はいるんだから」
それだけを言うとヴィノバーはさっさと部屋を出ていった。かなり上機嫌なままで、輝かしい笑顔を見せながら。こっちまで嬉しくなるような、不思議な感覚を覚える。
だけどこういうのは嫌いじゃない。本当に、まだ何も解決してないはずなのに、なんでこう穏やかになれたんだろうな。……いや分かってるよ、分かっていますとも。俺とキーラはあくまでも過去の人。ここですべきことと言えば、そう――俺たちをこんな所に飛ばしたルイスを見つけて、一発思いっきりぶん殴ってやることだ。そして聞いてやる、なんでこんな馬鹿げた真似をしたんだって。そうじゃなきゃ報われない。報われないと、さらに苛々してくるから。
しかし「旅」か。こりゃますますどこぞのゲームみたいな展開になってきたな。あれ、でもいきなり船ってのはおかしいか。普通のRPGじゃ、最初は淋しく徒歩で目的地に向かうはずなのに。
「アカツキ」
「何だよ」
いい加減やめろって言いたくなる名前で呼んでくるキーラ。お前のせいで俺は本名を名乗ることすら許されないんだ。
「船に乗るには何か必要なのか?」
「は?」
何言ってんだこいつ。
「私は船に乗ったことがないから分からないのだ」
そしてさらりと怪しげなことを言う大僧正様。
忘れてたけどこいつってモヤシなんだった。不健康なんだった。召喚の勉強ばっかりして性格までおかしくなっちまった、生粋のひきこもり生活を送っていた大僧正だったんだ。よく考えればすぐにでも分かったはず。こんな奴が、わざわざ船に乗ってどこかに出かけるなんてことがあるわけなかったんだ。
けど俺に何を言えっつーんだよ。船に乗るのに必要なもの? そんなの俺が聞きたいんだよ。
「別に大丈夫なんじゃねーの」
「そうか、そうか。それなら安心だな」
俺の言葉を真に受けた相手は笑顔を見せてきた。
ヴィノバーの件が解決してから、こいつはなぜか笑うようになった。いや前から笑ってはいたんだけど、それはどっちかというと、偉そうで高飛車なむかつく笑みだったんだ。それが今は何だよこれ。どこぞの無邪気な小学生のような笑顔だ。こいつって歳いくつだ? 俺と同じくらいじゃなかったのか?
まあ、別に何だっていいや。そんなことは大して重要じゃない。今俺にとって重要なのは、ヴィノバーのおつかいに付き合わされるという事実だ。
……あれ、そういやそのおつかいって、いつ出発するんだろ。
「アカツキよ、私はもう寝るぞ」
「え、もうそんな時間?」
窓の外を見ると真っ暗だった。星すら輝いていない。こんなに暗くなっているなんて、ちっとも気づかなかった。
今日一日でいろんなことが起きた気がする。毎日が今日みたいな日だったりしたら、俺は過労死でもしてしまいそうな予感がして恐ろしい。まったく未来ってのは恐ろしい場所だな。いや場所じゃなくて時代か。
ん、場所と言えば。この時代にもレーベンスの町は残ってるんだろうか。もしそうだとしたらちょっと見てみたいな。あの植物園が、どんなふうに変化しているのかを。
さてもう眠ることにしよう。頭の中でごちゃごちゃと考えていても時間は止まることはない。それに取り残されないように、俺たちは眠らなければならないんだ。
+++++
「おっはよーう、二人とも!」
客人用の煌びやかな部屋の中。朝っぱらから妙にテンションが高い人が約一名いた。反面、こっちはとんでもなく眠い。なんでこんな朝からテンション高いんだお前は。
「さあ出発するぞ!」
ああ分かった。外に出られるから嬉しいんだな。なんて分かりやすい奴なんだ。……ってそうじゃなくて。
「腹減ったんだけど」
「そんなこともあろうかと、船の上で食べる弁当を司教のおっさんが作ってくれたんだ。これで満足だろ?」
え、弁当? 司教が? 手作り?
一気に目が覚めた。あの司教様がお料理? なんか不器用そうなのに。やたら家庭的な人だな、まだ若いのに。
「そーいうわけで。出発するぞ!」
無理矢理引っ張ってくれる死体運びの兄ちゃん。また服がのびる……と思ったが、今日は前の服を洗濯する為にと司教様が新しい服を貸してくれたんだった。これならいくらのびたっていいや。自分のじゃないから。
「待て、待て。まだ準備が整っていないのだ、慌てて出発しても仕方がないだろう」
「んだよ、別に何もいらねーだろ」
なんかもう疲れてきたな。出発さえしてないっていうのに。
キーラは部屋に放置してあった大量の本を両手に抱え、部屋の外に出ていった。まさかあいつ、あの本を全部持っていくつもりじゃねーだろうな? ……あり得る。普通にあり得る。船を沈める気かよ。
「ほらアカツキも、早く準備しろよ」
催促してくるヴィノバー君。準備と言われましても。元々俺は手ぶらでここに来たんだから。
そーいやキーラが勝手に買ったつるはしがあったっけ。ついでにあれを持っていこう。どこかで役に立つかもしれない。備えあれば憂いなし、ってヤツだ。
壁に立て掛けてあったつるはしを掴み、部屋を出て廊下を歩く。後ろからは機嫌のよさそうなヴィノバーがついてきていた。まだ朝も早いので、大聖堂内はしんと静まり返っている。これでもっと暗かったらお化けでも出てきそうだ。
一階に下り、大聖堂から外に出ると、淡い光が世界に満ちていた。朝の空気ってのはどうしてこう、不思議なくらい清々しいんだろう。俺は朝早くからジョギングとか面倒そうなことをする奴じゃないけど、高校に通っていると嫌でも早起きをしなければならない。そういう時に外に出るとまず寒気を感じるけど、それに慣れてきたら今度は清々しくなってくる。
どこの世界でも、いつの時代でも、感じるものや人間の考えはそんなに変わらないらしい。美しいものもあれば醜いものもあり、優しいところもあれば酷いところもある。それぞれ相対するものが存在するってことだけは、きっといつになっても変わったりはしないんだろうな。そして俺たち人間は、知識を持ってしまったからこそ、それらに振り回されながら生きなければならないんだろう。
「何やってんだよ、船は山道を下りた先だぞ」
朝の光を浴びてますます機嫌がよさそうなヴィノバーが後ろから言う。そして背中を一押しされた。
仕方なしに歩き出す。またあの山道を通らなければならないのは辛かったけど、今だけはそれほど苦痛に思えなかったんだ。朝ってのは何でもできそうな気がするからさ、そこに希望を見出したりするんだろうな。
自分でも驚くくらい前向きになってきたぞ。船でも何でもどんと来やがれってんだ。この前向きさが消える前に全てを終わらせてしまおう。つーかそろそろソルお兄様に会いたい!
しんと静まり返っている空間を二人で歩き、風が全身を優しく包み込む。前は下ばかりを向いていたけど、今は空を見上げることだってできる。
綺麗なものは何だろう? 汚いものは何だろう?
そんな問いに答えられるほど、全てを理解している人などいないんだ。