30

 そして見えたのは、変わらない暗闇だった。

 

 頭上に圧力が加わる。反射的にそれを払いのけようと手をのばしたが、何か硬い物に触れたような感覚だけが手に残った。明らかに得体の知れない物が頭の上に乗っているようだ。
 そいつを無理矢理押しのけようと頑張っても、硬く硬い何者かは頭にくっついて離れない。俺の力が弱いとでもいうのか、いい加減頑張るのも無駄のように思えてきた。
 だらりと手を下におろすと、今度は足に何かがくっついてきた。そちらに目線をやると、気色の悪い大きな虫みたいな生き物と目が合う。硬そうな体に、痛そうな棘のついた足。そいつはどう考えたって海に生息してなさそうなのに、どうやら海を住みかとする魔物のようだった。
 ぼーっと相手を観察していると、ざばざばと海から魔物が出てくるわ出てくるわ。しかも同じ種類の気持ち悪い虫みたいな奴ばっかりで、集団で船を沈めようって魂胆らしかった。そいつらは勢いに任せてこっちに飛びついてくる。あっという間に船の上は魔物の足場へと化し、俺の体にうじゃうじゃとたかってきたから気持ち悪いったらありゃしない。
「へ、ヘルプミー!」
 こんな状態じゃ誰だって助けを求めたくなる。いくら俺の体が鋼鉄だからといって、目に見えるものだけは防げないから仕方がないんだ。
 魔物の発するガサガサという音に紛れ、ばきっと何かを壊したような音が近くから聞こえた。それと同時に少し体が軽くなる。
「ちょっとじっとしてろよ――」
 聞こえるのはヴィノバーの声。ああ、優しい修行僧の兄ちゃんが俺を助けてくれようとしているんだ。なんて頼もしいお人好し君なんだろう!
 そうやって感動しているのも束の間、この死体運びの兄ちゃんは、例のあの自作聖書で魔物を吹っ飛ばしているようだった。そんなことしていいんだろーか。あんなにあの聖書のことを大事そうに抱えてたのにさ。それって矛盾じゃないの、ねえ。
「アカツキ、ヴィノバー! 伏せろ!」
「えっ何……」
 後ろの方から聞こえた大僧正様の声に質問しようとすると、近くにいたヴィノバーに背中を押されて無理矢理体を倒された。そのせいで腹にくっついていた魔物を見事に潰してしまう。独特の感触が腹に伝わってきて、もうどんな反応をしていいのか分からなくなってしまった。とにかく気色悪いんだよ、こいつらは!
 魔物にぞっとしていると頭上で何かが光った。それも一回きりじゃなく、何度も何度も鬱陶しいほどに。これはあれだ、稲光みたいだ。俺、雷とか嫌いなんですけど。
「さあ、終わったぞ」
 そして間の抜けたようなキーラの声。
 むくりと起き上がると、船の上が真っ黒になっていた。魔物の図体の黒に、船の木が焦げた黒。おまけに荷物が焦げた黒。真っ黒の領域。……。
「おいこらテメー。何しやがったんだ」
「雷の異界の者を召喚して、魔物を倒してもらったのだ」
「それでなんで船や荷物まで倒してんだよ馬鹿!」
「え?」
 笑った顔のまま首を傾げるキーラ殿。こいつは俺の言ったことの意味が分かっていないらしい。
「ヴィノバー、これをどう思うよ」
「真っ黒だと思う」
 修行僧の兄ちゃんは変な返答をしてくれるし。いや間違っちゃいないけどさ。
「とにかくこの魔物を海に葬ろう」
 船が沈みそうなほど乗っかっている気色悪い魔物を蹴り飛ばし、海にぼとぼとと落としていく。こういう時に小さい船だと助かるもんだ。間違えて荷物を落としそうになったりしてちょっと焦ったが、三人で掃除するとあっという間に黒焦げ船の船底が見えたのでほっとした。
「なんということだ、真っ黒ではないか!」
「だからそれをお前がやったんじゃねーかよ!」
 本当に大丈夫なのか、この大僧正。
 しかし船底の焦げ方にはムラがあった。俺やヴィノバーが乗っていた場所は綺麗な木の色をしていたし、魔物が隙間なく陣取っていた場所なんかも元の色のまま変わっていない。これはなんだか、ヘビースモーカーの自室みたいな現象だ。壁はヤニで黄色く変色していくのに、カレンダーをかけてあった場所だけは元の色のままで、翌年になってカレンダーを変える際にその悲劇に気づくという、あれ。そいつを知った人間はタバコ嫌いになる確率大。俺もまたその一人なんだ。
「あの魔法使いの言ってた通り、丈夫な船なんだな」
 俺の隣でヴィノバーがそれだけを言い、すとんと船の上に座り込んだ。俺も真似して横に座った。そしたら大僧正様も座り込む。
「うっ!」
 座った途端、キーラが変な声を出して口元を手で押さえた。その動作から連想されるものといえば。
「ちょっと待て、吐くなら海の上に吐け!」
 明らかに船酔いだった。

 

***

 

「陸だ!」
「そおだね」
「いいか、休憩はちょっとだけだからな」
 俺たちは小さな小さな島に上陸していた。その理由はもちろん、船酔いした不健康なキーラ君に休息を与える為だ。それにしてもこの島は小さかった。近くに建造物が壊れたような跡が見えるだけで、その向こう側にはもう海が広がっている。何十歩か歩いただけで一周できてしまいそうなほど小さい島だ。まるで庭だな。
「ここには神殿が建っていたのだろうか」
 船酔いしているはずのキーラは元気そうに建物跡に歩いていった。お前、回復すんの早すぎだろ。俺たちをからかってんのか。
「こんな所に島があったなんて知らなかったな。地図にも載ってないみたいだし」
 船の上で荷物を整理しながらヴィノバーがぽつりと漏らす。そりゃこんなに小さな島なら地図に載ってなくても不思議じゃないでしょうよ。RPGとかじゃよくあるパターンだ。地図に載ってない島にはとんでもない秘密があるとかないとか。
 ……なんかやばそうな展開だな、これ。背中に冷や汗かいてきた。
「ね、ねえヴィノバーくん。そろそろ出発した方がいいんじゃないの?」
「でもキーラが」
「あいつならもう超元気そうにウォーキングしてんじゃん!」
 改めて大僧正様の様子を窺うと、しゃがみ込んで建物跡をまじまじと見つめているようだった。考古学者じゃあるまいし、そんなことしたって無駄だと思うんだけどなー。
「確かに元気そうだな」
「だろ? だろ? だからもう行こうぜ、なあっ」
 俺の言葉を聞いたヴィノバーはしばらく黙っていたが、すっくと立ち上がってキーラのいる方へと歩き出した。建物跡の壁みたいな白い物体の前に辿り着くと立ち止まり、キーラと同じように崩壊した建物の有り様を凝視しているようだった。
 これは、ますますやばい展開になったりしてない?
「ちょっとそこのお二人さん。何してらっしゃるの?」
 まるでどこぞのおばちゃんのように話しかけ、注意をこっちに向けるように仕掛けてみた。素直な二人はそれだけで俺の顔を見てくれる。まあそれは嬉しいんだけどね、問題はそこじゃないんだよ。
「そうだな――うん、よし」
 ほらまた意味不明なことを言ってくる! これだから不安は膨らむ一方で、本当に消えてなくなることなんか一度だってないままなんだ。
「そんな疑うような目で見るなよ。ただちょっと、ここならゆっくりできそうだと思っただけなんだから」
 しかしヴィノバーは穏やかそうな顔をしていた。なんでこの状況で穏やかでいられるんだ。
「せっかくいい島に上陸したんだからさ、ここで腹ごしらえでもしておこうぜ」
 ああ、なるほどそういう訳。だから笑っていられるんだね。
 実際そう言われると俺も腹が減ってきた。朝食は船の上で司教様の手作り弁当を食べたけど、あれからもうそんなに時間が経ってたんだな。時計なんか持ってないから全然気づかなかった。……つーかメシって言っても、何が出てくるんだろーか。
 ヴィノバーは風のように素早く船の方へと戻っていった。そして黒い荷物袋を持って戻ってきた。小さい島だからあっという間だ。だからこそ警戒もせずのんびりできるんだろうけどさ。
「昼食はこれだな。司教のおっさんの手作り弁当第二弾!」
 妙ちきりんな名称と共に四角い箱を渡される。何なの、またあの司教様の手料理なの? いつの間にこんな大量に作ったんだよあの高貴な方は。司教って職はそんなに暇なのか?
「ほら、キーラも」
 死体運びの兄ちゃんはしゃがみ込み、ずっと建物跡を観察していたキーラにも弁当を手渡した。キーラはそれをすぐに受け取り、相手に一言かける。
「ありがとう」
 ……あれ。なんか違和感を感じるぞ。
「さあ、食うか」
 弁当を渡して用事がなくなったヴィノバーはこっちを向き、大僧正様の隣にぺたんと座った。地面にはみずみずしい緑の草が生えているので、服が汚れる心配はそれほどないと言ってもいいだろう。
 そういえば俺、さっき魔物を押し潰したんだっけ。あれのせいで服が汚れてたりするのかな。
 ちらと腹のあたりに目線を落とすと、ちょっとだけ服の白い部分が緑色に変色しているようだった。でも本当にちょっとだけだ。もっと気色悪くなってるかと思ったけど、これなら別に平気でいられる。それにこの服って俺のじゃないし。ゴメンね司教様!
 すでに黙々と弁当を食べているヴィノバーと向かい合う形で地面に座り、俺もまた腹ごしらえを開始することにした。ぱかりと弁当の蓋を開けてみると、きちんと整った中身が見事にぐちゃぐちゃにされたようなものが見えた気がした。
 しかしよく黒焦げにならなかったな、と感心しつつ、朝も食べた得体の知れない葉っぱを口に運んでみた。これがなかなか雑草っぽくなくて美味しいんだ。日本でよく食べるほうれん草とかニラとか小松菜なんかは、いかにも草って感じがしてあんまり好きじゃない。ところがこの名前も知らない異世界産の緑の葉っぱは、噛むと水分が口中に広がり、同時に独特の触感と甘さを堪能できる。見た目はギザギザしてて無駄に怪しげなのにさ、世の中偏見だけで生きちゃいけないんだって言われているような気がしたんだ。
「ねえこれって何の葉っぱなの」
 すでに完食しそうな勢いのヴィノバーに尋ねる。つーか早いなお前。
「ああ、それ? 珍しいだろ、魔法草なんだ」
 いや珍しいかどうかなんて知らないんだけどなー。
「……もしかして過去では珍しくないのか?」
「知らね」
 俺はあの世界の出身じゃないから、そういうことを聞かれるのが一番困る。ヴィノバーの質問に答えられそうな奴は建物跡の壁を背もたれにし、一人で黙々と弁当を食べていた。確か朝食の時も、騒ぐ俺とヴィノバーを無視して黙って食べてたような気がする。食う時だけは静かな奴っているよな。普段はあんなにやかましいのに。
「魔法草は今じゃもう店では売ってないんじゃないかな。栽培しようとしても簡単にできるような物じゃないし」
「そんな珍しい物を、なんで司教はわざわざ弁当の具にしたんだよ」
「そりゃお前、体力をつける為だろ」
 なんだか驚いた顔でヴィノバーは答えてきた。こんな葉っぱで本当に体力なんかつくのか?
 俺が果てのない悩みと戦っていると、食事を終えたヴィノバーが水筒の水を全て飲み干してしまった。このヤロ、朝食の時も無駄に飲みまくってたはずなのに、なんでそんなに水ばっかり飲んだりするんだよ。俺の分も残しておけよ。
「足りないなぁ……」
 かと思えばこんな一言。
「足りないって何が」
「水だよ水。俺、よく喉が渇くんだ」
「よく喋るからじゃねーの?」
 嫌味のつもりで言ったはずなのに、俺の言葉を聞いて死体運びの兄ちゃんは真剣に悩み出した。顎に手を当てて、あさっての方向を見るような目で空を見つめる。
「何も喋らなくても俺はよく喉が渇くんだ。体質の問題だと思うんだけど――」
「タイシツ? 何それ」
 意味が分からない。病気持ちならまだしも、体質って何だよ体質って。どこからそんな発想が出てくるんだ。
「あれ、司教のおっさんから聞いたんじゃなかったのか?」
 聞くって何を? ヴィノバーは分からないことばかりを言う。それで何回も驚かれていたら、こっちはどう反応していいか分からなくなってしまうのに。
「ああ分かった。俺に直接聞けって言われたんだろ」
「ん?」
 今度はどこかで聞いたようなことを言ってきた。司教の言葉を徐々に思い出してくる。懺悔のようでそうでない、痛々しかった言葉の数々を。
 恐れ。あの一件。命を奪う。――暴走。
「暴走って、何?」
 口をついて出てきたのは本心だったろうか。そんなの、誰にも分かりっこない。
 司教が心配していたこと。ヴィノバーを外へ出せない理由。彼を一人きりにできない訳。皆が彼を恐れて避ける、そもそもの原因。
 それが『暴走』だというならば、俺はそれを知りたいと思った。ただ一つ、それを聞くだけで理解できるのなら、俺はそれを聞きたいと思った。無論、知ってどうなるってものでもないし、聞いて理解できるとも限らないけど、あれだけ大聖堂で様々なものを見せつけられた俺たちには、彼の事実を知る権利だってあるような気がしたんだ。傍から見ればエゴイストだと言われるかもしれない。でも俺は、自分でも認めてしまうくらい、そういう奴なんだと分かっているから。
 ヴィノバーは俺の目を見た。俺の姿はどんなふうに映っているのだろう。欲の塊に見えたかな、それとも優しい少年に見えた? ……あり得ないな。
「嫌いになる――かもしれないけど」
 ようやく出てきた相手の台詞は、一気に鮮明さを増して頭に響いてきた。この言葉の群れもまた、司教の口から放たれたものと同じ意味を含んでいたんだ。それに気づくのに時間はいらなかった。俺のすぐ隣に司教がいるみたいだった。
『彼のことを避けるようになるかもしれない』
 初めて聞いた時、とても不愉快に感じられた一言。今ではそれが頭の中をぐるぐる回り、絶えず俺に謎を押しつけてくる。そんなものいらないのに。苦しめる為に言ったはずじゃないんだから!
 俺は耳を塞ぎたくなった。しかしそうしてはいけなかった。そんなことをしたら、ヴィノバーに対して失礼だから。何か大きなことを話してくれようとしている相手に、とても失礼だということを分かっていたから。だから耳も塞がず、目もそらさず、背も向けずに待っていた。彼の口から聞こえるはずの言葉を待っていた。
 それなのに、ヴィノバーは俯いてしまった。そして俺の望みを叶えてしまった。
 両手で耳を塞ぎ、顔を下に向けてうずくまる。息をする音さえ聞こえてきた。俺は驚いた。びっくりした。声が出なくなった。何か言わなければならないのに、何も言うことができなくなっていた。相手に近寄ろうとした。でも少しも動けなかったんだ。どうして。
 どうして。
 ……目に見えて分かるくらい、相手は震えていた。そして相手をこんな状態に追い込んだのは、他でもない自分自身なんだという自覚さえあったはずだった。
 後悔が俺を苛む。
「今は、まだ……このままで」
 聞こえてきたのはか細い声。違う、こんなものが聞きたくて、俺は――違う。
「まだ言えない。まだ、言えない」
 ますます小さくなっていく相手。違うのに。そうじゃないのに。こんなもの、聞きたくもなかった。聞きたくもなかったのに、どうして。
 暗闇に放り込まれた心地がした。
 どうしてと繰り返すたび、見えない何かに責められた。彼を追い込んだのは自分。彼にこんなことを言わせているのは自分。それは分かり切ったことなのに、どうしてと繰り返すのはおかしなことだった。なぜと言えども、どうしてと言えども、返ってくる返答は変わりはしない。それはたった一つ、自業自得だと俺を責め続けるだけだった。
 俺はそんなに悪いことをしたのか? 俺は相手を追い込むほど浅はかだったのか? 人間って、何を考えているか分からないから、必要以上に気を遣ってしまうんだって、誰かが言っていなかった?
「怖い……!」
 そう言って震えながら泣いた青年を、俺は救うことができなかった。ただ相手の感情の波が静かになるまで待ち続け、息をひそめて彼を見守ることしか俺にできることはなかったのだから。
 俺は目を閉じた。

 

 

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