32

 外の世界は思ったよりも広大だった。
 そこには多くの知らないことがあって、いつも驚いてばかりだったんだ。

 

 赤い炎に照らされた顔は、俺より年上の静かな瞳を持つ女性のものだった。長い髪を頭で一つに束ね、少し高価そうなローブを身にまとっている。見た目だけで判断するとすれば、この人は魔法使いのような格好をしていた。
「こんな所を通るってことは、あんたらはエンデ教の信者なのか?」
「エンデ教?」
 一瞬何のことだか分らなかったが、聞き覚えのある単語だったのですぐに思い出した。エンデ教ってのは確か、ラットロテスに宣戦布告をしてきた新興宗教とかいうやつのことだ。そいつらのせいでこんなじめじめした洞窟を通らなければならなくなった。つまり俺たちの敵ってことだな。
「勘違いをしてもらっては困る。我々はそのエンデ教の教祖殿に手紙を渡しに行っている途中なのだ」
「教祖に手紙を?」
「そうだ。その為はるばるラットロテスから船に乗ってきたのだから」
 なんでキーラが偉そうに事情を話さなければならないのかは知らないが、それを聞いた相手のお姉さんはとても驚いた表情をしていた。当然俺にはその理由なんて分からない。しかし知らないものに首を突っ込んでいく勇気は湧いてこなかった。仕方ないだろ、もう後悔はしたくなかったんだから。
 自分ってこんなに慎重な性格だった? そんなわけない、自分の為なら他人なんてどうでもいいっていう、自己中心的な人間だったように思える。それをすっかり変えてしまったのは誰だ? そして俺は変わることに抵抗すら感じなかったのか?
「ところでアカツキよ、ヴィノバーはどこにいるのだろう」
「へ?」
 大僧正様ののほほんとした一言によって一気に現実に呼び戻された。そうだ、確かヴィノバーは魔物の群れの中で行方不明になったんだった。もしかしたら魔物の死骸の下にでも埋もれてるかもしれない。なんてこった、そうだとしたら無茶苦茶不憫じゃないか。
 反射的に自分の足元を眺めてみても、真っ暗なので何も見えない。ただ少しだけキーラの持っている杖の炎で闇が照らされ、物の形がぼんやりと分かる程度にはなっていた。
「なあその火だけど。もうちょっと明るくできねーの?」
「これが限界だ」
 あっそう。期待した俺が馬鹿だったってか。
 もうため息が出てくる。どうしてこう、こいつは情けないんだろう。召喚ができるとしてもあまり役に立たないし、何より召喚する本人がこれじゃあなぁ。
「確かにその火じゃ暗すぎるよね」
 ふと傍にいた魔法使いのようなお姉さんが口を挟む。そうだよ暗すぎるんだよ。これで進めって言う方が無謀じゃないか。キーラ君はどうしてそれを分かってくれないのか。
「ちょっとそれ、貸して」
 お姉さんはキーラから杖を奪った。火を大きくしてくれるんだろうか。でもどうやって? やっぱりこの人は魔法使いなのか?
 杖を持ったお姉さんは目を閉じ、彼女の周囲にさっと光が集まった。しかしそれはほんの一瞬間だけで、ぱっと解放された白い光が杖の炎を取り巻いていく。小さな音と煙が火から出て、杖の上で燃えていたそれは一回り大きくなっていた。
 同時に周囲が明るく照らされていた。以前の倍以上はよく見えるようになっている。足元に転がる魔物の黒い死骸も、壁を伝うように落ちてくる水さえ見える。見える範囲が広がっただけで現実味が増し、別の世界に放り込まれたような感覚に陥った。
「これならとりあえず大丈夫、かな?」
 そして微笑む顔は、まるで天使のように見えて。
「ありがとうございますっ、姐さん!」
 なんて素敵な人なんだ。炎を大きくしてくれただけなのに、それだけで世界を一変させてしまった。きっと同じことをキーラがやっていたならこれほど世界は変わらなかっただろう。この人だからこそできたこと。そうだって信じていたい。
「ま、まあそれはいいけどさ。誰かが行方不明になってるんじゃなかったのか? 捜さないでいいの?」
「そうだ、ヴィノバー!」
 気分を切り替えてざっと周囲を見回す。ヴィノバーが消えた場所は確か……どこだっけ?
 視界が広がっても手がかりが増えたわけじゃない。そんなことは分かっていたが、魔物の死骸が隙間なく床を埋め尽くしているこの状況を見ると、途方もない探し物を目の前に立ち尽くす気分にしかなれなかった。
 ああ、でも捜さなきゃ。ヴィノバーがいないと俺たちがここまで来た意味がなくなる。意味を失う怖さなんてないけど、今の俺にはヴィノバーを失う怖さの方が恐ろしく感じられた。ようやく大聖堂の外に出られて喜んでいたのに、俺が彼を震えさせてしまったんだから。
 地面にしゃがみ込んで魔物の体に手で触れた。すっかり動かなくなったそれはひんやりと冷たい。ぐっと押すと音を立ててばらばらに崩れた。地面と同じように少し濡れていたので、何やら黒い粉のような物が手にべっとりとくっついた。
 気色悪い。でも我慢しなきゃいけない。別に俺一人の責任ってわけでもないのに、どうしてだか俺がどうにかしなければならないような気がしたんだ。だからこんなに必死になってる。人を傷つけた自分にはもう、光を見る権利がなくなったような気がして。
 たくさんの魔物の死骸を一つずつ壊していくと、壁のすぐ下の地面のところに穴が開いていた。その果てを探るとずっと向こうの方に見える。どうやら人一人くらいなら簡単に通れるほどの大きさらしい。ヴィノバーはこの穴の下にでも落ちたのだろうか。
 いや、でもなぁ。いくらなんでも目に見えている落とし穴に落ちるなんてことはないだろう。……と思ったけど、そうだった、あの時は真っ暗で足元なんてろくに見えなかったんだっけ。
「姐さん、ここに穴がある」
 近くにいた姐さんを呼び寄せる。しかし姐さんより先に呼んでもいない大僧正様がやってきた。なんでこういう時に限って行動が素早いんだお前。なんかむかつくぞ。
「穴が開いてるってことは地下があるんだろうね。下りてみる?」
「……どのような方法で」
「そりゃ、すとんと」
 姐さんはワイルドだった。
 確かにそのまま穴に飛び込めば、とても楽に下の階層に下りることができるだろう。しかしこの家にこもってばかりのインドア派である現代っ子に機転の利いた着地ができるであろうか。いいや無理だね、明らかに無理!
「すとんといくのか?」
「お前先に行けよ」
 俺の隣には俺より運動音痴そうな大僧正様がいる。こうなったらこいつを先に行かせて様子を見てみようか。……何気に酷いことしようとしてるな、俺。ちょっと反省。
「いつまでも悩んでても仕方ないだろ? あたしはもう行くよ」
「え? あ、ちょっと――」
 さらっと捨て台詞を残した姐さんは、俺が止める暇もなくぴょいと穴の中に飛び込んでしまった。穴の中は真っ暗なのですぐに姿が消えてしまう。着地したような音さえ聞こえてこなかった。
 しばし沈黙が流れる。この静けさが逆に恐ろしい。
「さあ行くのだアカツキよ!!」
「ぎゃあ!!」
 ぼーっとしていると大僧正様に腕を引っ張られ、そのまま穴の中に入ってしまった。キーラと共に落下していく。このヤロ、不意打ちとは卑怯な。
 底は意外と近かった。はっとするともう床が見えてきて、構える余裕さえないままに地面に激突した。痛いです。これ、どっか骨折したかも。今まで骨折しなかったことが何気に俺の誇りだったのに、どうしてくれるんだよ。
 満身創痍の体をなんとか起き上がらせ、周りの状況を確認してみる。さっきの落下で大僧正様の杖の炎は消えてしまったらしく、周囲はほとんど真っ暗だった。それでもどうしてだか見えるものがあって、そいつが何なのか確かめるべく歩いてみた。
 近づいていくとだんだん物の形がはっきりしてきた。
 洞窟の中なのに泉があったんだ。別にそれだけじゃ珍しくないかもしれないけど、天井から差し込む光で水面がきらきらと煌めいており、そこだけが明るく照らされていた。泉の周囲には緑の草も生えていて、ずっと奥の方には滝もあるらしく、水の流れ落ちる音が洞窟内に響いている。泉は小さな川となってどこかへ流れ出ており、暗闇の中へと足を伸ばして見えなくなっていた。
 そしてそこにヴィノバーがいた。すぐ傍の地面に自作聖書を置き、自分は泉の中に入っている。顔をぐっと上に向け、差し込む光を見つめているようだった。頭から水をかぶったのか、全身がしっとりと濡れているように見える。
 いつかの光景を思い出す。あの時も確か、こんな綺麗な表情で、じっと黙って光を見ていた。彼にははっとするような美しさが時折現れる。そんな時は決まって何も言えなくなってしまうんだ。
「あの人が……そうなの?」
 俺の横に姐さんが歩いてきた。その表情はどこか驚きに似ている。しかし明らかに困惑しているようだった。俺にはどうしてこの人が困惑するのかということが、必要以上に分かってしまったような気がした。
 さらに歩いてヴィノバーに近づいてみる。すぐ近くまで行ったのに、彼はこっちに気づかなかった。もしかしたら気づいているのかもしれないけど、俺に対する反応は何一つとして見せてこないんだ。
 どうしようもなくなって立ち止まってしまう。
「誰かを傷つけるような人間には、光を見る権利すらない」
 ――まさか。
 天を見上げる彼の口から声が零れた。
 だけど、そんなことって。
「そうだと分かっているのに、駄目だな、俺は。どうしてもこの欲望を抑えることができないでいる……」
 かすれた声でそれだけを言い、ヴィノバーは静かに目を閉じた。
 そのまま何分かが経過する。
 実際はほんの数分しか経っていなかったんだろうけど、俺にはこの数分間が恐ろしく長く感じられた。聞こえてくるのは滝の音だけで、生命の息吹すら感じ取れない。何もかもが止まったような錯覚に陥った。そしてそれからは二度と解放されないような気がしたんだ。
 黙ったままでヴィノバーは目を開いた。そこに確かに宿るのは、何かを悟ったような大人の持つ光。
 背筋がぞわっとした。
「ああ、あんたらも来てたのか」
 今度は目が合った。とても綺麗な瞳だった。その目に俺はどんなふうに映るのだろう。これほど綺麗な目をしてるのに、なぜ人々はそれを見ようともしない。
 泣きたくなってきた。でも泣いてはいけなかった。泣いたりしてはいけないんだ、絶対に。あの時にそう決めたはずだから。
「やっぱり俺は、水の傍にいると安心できるんだ。この洞窟内にこんな場所があって、本当によかった」
 たくさんのものが溢れ出してきて、それら全てを抑えるのに大変な労力が必要だった。これはもう自分の責任だとか後悔だとか、そういったものを越えたところから出てくるものなんだろう。そんなものをどうにかしようとしたところで、結局はどうにもできずに終わるんだ。俺たちは非常に不器用な生命なのだから。
「水は、君に何をもたらすのか?」
 ふと気づけば隣にキーラがいた。いつになく真面目そうな、それでいて普段通りの表情で相手に質問する。
 彼は、何を答えるだろうか。
「水が俺に何かをもたらすんじゃない。俺は――そのものでもある、らしいから。だって俺、精……れ……の」
 水しぶきが飛び散る。
 最後まで言葉は続かず、ヴィノバーは水の中に倒れ込んでしまった。その時に聞こえた水しぶきの音が俺を現実に呼び起こし、意識的にヴィノバーの元へ駆け寄っていた。
 泉の中に沈んだヴィノバーを地面に引きずり出す。体中が冷たくなっており、目も閉じられていたので、死人のように感じられてとてもびっくりした。
「このままじゃ風邪ひくよ、この子。まずは服を脱がさないと」
「あ、うん……」
 姐さんに言われた通りにヴィノバーの服を脱がせる。すっかり水浸しになったそれを着ているままだと、泉の中にいる時よりも体が冷えてしまいそうに思えた。ヴィノバーの服は上半身と下半身が繋がっているようなものだったので、とりあえず上半身だけをはだけておいた。すると姐さんが自分の着ていたローブを脱ぎ、ヴィノバーの上にふわりとかけてやった。
 近くでキーラが再び杖の上に火を乗せていた。それによって冷たくなった俺の手も、ヴィノバーの体も、何もかもが温まってくれればそれでいいと思った。それ以上に望むものなど何もないはずだった。
「大丈夫。気を失ってるだけみたいだ。きっと休んでれば目を覚ますよ」
 優しい言葉を姐さんは与えてくれる。でも俺に必要なのはそんなものじゃないはずだった。そういうことは分かっているのに、具体的なものは何も浮かんでこない。俺は何を求めているのか、自分でも皆目分からなかったんだ。優しさが嬉しくないわけがないのに。
 もういっそ、何も要らないと言える自分になりたかった。だけどそれすら叶わない気がした。だって俺は人間だから。そして俺は今もまだ、みっともなくもがき続けているのだから。

 

「そう。あんたたちは、ラットロテスから来たんだ」
 俺たちはヴィノバーが目覚めるのを待っていた。場所は少しも変わっていない。ただ今は、目の前に焚き火が出現していた。焚き火と言っても木を燃やしているわけじゃなく、魔法で作った半永久的に消えない炎がメラメラしているだけなんだけど。
 そうやって暇を持て余している時に、俺の横に座り込んでいる大僧正様が姐さんにいろんなことを話してしまった。ヴィノバーがラットロテスの修行僧であることや、大聖堂でのけ者にされていたこと、エンデ教の教祖に手紙を届けてほしいと司教に頼まれたことなど。さすがに俺たちが過去から来たということは話さなかった。やっと常識を学んでくれたようで、俺はなんとなく嬉しくなってしまったものだ。
「でもこれではっきりしたよ。エンデ教が全国の教会に対し何らかの行動を起こすとは思っていたけど、あいつらは戦争を起こそうとしていたんだな。様子を見に来て正解だったかもしれない」
「様子を見に、とはどういうことなのだ」
 あくまでも大僧正様は自分に正直だった。疑問に思ったことはすぐに口に出す。どこからそんな精神が現れたのか、いつかソルお兄様に聞いてみたい気がした。
「んー……まあ隠す必要もないから、いいか。あたしの名前はエーネット・ガーディラートっていうんだ。これで大体分かるだろ」
 突然名前を名乗った姐さん。でもそれで何が分かるって?
「あれ、なんか反応薄いね」
 俺たちの反応の薄さが予想外だったのか、姐さんはちょっと驚いているようだった。しかしそんなことを言われても困る。俺たちはこの時代のことなんて何も知らないんだから。
「なあキーラ……」
「ふむ。エーネット殿、我々は実は過去の世界からこの時代に来たのだ。だからまだこの時代のことはよく知らぬのだ。先に言っておくべきことを、後回しにしてすまなかった」
 珍しくキーラと意見が一致した気がする。それが無駄に嬉しく感じられた。
 大僧正様の説明を聞いた姐さんは何度かまばたきをした。何気に可愛らしい動作だ。きっとびっくりしてるんだろうな。
「過去から……来た、のか。じゃあ知らなくて当然、ってこと? そっか……そういうことってあるんだな。そうだよな、レーゼもそんなこと、言ってたもんな」
 自問自答のような言葉を口の中で言う。混乱を回復するにはそれが一番だもんな。だから俺は邪魔しないように黙っていた。キーラも邪魔なんかしたりしないよな?
「魔法王国って知ってる? あたし、そこの国の女王の娘なんだ」
 まっすぐこちらを見てきた姐さんはそれだけを言った。また聞き慣れない単語が一つ増えていたが、それはなんだか予想が簡単そうなものだったので安心した。
「じゃあお姫様?」
「そんなとこ。でも子供の頃に家出してね、最近帰ったとこなんだ。そして今は女王の命令に従って、エンデ教の動向を探ってるのさ」
 この人にもこの人の事情がある。今はそれだけがよく分かった。それ以上は何も聞かないようにしよう。また困らせるのは嫌だから。
「魔法王国とは何なのだ? 魔法使いがたくさんいる王国か?」
 俺が自重しようと決めた傍で、のんきな大僧正様が質問を重ねていた。なんだか妙にがっかりした。なんでかは分からないけど、腹が立ったりはしなかったんだ。
「その名の通りの国のことだよ。このスイベラルグの上空に浮かんでいる大陸にある国でね、そこに住んでるのは全員魔法使いさ。そしてスイベラルグのほぼ全域を支配し、外敵から守っている国なんだ」
 要するに浮遊大陸ってことか。ファンタジーによくある設定だな。そういうのはちょっと見てみたい気がする。
 それにしても魔法使いか。きっと偉そうな奴らばっかりなんだろーな。そういう連中にだけは会いたくない。なんだかんだで偉そうな人って、見てるだけでむかつくから。
 ……ん、ちょっと待てよ。
「魔法使いといえばさ、俺たちここに来るまでに一人の魔法使いに会ったんだ」
「へえ……それって誰?」
 あの人のことを忘れてはならない。海に沈みそうになったところを助けてくれた恩人であるあの人。そういえば名前は教えてくれなかったな。これじゃ話しても意味なかったかな。
「名前は知らないんだけど、ちょっと濃い感じの短い金髪で、黒い上着を羽織ってて、金色に光る鳥みたいなのに乗ってて、海を派手に割った男の人だったな。あとは……すごい格好いい人だったってことくらいしか」
 我ながらいい加減な説明だと思う。でもこれ以上の情報を持っていないから仕方ないと許してほしい。そしてなんだか知らないが、隣で大僧正様がぽかんとした顔で俺をじっと見つめていた。こいつは――そうだ、あの時すっかり気を失ってたからあの人のことを知らないんだ。
「金髪に黒い上着の格好いい男の人? それってもしかして……ううん、もしかしてじゃなくて絶対あいつだ、レーゼ・キュマニーだよ」
 ありゃ、今の説明で答えが出ちゃったよ。なんという奇跡。しかし信憑(しんぴょう)性は薄そうだ。さすがにこれだけの情報で個人を特定するのは無理があると思うんだけど。
「あ、あんた今疑っただろ」
 うっ。なんて鋭いんだ姐さん。
「なんてね。疑って当然だと思うよ。だけどあんたの会った魔法使いは間違いなくレーゼだよ。普通の魔法使いにはね、魔法で鳥を作ることも海を派手に割ることもできやしないんだから」
「普通のって……じゃああの人は普通じゃないのか?」
「そりゃそうさ。あいつは女王の側近。あたしらと違ってエリート。世間でもちょっとした有名人なんだから」
 そんなにすごい人に助けられたのか、俺たちって。魔法使いなら何でもできると思ってたけど、できないことだってあるんだな。なんとなく魔法には凄そうなイメージがあったから、魔法を使う人も凄い人ばっかりなんだと勘違いしてたみたいだ。よく考えたら分かりそうなことなのに。
「ところでレーゼはどこに向かってたの?」
「ラットロテスの方に行ってたみたいだけど」
 というのはヴィノバーの意見。本当にラットロテスに向かったかどうかは不明だ。
 俺の言葉を聞いて姐さんはちょっと顔をしかめた。都合の悪いことでもあったのだろうか。とはいえ俺には分からない事情があるんだろう、ここで口を挟んでも意味がない。
「あいつ、大聖堂まで行ってくるって言ってたんだ。あたしはてっきりエンデ教の大聖堂に向かったのかと思ってたけど、まさかラットロテスに向かってたなんて。でも何しに行ったんだ? あそこは戦争をしかけたりするような攻撃的なことはしないはずなのに……」
 顎に手を当て、燃える火を見つめながら姐さんは一人で呟く。その内容は俺にラットロテスの司教を思い出させた。確かにあの人は温和な人で、戦争なんかしたくないって言ってたもんな。でも姐さんの話を聞いてると、浮遊大陸にある魔法王国って国はラットロテスのことを警戒しているみたいだ。
 警戒するって言っても何を警戒してるんだろう。教会なんだから毎日神にお祈りして生活するような連中しかいないはずなのに、そこに警戒する要素があるとでもいうのだろうか。と言っても俺はあのラットロテスのことも、魔法王国のことも詳しくは知らない。いくら考えたって答えなんか出てくるわけがないのであって。
「アカツキよ、水を汲んできたぞ」
「はへ?」
 考え事をしてたら大僧正様が後ろから話しかけてきた。おかげでなんだか拍子抜けしてしまった。何をそんなに真剣に悩んでたんだか。もともと俺には関係ないことじゃないか。
 キーラはヴィノバーの荷物である水筒に水を入れてきたらしい。それは当然あの泉の水だろう。しかしあれって飲めるのか? 日本ってのはすごい潔癖症な国でさ、水道水も何もかもが無駄に消毒されてるんだぞ。他の国じゃその辺の水を飲んだら腹を壊したりするんだから、そんな勝手に安全と判断した水を飲んでも大丈夫なのかどうか。少なくとも安全地帯でぬくぬくと育った俺には危険なような気がしてならない。
 そんなことなんかこれっぽっちも知らない大僧正様は、なぜか上機嫌で俺の隣に腰を下ろした。つーかいつの間に汲みに行ったんだろう。
「ヴィノバーはまだ起きないのか」
 言い方は偉そうだけど、どうやら心配はしているらしい。こいつってそんなに優しい奴だったっけ。偉そうなイメージしかないから、全然そうは思えないんだ。
 隣から消えていても少しも気がつかなかった。それで一生戻ってこなかったら、俺はまた後悔し始めたんだろうか。
『水が俺に何かをもたらすんじゃない。俺は――そのものでもある、らしいから』
 あの時の言葉は何を意味していたんだろう。そのものでもあるって、どういうこと?
 次に彼が目を覚ました時、どんな顔で迎えてあげればいいんだろう。俺にできることなんて、もう何も残されてないんじゃないだろうか。それでも何かをしてあげたい。せめて彼が安心して笑えるように、心地よい空間を作っていきたかったんだ。……

 

 

 暗い闇から目を覚ました。はっとして体を起こすと、誰かの悲鳴のようなものが聞こえてきた。
 よく聞くとそれはヴィノバーのものだった。慌てて彼の姿を探すと、目を開いて体だけ起こし、何もない空間に向かって片手を突き出していた。そして何かを掴もうと手を開いたり閉じたりしている。俺は彼の所まで駆け寄った。
 悲鳴のような声を発しながら、彼は空気を掴み続ける。それでも何も手に入れられなくて、何度も何度も同じことを繰り返していた。
 いたたまれなくなって思わず後ろから抱き締めた。自分でも全く似合わないことをしているとよく分かった。するとヴィノバーは突然体を強張らせた。何かとても戸惑っているようにも感じられた。
「や、やめて……」
 空中にのばされていた手は下に落ち、今度は俺が彼の体に回した腕にのばされた。服ごとぐっと強い力で掴まれ、そのまま振り払おうとしているみたいだ。
「やめて、やめてくれ。俺は……俺が、悪かったのは分かってるんだ。分かっているから! だからごめん、ごめんなさい、ちゃんと謝るから! やめて……許して、お願いだ、許してくれ!」
 ……『許す』?
 これは何だ? またあの一件とやらか? 許すって何を? 彼は、誰の幻に向かって言ってるんだ?
 そして俺は。
「痛い……痛い痛い、痛い! 離して、離してくれ!」
 何かに向かって叫ぶヴィノバーの声を聞いて、俺はすうっと全身の力を抜いた。その瞬間にヴィノバーに強い力で腕を振り払われ、反動で後ろに倒れてしまう。
 光の見えない天井は真っ暗だった。ヴィノバーは頭を抱えていた。そして見る悪夢はどんなものなのか。俺には見えないものに向かって、どうして叫び続けなければならないのか。
 ――いいや、違う。それはきっと彼の意思じゃない。
 哀しみが溢れている気がした。外に出ることによって和らぐと思っていたものが、逆効果をもたらしてしまったように思えた。あの場所で受けていた嫌がらせは、俺たちが想像するようなものだけじゃなかったんだ。人の好いヴィノバーにとってとても苦痛になることが、きっと毎日のように繰り返され、今は彼に悪夢を見せている。酷いものだったんだ。言葉で表せないほど惨いことだったんだ。じゃなきゃ夢にまで出てこない。そしてこれほど苦しむことも、叫ぶことも、なかったはずだから。俺には何もできないと思い知った。見せかけだけの偽善じゃ、その場限りの親切じゃ、救えるものなどたかが知れていたんだ。俺にできることは一つもない。たった一つでもあればよかったのに。だけど俺はそうやって後悔するばかりで、本当は何もしようとしていなかったんだ。
 それじゃ何もできなくて当然だ。何かをしようとする意志すらない状態で、何かを生み出すことなど不可能だったんだ。そうやって不可能という字を盾にして、何事からも逃げ続けていた俺に返ってきたものは、今まで受けた他のどんな傷よりも痛く辛い現実という名の事実だった。
 逃げようと思っても逃げられない。過去がいつまでたっても俺の影としてつきまとってくるように、俺の事実は事実のまま体じゅうにまとわりついて離れなかったんだ。
「ああ、ああ……」
 聞こえてきたのは誰の声? 苦しんでいるのは一体誰? 見えるのは暗闇だけだ。俺にはもう、光を見る権利はないんだ。

 

 

 

前へ  目次  次へ

inserted by FC2 system