35

 理解したつもりでいることが、何よりも恐ろしいことなのに。

 

「おっさん!」
「だから私のことをそう呼ぶなと――っと、帰ってきたのか、ヴィノバー!」
 久しぶりに会う司教様は相変わらずだった。
「それどころじゃないんだよ、司教のおっさん」
 四階の司教様の部屋は最後に見た時と何も変わっていなかった。無駄に煌びやかな机や椅子、きちんと整頓された本棚、天井にぶら下がる高価そうなシャンデリア。その中央で椅子に座っていた司教様の格好も、以前と全く変わっていなかった。まるであの時から少しも時間が経過していないかのように。
「ヴィノバー、とりあえず今は客がいるんだ」
「客?」
 一つ咳払いをして司教様は注意を促した。ちらりと部屋の壁の方に目をやると、確かに誰かが床の上につっ立っている。さっきまで懐かしい司教様の観察ばっかしてたから全然気がつかなかった。その人は急に自分に話題が振られたからか、ちょっと驚いた様子でこっちを見てきた。
 そしたら今度は俺たちが驚かされてしまった。この人は確か、あの――。
「レーゼ!」
 相手の姿を見て、俺とキーラの後ろに引っ込んでいた姐さんが前に飛び出した。そうそう、そんな名前だったよな。この人は俺たちがラットロテスを出て船でさまよってる時に、溺れそうになったのを助けてくれた魔法使いのお兄さんだ。彼もまた司教様と同じように、以前と変わらない黒い服を身にまとっていた。
 姐さんの声を聞いて、レーゼという名のお兄さんは体をこっちに向けてきた。その前に姐さんが立ち、何か言いたそうに相手の顔をじっと見る。しかし姐さんが言葉を発するより先に、お兄さんは床に膝をついて頭を下げてしまった。その様はまさに君主と家来だ。
「って、あんた、何してんだよ!」
 ばきっ。
 なんだか無駄に響きのいい音が耳に入ってきた。なぜなら頭を下げたお兄さんの頭を姐さんが殴ったから。……はっきり言って、めちゃくちゃ痛そう。こんなの見たら姐さんには一生逆らえそうにないな、はは。
 そんな理不尽とも言える暴力を受けておきながらも、お兄さんは何も言わず頭を下げ続けていた。その理由なら俺でも分かる。だって姐さんは魔法王国の王族だから。
「あんたねぇ……もういいからさっさと立ちなよ」
 いささか諦めたような口調で命令すると、お兄さんはさっと立っちゃうんだから面白い。本当に王族の力って凄いんだなぁ。まあ俺は絶対に真似したくないけど。
「あ、あの、あなたは?」
 そして忘れ去られていた司教様の弱々しい声が聞こえてきた。そういやここって司教の部屋だっけ。なんでここの主が蚊帳の外になってんだろう。
「この人のことなら心配いらねーよ。ジェファスに行く途中で知り合った姉ちゃんだから」
「ヴィノバー、お前は黙ってなさい」
「は? 何だよそれ!」
 ちょっとしたことですぐにヴィノバーは機嫌を悪くする。司教様の一言によって顔をしかめた死体運びの兄ちゃんは、面白くなさそうな顔でこっちにすたすたと歩いてきた。いや、なんでこっちに来るの? なんか怖いんですけど。
「なぁアカツキ。お前から言ってやってくれよ」
「何を」
「エーネットのことだよ。この大聖堂に悪さするような人じゃないってお前も知ってるだろ?」
 そりゃもちろん知っているとも。つーか逆のこと言ったら言葉より先に拳が飛んできそうだから冗談だとしても絶対そんなこと言えない。それに姐さんはあのナントカ教の様子を窺いに町に向かってたんだよな。だったらあっち側の味方ってことはないはずだ――と思う。
 それ以前におそらく、姐さんは戦争に反対している。でなきゃわざわざ俺たちをラットロテスに送ってくれたりなんかしないだろう。仮にナントカ教の様子を見るのが誰かの命令だったとしても、戦争なんかやめちまえと考える精神だけは変わらないものだと俺は勝手に思うんだ。
「そうだな。エーネット殿はいい人だ」
 横から場違いのようなキーラの台詞が飛んできた。言ってることは別におかしくなんてないんだけど、こいつの声自体があまりにのほほんとしすぎていて場違いのように感じられるんだろう。うーん、もしかしてこいつって癒しキャラ? 全然似合わないんですけど、そこの大僧正様。
「よし、行ってこいアカツキ」
「いてっ」
 背中を押されて前に出される。そうしたヴィノバーは俺の斜め後ろに引っ込んでおり、俺の正面では司教様と姐さんとお兄さんが何やら話し込んでいた。今思えば、あの人たちって全員俺より年上なんだよな。いや待てよ、見た感じではヴィノバーも年上のように見えなくはないぞ。じゃあ何だ、キーラ以外は全員年上なのかよ! なんか全然そんな感じしないのになぁ。
「そうか、やはり――」
 ふと悲しげな司教様の声が耳に入ってきた。どうやら戦争を回避できそうにないことを知ったようだ。でも今になって知ったところで、戦争は明日に開始するってことになってる。あの情けない司教様はどんな判断をするのだろうか。
 ヴィノバーの大聖堂内での問題といい、ナントカ教の宣戦布告といい、本当にラットロテスは内憂外患って感じだな。それでしかも周囲に弱みを見せてはいけないとなると、司教様に同情したくもなってくるってもんだ。
 なんてことを一人で勝手に考えてると、現在お悩み中の司教様と目が合ってしまった。ここで目をそらしたりしたらそれこそ失礼なのでじっと見つめ返してしまったが、相手もなかなか強情であるようで目をそらそうとしない。別に睨めっこをしてるわけじゃないんだけど、いつの間にか後には引けない眼力バトルが開始されていた。
「……エンデ教の準備は整っている」
 そんな途方もない戦闘を強制終了させてくれたのは、黒いローブをまとったレーゼ兄さんの一言だった。ちょっとびっくりして彼に目をやると、兄さんは腕を組んで少し俯き、ぼんやりした目で何かを見つめているようだった。
「ちょっとレーゼ、それってどういうこと?」
 微妙に怒ったような口調で姐さんが問う。また頭を下げたりするかと思ったが、兄さんはじっとしたままで静かに立っていた。
「先ほど町の方でエンデ教信者だと思われる少女に会った。彼女は数日前からこの町に潜り込んでいたらしい。……女神像を壊したことで騒ぎになっていたが」
 ん、女神像? なんか聞き覚えがあるような、ないような。
「女神像を壊した少女なら、今は牢に入れられているはずだが……」
 おずおずとした調子で司教はレーゼ兄さんに言う。なんかここでも司教である威厳が消えてるみたいだな。本当にこんなんで大丈夫なのか?
「牢に入れられている? 司教のおっさんがそうさせたのか?」
 後ろからヴィノバーがひょいと顔を出してきた。もう司教に対する不満は消えたようだ。いつもながら素早い転換で素晴らしいね。
「あ、いや、コルネス司祭が念の為にと言っていたから――」
「コルネスが? またかよ」
 ヴィノバーは俺の隣を通り抜け、すたすたと歩いて司教の隣へ行った。それと入れ替わるようにキーラが前に出てくる。俺の隣に並んだ大僧正様は、まるでそこが定位置だと言わんばかりの落ち着いた表情で立っていた。
「あのさ、司教さん。そんなことよりこれからどうするかってことを考えた方がいいんじゃないの?」
「これから……そうか、戦争が」
 姐さんの一言によって司教様は下に俯いてしまった。
「でもレーゼ。あんたはなんでその女神像を壊した子がエンデ教の信者だって分かったんだ?」
「あの少女の内に膨大な風の気配を感じた。あなたもご存じの通り、エンデ教の手中には『それ』がある。だから分かった」
 ぼそぼそと呟くような声でレーゼ兄さんは言う。その目はまだぼんやりとした光を宿し、そのまま眠ってしまいそうな印象を受けた。そればかりに気を取られていて話の内容を聞き逃してしまった気がしたが、どっちにしろ聞いても分からなさそうだったのでこの際もう忘れたことにしよう。
 それにしてもこの人たち、明日から戦争が始まるってのにこんなにのんきに話し合いばっかしてて大丈夫なのかね。町の住人を避難させるとかそういうことは考えてないんだろうか。もちろんそれを指揮するのは司教様の役目なんだろうけど、ここの司教様はマジで情けないからなぁ。なんか目先の悲劇だけで精一杯で、遠くの困難に対処できてなさそうだ。
 これは、誰かが助言すべき状況なんじゃないかな。
「司教様!」
 真後ろから誰かの声が響いてきた。振り返ってみると、誰だか知らないけど修行僧みたいな兄ちゃんが階段を上ってきたようだった。息を切らしており、緊急事態だと言わんばかりの表情をしている。
 あれ、なんだか嫌な予感がしてきたぞ。
「どうしたんだ、そんなに慌てて」
「大変なんです! エンデ教の信者と思われる人々が、武装して大聖堂まで押し寄せてきてるんです!」
 必死になって状況を伝える兄ちゃん。うわあ、やっぱり。嫌な予感が的中してしまったよ。
「なんと! 戦争開始は明日ではなかったのか?」
「んなもん俺が知るかよ」
 横からキーラが突然口を挟んでくる。そこは君の出しゃばっていいところじゃないんだけどね。分かってるのかね、この大僧正。
 そうしてキーラの顔を見ていると、ふっと大僧正様の後ろをレーゼ兄さんが通っていくのが見えた。そのまま彼の姿を目で追うと、修行僧の兄ちゃんを脇に押しのけて無言で階段を下りていく。
 何をしに行ってんだろうか。まさかとは思うけど、ナントカ教の信者たちを殲滅しに行ったんじゃないだろうな。
「ちょっとレーゼ、どこ行くんだよ!」
 今度は姐さんがばたばたとレーゼ兄さんの後を追って階段を下りた。それと入れ違えるように、頭の禿げたおっちゃんとちょっと若そうな男の人が階段を上ってくる。なんだか騒がしくなってきたな。こんな時こそ司教様にしっかりしてもらわないといけないんだけど。
「コルネス司祭にディーレ助祭! ど、どうかなされましたか」
 案の定と言うべきか、司教様はかなり動揺した様子で二人の客に声をかけていた。なんかいろいろ階級名が出てきてるけど、結局は司教が一番偉いんだよな?
「司教様。すでに町は壊滅状態です。しかしご安心ください、町の人々は避難させましたので」
 頭の禿げてない若い方の男が、落ち着いた調子で司教に話す。彼は日本人の如く黒髪だったが、前髪の左側の部分だけが金色に染まっていた。なんか不良みたいだ。
「申し訳ない、コルネス司祭。私がしっかりしなければならないのに」
「いいえ。そんなことは構わないのです」
 こいつがコルネスって奴なのか。なかなか真面目そうな人じゃん。今の司教様よりも司教の役柄に向いてそうだな。
「司教様。修行僧の皆にはあなた自身の言葉で状況を説明してくださらんか。それとヴィノバー・エルノクレス、お前は私と一緒にこっちへ来なさい」
「へ? なんで俺が――って、ちょっと待てって!」
 今度は頭の禿げたおっちゃんが前に出てきた。そして何やらごちゃごちゃ喋った後で、無理矢理ヴィノバーの腕を引っ張って部屋を出ていってしまった。
 何だよもう、何が起きてるんだ? 明日開始されるはずの戦争が今日開始されてるし、姐さんとレーゼ兄さんはどっか行っちゃったし、変なハゲオヤジにヴィノバーは誘拐されるし。これを俺にどうしろっていうんだよ。
「コルネス司祭、ディーレ助祭はヴィノバーに何を……」
「彼にも何か考えがあるのでしょう。しかし、大丈夫ですよ。もしエルノクレスの身に何かあったなら、私がどうにかしてみますので。だからあなたは修行僧の皆の所へ行ってあげてください。今頃とても混乱していることと思います」
「あ、ああ」
 見てるこっちが不安になるような態度で、司教様はコルネス司祭と話をしていた。それが終わるとこっちへ向き直り、またもや俺と目が合ってしまう。あのさ、もう睨めっこ大会は勘弁してほしいんだけど。
「――そうだ、君たちは」
 そうかと思うとぽつりと呟き、すたすたと素早く目の前まで歩いてきた。その変貌ぶりにはちょっとびびった。つーか何の用なのかしらん。はっきり言って怖いんですけど。
「アカツキ君、キーラ君。……その、申し訳ないんだが、ヴィノバーの様子を見てきてくれないかな」
 まるでひそひそ話のような小さな声で司教様は俺たちに言う。あー、これってつまり、あのハゲオヤジのことを信用してないってことだな。うん、その気持ちはよーく分かる。いかにも悪いこと考えてそうな禿げ頭だったもんな。
「別にいいぜ」
「我々に任せておくのだ」
「そうか、ありがとう」
 キーラと二人で返事をし、司教様に背を向けて部屋を出ていった。
 この階段の下はどうなっているんだろうか。ナントカ教の信者が武装して押し寄せてきてるっていうけど、彼らは本当にこのラットロテスのどでかい大聖堂を壊してしまうんだろうか。そしてそんな人々の群れをかき分けながら、俺たちは無事にヴィノバーの元へ辿り着けるのだろうか。
 ……無事に?
 ああ、そうだった! 今はなんか知らないけど戦争中なんだ! すっかり忘れてたけど、戦争ってことは剣が飛び交ったり人が倒れたり足をふんづけられたり、要するに俺の身も危ないってことじゃん! おいおいちょっと待ってくれよ? 俺は今からそんな危ない場所に行かなきゃならないっていうのか? あーこんなことなら司教様のお願いなんか却下すればよかった。なんでそこまで頭が回らなかったんだ、俺。
 はあ。もうため息しか出てこない。隣を歩くキーラは普段通りの表情で、何も考えてなさそうな顔をしていた。いいよなこいつは。何の心配事もなさそうでさ。
 でも俺だって情は持ち合わせてるから、ヴィノバーのことがちょっと心配だった。このラットロテスでは彼のことを嫌ってる人が大勢いるから、戦争の混乱に乗じて何かやらかしてきそうな気がしたんだ。あのハゲオヤジだってその一人かもしれない。コルネスって司祭はいい人そうだったけど、あのオヤジは危ないオーラがむんむんしてたからな。
「ところでアカツキよ、ヴィノバーはどこへ連れていかれたのだろう」
「そりゃお前。……どこ?」
 はたと気づけば、手がかりなんて何もなかった。
「探すしかないようだな」
 ああ。一気にどっと疲れてしまった。もう寝たい。
 階段を下りて三階に辿り着くと、誰もいない狭い空間が広がっていた。三階はもともと誰もいなかったんだけど、この静けさがここで終わっていないかもしれないと考えると、なんだかこれ以上先に行きたくなくなってしまった。
 だけど俺は行かなければならない。そうしないと心配で、落ち着いていられなくなるだろうから。ここにいれば安全なのかもしれないけど、それだと気持ち悪くなる気がしたんだ。
 お願いだから、どうか無事に終わって。

 

 

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