36

 視界の端に、何か黒いものが見えた。
 でも、それだけ。それだけで何も起こらない。
 だったら無視していよう。何も変わらない自分でいさせてほしいから。

 

 大聖堂の一階に下りると、修行僧の連中が一ヵ所に集まってがやがやとやっていた。
 傍から見るとお祭りのようにも見えるし、何かの事件に群がる野次馬のようにも見える。集団でいれば少しも怖くないと思っているのか、戦争中だってのにのんきそうな連中だった。
「あそこが怪しいな。よしアカツキ、あそこまで行ってみるぞ」
 俺がじっと修行僧集団を観察していると、隣にいたキーラが腕を引っ張ってくるから鬱陶しい。つーか何が怪しいって? こいつは今すべきことを忘れてるんじゃないだろうか。
 司教様に頼まれたこと、つまりヴィノバーの様子を窺うということ。それは司教様なりの心配であり、また愛情でもある。最初はその過保護じみた親バカっぷりが他の修行僧を苛立たせてるのかと思ったけど、実際はそうでもないらしい。どちらかというとその理由は後から取って付けられたようなもので、本当の原因はヴィノバー自身が抱える何かであるようだった。もちろん俺はまだその何かの正体は知らない。そればかりは本人の口から聞くしかないようで、その時が訪れるのを待っていたつもりだけど、今思えば俺は彼を急かしていたのかもしれない。それ故苦しんだ彼は、俺を恨んだっていいはずだ。それなのに笑いかけてくれるのは何故?
 考えていても仕方がないので歩き出す。厳密に言えば引っ張られてるだけだけど、もしこの先にヴィノバーがいるのなら、俺は喜んでその光を両の手で包み込むだろう。……そういった覚悟さえあるはずと信じていたけど、いざその場に辿り着いてみても彼の姿はなかった。俺の覚悟は空回りしてしまったけど、心のどこかでほっと胸を撫で下ろす自分がいることに気づいてしまった。
「いないようだな」
「外じゃねーの?」
 修行僧の連中が集まっている場所は、ちょうど大聖堂の扉の前だった。その厳かな扉は今は大きく開かれており、外からの光がきらきらと中に入ってきている。よく見てみると大聖堂の外にも大勢の人がいた。ただその人々は黒い服を着ておらず、統一した色もないカラフルな衣服を身につけていた。あれはどう考えたってナントカ教の奴らだ。ということは、あの状況が『攻め入ってきている』ってことなのか?
 だけど彼らは中に入ってこようとも、前進しようともしていなかった。なぜなら彼らの前に二人の魔法使いが立ち塞がっているから。その二人こそがまさに、エーネット姐さんとレーゼ兄さんである。
「退け」
 たった一言。透き通ったような低い声が静寂の空間に響いた。それは片手に杖を持ち、黒いローブを身にまとったレーゼ兄さんの一言だ。幾らか聞いたはずの声なのに、そこにあった想像以上の威圧感に思わず足がすくんだ。
「なぜ魔法王国がラットロテスに手を貸すんだ。それでは不公平ではないか!」
 負けじと叫ぶのはナントカ教の信者の若者。いかにも若そうな雰囲気の、青二才という単語が似合いそうな青年だった。確実にレーゼ兄さんに負けている気がするが、自らの信じるものの為にか一歩も引こうとしていない。
「不公平かそうでないかは関係ない。俺は戦争を阻止するだけだ……」
 静かに語る様はどこかソルを思い出させた。
 しかし戦争を阻止するなんてことが本当に可能なのだろうか。現にナントカ教の奴らはラットロテスの入口にまで詰め寄ってきているし、ラットロテスの修行僧の連中にこいつらを押し返すほどの力があるとは思えないし。かといってレーゼ兄さんが力を貸すとして、派手な魔法か何かで退けさせるとなると、膨大な被害者が出ることはもう明白だ。それに人だけじゃなく、町まで壊しそうな気がするし。
「大人しく帰るというのなら止めはしない。しかしこの大聖堂に刃を向けるのなら――容赦はしない」
 なんてことを考えてるとこんなお言葉が。ああやっぱこの人、魔法で派手にやっちゃうつもりだよ。今思えば俺たちを海から助け出してくれた時だって、わざわざ海を割る必要なんかなかったもんな。なんか寡黙でクールなイメージがある兄さんだけど、本当はこの人って派手好きなんじゃないんだろうか。
「ちっ……女王の犬め!」
 負け惜しみのようなことをナントカ教の青年は言っていた。それを俺はぼーっと聞いていたけど、くいくいと横からキーラが服を引っ張ってくる。
 今度は何の用だってんだ。せっかくレーゼ兄さんのおかげでナントカ教が帰ってくれそうになってんのに。
 嫌々ながらもキーラの顔を見ると、大僧正様は斜め後ろ辺りをすっと指差した。そっちに顔を向けると見覚えのある禿げ頭が見えた。あれ、まさか、と思いつつ体ごとそちらに向き直ると、さっきコルネス司祭と一緒に司教の部屋に上がってきた、名前は忘れたけどハゲオヤジである助祭がヴィノバーの手を引いて歩いていた。
 どういうわけか二人は大聖堂の外に出ようとしているみたいだった。ヴィノバーは何やら疑っていそうな目で助祭を見つつ歩いている。あっという間に二人は外に出てしまい、俺たちが声をかける暇さえなかった。ってこれじゃ駄目じゃないか。追いかけないと。
「あの助祭はヴィノバーを連れて何をしようとしているのだろうか」
「んなもん、何かよくないことに決まってんだろ! だいたいあのハゲオヤジ、いかにもヴィノバーのこと嫌ってそうな目をしてんだし」
「そうか。よくないことか」
 なぜか納得したような大僧正様と共に外へ飛び出し、姐さんとレーゼ兄さんの後ろに立つ。その時にはすでに助祭とヴィノバーはナントカ教の集団の前に出ており、何やらよくない雰囲気が醸し出されていた。
 突然の二人の登場に、ナントカ教の人々はざわついていた。
「エンデ教の皆さま方」
 口火を切ったのは禿げてる助祭。その隣に立たされているヴィノバーは、どこか不安そうな目で助祭の顔を見ていた。
「これが我々の力です。あなた方も知っている通り、これが我々の化け物です。どうかここは穏便に済ませましょう。我々はこれをあなた方に捧げます。これに対するどんな行為も許します。だからこの場から退いていただけないだろうか」
 何を言っているのかよく分からなかった。『これ』とか言われても、具体的に何を指しているのか分からない。だけどどうしてだか、恐ろしげな響きをしていることだけはよく分かった。このままこの助祭を放っておいたら、この世のものとは思えない悲劇が目の前に迫って来そうな気がしたんだ。
 いいや、俺は分かってないふりをしていた。分かりたくなかっただけかもしれない。本当は他の誰よりも、分かってしまいそうな気がしたから。今掴んでいる幸福を手放したくはなかったから?
「わっ」
 頭の禿げた助祭はヴィノバーの背中をどんと押した。当たり前のように前によろめく修行僧の兄ちゃん。
 転びはしなかった。地に足をつけ、自分の力でその身を守っていた。
「さあ、どうされる?」
 助祭の言葉がこの場を支配していた。
 交渉、というものなのだろうか。ラットロテスに戦力と呼べる戦力はないから、手中にあるものでどうにかしようとしているということか。自分たちはとても珍しいものを持っている、そいつをそっちにやるから見逃してほしい、ってヤツ? はっ……それはまた、典型的な回避手段であることで。
 条件として手渡されようとしているものが一人の人間であったとしても、両者とも少しも動じたりなんかしていないようだった。それに対して非常に驚いているのは俺とキーラと姐さんくらいで、他の人はそんなことは関係なさそうに、ただ戦争を中止するかどうかについて考えているだけのように見えた。
 もしかしたらこの状況を理解していないのは、ヴィノバー・エルノクレスという名の修行僧の青年だけなのかもしれない。彼は振り返って助祭の顔を見るだけで、何も口出ししようとしていない。ただ不安げな影だけはその顔にくっきりと浮き出されていた。今にも泣き出してしまいそうなほど、それは鮮明に映し出されていたんだ。
 化け物って、皆が言ってるみたいで。
 だったら彼は人間じゃないっていうのか? どこからどう見ても人にしか見えないのに。彼は皆とは違うのか? きっと同じであるはずなのに。
 本当にわけが分からないことばかりだ。そんなことに囲まれてばかりでは、疲れてしまうことを知っているのに、俺はここから抜け出せられないでいる。手を伸ばしたまま喘いでいる。
「そうか、なるほど。彼が彼女と同じものだったのですね」
 ふと聞き覚えのある声が向こう側から返ってきた。同時に相手側に動きが生じ、人々の間から一人の青年が前に出てくる。そいつは例のあのナントカ教のボスだった。確か町にいたはずなのに、もうこんな所までやって来たのか。どうしてこんな所まで来ちまったんだよ。もう勘弁してくれよ。
「しかし彼は我々にとっては不要なものです。なぜなら我々はすでに彼と同等、もしくはそれ以上の力を持っているからです」
「同等だと――まさか、他の!」
「お察しの通り」
 いたって落ち着いた様子で喋る相手側のボスと、冷静さを失って顔を赤くしている禿げた助祭。こんなもんを見せられたら俺は、相手側に寝返りたくもなってしまうってもんだ。でも今はそんなことを考えている場合ではない。
「見たところ、あなた方はどうやらその子を邪魔に感じているようだ。よろしい、では我々がどうにかしてあげましょう」
「どうにか、とは?」
「そう難しい提案ではないですよ」
 よく見ると相手は裸足だった。なんでそんな格好をしてるのか知らないけど、見てるだけで痛くなってきた。
 痛いのは足だけにしてほしいけど、もう無理なのかな。
 ナントカ教のボスはすっと片手を上げた。その合図によって彼の後ろにいた大勢の信者たちが武器を構える。彼らの前にいるのは助祭とヴィノバー。そしてボスの手が振り下ろされる。
 徐々に黒いものが姿を現してきた。
「お前ら……っ!」
 ナントカ教の信者たちが大きな音を立てながらこっちに向かって走り出してきた。目指してるのはおそらくヴィノバーだ。でも俺がどうにかしようとする前に、信者たちと同時に走り出した姐さんがヴィノバーの前にさっと立ち塞がった。
 それでも怯まない信者たちは攻撃を開始する。それぞれ手に持っている武器を振り回して、やはりヴィノバーを狙っているようだった。後ろで隠れるように見学している俺たちなんてもう見事に無視されている。彼らの総攻撃を姐さんは一人で阻止しようとしていた。
「ど、どうするのだアカツキよ!」
「うっせーな、うろたえるなよ! お前の召喚でなんとかできねーのか」
 別に攻撃の対象にもなっていない大僧正様が俺の横で慌てていた。つーか俺に聞く前に自分で考えろよな。
 周囲に騒音が響いている。もう目の前は人と砂埃でいっぱいになっていた。ヴィノバーの姿も姐さんの姿も見分けられなくて、二人を助け出そうにも手を出せない状況になっていた。しかしそこからちょっと離れた場所に見慣れた禿げ頭が見えた。あの野郎、やってくれやがったな。自分だけ攻撃を逃れて高みの見物かよ。むかつくな。
 よし、こうなったらあのハゲオヤジに文句でも言ってくるか。
「おいこら、てめー!」
 ずかずかと歩いて助祭の目前に立つ。そこには誰も注意を払ってないようで、ナントカ教の連中は視界の片隅に追いやられてしまっていた。そしてなぜかキーラも後についてきていた。
「お前は助祭のくせに、大聖堂の修行僧の一人を見捨てるってのかよ」
「何だお前は……我々のやり方に第三者が口を挟まないでいただきたい」
 この言い方が俺の腹立ちを増幅させるんだ。
 殴ってやろうか。いや、でも今はそんなことをしてる場合じゃないんだ。ヴィノバーと姐さんを助けなきゃならない。けどどうやったら助けられる? 何の力もない一般人の俺が、何をどうすれば武装したおっかない信者連中を止められるっていうんだろうか?
 ああ、もう。こんな時こそキーラの召喚術でどうにかしてほしいのに、肝心の大僧正様は慌てるばかりの役立たずだ。いいや、そうじゃない。そうじゃないんだ、俺は、キーラのせいにするんじゃなくて、俺がどうにかしなきゃならないんだ。
 別に友達ってわけじゃないけど。仲間ってわけでもないけど。それでも理不尽な理由だけで傷つけられている彼の姿を、じっと黙って見てるなんてどうしても嫌だったんだ。
 皆が口を揃えて化け物と呼ぶ。
 この大聖堂にも居場所がないのに、外に出ても居場所はないのか。
 これってもう、ラットロテスだとかエンデ教だとか、そういうのはどうでもいいことだと思う。どっちが勝とうと俺の知ったことじゃないし、どっちが勝ってもヴィノバーが認められるってわけじゃない。
 皆に存在を否定されてるみたいだ。それってどういう気持ちなんだろう?
 俺には分からない気持ちだろうな。ぬるま湯の中で育った俺なんかがいくら考えたって、彼の本当の気持ちを理解することなんてできないんだろうな。よく『相手の立場になって考えましょう』なんてことを聞いたりするけど、それはどう頑張ったって理想で終わることと同じように、腹の底から相手を理解することなど決してできない。だからこそ難しくなってしまう問題が溢れていて、たくさんの人たちが居場所を求めてさまよっているんだ。ヴィノバーもその一人。皆と同じ、その一人なんだ。
 それを解決する方法なんてあるのかな? 果てしなく続くその苦悩に、誰が終止符を打てるだろうか? そんなことはもう、分からない。
「ヴィノバー!」
 隣でキーラが驚いたような声を上げた。はっとしてそっちを向くと、埃まみれになっているヴィノバーがちゃんと立っている。
 まさか、あそこから抜け出してきたのだろうか。確かに体のあちこちに傷を負っているけど、見た感じは結構ピンピンしてそうだ。なんつーか、丈夫だな。地味にすごいと思うよ、マジで。
 本当に、どうして、こいつは。
「さっさとくたばればよかったものを……」
 小さな助祭の声。
 思わずかっとなった。自分を抑えられなくなって、一発殴らないと気がすまなくなっていた。だけど俺が相手を殴ることはなかった。なぜなら、俺より先にキーラが助祭を殴り倒してしまったから。
「あなたには――人としての心がないのか!」
 さすがにこれには驚いた。いつもぼーっとして人の話なんか聞いてないと思っていた大僧正様が、他人の為に怒って人を殴っただなんて。俄かには信じられなくって、だけど心がすっとしたのは事実だった。
「さあ、行くぞ二人とも!」
 そして腕を引っ張ってくるし。いい加減こうやって腕を引っ張るのはやめてほしいんだけどなぁ。おまけにヴィノバーも引っ張られているようで、もしこれでキーラが怒っていなければ文句の一つでも飛び出していただろう。
 あれ、でもどこに行くつもりなんだろう。
「なあキーラ。姐さんとレーゼ兄さんが……」
「あの二人なら心配いらぬだろう」
 うっわあなんだよその超無責任な発言は! それで大丈夫じゃなかったらどうするつもりなんだこの大僧正。
 俺とヴィノバーはキーラに引っ張られ、エンデ教の信者が暴れているすぐ隣を素通りしていった。これで誰も気づいてないんだから面白いけど、いささかの不安はある。
 だって今のままじゃ、大聖堂の外にも中にもヴィノバーの居場所はないんだから。
 あるとすればそれは司教の元だけ。でも司教様だって偉いんだから忙しいだろうし、あの人の元に逃げ場を求めてばかりでは何も進展しない。
 周りは敵だらけ。味方なんていない。そんな孤独な状況に立たされていても周囲に笑いかけるのは何故だろう。喧嘩だってするようだけど、一方的に相手を恨んだりせずに、自分の非さえ認められて、素直なままで息ができるのはどうしてだろう。
 こんな人間、今の日本にいるかな。こんな人が現代で生活して、通用するのかな?
 視界の片隅に現れ始めた黒いものは、やはり微量ながらもその範囲を広げていっている。
 もう何も見たくないと嘆くのは、ただ逃げているだけなんだろうか。

 

 

前へ  目次  次へ

inserted by FC2 system