37

 孤独な魂は、そして終わりを迎える。

 

 怒声と埃と武器が飛び交う戦場と化したラットロテス大聖堂は、それでも大きな扉を閉めることなくその場に佇んでいた。俺たちが暴れるエンデ教信者たちを無視して大聖堂内に入ると、これまた集団で様子を見ている修行僧の連中がじろじろとこっちを見てきた。いかにも何か言いたげなのに、誰一人として声をかけてくる者はない。どこの世界でも人間は人間であるようだ。
 そんな連中を左右に押しのけて、キーラはずかずかと大聖堂の廊下を通った。見るからに偉そうな態度だけど、今は普段と違って頭に血がのぼっているらしい。こういうのをうまくやり過ごすには口出ししないのが一番だ。だから俺は黙っていようと思ったんだけど。
 風が吹いた。
 不審に思って振り返った刹那、顔の横を何かがすごい勢いで通り過ぎていった。なんだかこれは前にも経験したような気がするが、とてつもなく嫌な予感がするのは何故だろう。
「なあ、ちょっと――」
 声をかけると大僧正様はぴたりと足を止めた。あれ、なんか予想外だ。絶対俺の声なんか無視して歩いてくと思ったのに。
 それでも振り返らないのが恐ろしい。
「今、何か通らなかったか?」
 戸惑いつつも聞いてみると、そこでやっとキーラはこっちを振り返ってきた。なんだなんだ、そんなに怒ってるのかこいつは。そういう性格じゃないと思っていたのに裏切られた気分だ。そもそも何に対して腹を立ててんだ?
 でも大僧正様は俺の顔を見てこなかった。せっかく話しかけてやったのに顔も見ないなんて失礼な奴だな、と思ったけど、どうやらそういうことではないらしい。それが分かったのは、もう一度さっきと同じように何かが通り過ぎていった後だった。その何かは俺の後ろから来て、俺の顔の横を通っていったんだ。
 後ろには修行僧の連中もいたが、その中に一人だけ、黒い服を着ていない人がいた。それがかえって目立つ色になっていて、周囲からの注目を集めるには充分すぎる要素を持ち合わせていたんだ。だから俺はそれが誰なのか、一瞬で理解できてしまった。
 大きな弓を構える少女。それは、いつか見たことのある光景で、今まで記憶の中から遠ざかろうとしていた事実であった。
 司教様の言葉が頭の中で反響し出した。確か言っていたよな、女神像を壊した人がいるって。どうしてかは分からないけど、そうしたのはあの少女。そしてそれを俺は見ていた。見ていたんだ。
 すぐに逃げ出そうとしたけれど。
「君は――」
 驚いた様子でヴィノバーが相手に一歩近づく。少女の周りにいた修行僧たちは、彼のその一言によってそろそろと少女から遠ざかり始めた。ヴィノバーに場を譲っているのか、怖気づいているのか、本当のところなんて分からないけど、どっちにしろ自分たちが場違いなんだってことは理解できたようだ。
 入口の広場に一人ぽつんと残された少女は、それでも黙ったまま表情を崩さなかった。手に持った弓は確実に俺たちを狙っている。彼女がエンデ教の信者だとしたらそれもまた当然のことなのかもしれないけど、どうしても納得できないことが俺の中にはあった。
 少女の構える弓のせいか、空気がぴんと張り詰めているように感じられる。
「君……の、名前は?」
 食い入るように相手の姿を見ているヴィノバーは、なんだかやたらのんきそうなことを聞いていた。おかげでちょっと拍子抜けしてしまった。なんでここで聞くべきことがそれなんだよ。司教様はあんなに心配してたってのにさぁ。
「俺はヴィノバーってんだ。この大聖堂の修行僧で、夢は立派な神官になることだ。それで、あんたはどこから来たんだ? 何をしようとしてるんだ? あんたの周りにいる人は、あんたのことを――」
 だけどヴィノバーは必死そうだった。言葉を吐き出すたびに一歩ずつ前へ踏み出し、少女のすぐ近くまで近寄ってしまった。だけどもう目と鼻の先にいるヴィノバーを見ても少女は黙ったままで、構えている弓を動かそうとする素振りさえない。まるで何も見えていないかのように、瞳には少しの光の欠片すら見られなかった。
 ようやく俺にも分かってきた。あの子は、たぶん。
「な、なあ、あんたはエンデ教の信者なのか? この大聖堂を壊しちまうのか? せっかく会えたってのに、俺たちとあんたたち、互いにぶつかり合わなきゃならないのか? そうする他に手はないのか?」
 早口に喋るヴィノバーは冷静さを欠いていて、そこからは普段の様子が微塵も感じられない。穏やかさなんてもうずっと昔に置き去りにしてしまったようだ。そのままの調子ですっと手をのばし、彼は少女に触れようとした。だけど少女ははっとした表情になり、さっと身を翻(ひるがえ)して後ろに飛び退いた。
 ついでに弓矢が飛んでくる。それらはまっすぐこっちに向かってきて、ずいぶん危ない目に遭ってしまった。俺は一人で避けるのに全神経を使ってしまったのに、ヴィノバーとキーラなんかはそんなことは全く苦にしてない様子だった。つーかなんで俺がこんな目に遭わなきゃならないんだ。俺は別に修行僧連中の一員じゃないんだぞ。
「待ってくれ、待ってくれよ!」
 大聖堂の広い空間にヴィノバーの大きな声がよく響いた。俺が難を逃れてやれやれと息を吐いていると、またすぐ隣の床に弓矢が突き刺さってきた。どうやら相手は戦闘体勢になってしまったようだ。そしてそれに俺とキーラは巻き込まれちゃった、と。
「やめてくれ、俺の話を聞いてくれ、お願いだ!」
 切なげなヴィノバーの声は少女にだって聞こえただろうに、相手は休むことなく弓矢を放ち続けた。いつの間にか修行僧の野次馬たちは姿を消していて、大きな大聖堂の扉は閉じられていた。一階にはここにいる四人の息吹しか感じられなくて、どこか別次元に放り込まれたような錯覚に襲われた。
「あんただって分かるだろ? 俺はあんたと同じだ、あんたと同じものを持っている! だからあんたのことを知りたいって思ったんだ、たったそれだけのことなんだ!」
 少女は天に向かって弓矢を数本一気に放った。それらは高い天井を誇る大聖堂内で綺麗に弧を描き、一斉に下に落ちてくる。さすがにこれはやばい気がする。咄嗟に床にしゃがみ込んで目を瞑ると、頭上でカンカンと間の抜けた音が聞こえてきた。
 怪しく思って上を見てみても何もない。いや、俺は諦めないぞ。きっとキーラが召喚か何かを使って見えない壁を作ったとかそういうオチなんだろ。油断してこのまま立ち上がって壁に頭をぶつけることを期待したんだろうけど、残念だったな、俺はそこまで考えなしじゃないんだぜ。
 腹の底でそれだけを言ってから上に手をやると、予測通りに見えない壁があるらしく、何か堅い物に手が触れた。そいつを手探りで伝っていき、途切れたところを確認してそこで立ち上がった。
「大丈夫か? アカツキよ」
 手に杖を持った大僧正様がすぐ隣にいた。しかし大丈夫かと聞かれても、頭打ったら大丈夫じゃなくなるってことは考えたりしなかったんだろうか。まあ今回は俺が気づいたから何も起きなかったけど。
「しかしあの娘は一体何者なのだろうか」
「あの子が女神像を壊した人なんだ」
「……そうなのか?」
 隠していたって仕方がないので素直に話した。キーラはちょっと驚いたようだったけど、どうしてそんなことを知っているのかとかいうことは一切聞いてこなかった。
「ならばなぜ女神像を壊したのだろうか」
「そりゃ、エンデ教の信者だからだろ」
 言い終わってからはたと気づいた。そういや女神像を壊したこととエンデ教の信者だってことは何の関係もないじゃないか。うおお、つい変な答えをキーラに言ってしまった! 妙な誤解が生まれかねないぞ、用心しなきゃ。
「エンデ教では女神像を嫌っているのか?」
 ほら来た、キーラ君の妙ちきりんな解釈が。もう俺、知らね。勝手にやっちゃって。
「彼女の名はメナというんだよ」
 背後からの静かな声。
 どきりとした。
 慌てて振り返ると、大聖堂の壁にもたれかかるようにしてエンデ教のボスの青年が立っていた。なんでこいつがこんな所にいるんだ? さっきまでは確かに外にいたはずなのに。いつの間に大聖堂の中に入ってきたんだ?
「ラットロテスの彼が『水』ならば、うちのメナは不運にも『風』ということになる。……君たちにこの意味が解るかい」
 ぼんやりとした瞳でそれだけを言うと、相手は壁から離れてゆっくりと歩き出した。向かっているのはヴィノバーと少女が対峙している場所。
 何を言っているのかさっぱり分からなかった――ということは、なかった。
 だって。
『水は、君に何をもたらすのか?』
 その為に苦しんでいるのなら。
『水が俺に何かをもたらすんじゃない。俺は――そのものでもある、らしいから』
 それのせいで諦めているのなら。
「分からないなら見ていなさい。これがこの二人の真実なのだから」
 灰色の髪の青年はヴィノバーと少女の近くまで行くと、二人に向かってすっと片手を上げた。まさか魔法を使うのかと思って止めようとしたが、足が鉛のように重くなっていて少しも動けなかった。そうしているうちに青年の手から光が溢れ出し、眩しく輝きながら少女の姿を包み込んだ。
 そして得られた「真実」は。

 

 +++++

 

 無惨なものだった。予期していたものよりもずっと、残酷に目の前で横たわっていたんだ。
 唯一の救いといったら、そう思わせる対象がヴィノバーではなかったということくらいだろうか。でもそんなものは救いになるようなものじゃなかった。むしろ彼をひどく苛もうとしていた。
 光に包まれた少女は、なんだかよく分からないものに変化していた。全身が緑色になっていて、人のような形をしているけど、決して人間と呼ばれるような姿じゃない。魔物と言えばしっくりくるかもしれない。牙を剥いて今にも飛びかかってきそうな形相をしており、体には緑色の布のような物体がぐるぐると巻きついていた。
 以前のあの可愛らしい少女の面影など微塵もない。実際に変化する瞬間を見せつけられないと、あの少女がこんな魔物みたいな奴と同じなんだとは信じられないだろう。
 これがヴィノバーの悩みの正体なんだろうか。
「ま、魔物……?」
 彼はこれ以上ないというほど驚いて、怯えたような目で変化した少女の姿を見ていた。
「どうしてこんなことに――そうか、お前が、お前が何かしたんだろ!」
 今度はエンデ教のボスに向かって言葉を投げつける。しかし飾り気のない純粋な怒声を浴びせられても、灰色の髪の青年は落ち着いた様子で立っていた。後ろから見ても表情なんか分かるわけないけど、なんだか静かな微笑でも浮かべていそうな気がした。
「私は何もしていないよ。彼女だって自分からエンデ教の信者になった。ただちょっと危険な力を持っていたからね、それを制御できない子だったから、少し協力してあげたまでだ。……彼女は君とは違い、不運だった。君は魔物になったことなどないだろう? だけど彼女は力の暴走により魔物に変化するんだ。そしてそれは、『風』である彼女にだけ発生する現象。君には分からない苦痛なのだろうね」
「分からない? なんでそんなことが――」
「じゃあ君は彼女の苦しみを癒せると言うのか? まだ会って間もない君が、彼女より遥かに幸福な君なんかが、君より不幸な彼女を見下して、優越感に浸らずに同等の視線で世界を見ることができるとでも言うのか? はっ、そんなことは不可能だ、無謀だ! 居もしない神なんかを崇めている時点で、お前たちはとっくに世界に対して優劣を作っているんだ! そんなお前が彼女を救うだと? そんな言葉、彼女が信じるとでも思っているのか!」
 途端に感情的になった相手は、とても大きな脅威を与えて叫んでいた。俺は怖気づいたわけじゃなかったけど、体中が動かなくなってしまい、息をすることさえ苦痛に感じられてきた。こんなものを真正面から受けたヴィノバーは何を思っているだろう。自分を責めているだろうか、それともまだ正当性を主張するだろうか。
「神に……頼めばいい」
 次に出てきたのは、ヴィノバーの呟きだった。
「神に頼めば俺たちを救ってくれるかもしれない。いや、救ってはくれなくても、悩みなら聞いてくれるはずだから」
「何を馬鹿げたことを言っている? この世に神など存在しない」
「いるさ、必ず!」
 修行僧として、神の存在を否定しないのは義務のようなものなのかもしれない。だけどヴィノバーの主張の中にはそれ以上のものが感じられた。よっぽど神を信じているのか、それとも。
「なぜそこまで言い切れる? お前は、神を見たとでも言うのか?」
「うるせえな、そんなことどうだっていいだろ! それよりお前、さっさとあいつを元の姿に戻せよ!」
 魔物と化した少女は黙ったまま、ただその場に存在していた。何をするでもなく、居場所のない子供のように、声も上げないでじっとしていた。
 黒いものがまた見え始めてくる。
「……そうだね」
 意外と素直に肯定したエンデ教のボスは、ヴィノバーに背を向けて緑の魔物の方へと向き直った。
 ヴィノバーと、メナと呼ばれていた少女。この二人にどんな秘密があるかなんて知らないけど、ようやく見つけた自分と共通する悩みを抱えた者が敵だと知ったら、どれくらいの絶望が待っているのだろうか。長い間苦しんできて、自分の気持ちを本当に理解してくれる人がいなくて、そんな日々の先に見つけた一筋の光が、闇によってかき消されてしまったならば。
 メナというこの少女は、大人の都合によって意志を殺されているように見える。ヴィノバーは司教がいたからまだ自分を主張することができるけど、この子はエンデ教の信者になって、すごい力があることが周囲に知れて、力を制御するという題目を掲げて利用されているみたいだ。だから俺はまだこの子がどんな性格で、どんな声をしていて、どんな目で世界を見ているかを知らない。力の象徴として戦争に利用されるなんてこと、本人が本当に望んだことだったろうか?
 灰色の髪の青年は片手を上げ、目を閉じた。次第にその手に光が集まり、淡い輝きとなって緑の魔物の姿を溶かしてゆく。光だけはとても綺麗で、魔物の姿は醜くて。なんだかどうしようもなく切なくなってしまい、この世にこんなにも儚いものがあったのかと戸惑ってしまった。
 確かに、これじゃ皆が化け物と呼んでも仕方がない気がした。だけど俺は、ヴィノバーを知っている俺だけは、彼女のことやヴィノバーのことを化け物と呼ぶ勇気が出てこなかった。もしそう呼んだとしたら、俺の中の世界が反転し、今まで積み上げてきた様々な価値観が崩れてしまいそうな気がしたんだ。それは耐えられないことだった。だってそれは、俺の過去の全てを否定することに繋がるから。
 冷たい風が頬に当たり、魔物を包んでいた光がぱっと消えた。そうして見えたのは、白い服を着た茶髪の少女の姿。手にはしっかりと弓が握られており、今にも活き活きとお喋りを始めそうな可愛らしい少女だった。
 なのに、なぜ。
 白い服が赤く染まっている。そして時は止まらず、少女は前のめりにばたりと倒れた。同時に灰色の髪の青年の姿が消える。
「お、おい……」
 少女の元へヴィノバーが駆け寄った。俺も真似しようとした。だけど動いてはいけない気がした。その子の傍に行ってはいけない気がした。
 俺がそうして躊躇していると、高い天井によって大きく響いた音が聞こえてきた。それは過去に幾度か聞いたことのある音だった。
 耳の鼓膜を破るような、脅迫めいた存在感溢れる音。
 ――銃声。
「壊れてしまえばいい」
 不協和音のように響く声は。
「お前たちなど世界から見捨てられ、跡形もなく壊れてしまえばいい!」
 視界が黒く染まっていく。
 少女の元でしゃがみ込んだヴィノバーは、右手で左腕を押さえた。きっと銃で撃たれたんだ。次第に血の色が鮮明に見えてきた。
 銃声の元を辿って視線を動かしてゆく。それはゆっくりとしか動かせなかった。結果を急いで求めすぎたら、その事実に戸惑った時、もう二度とは立ち直れないような気がしたから。
 世界がスローで再生されていく中、視界の端に見えたものは銀の煌めきだった。端に追いやられすぎると黒に埋もれてしまうけれど、その人の服もまた黒だったから、どちらにしても同じなんだと妙に納得してしまった。だけど本当は、どうして納得できるのか少しも分からなかった。分からなかったんだ。
 ヴィノバーとメナに銃口を向けている相手。それは、かつて見たことのある、綺麗な銀髪を持つ修行僧の少女だった。名は確か、リザといった。とてつもなくヴィノバーを嫌っていたあの人だ。
 しかしそれはおかしかった。相手は黒い服を着て黒い銃を持ち、空いている片方の手では白に近い灰色の髪を握っていた。それは紛れもなくエンデ教の青年教祖だった。さっきまでヴィノバーと話をして、メナの姿を元に戻した、あの灰色の髪の青年だったんだ。
「リザ、何を――」
「黙れ化け物! 貴様がいたから大聖堂は狙われた! 貴様が大聖堂を壊したんだ、魔物を呼び寄せたんだ!」
 ヴィノバーの言葉は届かない。届いてもきっと、大きく歪められてしまうだけ。きっと、そう――そういうことだったんだ。
 だから彼は。
 彼は。
「エンデ教など、平等を語る奴らなど、全て滅んでしまえばいい! これ以上私たちの世界に入ってくるな!!」
 立て続けに銃声が聞こえた。一発、二発と続くその轟音は、俺の耳に遅れて届けられてきたようだった。何かが起きてから音が分かった。そして音が通り過ぎてから、何が起こったのか理解できた気がした。
 倒れたメナと、倒れないヴィノバー。そして相手の手中にある、エンデ教の指導者シェオル。
 誰もが儚く泣いていた。自分の信じるものが他者によって認められないから。涙を流さず泣いていた。あの銀髪少女だって同じだ。
 もう止まってしまっただろうか。生きてはいないだろうか。銃で撃たれたんだから、生命は終わりを迎えたかもしれない。だけどそんなの悲しすぎるだろ。必要としていない力に恵まれ、戦争の為に利用され、そして散るだけの生命なんて。
 それでもメナは動かなかった。その前でヴィノバーが立っていた。エンデ教のシェオル教祖は相手に捕らわれていても、落ち着いた様子でこっちの動向を見ているようだった。
 一体何が彼らをこうさせているのか、俺がいくら考えてみても答えなど見出せるはずがなかった。なぜメナが撃たれなければならないのか、なぜヴィノバーが倒れてはいけないのか、なぜシェオルが自らを守ろうとしないのか。答えは見出せなかったけど、俺はもう二度と戸惑いたくないと思った。戸惑ってばかりいたら、全てを見過ごしてしまいそうな気がしたから。
 ヴィノバーもメナも撃たれた。床には赤い血が飛び散っている。それをまともに見ると気分が悪くなった。胃の中の物を吐き出してしまいそうになった。
「リザ、お前、自分が何をしてるのか分かってるのか!」
 左腕を押さえたままで、ヴィノバーが銀髪少女に向かって叫ぶ。自分に正直な彼は怒っていた。ただ怒って、自分の思いを相手に伝えようと声を発していた。それを聞くことができるのは、幸福なことなのかもしれないのに。
「だったらお前はどうなんだ、ヴィノバー・エルノクレス。お前がそこの化け物を殺したんじゃないか!」
「俺は何も――」
「何もしていないと言えるか? いいや、言えはしないはずだ、お前は何も分かっていない! この世界にお前という生命が生きている限り、お前が人間であり続ける限り、世界のあらゆるものが悲鳴を上げる。お前は、要らない……この世に不必要な命なんだよ!」
 存在の否定。
 彼女は、そういった意味合いの言葉をヴィノバーに投げつけた。
 ヴィノバーは走り出した。銀髪少女を避けるように、彼女の反対側に向かって走り出した。広間を出て廊下に入っていき、すぐに姿が見えなくなってしまった。
 それに続いてキーラが走り出した。どうやらヴィノバーの後を追う気らしい。俺も行かなきゃならない気がした。だけど、ここに残されたメナやシェオルはどうなるだろう。どうなってしまうんだろう。
 俺は何をすべきなのか分からなかった。だけど何かをしなくてはならないことだけは嫌というほどよく分かっていた。俺が一人でできることなんてたかが知れていて、だけど俺が動かなければ動かないものも確かにあって。自らを責める為にも走り出し、キーラの後を追った。それはただ、支えが欲しかっただけなのかもしれないけど。
 黒いものが邪魔で、目の前が小さく見えた。俺は咄嗟にもう邪魔しないでくれと願った。するとすぐに視界から消え、世界が広く見えたんだ。
 それは周りに誰もいなかったから?

 

 

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