38

 いくら望んだって、それが神の意志ならば。

 

 辿り着いた場所は、とても質素な部屋だった。
 本棚とタンスと机だけが置かれてあり、他には何一つとして家具と呼ばれる物がなかった。眠る為のベッドすらない。その代わりなのだろうか、床に木の板が敷かれている。それが置かれている床はどこも薄汚れており、上を見上げてもランプの一つすらなく、窓もなかったので余計に部屋全体が暗く見えた。
 そんな小さな部屋の片隅で、ヴィノバーは一人うずくまっていた。まるでそこに一つの宇宙が作り上げられているかのように、彼は黙ってうずくまったまま、壁の方を向いて肩で息をしていた。キーラと俺が部屋に入ってきても気がついていないようだった。
 こんな時、人は何をすればいいんだろう。彼に何を言ってやれば救われるんだろう。一人の少女の言葉から逃げ出した彼に何を言えば、永遠の苦しみから一瞬間だけでも解放できるんだろうか。そこにある真実だけは、何を言ったところで変えようもないというのに。
 そうやって踏みとどまっていると、肩で息をしながらヴィノバーがちらりとこちらを見てきた。思いがけず目が合ってしまって、何か言わなければならないような気がした。だけど焦る気持ちとは裏腹に、今の彼にとって必要な文句が何一つとして出てこない。慰めればいいんだろうか、否定すればいいんだろうか、それともいっそ無視するのが親切なのか? そんなことが俺に分かるはずもなく。
「ヴィノバーよ、気に病むことはないぞ」
 俺が黙っているとキーラが先に口を開いた。横から聞いていて、あまりに普段通りの口調だったので途端に羨ましくなった。
 俺は何を動揺しているのだろう。何に対してこんなにも怯えているのだろう?
 ヴィノバーは立ち上がり、こっちをじっと見てきた。その瞳にはもはや強い光は宿っていない。だけどそこには光ではない何かが確かにあって、今はそれが異様なほどに俺を見つめている気がしたんだ。
「……座れよ」
 ふっと目をそらし、彼はそれだけを短く言った。
 とても静かな空間の中で、彼の声はよく響いていた。

 

 +++++

 

 冷たい床に腰を下ろし、何もない部屋の片隅で三人は顔を見合わせていた。そこにあるのは静寂と希望だけで、もし前者が訪れたならば、俺の中の全てのものが瞬時に崩れ去ってしまいそうな気がした。
 しかしそうやって恐れていても世界は止まってくれないし、ずっと無慈悲であり続けているのだから、俺の前に座っているヴィノバーはしばらく黙ったままだった。この世を支配する静寂というものの本当の怖さを何人の人が知っているだろう。知っているつもりの人ならいくらでもいる。だけどこんな何もない質素な汚れた部屋の中で、冷たい床の上に三人で座り込み、それでもどこか温かさの残る空気を吸いながら静寂について考えると、どうあってもそれは人間にとって大きな脅威であると考えざるを得ないことになる。
 このまま何も起こらずに、何もかもが夢だったと言ってくれたなら、全世界の人々が歓声を上げて拍手を送るだろう。俺だってその中の一人でありたい。だけどヴィノバーは黙ったままで、そしてその静寂は後に来る激動の予兆なのだということを、俺は本当は知っていたのかもしれない。知っていて恐れているのかもしれない。
「――今まで、あんたたちに伝えられなかったのは、せっかく仲良くなれたのに嫌われたくなかったからなんだ。そんなに大したことなんてないことなんだけど、他の皆にとってはすごく恐ろしいことみたいだから、あんたたちもそれを知ったら、俺から離れていってしまうんじゃないかって」
 ぽつりと吐き出した言葉は負の感情に満たされている。それは悲しみ――いや、淋しさか。
「駄目だよな、そんなの。ただ自分を守ってるだけだよな。自分が苦しみたくないから、本当のことを必死になって隠して、嫌われたくないだとか言うなんて。そんなことをするから俺は皆に認められないんだよな。リザに否定されるんだよな。分かってる。分かってるんだけど……どうしようもなく怖かった。怖かったんだ」
 何かを確かめるかのように、ヴィノバーは二度「怖かった」と繰り返した。この声は以前にも聞いたことがあるものだった。俺はそれを忘れちゃいけなかったんだ。
「今は戦争中で、司教もコルネスも他の修行僧の奴らも忙しくて、皆が命かけて戦ってるような時だけど、俺はもうあの中に入っていけないと思う。今は、あそこに戻っても足を引っ張るだけだと思う。だから――こう言っちゃ変だけど、どうか、俺のわがままに少しだけ付き合ってくれないか。全てをあんたたちに……過去から来た他人であるあんたたちに、聞いてほしいんだ」
 そうだ。俺たちは彼にとっては他人。しかも生きている時代さえ違う人間であって、本来なら一緒に過ごすことなんて不可能だった間柄なんだ。それを捻じ曲げてしまったのはよかったことなのか?
 だけど、だからこそ彼は。
「俺は昔からこの大聖堂に住んでたわけじゃないんだ。昔はこのラットロテスの東にある小さな村に住んでて、そこでは俺の両親も一緒に暮らしてた」
 素朴な空間の中、一つの疑問点にぶつかる。そういえば俺は今までヴィノバーの親の話を聞いたことがなかった。親代わりである司教様のことならもうすっかり知っているけど、そうだよな、彼にだって本当の両親がいるはずなんだから。でもなんでだろうか、ヴィノバーに両親がいないことが当たり前のように思えて、そこにたった一つの疑問の欠片すら持っていなかったんだ。今考えればこれほどおかしなことはない。どうして言われるまで気がつかなかったんだ。
「あの村では平和に暮らしてた。すごいガキの頃だったけどさ、あそこにはリザも住んでたんだぜ。小さい村だったから子供は俺とリザしかいなくって、よく一緒に遊んでたんだ。でもさ……なんでだろうな。ある日、突然俺の中の魔力が暴走して、村一つ消滅させちゃったんだ。村の人たちも、俺の両親も、リザの両親も死んじまって、生き残ってたのは俺とリザだけだった。
 その話を聞いたんだろう、ラットロテスから司教が廃墟に一人で来た。司教は俺が原因だってことを知らなかったんだと思うけど、俺とリザを大聖堂に連れ込んだんだ。その時はまだ神のことなんて全然信じてなくて、なんで修行僧にならなきゃならないんだって思ったけど、俺にもリザにも行く場所がなかった。司教がわざわざ作ってくれた居場所をかき消すほど、気持ちに余裕があったわけじゃなかったから。……まだまだ世界のことなんて何も知らないようなガキだったけど、そういうことだけは本能的に分かったんだ。それはリザも同じだったらしくて、でも彼女はもう俺に笑いかけてこなくなった。
 司教は俺にもリザにも優しかった。その頃は情けない姿はあまり目にしなかったから、純粋に憧れの感情を抱いてた。他の修行僧の人たちも俺たちを歓迎してくれて、いろんなことを教えてくれた。そうやって何年か過ごしていたら、大聖堂にコルネスがやって来た。あいつは魔法にも心得があるらしくて、俺の中にある魔力の存在を見抜いてきた。俺はそれが何なのかよく分かっていなくて、これが原因で村が消滅したんだとは考えてなかったから、コルネスに事実を告げられた時はさすがにショックだった。その時のことは今でもよく覚えている。あれは春の終わりの日で、俺が九歳の時だった。
 すごく驚いて、自分が村人を殺したこと、自分の両親を殺したこと、そして幼馴染のリザを傷つけたことを一瞬で理解した。まだ若かった司教も驚いてた。今まですぐ傍まで来てくれて、優しく頭をなでてくれたその人が一歩後ろに引いたように見えて、突然怖くなった。完全にそこには距離ができていた。そしてようやく俺は、自分の持つ魔力が異常なものなんだってことに気づいたんだ。でもそれよりも俺は怖かった。リザに嫌われたことと同じように、司教にも嫌われてしまうんじゃないかって。またあの村と同じように、この大聖堂も壊してしまうんじゃないかと恐れた。
 目に見えないものに怯えて、恐怖が俺を苛んだ。気がつけば視界が真っ暗になってて、胸の奥から何か冷たくて気持ちいいものが溢れてきた。そいつに飲み込まれてもいいと思ったら、どんどん意識が遠のいていった。そして次に目を開けた時にはもう、周囲には誰もいなくなっていたんだ。
 ぼんやりとしたままで周りを見たら、俺は森の中にいることに気づいた。そして何故だか知らないけど、白いテーブルと椅子が置いてあった。森の中にテーブルと椅子が無造作に転がってるなんて、きっと夢に違いないって思った。だってあまりにも不自然だろ? でもそれらはきちんと並べられていて、テーブルの上には二組の白いカップが置かれていた。どこかの家の庭かと思って出ていこうと考えたけど、歩き出したら後ろから声をかけられた。『待て』って、一言。
 びっくりして振り返ったら、椅子に誰かが座っていた。さっきまで誰もいなかったはずなのに、その人は何事もなかったかのような顔で平然としていた。しかも何気に偉そうでさ。何を言われるのかと思ってびくびくしてたら、『そこに座れ』って椅子を指して命令してきた。言われた通りにしたら、目の前のカップの中に突然水が現れたんだ。驚いて相手の顔を見たら、しばらく厳しそうな顔をしてたけど、ふっと表情を崩して笑いかけてきたんだ。それで俺は、この人は悪い人じゃないって思った。
 それから俺はその人と話をした。長い長い時間の中で、いろんな話をした。その人は俺の話を飽きずに聞いてくれて、何もかもをよく知っていた。聖書の内容についてもいろんなことを教えてくれたし、俺の中にある魔力についても知っていた。それは精霊の持つ魔力だった。俺は近い将来に精霊となる人として生まれてきて、今は魔力を体になじませている最中だと言っていた。精霊の魔力は人ではコントロールできないから、自分の意思に関係なく時々暴走するんだと教えてくれた。それを自在に操れるようになれたその時に、俺は人を捨てて精霊にならなければならないんだって。
 やっと自分の異常さが分かっても、俺はラットロテスに戻らなければならなかった。でもそれが怖かった。皆が俺を恐れるようになったんじゃないかって思ったから。実際それは現実になったんだけど、そのことを相手に話したら、なんとなく悲しそうな顔をした。でも相手は俺を慰めてくれた。お前のことを理解してくれる人間は、必ずどこかに一人はいるからって。それに俺と同じように精霊の力を持っている人も、世界には何人かいると教えてくれた。それでちょっと救われた気がした。心がすうっと軽くなったように感じられた。
 でもどうしてそんなに多くのことを知っているのかと、俺は相手に質問しようとした。相手は何もかもを知っていて、答えられなかったものなんか一つもなくて、聖書の中の記述でさえ事実か否かを教えてくれる。だから気になってそう聞こうとしたんだけど、俺はふと分かったような気がした。その人の正体が。その人の本当の姿が。
 その人は、きっと神だった。
 俺が『あんたは神なのか』って尋ねたら、相手は子供のように悪戯っぽく笑って、『誰にも言うなよ』って言ってきた。最初はびっくりした。神ならもっと偉大そうな顔をしてて、人前に出てくるなんてことは決してないと思っていたのに、相手は司教と同じくらいの年齢にしか見えなくて、あまりにもイメージとかけ離れてたから。それに気さくな人だった。この人なら、世界を守ってくれるんじゃないかって思えるくらいに。
 そしてさよならを告げると、相手は椅子やテーブルと一緒に姿を消した。俺はラットロテスに戻った。大聖堂は壊れてはいなかったけど、町はほとんど壊滅状態だった。そして皆が俺のことを避けて、遠くの方から変な目で見てきた。でもそれはそんなに気にならなかった。だって神の言葉を信じてたから。それに司教だけは、俺のことを待っていてくれた。心配して泣きまくってた。そんな情けない姿を見て、ああ、俺がこの人を守らなきゃって思ったんだ。
 それからは、あんたらも知ってる通りだ。相変わらず俺は皆に恐れられてるけど、俺が精霊になるその前に、立派な神官になって神にお礼を言いたいんだ。あいつに会っていなければ俺は、たぶん生きていけなかったと思うから。またいつ魔力が暴走するか分からないけど、俺はずっとここにいたい。そして神官になって神に恩を返せたなら、俺はもう未練を残さずに精霊になれると思うんだ。……」

 


 彼の長い話は終わった。
 俺は今まで、ヴィノバーは何らかのものによって苦しめられているとばかり思っていた。でも話を聞いているとそれは違うような気がしてきた。だって彼は諦めているわけじゃない。だからと言って抗っているわけでもないけど、ただ単純に、彼は自らに課せられた役目を受け入れているんだ。
 だけどそれって、辛くない?
「俺は遠ざからないからな」
 やっと分かった、今の彼に必要な一言。
 話を聞き終えた今なら確信してそう言える。精霊だか何だか知らないけど、勝手に魔力を体の中に放り込まれて、それで将来は人を捨てろだって? 俺ならそんなのはごめんだって思うけど、ヴィノバーはもうすっかり受け入れている。そしてそれを非難する権利は誰にもないはずだった。だから俺も、彼の気持ちを受け止めていこうと思う。
 お人好しなヴィノバーは周囲の人間を傷つけることを恐れているし、傷つけられた人から嫌われることも恐れている。今では平気そうに笑って生きているけど、それでも誰かから嫌がらせを受けたら悲しそうな顔をしていた。どんなに自分は平気だと言い聞かせたって、人に嫌われるのは辛いものだから。人間はそんなに簡単にできちゃいないんだ。
 傷つけられた側と、傷つけた側。それは必ずしも前者が被害者だと呼ばれるわけじゃない。
 この中に悪かった人なんているんだろうか? 皆は口を揃えてヴィノバーが悪いと言うだろうな。だけど司教は否定するだろう。あの人が、神の言っていた人だというのならば。
 話を終えたヴィノバーは、いくらか穏やかさを取り戻したようだった。だけどその顔から影が消えることはなかった。それが完全に消える日は恐らく、彼が人であり続ける限り決して来ないだろう。それは悲しいことだけど、でも、それこそが人である証だと俺は思う。
 この静かな空間で得たものは、想像以上に大きなものだった。これを決して失くしてしまわないようにしなければならない。それは何の為にかなんて、どうか聞かないでほしい。もうすでに分かっているはずだから。
 そしてまた、俺たちは外の世界に行かなければならないことを知っていた。
 そこで得られるものは何なのだろう。

 

 

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