39

 もう二度と戻れないような気がして。

 

「ヴィノバー!」
 勢いよくドアが開く。何もない質素な部屋の中に入ってきたのは、黒い服を着た金髪の修行僧の青年だった。全然知らない奴だ。またヴィノバーに文句でも言いに来たのだろうか。
「大変なんだ、司教様がエンデ教の奴らに――」
 そうじゃなかった。青白い顔をしている相手はどうやらヴィノバーに危機を伝えに来たらしい。それを聞いたヴィノバーは相手の台詞が終わる前にさっと立ち上がり、そのまま修行僧の兄ちゃんを押しのけて部屋を出ていってしまった。廊下を乱暴に走る音が無駄に大きく聞こえた。
 そして取り残された俺とキーラ君は。
「よし、我々も行くぞ、アカツキよ!」
「あー……言うと思った」
 勢いよく立ち上がった大僧正様は予想通りの反応をしてくれた。そしてまた腕を引っ張ってくる。しぶしぶと立ち上がると、ドアの横に立っていた修行僧の兄ちゃんが変な顔でこっちを見ていた。しかしそれは一瞬だけで、突然はっとした表情を見せて早口に何やら言ってきた。
「そうだ、あんたたちでもいい! 司教様はリザを庇って、エンデ教のシェオルって奴に捕まったんだ。広間はすでにエンデ教の信者で溢れている。俺たち教会の人間はみんな黒服を着てるから、うまく助けることができないんだ。でも黒服を着ていないヴィノバーやあんたたちなら、あるいは……」
 ああ、なるほど。だんだんこいつらの意図が呑み込めてきたぞ。
「普段は嫌がらせばっかしてんのに、こういう時になったら急に態度を変えるんだな。まったくヴィノバーが可哀想だ」
「こら、アカツキよ。今はそんなことを言っている場合ではないぞ」
 キーラに怒られても全然気にならなかった。相手の修行僧の兄ちゃんの顔を見てみると、ばつが悪そうに俺と視線を合わせてこなかった。図星だったんだろう。言い訳すら見つけられないんだろう。俯いたままで、手をぎゅっと握りしめていた。どんな気持ちでそんなことをしているかは知らないけれど。
「気にすることはないぞ、少年よ。我々はもうヴィノバーのことを知っている。だから君の気持ちも分からなくはないのだ」
 横から軽い感じの声が聞こえてきても、嘘ばかり言うな、とは言えなかった。
 だって俺も本当は。
「……怖くないのか?」
 顔を上げないまま、相手は短く聞いてくる。
「うっせーな、怖かったらどうしたんだよ!」
 それだけを言い残し、俺はキーラを引っ張って部屋を出ていった。

 

 怖くないわけがなかった。もちろん性格が怖いんじゃない。彼が内に秘めている精霊の魔力とやらが怖いんだ。
 彼は自分で、いつそれが暴走するか分からないと言っていた。それってつまり、彼の周囲にいたらいつ怪我をするか分からないってことだ。死ぬことだって大いにあり得る。常に命の危険にさらされている状態だと言ってもいいだろう。
 そんな相手を怖くないと誰が言えるだろう? 嘘を吐くのは簡単でも、自分を誤魔化すのは想像より遥かに難しい。だからもう嘘はやめようと思った。どうせ後になったら自分に返ってくるんだから、いちいちそれに苦しんでたって意味がない。
「アカツキはヴィノバーのことが嫌いなのか?」
 廊下を歩いていると、キーラが妙なことを聞いてきた。
「なんでそうなるんだよ。俺がいつ嫌いだって言った?」
 また人の話を聞いてなかったのか、こいつは。
 なんだかもう怒る気力も湧いてこなかった。そうして歩いていると、広間の方に黒い人だかりが見えてきた。きっとラットロテスの連中だ。確かにあれだけ真っ黒だと、司教様をこっそり助けようとしてもすぐに敵にばれちまうよな。まあそんなことはどーでもいいや、ヴィノバーはどこに行ったんだろうか?
 とりあえず集団で固まっている真っ黒な連中の後ろを通り、広間の中央が見える場所までコソコソと移動した。そこには確かに司教様がいた。エンデ教のシェオルもいる。それだけじゃなく、メナが倒れたまま放置されていた。外にいた他のエンデ教信者たちもおり、彼らはラットロテスの修行僧たちと向き合う形で立っていた。
 肝心のヴィノバーの姿はどこにもない。リザはラットロテスの黒服たちに紛れ込んでいた。どうやら怪我をしているようで、他の修行僧の連中に後ろへと追いやられているみたいだった。また無茶なことでもやらかしたんだろうな。でもあいつ、ヴィノバーの幼馴染なんだよな。
 ……今はそんなことよりもヴィノバーを探そうか。仮にも司教様に頼まれたんだから。再びコソコソと動き始め、今度は集団になっているエンデ教の連中の後ろを通っていった。ちょっとばれそうな気がしてヒヤヒヤしたものの、全く誰も気づかないんだから拍子抜けする。これなら楽勝なんじゃねーの?
 大聖堂の大きな扉の前まで来て、さてどうしたものかと立ち止まった。この場所だとちょうど司教やシェオルの背中が見える。もしこっそりと司教様を奪回するならばエンデ教信者たちの前を通らなければならず、かと言って真正面から出ていったら失敗するのは目に見えて分かっている。背後に回り込むのには全く骨が折れなかったけど、いざ助けるとなると何もできないことに気づいてしまったのであった。うわあ。何じゃこりゃ。
 なんてことを考えていると何かに背中を押され、そのまま床にぺたんと倒れてしまった。しかもその何かが体の上に乗ってきたし。こんな時に何だと思って見上げてみると、黒い服しか見えなかった。ラットロテスの修行僧か。なんで邪魔してくるんだ、こいつは。
 さては俺をエンデ教信者と間違えたんだな、と思いつつ手で押しのけると、そいつは意外とすんなり俺から下りた。
「あれ……」
 さらに目の前には不思議な光景が広がっていた。さっき俺の上に乗ってきた相手は、確かに黒服を着てるけど、それはレーゼ兄さんだった。でも兄さんって確か外にいたはずだよな。それがなんで俺の上に乗るようなことがあるんだよ。
 俺がまじまじと相手の顔を見ていると、兄さんは無言ですっと片手を頭上に上げた。
 直観的に分かった。この人、魔法使う気だ。でも一応建物の中なんだけどな、こんな場所で使っちゃって平気なのかな? 平気なわけない気がするけど。
「こらぁ!!」
 しかし魔法は発動せず、代わりに兄さんが派手にこけた。そうさせたのはエーネット姐さんだった。大聖堂の外からすごい勢いで走ってきて、レーゼ兄さんに渾身の体当たりをぶちかましたんだ。なんだか遥か天空にまでふっ飛ばされそうな気がしたが、エンデ教信者の一人に当たったおかげでそれは免れたようだった。いや、よかったね。
「こんな建物の中で魔法を使うなんて、あんた大聖堂を壊す気? この馬鹿!」
 馬鹿って、ひでぇ。まだ魔法を使ったってわけでもないのに。
 そんな姐さんのお怒りを正面から受けても、兄さんは表情を一つも変えなかった。何かを言う気配もない。むしろぼんやりしているように見える。もしかして驚いてるのか? そりゃまた、随分のんびりした驚き方だなぁ。
 なんてのんきに二人の様子を観察していると、この広間にいる全ての人々がこっちに注目していることに気づいた。おいおいちょっと待ってくださいよ、これだとコソコソ行動した意味ないじゃんか。司教様を助けるも何も、相手に見つかったら意味ないんだって! くっそー、やってくれたな、魔法使いのお二人さん。つーかなんで味方にハメられなきゃならないんだ。もう泣きたい。
 こうなりゃヴィノバーに賭けるしかないな。いや、正直言って最初からヴィノバーに頼ろうと思ってたけどさ。でもここまで頑張ったんだから許してくれるだろ?
「あなたは、魔法王国の――」
 ふと遠くからシェオルの声が響いてきた。そっちに顔を向けると、司教様の頭に銃口をくっつけているエンデ教のボスが見える。
 さっきはほんのちょっとだけ、心を許せると思ったのに。
「何をしようとしているのか知らないが、状況をよく見てから判断するんだな」
 相手は睨むような目で兄さんを見つめ、脅しのような言葉を投げつけてきた。この人ってこんなに冷たい人だった? 司教の姿を確認したレーゼ兄さんは、ちょっと下に俯いて腕を組んだ。魔法を使うことは諦めたらしい。それはそれでほっとしたけど、安心してる余裕なんて少しもないはずだった。
「いいや、遠慮する必要はない!」
 やっと静かになった空間の中、無駄に大きな声が上から降ってきた。ぎょっとして上を見上げると、高い天井の近くの壁にコルネス司祭が立っているのが見える。なんであんな所に立ってるんだよ。また魔法を使ったとでも言うのか? 相変わらず無茶苦茶なことばっかだな、異世界って所は。
「その司教は偽者。本物は別の場所にいるのですよ。ディーレ助祭!」
 コルネスの声に反応し、司教の姿が光に包まれる。そして気がつけば赤い髪の司教様は、頭の禿げたただのおっちゃんになっていた。
 何なのこれ。どこのショー?
「さあレーゼ殿、これで思う存分――」
 全員がコルネスに注目している中、下の方から何かが彼に向かって飛んでいくのが見えた。弓矢のようにも見えるそれがコルネスの足元に届くと、小規模な爆発が巻き起こる。なかなかの派手さだ。そいつを食らったコルネスは当然のごとく落下していく。
 恐らくそれはエンデ教の作戦だったんだろうな。コルネスが落ちた先はエンデ教信者に囲まれるような位置だった。とりあえず無事に着地した司祭さんは、それでもしっかりとエンデ教信者たちに武器を向けられていた。
「おや……」
 失敗失敗、と愉快そうに言い、残念そうに笑うコルネス司祭。何やってんだあの人は。つーかこんなキャラだったっけ?
「司教がいないのなら意味がない」
 手で掴んでいたディーレ助祭を放り投げ、シェオルはこっちに向かって歩き出した。大勢いたエンデ教信者はさっと場を譲り、一つの綺麗な道が即座に作り上げられる。
 この人々は、一体何を望んでいるのか。
 俺には少しも分からないことを必死になって信じているのかもしれない。それにすがりつかないと、決して生きていけないというほどに。
 そんな彼らの信条を壊すことは悪にしかならない――それは分かるけれど、だからと言って後ろに引いてばかりでは、一瞬の隙をつかれてやられてしまう。同じ人間同士でも、心を支配するものはそれぞれ異なっているのだから。
 分かり合うことは不可能だと誰かは言うだろう。それでも手を握ることはできると言う人もいるだろう。そのどちらでもない、どうなるかなんてさっぱり分からないと放り投げる人もいるはずだ。だったら俺は、俺は、どうなんだろう。その中のどの主張に埋もれてしまっているのだろう?
「おりゃあああっ!!」
 世界がぐるんと高速で回った。そして目に入るのは、見慣れた青年の顔。
「……は?」
 それは確かにヴィノバーだった。いや、その前に何が起こった?
「あれ? シェオルじゃない――って」
 間の抜けた声を上げるヴィノバー。同時に、俺は頭と背中とを強く打ってしまった。
 どうやら床にすっ転んだらしい。その証拠に俺は今、高い高い天井を見上げている。そのちょっと横には転ばずに踏ん張ったヴィノバーの靴が見えた。ああ、なんか俺、災難だな。頭も背中も痛いったらありゃしない。つーかどこから湧いてきたんだ、この死体運びの兄ちゃんは。
 よいしょと体を起こすと、すぐに状況が理解できた。なんとラットロテスの床に穴が開いているではないか。きっと地下から出てきたんだな、ヴィノバーの奴は。しかし何だ、こっちの世界に来てからやたらと穴に縁があるような気がするな。もう勘弁してほしいってのにさ。
「あ、北口と南口を間違えた! くっそー、せっかく地下から司教を助けようと思ったのに……ってちょっと待てよ、司教のおっさんなんかどこにもいないじゃねーか」
 一人で悔やんだり文句を言ったり、相変わらず騒がしい兄ちゃんだった。きょろきょろとせわしなく周囲を見回し、多くの人々の注目を集めている。
 でももう注目されてもどうでもよかった。司教がここにいないのなら、隠れて行動する必要性はないからな。大声で喋って堂々としていればいい。それができなくても、無理に自分を隠す必要はないから。
「く、くくく……」
 風に乗って聞こえた笑い声。それは誰のものだったろう。
「やっと出てきたね、水の子。私は今まで君を待っていたんだよ」
 話しているのは、エンデ教の指導者シェオルだった。その周囲には彼を守るエンデ教信者たちがいる。だけど彼の前には何もなく、ただ声のよく透る空間が広がっているだけだった。
 何もない空間は時に恐ろしく見えた。それを見たヴィノバーははっとした表情を作り、どうしてだか分らないけど、突然その中へ向かって走り出した。何か思うところがあったのかもしれない。心に引っかかるものがあったのかもしれない。でもそれはいけないことだった。そんな軽率な行動をしたりしたら、大きな反動が待っていることを知るべきだったんだ。
「馬鹿! 真正面から向かうな!」
 どこか遠くの方から声が響く。それはヴィノバーの幼馴染だった人の声。
「もう遅い」
 シェオルの前まで走ったヴィノバーはぴたりと足を止めた。よく見てみると床に変な模様が浮かび上がっている。あんなもの、さっきまではなかったはずだ。だけどそれは、シェオルの前の何もない空間に確かに存在していた。
 一瞬だけ光がぱっと煌めいた。本当に一瞬だけだったので、目を閉じずに始終を見ていられた。でも後から後悔した。ほんの少しでも目を閉じていた方が、うんと幸せになったような気がしたから。
「メナは……」
 水が。
「メナは死んだ」
 水が煌めいて。
「不公平な世界を仰ぐお前らのせいで、一つの尊い命が消されたんだ!」
 煌めき、弾け、床に落ちた。
 地に着いた水は一まとまりになり、ただ静かに揺れるだけ。
 そこはヴィノバーの立っていた場所。彼の姿はもうどこにもなく、大量に飛び散った水だけが、確かなものとしてこの世界に存在していた。
 俺の目の前でそうなった。ここにいる全ての人の目の前で、ヴィノバーはその姿を水へと変えたんだ。
 何なんだ、これは。何がどうなって人間が水になったりするんだ。
 これが精霊の魔力とやらの影響か? これがヴィノバーが恐れていた、いやラットロテスの連中が忌み嫌っていた暴走ってものなのか?
 こんなものの為にヴィノバーは生きていたのか? こんなものの為に今まで苦しんでいたのか? この事実のどこに恐れる理由がある? いや違う、こんなものは恐れられていた原因じゃない。そんなことは分かっている、分かっているんだけど、だったらこれは一体何なんだ? どうして人間が、一人の人間が、世界を構成する物質である水にその姿を変えなければならないんだ? そこにどんな意味があるんだ? 彼の意思は生きているのか? 皆はこれを望んでいたのか? いいやシェオル、あいつが、こんなことを祈っていたのか?
 困惑していると背後から、大規模な爆発音が聞こえた。振り返る気になれなかったけど、キーラがぐいぐいと服を引っ張ってきたから仕方なしに振り返った。すると視界にレーゼが映った。彼は大聖堂の外にいたエンデ教信者たちに向かって魔法を放ったんだろう。周りの人たちがざわめき始めていた。
「退け! これ以上好きにはさせない」
 鋭い声が飛ぶ。どこかから魔封じがどうのこうのと騒ぐ声が聞こえた。しばらくそうやってざわめいていたが、再びレーゼが魔法の光を手に集め始めると、シェオルが何か言ってエンデ教の集団が撤退を始めた。
 全てがぼんやりした視界の中で行われ、まるで別次元に放り込まれているような感覚がした。自分の部屋でテレビを見ているような、一人だけ場に入り切れず、隔離されているかのように。
 団体が去るとまた静かになった。この静寂は恐ろしかった。最初にそれを破ったのはレーゼで、彼は普段通りの態度で廊下を歩いてどこかへ行った。その靴音が聞こえなくなると静寂が再来する。誰も何も言わず、動かず、息もしていないような気がした。俺だって同じだったかもしれない。
 この場に司教がいなくてよかったと思った。でも心のどこかで、ここに司教がいてほしかったと思っていた。過去に起こったことは変えられないのに、これから先にある未来を恐れ、目前に横たわる暗黒を乗り越えることもできず、ただじっとしたまま時が過ぎるのを待っている。過去が変わることを期待して。未来が照らされることを必要として。でも人間って弱い奴ばかりだから、未来はいつも悪い方へ進むように思えてしまうんだ。そうだとは限らないのにそう思い込んで、ありもしない事柄に恐怖を抱いて明日を否定する。今もまた心配事が増える一方で、ほんの少しでも足を踏み出したならば、もう二度とはここに戻ってこれないような気がしたんだ。
 もう、二度と。
「ぼんやりしてないで、そいつを入れるバケツでも何でも持ってきたらどうなんだ」
 頭がずきずきするような静寂をリザの声が破った。でも俺には彼女が何を言っているのかよく分かっていなかった。隣で黙っていたキーラがどこかへ走り、コルネス司祭とディーレ助祭がエーネットを連れて廊下へ消えた。
 何もする気が起きない。何もできない自分のような気がして。
 何もできない人間がいくら頑張ったところで、どんな小さな結果すら残せないというならば、汗水を流しながら頑張る必要がどこにあるのだろうか。何もできないんだから何かを強制させず、いっそのこと何もしなくていいと言ってほしい。そう言われたら納得できるから。悲しくなんて、ならなくなるから。
「お前も司教様の所に行ってこいよ」
 すぐ近くに銀髪のリザがいた。こんなに近くに来ているなんて、全く気がつかずに立っていた。
「司教様に何か頼まれたんだろ?」
 それは。
 考えるのに疲れてきたから、コルネス司祭たちが通った道を歩いてみた。途中から道が分からなくなればいいのにと思ったけれど、道が分かれている場所にエーネットが立っていて、俺の手を引いて歩き出した。待っていたんだ。この人は、俺のことを。こんな何もできない俺のことを、待っていたんだ。
 待って。
 階段を上って、四階に辿り着いた。でもそこは司教の部屋ではなく、狭い牢獄のような場所だった。一つしかない牢屋の扉が開いており、その外に司教と司祭と助祭が立っていた。
「おや、あなたでしたか。今日はよく頑張ってくれましたね。大変だったでしょうに、よくぞ生き残って……」
 顔に微笑を浮かべたコルネス司祭が声をかけてくる。どうしてそんなに笑っていられるのか、俺には分からない。
「あなたが責任を感じることはありませんよ」
 慰めも今では痛みにしかならない。それだけを言い残したコルネス司祭は俺の肩をぽんと叩き、そのまま一人で階段を下りていった。それと入れ替わるようにしてキーラが現れる。彼は両手で大事そうにバケツを抱えており、今にも泣き出しそうな顔で俺の目をじっと見てきた。
 どうしてそんな目で俺を見るんだ。どうしてお前が泣きそうになっている。これは誰の責任なんだ? 誰が本当に悪かったんだ?
「アカツキ君、キーラ君。……ヴィノバーは?」
 震えた声で司教に問われた。皆から慕われている、この大聖堂で最も偉い、戦争に反対だった、大事にされていた若い司教様に。
「ヴィノバー・エルノクレスならもうここにはおりませんぞ」
 一気に目が覚めるような言葉が聞こえてきた。それを発したのはディーレ助祭。途端にいつかの衝動が湧き上がってきた。それは怒りに我を忘れた、愚かしい剥き出しの負の感情。
「何を言っているのだ、ヴィノバーならここにいる! シェオル殿のせいでこのような姿になってしまったが……」
 バケツを抱えたキーラが俺より前へ踏み出した。でもそれは間違っている気がした。
 どんどん感情が表に出てくる。いつも隠し通せていたのに、もう蓋をすることができないんだ。
「お前、本気でシェオルが悪いと思ってるのか?」
 久しぶりに自分の声を聞いた。それは普段通りの声だったろうか。俺はどんな顔で話して、どんな目で皆を見ているのだろう。キーラは振り返ってこっちを見た。何かに怯えているような目で、だけど俺の目をまっすぐ見てくれた。
「あいつの話を聞いてたのか? あいつはメナを殺されて、混乱していたんだと思う。じゃなきゃあんな無茶をしたりしない。ただ大事な人たちのために、あいつは一人で戦っていた。大勢に囲まれながらも、たった一人きりで。……お前だって大切な人が死んだりしたら、平然となんてしてられないだろ? あいつはきっと悲しんで、困惑して、自分を取り戻すためにヴィノバーを恨んだんだと思う」
 長い話を喋りながら、目の奥が熱くなった。でも俺は我慢しなければならなかった。それを表に出すことは、決して許されることではなかったから。今ここで泣いたりしたら、俺の全てが否定される気がしたから。
「そうか、ヴィノバーは……」
 司教は理解したようだった。彼は泣かなかった。エーネットはディーレ助祭を引っ張って階段を下りていった。部屋にはたった三人しか残っていなかった。本来なら、ここには四人がいるべきなのに。
「皆、ヴィノバーをこのバケツに入れるのを手伝ってくれたぞ」
 キーラの声が虚しく響く。
「リザも手伝ってくれた。彼らは全員、心の底からヴィノバーを嫌っているわけではないと、分かった」
「うん」
 そんなことはもう、ずっと前から分かっている気がしていた。だってヴィノバーが嫌われる原因なんて、目に見えるものとして存在しているわけじゃないんだから。
 司教はバケツに入れられたヴィノバーをじっと見ていた。そっと手で触れようとして、すれすれのところでやめた。代わりに俺とキーラの頭の上に手を置いてきた。それは大人の大きな手のようには思えなかった。
「二人とも、ありがとう」
 ぽつりと漏らした一言。それは、永遠の中で生き続けるだろう。
 ラットロテスの危機は去った。そこには理不尽な理由もあったけれど、過去は誰にも変えられないから。
 時に追われるようなことがあってはいけない。だけど今のラットロテスに必要なのは、充分な休息なのかもしれない。彼らは少し急ぎすぎたんだ。だから今度は、ゆっくりと休んでほしい。
 そして次に会う日には、きっと笑ってくれるだろう。そう信じていたっていいはずだ。そこに光があるのなら。
 だから、その日まで。

 

 

 

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