40

 もう救われないと思っていた。
 もう立ち上がれないと思っていた。

 

 オレンジ色の夕日が輝く中、ラットロテスの修行僧たちは壊れた大聖堂の修理をしていた。レーゼ兄さんの魔法によって破壊された壁や扉、エンデ教信者たちに踏み躙られた花々などを一つ一つ協力しつつ直していく。共に声を掛け合いながら、常に皆が忙しく自分の仕事を見つけていた。そんな様を俺は大聖堂の二階から見下ろして、ただ一人でヴィノバーや司教やシェオルのことを考えるのであった。
 今はとりあえず落ち着いているものの、エンデ教はまたここに攻め入ってくるかもしれない。でも次に来る時は向こうもこちらも「化け物」を連れていない。それがよいことなのか悪いことなのか、そんなことは全く分からないけれど、事実は事実でしかないのだから俺たちはそれを受け止めなきゃならない。それから目をそらしていられる人なんて、誰一人としていてはいけないはずなんだろう。
 外の景色から目をそらし、部屋に置かれているバケツを見る。中に入っている大量の水は静かに佇んでおり、それが元は人間だっただなんて今でも信じられないことだった。でもこれだって紛れもない事実なんだ。もしこれを否定したならば、俺はヴィノバー・エルノクレスという人間を否定することになってしまう。そんなことができるはずがなかった。仲間でも友達でもないと言い張ってきたけど、やっぱり今はもう、失いたくなかったかけがえのない友人だとしか言えないんだから。失ってから気づくだなんて、もうすっかり使い古された表現だと思って笑っていたけど、どうして今になってそれが俺に向き合ってきたんだろう。どうして今更しつこく俺を苛んでくるんだろう。こんなことばかりをされたなら、俺はもう逃げ出したくなってしまうのに。
「失礼する」
 一人で考え込んでいると来客があった。それは見知った顔で、レーゼ兄さんだった。前に見た時と全く変わらない顔をしている。まるで何も映していない無の表情。この人の中に人間らしい感情はないのだろうか。
「精霊の卵……とでも言うべきか。実際に見たのは初めてだが、この話、どこかで聞いたことがある」
 兄さんは少し歩いてバケツの前に立った。振動で水面が軽く揺れる。
「約束はできないが、彼を元に戻す方法もどこかにあるかもしれない。一度魔法王国に戻らねばならないが、共に来ないか?」
 それは誘いだった。
 相手は俺の顔をまっすぐ見ている。俺の目をまっすぐ覗いている。嘘も冗談も跳ね返されてしまいそうなその鋭い瞳で、俺の中にある秘めた願いさえ見透かされているような気がした。
 適当なことを言ってもきっと無駄だと思った。この人の前では全てが震え上がっているんだ。俺だってほのかな恐怖を感じる。静寂の中にある、光と正反対の物質である恐怖を。
 しかし誘いは良いものだった。俺には断る理由はなかった。ただこの場には二人しかいない。後から相手の提案をキーラに話して反対されたら、きっとまた俺は無理矢理引きずられてしまうのだろう。そうなったらもう逆らえなくて、後悔だけが俺の中に巣くって一生出ていくことはないように思われるんだ。それはとんでもなく嫌なことだけど、でも俺にはそれを打破するほどの勇気さえ欠けていると分かっていた。
 兄さんはしばらく黙っていたが、やがて何も言わずに部屋を出ていった。
 何もない部屋の中、俺は一人だけ取り残される。
 孤独が今更つらく感じられるなんて、どうかしていると思った。

 

 

 月が綺麗な夜だった。
 ラットロテスの大聖堂は町より高い位置にあり、さらに二階なのでいろんなものを見下ろせるようになっている。だけどこんな夜は下ばかりを見るのではなく、上を見るべきだといつか誰かが言っていたような気がした。そんなことを考えつつ夜空を見上げ、ぼんやりと風を受ける。
「アカツキよ、そんな所にいると風邪をひくぞ」
 キーラは妙な言い方をしたが、俺はただ大聖堂の窓を開けているだけだ。このくらいで風邪をひいたりしたらよっぽど体が弱いことになってしまう。そんなレッテルを貼られたら困るので否定したかったが、何か言ったらまた妙な誤解が生まれそうな気がしたのでやめた。
「そういえばエーネット殿はここに残ることにしたそうだぞ。またエンデ教の信者が攻めてきた時の為にと言っていた」
「ふうん」
 姐さんは時に厳しい言葉を吐き出すけれど、根は心配性な人だった。とは言うけれどエンデ教再来の心配をするのはごく普通のことであって、特に珍しいことでもないとも思う。実際俺だって心配してるもんな。こののんきな大僧正様はどうか知らないけど。
「それで、俺たちはこれからどうするんだよ? この大聖堂にいたら一生元の時代に帰れなさそうだけど」
「ふむ……それもそうだな」
 顎に手を当て、キーラは何やら考え込んだ。特にあてがないことは目で見て分かる。これならレーゼ兄さんの誘いのことを話しても大丈夫そうだな。
「あのさ。さっきレーゼ兄さんがヴィノバーを元に戻す方法があるかもしれないって言ってたんだ。どうせここにいたって暇だからさ、そいつに付き合ってみないか?」
「それは本当か? ならば喜んで付き合うぞ、アカツキよ!」
 なんだか俺がヴィノバーを元に戻す方法を知っているかのような返事が返ってきてしまった。というのはいいとして、反対されなくてよかったと心底ほっとした。
「一度魔法王国に行くことになるんだってさ」
「そうか。ならば明日に備えて今日はもう寝るべきだな」
 まるで人の話を聞いてないのは相変わらずで。
 キーラはさっさとベッドに潜り込んでしまった。仕方がないので窓を閉め、電気を消す。
 真っ暗になってからふと気づいた。そういえば視界の隅に見えていた、あの黒いものが消えている。あれは一体何だったんだろう。他のことで精一杯で、今まで真面目に考えなかったけれど、実はとんでもなく危険な何かだったのかもしれない。あんなもの、日本で生活してるときには見えなかったのに、どうして。
 などと考えていても無駄だと分かっていた。それでも考えてしまうのが人間ってやつだ。どうしようもなく不器用な俺たちは、だからいつも悩みを抱えながら明日を迎えるんだ。今日もまた、そんな不器用さを見せながら一日にさよならを告げる。

 

 +++++

 

 大聖堂の前には幾人かの人々が集まっていた。どうやら頼んでもないのにお見送りに来てくれたらしい。司教様やコルネス司祭、エーネット姐さんがいるあたりは納得できるけど、ディーレ助祭がいるのにはちょっと不満があった。このハゲオヤジ、この期に及んでまだ何か言ってくる気じゃないだろうな。
「あんたら、魔法王国では変なことするなよ。実験材料にされかねないからな」
「大丈夫だぞ、エーネット殿。我々はヴィノバーを元に戻しに行くだけなのだから」
 一番大丈夫じゃなさそうな奴が大丈夫だと言っていた。しかしさすがは姐さん、キーラの無責任な台詞を聞いて安心したのか、にこりと輝かしい笑顔を見せてくれた。それはとても綺麗なもので、荒んだ心がちょっとだけ洗われた気がした。
「アカツキ君にキーラ君、そしてレーゼ殿。ヴィノバーのこと、よろしくお願いします。……私たちには何もできないことが、この上なく不甲斐ないです」
 司教様は今にも泣きそうな顔をしていた。相手の気持ちが痛いほど伝わってくるように思えた。そんな顔をされたら、こっちまで泣きそうになってしまう。俺は泣いちゃいけないって決めたのに。
 コルネス司祭とディーレ助祭は何も言ってこなかった。コルネスは普段通りの表情だったが、ディーレ助祭は何やら怒っているような顔をしている。何をそんなに怒る必要があるのか知らないけど、やっぱり俺はこの人のことは好きになれそうにないな。何より禿げてるし。俺は禿げたくないんだ。
「そろそろ行くぞ」
 いつまでも立ち止まって動かない俺たちに、レーゼ兄さんは短い命令を放った。彼は手に杖を持ち、その上に白い光を集めている。一体何をするのかと思いきや、杖の上の光がぱっと煌めいて大きくなった。それは何かの形を作っており、光の輝きが小さくなると鳥の形をしていることが分かった。
 かつて見たことのある光る鳥だ。まさか、あれに乗って魔法王国に行くとか言うんだろうか。
「乗れ」
 どうやらそのまさからしい。どうしても逆らえない圧力に押されて、俺は得体の知れない光る鳥の上にちょこんと乗った。なんだかふわふわして心許無いな。キーラはヴィノバーの入ったバケツを両手で抱えたままだけど、途中で落ちたりしないだろうな。そりゃ落ちたりしたら、またレーゼ兄さんが派手な魔法でも使って助けてくれるんだろうけど。
 俺の前に兄さんがひょいと飛び乗り、鳥が空中に浮かんでいく。なんだか下の方がスースーしてきた。これは想像以上に寒そうだ。鳥はだんだん空に近づき、司教様やエーネット姐さんが小さくなっていく。そしてふと森の中に銀髪のリザの姿が見えた。ヴィノバーの幼馴染の姿が見えた。彼女はこっちを見上げていた。何をするでもなく、ただじっと、こっちを見ることに集中していた。それは何を指しているのか? 答えは嬉しいものしか考えられない。
 ラットロテスの大聖堂が小さくなっていく。カラフルな屋根が多い町も小さくなっていく。そして空の青に溶け込む頃、それらは一つの点のように見えた。
 大聖堂の連中。司教様。リザ。今はその誰もがヴィノバーのことを考え直しているだろう。今まで彼に対して取ってきた態度とか、彼から受けた何らかの影響を。彼らもきっと俺と同じで、失ってから後悔しているんだろう。だからキーラがヴィノバーをバケツに入れる際、手伝ってくれたりしたんだろうな。
 そうやって考えながら生きていくしかできない俺たちは、最終的にどこへ辿り着くのだろうか。未来は明るいものと決まってるわけじゃないし、誰かと無条件に手を握ることも難しくなった今、俺たちはどんな答えを抱えて生きていれば、至高の幸福を見出せるのだろうか。一人の人間を失った今、仲間の彼らは悩んでいるだろう。一人の人間を殺されたシェオルと同じように、混乱している人だっているだろう。でもそれを避けていたら、きっとまた同じことを繰り返してしまう。成長できなくなってしまう。悩まなければならない。苦しまなければならない。そうしないと優しくなれないし、幸せも掴めない。自分一人だけの幸福なんて、何の意味も持たないのだから。
 宇宙から見たらほんの点でしかない俺たちは、必死になって生きている。たくさん悩んで、大声で泣きながら。
 冷たい風が全身を包んでいた。目の前にいる青年は寒さも感じていないのか、ただ前だけを黙って見つめている。後ろにいるキーラは寒そうに震えながらバケツをぎゅっと抱えていた。こんなこと言ったら怒られそうだけど、それはとてもいい表情だった。
 下では世界がゆっくりと流れている。
 たくさん頑張って報われなかったとしても、嘆いたり諦めたりしないようにしようと思う。まだ機会が残っているなら、それに賭けてみたっていいじゃないか。俺はプラス思考を作るのは下手だけど、そうでもしないとやっていけない気がしたんだ。いいや、違う、キーラを見ていると自然にそう思えてくるんだ。こいつはいつでも強引なプラス思考を押しつけてきそうだから。俺にはなかったものを誇らしげに持っているから。
 こうなったら魔法王国に期待しよう。確か浮遊大陸だったよな。一度見てみたいと思った場所だ、見ずに帰らなくてよかったと思わなければ。たとえそこに高慢で偉そうで高飛車なインチキ魔法使い集団がいたとしても、キーラと迷子になって怪しい研究者に実験材料にされかけたとしても、エーネット姐さんのお母様に嫌われて死刑にさせられたとしても、笑っていなければならない。そう、笑って……いられるかよ!
 ああ、でも一応レーゼ兄さんが助けてくれるだろうな。なんか話によるとなかなか偉い人らしいし。いやでも、女王様には徹底的に服従してるのかもしれないぞ。少しでも俺が生き残れる可能性を増やす為に、今のうちにもっと親しくなっておかないとまずいかもしれない。
「なあ、兄さん」
「何だ」
 話しかけると呟きのような声が返ってきた。これは全く親しくない人同士の会話だ。やばいぞやばいぞ。
「ニックネームつけていい?」
 親しくなるにはやはりあだ名だ。キーラに大僧正様とつけたように、兄さんにもあだ名をつければきっと。
「好きに呼べばいい」
 でもこういう答えが返ってくるんだよなー。ま、全然親しくないから当然と言えば当然だろうけど。
 さて問題のあだ名はどうしようか。変なものをつけたら間違いなく嫌われる。というか相手にされず、永久に無視されそうな気がするから怖い。でも「兄さん」だけじゃ全然変わらないだろうからなぁ……。
「レーゼ兄(にい)」
「そうか」
 適当に言うと納得されてしまった。あ、これで決定なの? そうなんだ。そっか。うん、分かったそうする。
 いや。何を考えているんだ俺は。
 だけどこれで少しは親近感が湧いただろう。俺が魔法王国から生きて帰れる確率が増えたということだ。しかしいつの間に魔法王国が怖ろしい敵国と化したのだろう。まだ何も知らないってのにさ。
 高い空を翔る光る鳥は、広大な海や誇り高い山々を軽く飛び越えていく。昔に三人で海を渡った頃が懐かしく思えてきた。あの頃はあんなに苦労したのに、空を飛ぶことによってここまで楽に移動できるというのか。
 もうラットロテスは見えない。こんな空のど真ん中じゃ、引き返すことだって許されない。
 後ろを振り返らないレーゼ兄さんは、一体何を見つめているのだろう。

 

 

前へ  目次  次へ

inserted by FC2 system