41

 世界が何も知らないから、人が勝手に生きるのか。

 

 空の旅はほんの十分程度で終わってしまった。
 大聖堂から飛び立ち、ラットロテスが見えなくなって悲しんでいたのも束の間、そんなものは一瞬間の内に過去の遺物として流れ去り、気がつけば俺はやたら古そうな遺跡じみた建造物の前に立っていたのであった。確かに大陸が浮いている様はこの目で見ることができたけど、それもほんの数秒間のことだったからあまり覚えていない。もっと優雅な空の旅を期待していたというのに、いくらなんでも早すぎだろ。そんなに近い場所にあるんならわざわざ光る鳥を派手に作ったりしなけりゃよかったのにさ。とは言うものの、また船で危険な旅をするよりかはマシだから文句は言えないんだよな。うーむ。
「ここが魔法王国だ。一度俺の部屋に戻ることになる」
 鳥を消したレーゼ兄はこっちを見て短く言ってくる。それは口の中で呟かれたようなもので、ここが静かだったからこそ聞こえた声であった。警戒されてるのか信用されてないのか、そんなことは俺の知ったことじゃないけど、もうちょっと大きな声ではきはきと喋ってほしいもんだ。そう思えるのはきっとヴィノバーのせいなんだろうけど。
 レーゼ兄の言った魔法王国とやらの外観は、外国によくありそうな感じのぼろい古城さながらの建物だった。俺はラットロテスみたいにもっとピカピカで派手派手な豪華絢爛神殿を想像してたんだけど、それをことごとく否定されたような気分だ。お世辞にも綺麗とは言えない外観なので、これはもう内側の方は期待できそうにないな。ちょっと残念だ。空飛ぶ不思議オブジェなんかもなさそうだ。
「レーゼ様!」
 俺がぼんやりと魔法王国のぼろさについて考えていると、すぐ後ろの方から甲高い声が響いてきた。そっちを振り返るといかにも魔法使いといった感じの姉ちゃんが立っていた。長いローブで全身をすっぽりと隠しており、おまけに頭にもフードを被っている。別に寒くなんかないのに暑そうな格好をしているその姿は、ゲームとかによく出てくる魔法使いさながらの外見であった。
「今帰ってきたんですか? お疲れ様です! あ、レーゼ様に頼まれてた本、ちょうどさっき見つけてきましたよ! どうぞ!」
 長いローブを引きずって姉ちゃんは素早くレーゼ兄の前へ移動した。その目は異様なほどの光で満ち満ちている。おまけに無言のまま立ち尽くすレーゼ兄に問答無用で本を突き出し、満面の笑みでそれを相手が手にする瞬間を待ち望んでいるようだった。
 何なんだこいつは。
「その話は後にしてくれ……」
 消えそうな声でそれだけを言ったレーゼ兄は姉ちゃんを押しのけ、建物の扉を開けて中に入ってしまった。とりあえず迷子になったら困るのでキーラと後を追い、浮遊大陸にある不思議な不思議な魔法の国に足を踏み入れたのであった。
 ……なんて言えばファンタジーっぽく聞こえるかもしれないが、実際中に入ってみると、外見と同じようにぼろい建物だった。感想はそれだけだ。とにかくぼろい。壁の装飾が欠けていたり、柱が途中で折れていたり、扉に穴が開いていたり。どうやら魔法使いは魔法は使えるけど大工仕事は駄目らしい。そういうところはゲームと同じなんだけど、少しくらいどうにかしようとか思わないのかね。
 レーゼ兄はすたすたと廊下を歩き、少しも立ち止まったりせずにひたすら目的地を目指しているようだった。何気に足が速いのでちょっと疲れる。後ろではキーラがヴィノバーをバケツからこぼさないよう必死に頑張っているようだ。もしかしてレーゼ兄、バケツのヴィノバーのこと忘れてるんじゃないだろうか。なんかキーラが不憫に思えてきたぞ。
「レーゼ様、お帰りなさいませ」
 歩いていると横から声をかけられた。しかし様だなんて、やっぱレーゼ兄って偉い人だったんだな。相手はまたもや若い姉ちゃんで、真っ赤な髪が印象的な人だった。それでもレーゼ兄は立ち止まらず、返事を返すこともなく、無視してすたすたと歩き続けていた。そんな彼の後ろ姿を俺とキーラは追わなければならない。
 さすがに無視するとなると後ろめたいものを感じるわけだが、レーゼ兄はただ歩き続けるだけだった。相手の姿が見えていないのか、それとももともと眼中になかったのか、特に気にした様子もなく歩くんだから分からない。そして無視された姉ちゃんも彼を追いかけてきたりせず、すぐに姿が見えなくなってしまった。何だろう、もうこういったやり取りに慣れているということだろうか。偉い人は格が違うってヤツか?
「ここの人々は皆、レーゼ殿のことを好いているのだな」
「そうなのか?」
 キーラは分かりそうで分からないことを言ってきた。その声は兄さんにも聞こえていたはずだけど、それでも相手は何も言ってこなかった。
 そうやって長い廊下を歩き尽くした頃、一つの扉の前でぴたりと止まった。その扉は他の部屋のものと違って綺麗な装飾が一つもなく、また壊れたような形跡も一つも見えなかった。まるでぼろいから無視されているような、そんな印象を受ける扉だ。ここが兄さんの部屋なのだろうか。
 一言も発したりすることなく、レーゼ兄はゆっくりと扉を開けた。そして部屋の中が見えた時、俺はまた不意打ちを食らったような感覚に襲われたのであった。
 なぜってそれは、部屋の中が本だらけだったからだ。
 もしかしたらそこは綺麗な部屋だったのかもしれない。机やベッドなんかはやたら綺麗にピカピカ光っている。だけどもその上には大量の本が積み上げられており、さらにその本が埃をかぶってそうな古い本ばかりだったのである。本棚も一応あるみたいだけど、それはもう本を詰め込みすぎてほんの少しの隙間すら残されていなかった。もう完璧にきっちり詰め込んでいるので、きっと一冊でも取り出そうとしたら雪崩が起きるだろうな。おお怖い。つーか兄さんって真面目そうに見えるのに、これじゃただの本の虫じゃないか。なんてこった。
「適当に座ってくれ」
 部屋に入っての第一声がこれ。それでもきちんと扉を閉めるあたりは見習いたいものだ。
 で、どこに座れと?
 当然のことながら、床の上にも本のタワーが並べられている。ちなみに俺の身長より高い位置まで積み上げられている。とりあえずバラバラに放置されているよりはマシだけど、わざわざ積み上げて柱にされてもそれはそれで困るからややこしいんだよな。これを一つでも崩したりしたら、隣にあるもの全てが道連れになること間違いない。
「レーゼ殿、こう散らかしていてはヴィノバーを置く場所がないぞ。少し片づけてくれないか」
 そしてキーラ君はいつも通り偉そうだった。
「ああ、すまない」
 過去から来た一般人に偉そうにされても、兄さんは素直に片づけを始めてしまった。片づけと言ってもベッドの上に置いてある本を端に押しのけるだけの作業だけど、なんで怒らないのかということが不思議でならない。
「そこに座ってくれ」
 とりあえずベッドの上に二人が座れるだけのスペースができたので、俺もそこに座らせていただくことにした。これでようやく落ち着けるってもんだ。しかし狭かった。横にも後ろにも前にも本があるので、のびのびと体を伸ばすことすら許されない。何だよこれ。俺たちは客人だぞ。ラットロテスといいレーゼ兄の部屋といい、異世界って所は本当に客人に対して厳しいことを強制してくるよなぁ。もう帰りたい。
「少しそこで待っててくれ。精霊のことについて書かれた本を探してみる」
「え――」
 あまりに無謀な兄さんの台詞に、俺は言葉が続かなくなった。

 

 +++++

 

 兄さんは自身の部屋の中にある大量の本の中から一冊の本を探しているらしい。しかしこう無造作に本が放置されたような図書館では、目的の物を見つけるのに相当な時間がかかることだけは子供でも分かりそうなくらい確かなことだった。
 そもそも兄さんが本を探している間は何もすることがなく、暇だ。別に話しておきたいネタだってないし、次の目的地も兄さんが本を見つけないと見えてこないし。こうやってただ待ち続けるだけだなんて、時間を無駄に消費している気がしてきた。
 でも俺に手伝えることなんて何もないんだろうな。俺は過去から来た人である以前に、まずこの世界の文字を読めないし。だから待つことしかできないわけであって。
 なんてことを考えていると、ドアをノックする音が聞こえた。
「入れ」
 兄さんの声が響いた後、ほんのちょっと間をあけてから扉が開く。
 入ってきたのは金髪のお姉さんだった。なんだか苦労してそうな顔だ。長い金髪を後ろで束ね、茶色い瞳は不安そうに揺れている。廊下ですれ違ったりした多くの魔法使いたちとは違い、むしろ聖職者のような神秘的な雰囲気を醸し出していた。
「あの、レーゼさん。エーネットは……」
「話は後にしてくれ」
 部屋に客が来たというのに、レーゼ兄は相手の顔すら見なかった。確かにこれだけ大量の本の中から一冊を探すとなると大変なことは分かるけど、客の声すら無視するってのはちょっとどうかと思う。入口で本を渡された時も、廊下で声をかけられた時も、兄さんは当たり前のように応答を拒んでいた。それでもここにいる人々は兄さんのことを怒ったりしない。それは彼が高い地位にいるからなのか、それとも。
「今は客がいる。お前と話すことはいつでもできる」
 ふと漏れた兄さんの声。それはなんだか淋しげに聞こえた。
「あ、ご、ごめんなさい。お客様がいたんですね。あの、私はセティナ・ガーディラートと申します。この国の王女です」
 相手は俺とキーラに向かって礼儀正しくお辞儀をしてくれた。でも王女ということは、エーネット姐さんとは姉妹か何かということなんだろうか。
「あの、あなた方はレーゼさんにご用があるのですよね。お名前をお聞きしてもいいでしょうか」
「私の名はキーラ・ディガードだ。そしてこっちはアカツキと名乗っている」
 いや、おい。
 おっとりとした様子で相手に名前を聞かれたが、俺が喋る暇も与えてくれずにキーラが先に間違った名前を答えてしまった。なんだか俺の本名が意味のないものになっている気がする。別に特別気に入っていた名前ではなかったけど、ここまで徹底的に排除されるとさすがに懐かしく思えてくるもんだ。俺はこんな横文字じみた名前なんか嫌いなんだよ。
「キーラさんにアカツキさん、ですか。いい名前ですね」
 それでも王女様はふわりと微笑んでくれた。最近あまり見たことのなかった、ただただ癒される素敵な笑顔だ。
「セティナ殿は王女とのことだが、ではエーネット殿はセティナ殿の姉にあたるということなのか?」
 そんな心洗われる瞬間は、大僧正様の言葉によってすぐに破壊されてしまったのであった。どうにもこの大僧正様は多少せっかちな部分があるようだ。自分の知りたいことが少しでもあればすぐに質問し、それで腹を満たしているように見える。もしかしたら尋ねてはいけないことがあるかもしれないのに。
「エーネットは私の姉ではなく、妹です。あなた方はエーネットのことを知っているのですね。あの……エーネットは元気でしたか?」
 王女様はキーラの問いに素直に答えてくれた。しかし姐さんの方がこの人より年上に見えるのに、世の中って不思議なもんだよなぁ。
「元気と言えば元気だったよな」
「そうだな。元気だったな」
 キーラに同意を求めるとやたら素敵な笑顔を見せてくれた。何がそんなに嬉しいんだか。
「そうですか。よかったです」
 素敵な笑顔を見せてくれたのは、一人だけではなくて。
「あの、レーゼさんもエーネットに会ったのですか?」
 消えない笑顔のまま、王女様は一人で探し物を続けている兄さんに声をかけた。
 しかし相手は何も答えなかった。彼の周囲にある本を一冊ずつ確認するだけで、王女の声すら聞こえていないように振る舞っていた。人と接することが嫌いなのだろうか。それとも意図的に避けているのだろうか。俺はふとラットロテスでのヴィノバーのことを思い出した。打ち解けたくても受け入れてくれず、それでも仲良くなろうと努力を惜しまなかったあの青年の姿を、ここにいる魔法使いの青年がもし間近で見たとしたならば、彼は一体どんな目でヴィノバーを見つめるだろうか。どんな視線でヴィノバーを受け止め、どんな言葉をあの可哀想な青年に与えるだろうか。
 受け入れてほしいと願った者と、他者からの好意を受け止めない者。この二人を比べたところでどんな意味があるだろう。正しいか間違っているかを考えてみたところで、一体どんな結末が得られるというのだろうか。それは仕方のないことだった。俺には人の心の奥に入り込み、都合よく全てを変えることなどできはしないのだから。
 それでもこの二人は似ているような気がした。孤独であるからかもしれない。自由がないからかもしれない。彼らが何を大事に思い、何を目指しているかなんて想像もできないけど、この世界で生きているからこそできるその生き方が、俺には真似できないほど特別なものだからなのかもしれない。
 とても穏やかな時間が流れていた。レーゼ兄の本が立てる音だけが響き、その静けさは永遠を物語っているように思える。王女様は返されなかった質問を悔やんでいる様子もなく、探し物を続けるレーゼの姿をただ微笑んで見つめていた。
 それは一種の寛容だった。
 このままこんな時間が続いてくれたら、俺も少しは素直になれたかもしれないと思った。でもそんなことは有り得ないんだってこともちゃんと知っていた。この世の中に存在しないものを勝手に作り上げて、それにすがって生きてはいけないはずだったから。
 だから俺はもう泣くことも、驚くことも、嘆くことも忘れようとしていた。負の感情全てを封印してしまいたかったから。
 何の予兆もなく扉が開く。
 そして現れたのは見知らぬ大人だったが、俺はその姿をぼんやりとした目で見つめていた。

 

 

前へ  目次  次へ

inserted by FC2 system