43

 可能なことも不可能なことも、基準はいつだって同じものだった。
 鏡が割れたような衝撃が俺の目を覚まさせたから。

 

「こらーっ、起きろぉおっ!」
「ぶへっ!」
 気持ちよくすやすやと眠っていたら、布団ごと床に叩きつけられた。なんだってそんなことしてくるんだ。俺は客人だぞ。
「それはレーゼ様のベッドなんだから、あなた達が寝ていい場所じゃないんです! ほら、あなたもさっさと下りる!」
 文句を大声で言ってきているのは、カピラと呼ばれていた魔法使いの姉ちゃんだった。俺を床に落とした後は標的をキーラに変え、夢の中で散歩中の大僧正様の体を無理矢理こっちに転がしてきた。ってちょっと待て、なんでこっちに落そうとしてんだよ! 俺を潰す気か!
 と思った次の瞬間には頭の上から大僧正様が降ってきた。ああ、なんかもうどうでもいいや。何でも好きなようにやっちゃって。俺もう知らないから。
「ささ、邪魔者は片付けましたよ、レーゼ様。ごゆっくりなさってください」
 あれ、もう兄さん帰ってきたのかな?
 俺はあの後すぐに居眠りを開始したので、レーゼ兄が部屋に戻ってきた場面を目撃したわけではない。とりあえずキーラを押しのけてよいしょと体を起こすと、入口の前で立ったままだった兄さんの姿が見えた。
 しかしなんだか疲れているように見える。いや、そりゃ誰かさんを探しに行ったんだから実際に疲れてるんだろうけど、それでも兄さんの顔にはそれ以上の何かが見え隠れしているような気がしたんだ。もしかしたらそれは俺の思い違いで、カピラって姉ちゃんから変な話を聞いたからかもしれない。王女様の気遣いとか、妹さんの行方とか。確かに気になる話題ではあったけど、あくまでそれは兄さんがどうにかすることだ。俺がどうこうすべき問題じゃない。
「む……」
 小さな声を上げてから俺の足元でキーラが眠りから目覚めた。つーか起きるの遅いな。ベッドから落とされた時点で起きろよ。
「アカツキよ、君の神話は私が持っているぞ」
「は?」
 そして妙ちきりんなこと言ってくるし。何を寝ぼけてんだこいつは。
「あなた達、ちょっとそこどいてくれる? ベッドの上の本を下ろさなきゃ」
「どけって言われても」
 俺はざっと周囲を見回してみた。しかしどこを見ても本ばかりで、俺たち人間が立てるような場所なんか本の上くらいしか見当たらない。まさかそんなことをしたらレーゼ兄さんに怒られるだろう。たとえ埃まみれで今はもう読んでないような本の上に乗ったとしても、こういう時に限って余計な感情が芽生えてくるんだよな、大抵。
「どこに避難すりゃいいんですかい、カピラ様?」
「そんなこと自分で考えてくださいよ。ほら、どいたどいた!」
 ドンと背中を押され、力ずくで押しのけられてしまった。おかげで目の前にあった本のタワーを一つ崩してしまい、その前にあったタワーまで同時に台無しになってしまった。ほらみろ言わんこっちゃない。だから嫌だったんだ俺は。
 それでも兄さんは怒ってこなかった。不審に思って兄さんの顔をちらりと覗くと、いつもの無表情な瞳があるだけで、その中の光は失われている。そんなに疲れてるんだろうか。だったら俺も、わがまま言ってる場合じゃないってか?
「おやすみなさい、レーゼ様」
 結局カピラ姉ちゃんの催促で兄さんはベッドに横たわり、すやすやと夢に沈むように眠り込んでしまった。
「……我慢してください」
「何を?」
 兄さんのベッドの隣で佇んでいる姉ちゃんは、ばっと勢いよくこっちを振り返って、鋭い視線で俺の顔を容赦なく貫いてきた。俺、何か怒らせるようなこと言ったか? なんでこんなに怖い顔してんだこの人。びっくりするじゃないか。
「女王様や王女様の客人なら部屋を貸すことができるけど、私たちのような魔法使いの客人には与えるべき部屋がないんです。それはこのレーゼ様だって同じ。女王様の右腕とまで呼ばれているこのレーゼ様だって、同じことなんです。だから」
「ふ、ふうん」
 やはり怒っているように見える。こういう時は無駄に喋ったりしてはいけない。余計に波を荒々しくさせるだけだから。
 姉ちゃんはじっとこっちを見たまま動かなかった。そんなことされたら俺だって動けなくなってしまう。仕方がないから動かずに姉ちゃんの目を見続けていると、ふと相手の怒りの矛先が俺たちじゃないことに気づいた。
 どうして分かったのかと聞かれても、なんとなく分かったとしか答えようがない。よく考えてみなくても俺たちが姉ちゃんを怒らせた覚えはないし、兄さんや王女様の許可も得ている俺たちを個人の感情だけで攻撃するような真似もさすがにしないだろう。だからってわけでもないけど、この姉ちゃんは俺の目を通して何か違うものを睨んでいるように見えた。それは俺の中にあるものなのか、俺を通してでなきゃ見えないものなのか、それとも実際に見てはいけないから俺で代用しているのか。そこまでは分からないけど、この茶色の大きな瞳を細く鋭くさせている原因は、この魔法王国のどこかにあるんじゃないかという予想くらいはできるものだった。
 そんな果てしない視線から解放されたのは、眠っている兄さんの咳がきっかけだった。そしてなぜかそれと同時に、横に立っていたキーラがこっちにもたれかかってきた。また夢の散歩に出かけたのか。まったくのんきな野郎だな。
 兄さんは起きてはいなかった。静かな寝息を立てながら穏やかに眠っている。なんだか起きている時より幸せそうに見えるな。
「……レーゼ様はお体が弱いんですよ」
 ふっと静寂に紛れたような声が届く。
「レーゼ様は私たちと違ってエリートで、天才だから、どんなに難しく危険な魔法でもすぐに自分のものにできてしまうんです。だけどそれ故のリスクも背負っていく。この病弱な体で、たった一人きりで。……女王様も王女様も、レーゼ様ご自身さえそのことは分かっているのに、新しいものを求めてはどんどん吸収していくんです。そしてきっとそれは、レーゼ様の体が完全に壊れるまで繰り返されていくと思うんです。私はそんなのはイヤ。本当は今すぐやめてほしい。新しいものばかり追い求めたりしなくても、今のままでももう充分すぎるくらいだから。……それでも私の声は届かない。私の意見なんて、あの人たちやこの方にとっては、風のささやきと同じ程度の価値でしかないんですから」
 それは独り言のようで、でも確かに俺に向けられた言葉の群れだった。
 この人、レーゼ兄さんのこと小さい頃から見てたって言ってたよな。そして今もこうやって兄さんの世話をしたり、心配をしたりしている。なんだか兄さんのお姉さんになりたがってるみたいだ。それでも兄さんはその気持ちを無視して、女王に頭を下げ続けている。
 怒りの矛先はこの王国だったんだろうか? そんなことまでは分からない。
「さあ、あなた達ももう寝た方がいいですよ。きっと明日にはもう、ここを出なければならないと思いますから」
 次に俺に見せてくれた表情は、どこか淋しげな温かい微笑だった。

 

 

 自分一人だけの幸福なんて、何の意味も持たないものだ。
 そう。そうなんだ。これは決して間違っちゃいない。
 間違っていないはずだから。

 

 +++++

 

 ……痛い。
 重いまぶたを持ち上げると、本だらけの部屋の中にきらきら輝く美しい光が差し込んでいた。おやまあなんとも清々しい光景ですこと。しかしそんな景色とは裏腹に、俺の体は思うように動いてくれなかった。
 手や足を動かそうとしたら痛みが走る。何故ってそれは、妙な姿勢で寝たりしたからに決まってるだろ。あの後、結局カピラ姉ちゃんは自分の部屋に戻ってしまい、俺は仕方なく床の上で座ったまま眠ることにした。しかし横には本のタワー。ヘタに動いたりしたら雪崩に遭うこと間違いなかったので、妙に意識しつつ眠ってしまったようだ。しかも大僧正様は俺の体にもたれかかったままだし、飛行機内で座ったまま寝る時より窮屈な心持ちで寝たんじゃなかろうか。
 あー。だるい。兄さんってメシとか作れんのかな。とりあえず何か食わしてくれたら元気が出そうだ。
「起きたか」
 上から低い声が降ってきた。それは言うまでもなく兄さんのものであって。
「起きたなら行くぞ」
「行くってどこへ」
「もう忘れたのか?」
 そういうわけじゃないけど。でもそういうことにしてもらいたかった。
 返事をしないまま相手の顔を見続けていると、兄さんはさっと背を向けて歩き出してしまった。こんなことをされたらもう、ついていく他はないわけであって。
 いや、ちょっと待てよ。まだこののんきな大僧正様が起きてないんだ。まさか俺がこいつを背負って行くなんてことはできないんだからさ、せめてこのキーラ君が歩けるようになるまで待ってくれないかな。……なんて、言っても無駄なんだろうなぁ。はあ。
「おいキーラ、起きろよ」
 仕方がないので大僧正様を自力で起こすことにした。とりあえず手始めに体を揺さぶって――って、それじゃバケツの中のヴィノバーが零れそうで危険だな。じゃあ頬でもつねってみるか。
「む……」
 ちょっとつねっただけで声を上げ、ゆっくりと重そうなまぶたを持ち上げた。なんだ、意外とすぐに起きたな。これなら安心だ。
「ほら、もう行くぞ」
「アカツキよ、君の神話は――」
「はいはい」
 寝言は無視するとして。
 キーラの腕を引っ張って部屋の外に出ると、そこには兄さんとカピラ姉ちゃんが俺たちを待っていた。なんで姉ちゃんまでいるんだ。また文句でも言ってくるつもりか? 俺はそう毎回毎回文句を聞くほど暇じゃないんだよ。
 しかし俺の顔を見ても何も言ってこなかった。それが逆に気色悪く思えて、でも昨日の晩のことを考えると、それもまた必然的なものなんじゃないかって思えた。必然だなんて本当にこの世に存在するものかどうか知らないけど、今のこの姉ちゃんの反応だけはどうしてだかそうなんだって思えてしまったんだ。だとすると、それは俺の知らないところできちんと機能しているのかもしれないな。
 兄さんは無言のまま廊下を歩き出した。他愛ない話すら時間の無駄だと考えているのか、あるいは話をすることは女王の命令に含まれていないからか、とにかく兄さんの無口はこの二つのうちどちらかが原因になっているような気がした。なんかものすごく後者のような気がするんだけどな。女王様至上主義って感じだったし。
 なんてつまらないことを考えてる場合じゃなかった。ぼんやりしてたら兄さんに置いていかれて、それこそ恐怖の迷子体験をしてしまうかもしれない。なんだかんだでここっておっかない魔法使いとかがいそうだもんな。特にヴィノバーの正体がばれたりしたら、大変なことになっちまいそうだ。うん。
 兄さんの背中を追って足を踏み出すと、どこか遠くの方へ向かっているという感覚が襲ってきた。視界の端々に見え隠れしているあの黒いものでさえ見当たらないような、現実より夢の中の世界と似ている場所へ向かっている気がしたんだ。

 

 浮遊大陸にも地下という概念はあるようだ。
 いやそりゃ大陸ごと浮いてるんだから地面の下に部屋とか作ったりすることも可能なんだろうけど、それでも地下室なんか作ったりしたらさ、ほら、いつ底が抜けるかってヒヤヒヤするもんだろ? しかしこの国で生活している方々はそんな心配事も忘れ去ったのか、立派な地下室を綺麗な形でお作りになったようだった。
 廊下を歩きに歩いた後、階段を何度か下りてここに辿り着いた。いかにも地下室っぽく全体が薄暗くなっており、目の前の床には何やら怪しげな丸い模様が描かれている。これは俗に言う魔法陣ってヤツなんだろうな。ということは、ここからワープでもすんのか?
「ここから地上に移動する。ついて来い」
「はーい」
 やっぱワープなんだな。まったく魔法ってのは便利なものですね。
 兄さんはうっすらと光を放ち始めた床の模様の上に乗り、そこでぴたりと足を止めた。俺もキーラを引っ張って兄さんの横に立つ。魔法陣はとりあえず、三人がちゃんと収まる程度の広さがあったので安心した。これで狭いから一人だけ置いてけぼりになる、なんてことになったりしたら嫌だもんな。
 全員が魔法陣に乗ったことを確認すると、兄さんは持っていた杖でカンと床を叩いた。それはなんだか石の床を叩いたような響きのいい音がしたけれど、俺たちが立っているのは紛れもなく木の床だった。
 そして視界が白に染まる。
 その先に見えたものは。

 

 

前へ  目次  次へ

inserted by FC2 system