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 緑の風を感じる空気だった。
 すぐ近くから波の音が聞こえ、頭上には青い空が広がっている。吹きすさぶ風は木々の息吹をここまで運び、そいつに包みこまれた俺たちは空中で呼吸しているかのような錯覚に襲われる。
「さあ、ルピスの森へ向かうぞ、アカツキよ!」
「……なんでお前が仕切ってんだよ」
「森へ行く前に寄る場所がある」
 俺の横から一人離れていく兄さん。あああ、待ってくれ。俺を一人にしないでくれ。
 浮遊大陸から地上に下りてきても自然は何も変わっていなかった。確かにラットロテスとは違う場所に着いたみたいだけど、同じ世界なんだから木々も空も風も同じもののように見える。俺たちは何もない草原の上に立たされていて、魔法陣なんかどこにも見当たらない。これじゃ本当にあの魔法陣からここに来たんだってことを疑いたくもなるもんだよな。
 先を歩く兄さんの背を追い、草原をキーラと二人でのそのそと歩いていく。でも兄さんは魔法王国でいた頃よりゆっくりと歩いてくれたのでそれほど疲れることはなかった。俺の苦労を分かってくれたんだとしたら嬉しいけど、なんか他に理由がありそうな気がして妙に怖いな。
 しばらく歩くと森が見えてきた。何も知らずに入り込んだら道に迷って一生出られなくなりそうな感じの森だ。それ以外にどんな森があるかと聞かれても困るんだけどな。森なんて大抵そんなもんだろ。
「レーゼ殿、あの森に入るのか?」
「あの森の奥には小さい村が一つと、ルピスの森へ通じる道がある。だが先にルピスの森の封印を解く鍵を手に入れなければならない」
「ふうん」
 今は行かないけど後から行かなきゃならないらしい。まあ兄さんがいるから迷子にはならないだろうな。間抜けな奴みたいにはぐれたりしない限りは。
 そんな感じで、いかにも迷いそうな森は綺麗なくらいにスルーし、ゆっくりと歩く兄さんはどんどんと前へ進んでいった。置いていかれるわけにはいかないので俺もまたどんどん前へ進んでいく。ただキーラの抱えるバケツの中のヴィノバーが零れないかということだけが心配だった。

 

 しばらく歩いていると坂の多い道に出会ってしまった。それを見ても兄さんは表情一つ変えず、知っている道をさっさと突き進んでいくんだから俺はもうついて行くことしかできなかった。大僧正様が疲れたとか言って俺にヴィノバーを押し付けてきたりもしたけど、俺はそれをキーラに返すことはできなかった。だってこれは俺とキーラとが司教様に頼まれたことだから。二人でヴィノバーを元に戻すって決めたんだから、俺だけ楽をしたりしちゃいけないって思ったんだ。
 俺は歩きながらラットロテスでのことを思い出していた。あそこにいた頃は自分に嘘ばかりついていたような気がした。ヴィノバーのことを仲間でも友達でもないと言い張っていたり、大聖堂の修行僧連中を必要以上に批難したりして。それで何かが変わるわけでもないと知っておきながら、ただ大聖堂の空気が気に入らなかったから否定し続けていたんだろう。そしてヴィノバーを失ってから正気に返り、今こうして彼を元に戻すべくレーゼ兄さんと共に歩いている。これで罪滅ぼしでもしようというのだろうか? こんなことで俺は許しを乞おうと思っているのだろうか? そんなことは自分でも分からないことだけど、それでもこれでヴィノバーが人の姿に戻り、俺に声をかけてくることがあったなら、彼は真っ先にお礼を言ってくるんだろうな。元に戻してくれてありがとうって。自分の為に頑張ってくれてありがとうって。でも俺は、本当にそんな言葉が欲しくて歩いているんだろうか? 違う、それは違うはずだった。見返りを求める助けなんて、あってはいけないはずだった。あってはいけないはずなのに、俺の行動はそういうものとしてしか見られないような気がした。他人の目ってものはいつも厳しいものだから。自分が思っている以上の現実を勝手に作り上げ、それが真実であるかのように勝手に解釈してしまうんだから。
 キーラはどう思っているだろう。俺の横にいつもくっついているこの召喚師は。こいつは何を感じ、何を考え、何を求めて俺の隣を歩いているのだろう。彼は何を信じて何を安堵とし、そして何を目指して兄さんの後を追っているのだろうか。ああ、そういえば、俺はこいつの気持ちを聞いたことがなかったな。こいつがいつも思っていることとか、誰かに対しての想いだとか。喜びなら見たことがあるけれど、悲しみだとか淋しさなんかは見せてくれたことがなかった気がする。それを聞くのは浅はかだろうか。全て聞き出すのは軽率だろうか。過去にそれを望んでヴィノバーを苦しめたのに、俺はまた同じことを繰り返そうとしているのだろうか。馬鹿な! 俺はまだ成長してなかったということか。
 成長? いいや、変化ならあっただろう。そうだ、よく考えてみれば、俺はここに来てから多くの変化を通過していったように感じられる。初めて異世界を認識した時、俺の頭の中は自分勝手な脆い感情と、自分だけが理解できる四字熟語を懸命に使いたがっていた。それを周囲の人たちが知らないことに苛立って、それでも無理矢理それを押し通そうとしたりして。だけど今は、全くそんな気が起きない。四字熟語の一つすら頭の中に出てこないんだ。昔はあんなに好きで、いつも四字熟語と共に生きていたはずなのに――いや、そうだった? 本当にそうだっただろうか? 俺は本当に四字熟語が好きだったんだろうか。好きでいつも調べていたんだろうか。そもそも俺は四字熟語の何が好きだったんだろう。四つの漢字から作られる独特の世界観が好きだったんだろうか? ああ、でも……うん、そうだ。きっとそうだったんだ。それが今はもう出てこなくなってしまったのは、一種の「変化」と呼ぶことのできる現象に身を任せてしまったからなのだろう。
 しかし変化は俺だけに牙を剥いたわけじゃなかったはずだ。そう、例えば、俺の横で歩いているキーラ。実の兄であるソルは彼の性格を、一度信じたものは決して疑わない厄介な性格だと言っていた。そしてそれは本当のことだったんだろう。だけどこの未来の世界に来て、現実とは思えないタイムスリップをして、自分たちの様々な常識が通用しないということを知った今では、キーラも自己の知識だけが全てではないということを悟ったかのように頭を悩ませていた。だからこそレーゼ兄さんからルピスのことを聞いた時、無理にでも「ルピスは闇の意志だ」という意見を押し通そうとしたりせず、兄さんの話を聞くことができたのだろう。これは明白な変化だった。俺と同じで、彼もまた同じような変化を経験しているんだ、きっと。
 そしてこの変化が俺たちを包み込み、やがて元の時代に帰った時、はたして人々の目に俺たちはどのように映るだろうか。見えてくる反応は二つきりだ。大きく成長したと褒められるか、変わってしまったんだと敬遠されるかのどちらかだろう。変化は必ずしも人間を進歩させるものじゃない。時には退化させ、変わらない方が良かったんだと言われることもあるだろう。だからこそ変化を恐れて椅子に座ったまま笑う人が増え、結果として何もかもが時に流されて消え去ってしまうという結末を迎えることになるんだろう。それでもまだここに立ち続けている俺たちは、一体何をすればいいんだろうか。俺は、俺自身では、まだ椅子に座っていないと信じていたい。そしてキーラもまた、自分の足で踏ん張っているんだと俺は思っている。だからこそ自らの変化を拒んだりせず、共に同じ目的へ向かって歩いているんだろう。変化の先に身を引き裂かれる程の悲しみが待ち受けていたとして、それを恐れて立ちすくむくらいの覚悟だったなら、もういっそ何もしない方がマシだと切り捨ててしまっていただろう。もちろん心が弱って自暴自棄になったことはあっただろう。今ではもういろんなものが朦朧として、何もかもがはっきりしていない霧の中で立っているみたいだけど、それでもこうして変化を否定しない俺は、確かにまだ前へ進もうと叫び続けているはずだから。
 こうした変化の渦に飲み込まれ始めている俺とキーラは、大きな存在であるレーゼ兄さんの後を追って歩いている。俺はまだ兄さんのことをよく知らない。彼が何を求めているかなんて知っているはずがないし、兄さんは感情を顔に出さないから本当に何一つとして分かるものがない。他人から得た情報は俺たちを混乱させるだけであり、その価値はそれ以上でもそれ以下でもないものだ。しかし兄さんは不安定なように見えた。今にも足場が崩れてしまいそうなくらい、常に青ざめた顔をしているような気がするんだ。憶測は自分を不安にさせる為だけにあるとは思いたくないけれど、風に揺れる綺麗な金髪を見ていると、その下できらりと光る青い瞳が暗闇だけを凝視しているようで、途端に悪寒と恐怖と絶望とが眼前にちらついて離れなくなるんだ。
 ああ、俺たちは、どこへ辿り着くべきなんだろう。一体どこに安堵が存在し、俺たちを幸福に導いてくれるのだろうか。

 

 +++++

 

「アカツキよ、あれは何だろうか」
「何って……家じゃね?」
「あれはペオルムの町だ。あそこに寄る必要はない、行くぞ」
 峠道をしばらく歩いていると、遠くの方に赤やら青やらの屋根が一ヵ所に集まってるのが見えてきた。レーゼ兄さんの話によると町らしいが、見たところ町というより村のように見える。そして兄さんはその町をスルーしようとしているようだった。しかし、はっきり言ってそれはやめてほしい。
「なあ兄さん、もう夕方になってるしさ、今日はあの町で泊めてもらわない?」
「駄目だ」
 綺麗な夕日が兄さんの金髪を美しく彩って見えた。
「なんて言うかほら、俺たち旅には全く慣れてない現代っ子だからさ、今日は一日中歩いてばっかでもうヘトヘトなんだ。だから今すぐにでも心地いいベッドにダイブしたいって言うか、何と言うか。兄さんだって疲れてるんじゃないのか? 無理してどんどん進むよりさ、こまめに休憩をとった方がいいってよく言うだろ?」
「……そんなに疲れているのか」
 とりあえず頭の中に出てきた言葉をまくしたてていると、なんだかいい反応が返ってきた。これはいけるかもしれんぞ。よし。
「だからそういうわけでさ、――」
「ならばお前たちだけで宿に行けばいい」
「へ? ……あ」
 なんて調子に乗ると予想外の反応が。兄さんはごそごそと懐をあさり、俺に財布を手渡してきた。そしてさっさと歩き出してしまう。
 いやいや、ちょっと待ってって。いくらなんでもそれは俺の良心が許さないぞ。
「どこ行く気だよ、レーゼ兄!」
 大声で呼び止めると兄さんはこっちを振り返った。綺麗に整った顔がこっちを向いている。しかしその唇は少しも動いたりせず、ただ深海のような色をした目がきらりと光っているだけだった。
 ――なんだかぞっとした。その瞳がまるで、俺の意見を根底から否定しているかのようで。
「レーゼ殿、無理はよくないぞ。さあ、我々と共に行こうぞ」
 なんて一人で勝手に身震いしていると、ヴィノバーのバケツを抱えたままのキーラ君が兄さんの腕をぐいと引っ張り歩き出してしまった。これはきっとキーラの奴、兄さんの意見なんか無視して町の宿に三人で泊まろうとしてるんだな。そりゃ俺だってそれを望んではいるものの、こう……無理矢理引っ張っていくのはちょっとなぁ。
 だけど兄さんはキーラの手を振り払ったりしなかった。ただちょっと困ったような顔をして、引きずられるようにして歩いていくだけだった。

 

「いらっしゃいませ。ご宿泊ですね?」
 宿屋の店主はハゲオヤジだった。そんな人にスマイルを見せられたところで嬉しくともなんともない。
「三人で頼むぞ」
「かしこまりました」
 兄さんは宿の中には入ってこなかった。今は宿の外で待っているだろう。なんでそこまでこの宿を嫌ってるのかなんて分からないけど、この町に入ってきてから兄さんはずっと不安そうな顔をしていた。もしかして兄さんはこの町に嫌な思い出でもあるんだろうか。だとしたら、最初に兄さんが言った通りに俺とキーラだけで来るべきだったんだろうか。
 俺はまた、余計なことをしているんじゃないだろうか? また同じことを繰り返そうと、馬鹿みたいな演技を見せようとしているんじゃ。
「よかったな、アカツキよ」
「へっ?」
 考え事をしている最中のキーラの声というものは、なんだかあらゆる意味で俺にとって効果的だった。本人はそれに全く気づいていないようだけど。
「アカツキは疲れていたのだろう? 君も無理しないよう気をつけるのだぞ」
「はあ」
 偉そうなのは相変わらずで。
「……俺、ちょっと兄さんの様子見てくる。キーラはここでヴィノバーと待っててくれ」
「承知した」
 昔と変わらないような顔と態度。それでも奥の方では変化の波が来ていることを、キーラは自分で知っているのだろうか?

 

 外に出ても近くには誰もいなかった。
 この町――ペオルムとかいったっけ。町の住人達はここを町と表現しているようだけど、よそから来た俺たちにとっては村のようにしか見えないほどの田舎だった。周囲を見れば崖や階段が目につき、小さな畑や木々が景色を構成している。町の傍には川が流れているらしく、そのすぐ近くにはいくつかの墓もあった。地面には石畳が道のように伸びているけれど、それも草に浸食されて決して綺麗とは言えない状態になっている。ふと空を見上げると雲の他に十字架も見え、崖の上に小さな教会が建っていることに気付いた。そこにある鐘は金色に煌めいていたが、今や光沢を失いつつある古びた物質であり、建物と同じくらいの年月を過ごしてきたことが見ただけで分かりそうな気がした。
 地面には踏み荒らされた草や花があちこちに散っている。ちょっと歩いて宿から離れると、足元に何かの鍵が落ちていることに気付いた。もう少し先に進んでいると確実に踏みつけていただろう。俺はかがんでそれを拾い上げ、さてどうしたものかと鍵を観察し始めた。
 鍵はきらきらと金色に輝いていた。一般の家の鍵にしては綺麗すぎると思われる。何か大事なものの鍵なのかもしれないけど、だとしたらこんな場所に落とすだなんて――。
 ぼんやりと鍵を観察していると、誰かがすごい勢いで俺の隣を走っていった。何事かと思ってそっちに顔を向けてみたら、何やら村の――じゃなかった町の端の方にたくさんの人が集まっている。そこにいる誰もが青年や大人であり、子供の姿はどこにもなかった。耳を澄ませば大人たちのうるさい声の反対側から無邪気な声が聞こえてきた。
 嫌な予感がするのは何故だろう。お願いだから、もう、やめてくれよ?
 ふらふらと集団の方へ近づいてみたら、大人たちが作った輪の中心に誰かがいることが分かった。でも俺はそれが誰なのかということを、すでに知っているような気がしていた。
「今更この町に何の用だ?」
 町の男が鋭く問い詰める。
「ここにはあんたが欲しがるような物はないはずだよ」
 今度は肝の据わったおばちゃんの声だ。
「別にあんたがここを通ることを責めているわけじゃない。ただこの町の空気を吸ってほしくないだけなんだ。俺たちは俺たちの生活を壊されたくないんでね」
 低い声のお兄さんが静かに諭している。だけども輪の中心の人物は――レーゼ兄さんは、何も言おうとしていなかった。
 次第に町の人たちの言葉は鋭さを増していった。この町から出ていけとか、とっととくたばってしまえとか、漫画なんかでよくある台詞が周囲から飛び交っていく。しまいにはその辺に落ちていた物を投げつける人まで出てきた。それをまともに受けた兄さんは、まるで茨の中で閉じこもっているかのように、何も言わずにただ立っているだけだった。普段と変わらない表情で、自分とは関係ないと言わんばかりの目で。
 こんな時でも無関心を押し通そうとするのか。こんな時でさえ、自分を守ろうとすらしないのか。何なんだ。何なんだよあんたは。あんたはなんでいつも黙ってばかりなんだよ! もうわけ分かんねえよ!
 耐えられなかった。遠い昔の記憶が呼び起こされたようで、ラットロテスでのヴィノバーの姿が重なったようで、俺には黙って見物することができなかったんだ。俺より背の高い大人たちを力任せに押しのけ、輪の中心にいる兄さんの腕を引っ張った。兄さんはその硬い顔を崩してはっとしていた。でもその表情をじっくり見るほどの余裕なんか、俺にはこれっぽっちもなかったんだ。
 入口の近くの宿に走った。後ろから大人たちの声が聞こえた気がしたけど、そんなものはなんにも聞こえなかったはずだった。乱暴にドアを開けて中へ入っていく。宿の主人は驚いた顔でこっちを見て、でも俺の後ろにいる兄さんを見るとさっと顔色を一変させた。
「キーラ、行くぞ!」
「何を言って――あっ、アカツキ!」
 ヴィノバーのバケツの取っ手をぐっと握りしめ、キーラに声をかけて宿を出ていく。後ろからドアが閉められた音が耳に響いてきた。だけどその頃にはもう町の外に立っていて、水となったヴィノバーがゆらゆらと揺れているだけだった。

 

 

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