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 荒廃を知らぬ大地。
 そこにあるのは本当の、満たされたものばかりなんだろうか。

 

 納得いかないことが目の前で起こると、どうしてこう苛々してしまうのだろう。
 誰もが黙り込んでいた。何も言うべきことなどないと言わんばかりの顔で、ただ黙って揺れる炎を囲んでいる。周囲の木々はひっそりとした空気を形作り、俺たち三人の上に容赦なく振りかけていた。
 ペオルムの町から少し歩いた森の中で俺たちは野宿していた。自然の中での野宿だなんて、現代で過ごしていた何も知らない自分だったなら、さぞ様々な自分勝手な感想を持ったことだろう。しかし今は何も考えられないくらい頭の中がフルに回転しており、それがかえって俺の意識を陽炎の先に追いやってしまっていたんだ。だから俺はもう何も言えなくて、同じように黙っているキーラと兄さんの顔を見ることさえできなかった。
 あのペオルムの町での一件をキーラはまだ知らない。話そうとも思わなかったし、それで兄さんを傷つけることを恐れていたから、俺の口は重く閉ざされ決して開くことはなかった。それでいて腹の底ではこいつにも知っていてほしくて、どうか自分で気づいてほしいだなんて勝手な願いを掲げて、それでも何も言わずにじっとしているだけだから、俺は余計に混乱して声の出し方すら忘れていたんだろう。そんな俺の顔をキーラは不思議そうに見ていた。彼の青い瞳が必要以上に煌めいていて、子供のような純粋さが俺の胸を突き刺した。
 兄さんは一人で目を閉じ、静かに座っていた。彼はペオルムの町に入ったらああなることを知っていたんだ。だから困ったような顔をして、自分だけ宿に泊まらないことを提案していたんだ。それを無理矢理引っ張っていったのはキーラだけど、引き止めなかった俺だって同罪だ。それでも後悔はしたくなかった。一人だけ外に放り出して、自分たちだけいい思いをするなんて意地の悪いことをしたくはなかったから。追い出されるなら三人一緒でいい。俗に言う連帯責任ってヤツだ。こんなこと、俺には似合わないことだけど、それさえ蹴落とす堕落した人間にはなりたくないから。だから俺は偽善さえ許せそうな気がしたんだ。
 兄さんは何を思っているだろう。俺の行為に呆れただろうか。それとも心底笑っているんだろうか。どっちにしろ顔に何も浮かべない人だから、困惑以外の感情などどうしたって知りようがないんだろうな。
 ずっしりした空気は冷たさも含んでいる。いつまでもこの身をさらしていても仕方がないので、俺はさっさと眠りにつくことにした。

 

 +++++

 

 翌日になると誰もが普段通りに戻っていた。
「レーゼ殿、我々は一体どこへ向かっているのだ?」
「行けば分かる」
「簡潔な答えだな、おい」
 俺たちはルピスの森の封印とやらを解くためにうろついている、ということになっているらしい。しかし今はルピスの森を通り過ぎ、魔法王国でカピラ姉ちゃんが言っていた「ルピスの森の封印の解き方を知っている村人がいる村」さえ通り過ぎて、なんだか女王の命令に背いていそうな兄さんがここにいる。でも兄さんのことだから女王に背いてるわけがないんだろうな。きっとカピラ姉ちゃんが言っていたこと以外で心当たりでもあるんだろう。
「しかしこの辺りは寒いのだな」
 俺の横を歩く大僧正様がぽつりと漏らす。そう言われてみれば、寒いような気がしてきた。
「この辺りではよく雪が降っているが、今日は降っていないようだ」
「ふうん」
 雪か。俺が住んでる地域ではとても珍しい気象として認識されるモノだ。だから雪の降る地方には憧れたりもしたけれど、いざそこで住んでみたらすぐにでも帰りたくなるんだろうな。理想は理想のままでおいておく方が、うんと幸せになれることだってあるってこった。
 しばらく歩いていると森が見えてきた。兄さんはそこへまっすぐ足を向けている。また森を通るのかよ。なんかもう森ばっか飽きたんだけど。
 なんて、兄さんに反対して一人だけ放置されたりしたらそれこそ洒落にならないからな。飽きただなんて言ってたらあらゆるものが加速してしまう。そしたらもう俺ではどうすることもできなくて、またあの嫌な「後悔」というものにお世話になってしまうんだろう。なんかそれって、とんでもなく情けない気がするな。
 歩きながら一つまばたきをする。何気なくしたそのまばたきだけど、次に目を開けた時、目の前の景色が真っ白になっていたら誰だって驚くだろう。思わず立ち止まってしまった。
 そして再びまばたきをする。そしたら元の緑の森に戻っていた。
 ……何だよ、俺は幻覚でも見たっていうのか? 疲れすぎてんのかな。
 俺の周囲の二人は特に驚いたりする様子もなく、普通にすたすたと歩いている。また俺だけ変なものが見えてんだろうか。あの視界の端に見えた黒いものといい、なんかこっちに来てから変なものばっかり見えるようになった気がするんだよな。本当に無事に帰れんのかな、俺。
「レーゼ殿、ここに入るのか?」
 歩きながら大僧正様が素朴な質問をする。そりゃお前、いかにも入っていきそうなくらいまっすぐ森へ向かってんだから入るんだろうよ。そんなことをわざわざ聞く奴があるかってんだ。
「この森の中に神木と呼ばれている木がある。その力を借り、ルピスの森の封印を解こうと思っている」
「シンボク?」
 まるでオウムのごとく単語を繰り返す大僧正様。こいつ神木の意味分かってんのか?
「そうだ」
 兄さんは小さく言葉を返すと前に向き直り、さっさと歩いて森の中へ足を踏み入れた。
 だけどどうだろう。兄さんが森へ入ったその瞬間、すうっと体が透明になったように兄さんは姿を消してしまった。
「……は?」
 さすがにこんなものを見せつけられると森に入るという意志が揺らぐ。俺の横で大僧正様も目を大きくし、いなくなった兄さんの影を追って森の奥へ続く道を見つめていた。
 何だよ何だよ、やっぱ神木とか呼ばれてるくらいすごい木がある森だから、呪われてたりしてんじゃねーのか? ここに入った者は二度と出られないとか、ゲームでよくある設定があったりしてさ。もしかしてさっきの真っ白事件もこの森の影響か? おいおい冗談じゃねーぞ、変なことに巻き込まれるのはもう勘弁してくれよ。
「アカツキよ、君が先に行きたまえ」
「またそれかよ。お前が先に行けよ」
 大僧正様はやはり俺を先に行かせようと催促してきた。なんでわざわざそんなことをしてくるのか知らないけど、俺だってこんな変な森に勇敢に入っていく勇気なんかない。
「私は君の後から行くのだ」
「だから、その順番に何の意味があるっつーんだよ」
「そ、それは……」
 そして目をそらす大僧正様。
 いや、なんでそんなことしてくるんだ? 意味が分からん。
「あーもう、何だっていいからもう行こうぜ」
 ドンとキーラの背中を押し、森の中に放り込んでやった。その後すぐに俺も一歩を踏み出す。そしてキーラがいるだろう方へ目を向けてみると、今度はなんと大僧正様の抱えるバケツだけがはっきりと見えていた。……ということは俺の横には確かに大僧正様がいるということになるが、肝心の相手の姿はどこにも見えない。なんか本当にわけが分からなくなってきた。
「おーい」
 とりあえず呼びかけてみた。しかし森は静まり返っている。耳を澄ましてみても風の音も、鳥の声も、木々のざわめきさえ聞こえてこず、はっとして周囲を見回してみたら、まるで時が止まったかのように何もかもがぴたりと動作を止めていた。なんだか絵画の中に放り込まれたような気分だ。しかし生きている人間が動作を失った場所に入れられたとして、そこには決定的な分厚い壁があるわけだから、この場も俺自身も一気にあらゆる価値を下げてしまったような感じがした。
 足元にはふかふかした草が隙間なく生えている。薄い緑色をしたそれらは心地よい空間を作っていて、じっと静まったままこの先の道を形作っているようだった。俺の周囲に無造作に生えている木々は、茶色い幹と青々とした葉が美しい調和を作り出し、制止した空間の中でも動的な何かを感じさせる雰囲気を生成している。そんな木々の足元には黄色の小さな花が漂うように存在し、その丸い花の上には空色の蝶が止まっていた。蝶は胴体と足とが黒で彩られているが、羽は縁だけが空色をしており、模様が描かれるべき場所は全て透き通って背後の景色がはっきりと見えていた。この蝶もまた木々と同じように、今にも動き出しそうなほど動的な何かを感じさせている。足元に広がるふかふかした草とは違って背の高い草もあり、それらは木々や花にも負けまいと天に向かって高く伸びて、美しい曲線と色彩で森を華やかに変化させていた。天から差し込む木漏れ日は、それら全てをあたたかく包み込み、この場にあるものを目で見て神秘的だと感じさせるよう手配されているみたいに感じさせていた。
 一歩前へ踏み出すと、森がざわざわと音を奏でたように感じられた。しかし実際は音なんて何もなく、ただ周囲の景色に動作が戻っているだけだった。俺が止まっても動作は止まらず、木々は風に揺られて葉を落とし、蝶は花から離れてふわりと飛び立ち、冷たい風が俺の頬をやわらかくなでていく。それら全てが音もなく目の前で繰り返され、時が進む一瞬一瞬をはっきりと感じられるような、ざわめきにも似た衝動が心の奥底からゆっくりと湧き上がってきた。それは怖ろしいようで、でも心地よいものだった。時の流れに身を任せるとはこんなことを言うのだろうか。
 少しずつ前進を始めると、宙に浮いたように見えるヴィノバーのバケツが動き始めた。俺の後ろからぶつからない程度の距離を開けてついてくる。ということは、キーラは俺の姿が見えているとでもいうのだろうか? 俺には相手の姿なんか、ぼんやりとすら見えないというのに。
 一歩進むたび、ふかふかの草に足跡がついた。立ち止まって振り返ってみると、俺の足跡に黄色や青色の蝶が集まっている。蝶たちがひらひらと舞を踊るように飛んでいると、高い木々より上の方から綿のようなものがたくさん落ちてきた。ちょうど足跡の上に落ちたそれらは音もなく弾け、蝶たちがすうっと姿を消した後に、するすると芽を出して瞬間的に成長し、綺麗な白い花が咲いたかと思うと光の欠片となって消えていった。
 音のない森は永遠の調和が完成しているように感じられた。しかしそれらはあまりにも幻想的すぎて、俺たちのような人間が足を踏み入れるべき場所ではないことが嫌というほど分かるような気がした。

 

 何もかもが感覚としてしか見えない森の中で、俺は一人の人間の姿を見つけた。
 相手は子供だった。見たところソルより年上で、ルイスと同じくらいに見える。周囲の景色と同じような薄い緑の髪を持ち、ぼろきれのようなローブに全身を包み込んでいる。彼の隣に生えている倒れかけた木にもたれかかって、なんだか眠っているようにも見えたけどその目だけはうっすらと開かれていた。
 相手の目の前まで行っても何の反応もなく、どうしたものかと困ってしまった。とりあえず声でもかけてみようかと口を開きかけると、木から体を離して地の上に立ったので何も言えなくなってしまった。
「君たち、この森に何の用?」
 ぼんやりと相手の観察をしていたら、向こう側からこっちに声をかけてきた。でも一体どんなふうに答えれば許されただろう。俺はレーゼ兄さんに連れられてここまで来た。だけど今は兄さんの姿はなく、目的も知らない俺だけが目に見えるものとして存在している。
「ここは神木を守る森。どうせ神木の力を借りに来たんだろうけど、誰もにその力を分け与えることなんてできないからね」
 眠そうな目をしたままで相手は何やら喋っていた。その視線は俺には向けられておらず、むしろ俺の横にいるらしい大僧正様に向けられているような気がする。そして今度はそのさらに横に目を向けた。そこに兄さんがいるとでもいうのだろうか。
「そんなに怯えることはないよ、ここには君の心配している人がちゃんといるから。ただ――」
 ふと目を閉じた相手。そしてこっちに顔を向け、金色に光る大きな瞳を開いて俺の視線を真正面から受け止めた。
「心配と信用は別物だからね。たとえ心配している相手でも、その人のことを腹の底から信用しているというわけではない。……そうでしょ?」
 まるでそれは俺だけに向けられた言葉のようだった。でも、何も言い返せない。
「まあ、いいけど。それより聞かせてよ。何の為にここへ来たの?」
 何も言えない。俺は何も言えなかった。ここは俺の出る幕じゃないってことくらい、分かっているはずだったから。
「そう。そう……じゃあルピスを目覚めさせようとしているんだ、君たちは」
 相手は何もかもが呑み込めたかのように何度も頷いていた。俺は何も言っちゃいないのに。それでも事情を知っているのは、やっぱりこのどこかに兄さんとキーラがいるから?
「ルピスのことはよく知ってるよ。だけど彼女を目覚めさせるのも目覚めさせないのも、そんなことは僕の知ったことじゃない。僕はただの神木の番人だからね。好きなようにすればいいさ、人間たち。……だけど神木の力を簡単に他人に与えるわけにはいかない。だから僕は君たちに質問するよ」
 最初は別の方へ向いていた目が、最後には俺の方へ向き直っていた。そしてその大きな瞳をすっと細くし、音もなくまっすぐこっちへ歩いてきた。
「そうだね、君……」
 そして真正面から指をさされた。何気に失礼な奴だな。
「僕は君の答えを聞いてみたいかな。だから君が答えてみせてよ」
 その顔は笑っているようで、でも全然笑っていない。
「どうか聞かせて。君にとっての本当の答えを」
 相手はすっと目を閉じた。そしてそのまま空気と混ざるように、光の中へと姿を消してしまった。
 はっとして横を見るとヴィノバーのバケツも消えていた。キーラもどこかに行ってしまったのだろうか。とすれば、兄さんももういないかもしれない。だけど俺には最初から二人の姿なんて見えてなかったので、二人に何があったかなんていくら頑張ったって分かるはずがなかったんだ。それをいちいち考えたって、そんなものはもはやどんな価値も持たない不必要なものだ。
 それにしてもあの子供、変なことを言ってたな。答えがどうとか言ってたけど、具体的なことなんか何一つとして言ってくれなかった。そんな曖昧な状態で俺に何をしてほしいというんだろう。そもそもなんで俺なんだよ、大僧正様やレーゼ兄さんでも全然よかったんじゃないのか?
 なんだかまた厄介なことに巻き込まれてしまったなぁ。つーか、俺は何すりゃいいんだ? こんな森の中でいつまでもうろついてても仕方ないと思うけど、ルピスの森の封印を解くには神木の力とやらが必要なんだよな。ということは、俺は神木を探せばいいのか? ふむ、なんだかよく分からんが、とりあえずそういうことにしておこう。でなきゃ、本当に意味の分からんことに頭を悩ませることになっちまう。そんなことで悩むくらいなら、世界平和についてあらゆる事例を混ぜつつ悩む方がよっぽど有益ってもんだよな。うん。
 音がなく動作だけが存在する森の中、俺は再びふらりと歩き出した。この選択が良いものなのか悪いものなのかなんて知らないけど、こうする他にどうしようもなかったんだから、間違っていたとしてもどうか叱らないでいてほしい。そもそも一人だけ変な森の中に放り出されて、変な子供に指をさされて、変な質問の答えを見つけなきゃならないだなんて、こんなことを何の間違いもなく、正しく終わらせることができる人なんているわけがないんだ。ましてや俺は召喚術が使えるわけでもないし、剣を自在に操れるわけでもないただの一般人だ。そんな俺に多くのことを望まれたって、導き出せる答えなんてたかが知れているじゃないか。あの子供、実は何もかもを知っていて、だから俺を選んで困らせようとしてるんじゃないのだろうか? でも――そうだ。本当の意味で困るのは俺でもキーラでもなく、レーゼ兄さんただ一人なんだ。
 自然はそんな俺の気持ちも、あの子供の正体も知らずに、ただ脆く崩れそうな静寂を守り続けるのみ。
 天を見上げても青い空は見えず、ただざわざわと揺れる木々がこの森の深さを物語っているだけだった。

 

 

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