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 物質とは全て、空間と時間があってこそ存在できる。
 いつかそう言っていたのは誰だったろうか。

 

「仲間二人の姿が見えないのは、どうしてだと思う?」
 一人で森の中を歩いていると、空から声が降ってきた。これは明らかにあの子供の声だ。俺をからかいに来たんだろうか。
「知るかよ」
「この森では人が本当に信用しているものの姿しか見えないんだよ。だから君が信用しているのは、あのバケツの中の青年のことだけということになるね」
 やっぱりからかいに来たらしい。いや馬鹿にしているのか。そんなこと、いちいち知らせに来なくたっていいだろうに。まったく御苦労なこった。
「最初に言ったでしょ……心配と信用は違うものだって。そんなことは当たり前のこととして理解している人もいるけれど、全然気づかないままにこの森へ来て悟る人もいる。君にとっての仲間って何? 心配する人のこと? それとも、信用している人のこと?」
 つまらない質問ばかりする奴だな。こんなことに一つ一つ残らず答えていたら日が暮れちまう。こういう場合は無視するに限る。
 俺が何も言わずに歩いていると、相手の声は聞こえなくなった。そうしたら全ての音がなくなって、歩いているという実感すらなくなってしまうんだから、俺はなんだか途端に恐ろしく思えてきた。
 本当に地面の上に立っているのかということすら分からなくなって、慌てて下を確認したりしたけれど、足元は何の変化もなく緑の草が広がっているだけだった。わけもなくほっとして、また前を見つめるけれど、見える景色は少しも変わらない穏やかさと虚ろを作っている。それは俺に何もしてこないけど、俺はそれに何かをしているような気がした。
「ねえ君は、どこへ向かっているの?」
 姿が見えない相手はまだ俺にちょっかいを出してきた。でもそんなことはもう問題じゃない。
「ねえ」
 無視だ無視。反応したら余計に調子に乗るに決まってる。
「君がこの先へ向かうことに何か意義があるというの? この先へ向かうのは君じゃなきゃならないと、そう思っての行動なの?」
 そんなこと知るかよ。わけ分からんことばっかり言いやがって。
「だんまり? それは君の存在が世界に必要とされていると、そういった自信の現れなの? でも君は何も知らないでしょ、だってルイスはまだ何も言っていないものね」
 思わず足が止まってしまった。
 こいつ、ルピスだけでなくルイスのことまで知ってるのか? だてに神木を守ってないってことか。でもあいつはこの時代の人間じゃないだろ。それなのに、なんで――。
「ルイスは……ルイスが君の存在理由を作り上げてしまった。だから君はここにいる。たったそれだけのことなのに、君もルイスも、何も知らないような顔でこの世界で息をしている。世界は君を受け入れるほど余裕があるわけじゃないのに、ルイスがそれを許してしまった。分かる? どうしてそんなことが簡単に起こってしまったのか。それはね、君、どうしてだか必然なことだったんだ。君が必要とされていることが、この世界にとって重要なことだったらしいから。君は何も知らないんでしょ……あの虚ろな魂に、嫌われているから。そりゃそうだよね、君が、君のような人間がルイスに好まれるわけがない。僕はルイスのことをよく知っているからね、そのくらい考えなくたって分かるんだよ。だけど、だからこそルイスは君をこの世界にとって必要な人間に仕立て上げてしまったんだ。それだけがどうしても分からない。なぜ君でなければならなかったのか。なぜ君以外の人間では代用できなかったのか。君はまだ何も知らない。何も知らず、ただ一人の大切なお友達の為にこんな場所までやって来た。そうだよね? 白石豊くん。だから僕は君に聞きたくなったんだよ、君が今になって感じていることを」
 相手は本当にわけの分からないことばかりを喋っている。ルイスがどうとか言ってるけど、今の俺に理解できることなんてただの一つもなかったというのが事実だ。しかもなんでこいつは俺の本名を知ってるんだよ。いや……そういえば、ルイスも初対面の時に俺のことを本名で呼んできたな。なんだよ、こいつらグルか? 俺を何かに陥れようとしてるのか?
「また黙るつもり?」
 なんだか馬鹿にされているような気がしてきた。もうこれ以上は黙っていても何のメリットもない、と思う。
「なんで姿の見えない奴を相手にお喋りしなきゃならないんだよ。俺の意見を聞きたいっつーなら、正々堂々と姿を見せやがれ」
「それはできない。だって僕はそこにいないもの」
「は? じゃあどこにいるんだ」
 問い返すと相手はしばらく黙った。
「僕のいる場所は神木」
「だったらそこまで行ってやるよ、待ってな」
 ルピスの森の封印を解く鍵はあいつにしか作れないらしい。だから俺はあいつの要件を満たさないといけないんだろう。でなきゃ、兄さんが困るしヴィノバーも元に戻らない。逆にこれがうまくいけば二人が笑ってくれるかもしれないんだ。
 一つまばたきをして目を開くと、今まで見えなかった道が俺の足元から前へと続いていた。どうやら道を教えてくれるらしい。だったら俺はそれに従い、ただ示された道を進んでいこう。それが気に入らないものだとしても。
 心なしか森に差し込む光が増しているように感じられた。

 

 道が途切れている先には泉があった。そのすぐ傍に巨大な樹が立っている。きっとあれが神木ってヤツだろう。確かにそう呼ばれるほどの威厳が感じられる気がするな。まあ俺は木には詳しくないからよく分かんないんだけどさ。
 その樹にもたれかかるようにしてあいつは立っていた。緑の髪は周囲の景色に溶け込んでしまいそうな色合いをしており、注意して見なければ見逃してしまいそうなくらい自然なものだった。
「ほら、ちゃんと来てやったぞ」
 自分でもちょっと偉そうな態度を取ってしまったと思うけど、こいつにはこれくらいがちょうどいいような気がしたんだ。
 相手はちょっと俯いてしばし黙っていた。そんなことされたら俺だって黙ってしまう。言うべきことなんか何もないし、そもそもこいつが何やらいろいろと言ってきただけであって、俺の方から何かを言うべき場面じゃないことは分かっている。
「君は何の為にここにいるの?」
 なんて考えてると唐突に口を開いた相手。しかし、なんだか変なことを聞かれたような気がした。
「何の為にって、お前がここにいるから来たんだろうが」
「そう――じゃあ君は、僕がここにいなければここに来なかった?」
「……とりあえず俺は神木を目指したと思う」
 相手はちょっと顔を上げた。それでもまだ目が虚ろに見える。
「君は何の為に頑張るの?」
「頑張るって、何を」
「全て。呼吸すること、歩くこと、感じること、話すこと」
「知るかよ。生きる為じゃねーの?」
「だったらどうして生きるの?」
 いつしか話は宇宙すら越えたようなものになってしまった。
 なぜ生きるか。そんなこと、科学者がいくら考えたって導き出せない答えの一つじゃないか。そんなものを俺が見出せって? 冗談じゃない、こんな場所でできるわけがないだろ。
「分からないのに生きるの? だったらそれはなぜ?」
 黙っていると相手はさらに追い打ちをかけてきた。何をそんなに知りたがっているんだろう。知りたいなら自分で考えればいいだろうに。そもそもそういう類のものは自分で考えることこそに意味があるんだと俺は思う。分からないものを自分で考えて、どうにかして答えを探して、納得できるものを見つけて満足して、そして生涯それを信条として生命を営んでいく。他者から答えを与えられて満足しているようでは、それこそ本当の幸福は見出せないままに死んでいくんじゃないだろうか。
「ねえ、教えてよ。人間はその短い命をどうやって大切に思ったりするの」
「お前は人間じゃないのかよ」
「僕は」
 また相手は黙り込んだ。どうしてそうやって、調子が悪くなると沈黙に解決を委ねるんだよ。それって卑怯じゃないかよ。
「僕は、この神木の守護者であって、同時に……ルイスと同じ存在だよ」
 相手は一度目を閉じ、そしてそれを開いた時、ふわりとした笑みが顔に貼りついていた。それはとても穏やかなものだった。しかし穏やかさの裏には怯えのようなものが見え、さらにその奥には何か痛々しいほどの苦悩があるような気がした。だけどそれらは笑顔の下に埋もれていて、本当に本物の相手の気持ちなのかは分からない。
「ルピスを解放することがどういうことに繋がるか、君たちはまだよく分かってないみたいだね。だけど、君たちが望むのなら、僕はそれに従わなければならないみたい」
 音もなく歩いて相手はこっちに近づいてきた。その慎ましいローブの下から裸足の足が見える。
 俺は相手を見下ろした。相手はまだ子供だから、俺より背が小さい。それがうんと近くまで来るとようやく分かって、だったらもっと優しくしておいた方がよかったかもしれないと思った。
 少年は何も言わずに俺のズボンのポケットに手を突っ込んできた。いやいや君、何をするつもりなんですかい。本人の承諾もなしにポケットをあさるなんざ、それこそ泥棒と同レベルじゃないか。なんて文句を言おうとしたけど、相手が俺のポケットから取り出した物の姿を見ると、俺は何も言えなくなってしまった。そいつはあの嫌な思い出しかない町で拾った鍵だった。確かペオルムとかいったっけ? 思い出したくもない町だけど、あの町の地面の上に忘れられたように落ちていた金色の鍵。俺はそれを拾ったきりで捨てたりせず、無意識のうちにポケットに忍ばせていたんだろう。相手の少年はそれを取り出すとぎゅっと握りしめ、満足そうに一つ頷いて改めて俺に手渡してきた。
「君の鍵に神木の力を加えておいたから。あとは君の意志次第だ」
 いや、どういうこと? もうちょっと詳しい説明を求める。
「ふふ、もっと詳しく教えろって顔してるね。だったらそう言えばいいのに、なぜ君は黙っているの?」
「あ、いや」
「なんだか立場が逆転したみたい――ああ、久しぶりにたくさん喋ったから、僕はもう疲れてきたよ。木々たちもそろそろ喋りたがってる。花も、蝶も、みんな君のことを歓迎してくれているよ」
 少年は空を見上げた。その瞳は希望に満ちた者のように、また自然の中で清き心を保った者のように、生き生きとして美しく輝いていた。初めて見た時とは別人のように見える。何が彼をここまで変えたのか……でも、そんなことはもう、考えなくてもいいことだった。
「なあ、お前。名前は?」
 相手はこっちを見た。ちょっと驚いたような目で、でも煌めきを失わないままで。
「エアー。アイザック・エアー」
「エアーか」
 確か英語で「空気」って意味だったな。確かにこいつは、この森にとっての空気なのかもしれない。
 しんと静まっていた森が再びざわめきだした。今度は静寂を保ったままの動作ではなく、俺の耳にも聞こえる音を伴ってのざわめきだった。木々も草花も蝶たちも、風に揺られて様々な音を奏でる。それはこの森の歓迎会みたいだった。俺とエアーに向けた、一種の演奏のように聞こえてきたんだ。
 木々が彼を優しく包み、花や蝶が彼に微笑みかける。
「外へ案内してあげるよ。そこに君が仲間と呼んでいる人たちがいるから」
「あいつら、もう外にいるのか?」
「僕がそこへ導いたからね」
 この森はエアーがいてこそ成り立つんだろうなって思った。そう思えたら、見える景色もまた違ってきたから不思議なもんだ。
 少年は歩き出した。俺は彼の背を追う。地面の草を踏みしめるたび、大地の息吹が感じられた。しかし道は長くはなかった。俺が一人で神木の場所まで辿り着くのにかかった時間の半分くらいで出口が見えてきた。その先にはキーラと兄さんがいて、こっちを見たりもするけれど、俺たちの姿は見えていないようだった。森の外にいるから見えないんだろうな。
「ねえ。よかったら、また来て」
 森を出る前にエアーが放った一言。少し抑え気味だったのは、そう言うことが初めてだったからなのかもしれない。
「じゃあルピスを解放した後に、俺が平気だったら来てやるよ」
 そして握手を交わす。
 ここは心地よい森だった。最初はびびったけど、慣れてみると音のない世界もいいものだって分かったから。
 森の外へ一歩踏み出すと、木々のざわめきは聞こえなくなり、代わりに風が吹きすさぶ雑な音だけが聞こえてきた。そうして振り返った先にもう森の姿はなく、ただ雪の積もった白い大地だけが俺の前に静かに横たわっていた。

 

 

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