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 気持ちの持ち方だけで、見える世界は変わってくる。
 そんな当たり前のことをいつから忘れていたんだろう。

 

「よくぞ無事に帰ってきた、アカツキよ!」
「は?」
 エアーの森を出た途端、気持ちいいほどの大声が横から響いてきた。おかげで心地よかった森での記憶が吹っ飛びそうになってしまった。何しやがるんだこの野郎。
「鍵は貰えたのか?」
 今度は落ち着いた、それでいて消えそうな声が聞こえてくる。そういや森に行った理由は鍵を貰うことだったもんな。それを聞くのは当然だ。
「これがそうらしいけど」
 ポケットにつっこんでいた鍵を取り出し、何かと聞いてくる二人に見せてやった。大僧正様はまじまじとそれを見つめ、レーゼ兄はいつもの目でじっと眺めていた。この二人は、なんか……何とも言い様がない奴らだよな。
 森のあった場所には雪が隙間なく積もっていた。確か兄さんが言ってたけど、ここではよく雪が降っているらしい。今でこそ降ってないけどきっと普段は吹雪だらけなんだろうな。つーか、森に入る前ってこんなに積もってたっけ? いまいち覚えてないな。
「で、次はどこに行くんだ?」
「ルピスの森へ行く」
 相変わらず表情を崩さない兄さんはそれだけを言い、こっちの目も見ずさっさと歩き出してしまった。それを見たキーラが慌てて兄さんの後を追う。
 普段なら俺もすぐに兄さんの後を追って歩き出しただろう。でもなんだか今回はそんな気になれなくて、もし俺がついて行かなくても兄さんは立ち止まらないのだろうか、なんてことを考え出してしまった。俺はあの二人のことを腹の底から信用していないって言われたけど、だったらあの二人は誰のことを信用してるんだろうなって考えると、俺のことを本当に信用してる人なんていないんじゃないだろうかと思った。そもそも人を何の疑いもなく信じることなんて、そんな簡単なことじゃないはずだろ。人間なんていざという時にはさっと悪者になっちまうんだから、他人のことを信用しろだなんて夢の話のように聞こえるな。
 しかし兄さんは俺が立ち止まっていることに気づくとこっちを振り返り、無言で俺の目をじっと見てきた。そこには言葉にならない棘や威圧が含まれているようで、でも同時に心配されているような気がした。
 ……なんだか、「信用」も「心配」もどうでもよくなってきたな。
「アカツキよ、早くこっちへ来るのだ」
「へいへい」
 兄さんが何も言わない代わりに大僧正様が口を開いた。前へ足を出すとちょっとめまいがしたけど、それさえ平気だって言えるくらいに俺は清々しくなっていた。
 上には青い空が広がっている。そこにある空は四角なんかじゃなく、暴言や嫉妬や蹂躙(じゅうりん)を知らない絵の中で、ただ大きく手を広げて世界を包み込んでいた。こんなものを見ていると、本当に自然は何も知らないんだろうなぁと思ってしまう。世の中にある嫌なことなんて全部、人間が勝手に作り上げて騒いでるだけなんだから。
 そうやってちょっと考えていると、エアーがあんな質問をしてきた意味も分かりそうな気がした。

 

 +++++

 

 今まで通った道をもう一度辿るのは、とんでもなくつまらない作業だった。
 ペオルムとかいう町の隣を通ったり、坂の多い峠道を汗水垂らして歩いたり、殺風景な道もない道を進んだりして、ようやく目的地に辿り着くまでに丸二日もかかってしまった。ああもう、本当に俺って何やってんだろ。早く日本に帰りたいよー。
 すっかり辺りは暗くなったけど、今は山奥の小さな村に向かう途中であり、暗い暗い森の中を三人でさまよっていた。いかにも何か出そうな感じの森だ。本当にこの奥にルピスの森があるってんだろうか。つーか、森の中に森があるのか? それもまた変な話だよな。
「レーゼ殿、もう夜になったことだし、そろそろ休もうではないか」
「なんでお前が仕切るんだよ」
 とりあえず偉そうな大僧正様につっこみを入れておいた。
 しかし兄さんは聞いちゃいないのか、無言ですたすたと歩き続ける。うーむ、また無視ですか? 兄さんって顔はいいけど、さすがにこーいうのって感じ悪いよなぁ。
「なあ、キーラの言う通りだって。夜は視界がよくないし、なんか変なもんに遭遇したりしそうじゃん。だからもうこの辺で休もうぜ、レーゼ兄」
 そうやって俺が呼びかけても反応は同じだった。もしかして聞こえてないのか? いやいやそんなはずはないだろう、こんな近距離から話しかけてるんだから。
「なあってば」
 ぐいと兄さんの腕を引っ張る。すると兄さんはばっと勢いよく振り返り、なんだか非常に驚いた顔をこっちに見せてきた。
 ……いや、俺、別に変なことなんかしてないつもりなんですが。
「何か言ったのか」
 静かな声が返ってくる。やっぱ俺たちの声が聞こえてなかったってこと? それにしても、いつもより顔色がよくない気がする。そりゃ普段から青白い顔してたけどさ。
「いや、そろそろ休まないかって言っただけで――」
「そろそろ?」
「ほら、もう夜になってることだし」
「夜?」
 兄さんは空を見上げた。俺たちの頭上には真っ黒になった空と、その中で光る無数の星だけが姿を見せている。こういうのって異世界でも未来でも変わらないんだよな。って、今はそんなこと考えてる場合じゃないんだけど。
「そうか、夜か」
「うん、夜だから。つーことで野宿でもしようぜ」
 ぐっと俯いた兄さんは額に手を当て、長くて重そうな息を吐いた。そして地面にぺたんと座りこむ。なんだなんだ、疲れがたまってたのか? それにしては俺たちが止めなきゃずっと歩きそうな勢いだったのに。ていうかこんな適当な場所で野宿しても大丈夫なのか? なんか出そうな気がする。なんか。
「よしアカツキよ、我々は木を集めてくるのだ」
「木の枝だろ」
「君は相変わらず細かいな」
 そうなのか? 木と木の枝だとえらい違いがあると思うんだけど。
「じゃあ兄さんは――」
「寝る」
「は?」
 とっても短い一言を放った後、レーゼ兄は地面に寝転がってすやすやと眠り始めてしまった。なんて無防備な。せめて弱い弱い俺たちの為に魔物よけバリアくらい張ってくれてもいいだろうに。
「アカツキよ、どうしたのだろうか、レーゼ殿は」
「俺が知ってたら苦労はしない」
 こんなことされたら木の枝を集める気力すらなくなってしまう。キーラも何のためらいもなく眠り始めた兄さんを一人置いて、のんきに木の枝を集めに行くことに抵抗を感じるのか、バケツのヴィノバーを地面の上に下ろして兄さんの姿を不思議そうに眺めていた。
「歩きすぎて疲れたのだろうか」
「まさか。……いや、でも全然顔に出さない人だから案外そうかもしれないな」
 仕方がないので俺もまた地面に座る。この森、結構寒いな。夜だからだろうか。虫や鳥の声は、怖ろしいほどに何も聞こえない。
「ていうか、前にカピラ姉ちゃんが言ってたことが気になる」
「カピラ殿が?」
 なかなか大きな声で話しているのに、傍でぐっすり眠り込んでいる兄さんは少しも起きる素振りを見せなかった。
「そーいやキーラは聞いてなかったんだっけ? カピラ姉ちゃんが言うには、兄さんは体が弱いのにずっと無茶をしてたみたいなんだってさ。なんで病弱なのかってことはよく分かんねーんだけど」
「ふむ。しかし、ならばなぜ今の今まであれほどしゃんとしていたのだろうか」
「さあなぁ……やっぱ女王の命令だからじゃね?」
「レーゼ殿が無理をしているのは、女王が命令しているからなのか?」
「俺はそうだと思う。そうとしか思えねー。あのおばちゃんのどこがすごいんだか分からねーけど」
「アカツキよ、女王に対しておばちゃんとは失礼だぞ」
「お前には言われたくねーよ」
 バケツの中のヴィノバーが星空を綺麗に映している。それを覗いても、上を見上げても、どちらだって同じように見えたなら俺の心も変わったんだろうか。
「なんか兄さんって、いつも青白い顔してて、威圧感があって、他人と全然仲良くしようとしない人だろ。別にそれはそれで、俺が口を挟んでいいことじゃないと思うけど、でもなんかさぁ……無意識のうちにヴィノバーと比べてる時があってさ。ほら、あいつって、大聖堂の連中に嫌われてんのを知っていながら仲良くしようと努力してたじゃん。それに対してレーゼ兄は、寄ってくる人たちを無言ではねつけたりしてさ。このギャップは何なんだろうって思ったりしたんだ。これじゃ、あまりにもヴィノバーが不憫に思えてさ。だから、なんか……なんでだろうって思うんだ。なんで兄さんみたいな人がいたり、ヴィノバーみたいな人がいるんだろう、世の中には」
 そう、きっとそうだった。俺は兄さんの行動を見て、そんなことばかりを考えていたような気がするんだ。兄さんとヴィノバーには何の繋がりもないのに。二人の共通点なんて、俺が見つけられるようなものじゃなかったのに。そんなことばかりを考えているから嫌われてるんだろうか。心を開いてくれないんだろうか。兄さんやヴィノバーは、俺のことをどんな目で見ていたんだろう。あの森の中で、俺の姿は彼らにどんなふうに映っただろうか。
「君はなんだか難しいことを考えるのだな」
「何が?」
 そういえばキーラには俺の姿が見えていたんだよな。多分だけど、そんな素振りをしていたからそうなんだろう。
「世の中にいろんな人がいるのは当然のことではないか。何をそんなに悩む必要があるのだ? 私はわけが分からないぞ」
「そりゃ、お前……そう言われたらおしまいなんだけど。でも、なんでなのか分からないんだよ、俺は」
「何が分からないと言うのだ。もっときちんと説明してくれねば困る」
「お前が困っても俺は困らないから、説明しない」
「むぅ……」
 適当に話を切り上げておく。でも正直なところ、俺にはそれを説明することなんて不可能だったんだ。その言葉通り、何も分からなかったんだから。
「そうだ、アカツキよ!」
「んだよ、大声出すなよ、兄さんが寝てんだから」
「む。失礼した」
 おや、大僧正様が素直に謝るなんて珍しい。
「あの神木の番人と言っていた子供から、君はどうやってその鍵を手に入れたのだ?」
「なんだよ、そんなこと知りたいの? つーかこの鍵はペオルムで拾ったもんだから、あいつから貰ったわけじゃない」
「なんと、では封印は――」
「話は最後まで聞きやがれ。あいつ、名前はエアーってんだけど、あいつがこの鍵に神木の力を加えたんだそうだ。見た目は変わらないし使い方も分からないしで全然実感ないけどな」
「なるほど。しかし、なぜ拾った鍵に神木の力を加えたのだろうか」
「知らね。物にしか加えられないんじゃねーの? 俺何も持ってなかったし」
「ということは、ヴィノバーのバケツでも大丈夫だったということか?」
「い、いや……あれで封印を解くってのは、ちょっと……」
 いつの間にか恐ろしい話になっていたが、キーラはきょとんとした無駄に可愛らしい表情でこっちを見てくるから困る。お前にそんな顔されたって嬉しくないんだけど。つーか、このメンバーって華がないんだよなぁ。サラとか姐さんとかラスボスの姉ちゃんとか、今頃どこで何してんだろうか。
「しかしアカツキよ、我々は本当にルピスを目覚めさせても大丈夫なのだろうか」
 真面目そうな表情に変わったキーラが、俺たちが今、最も考えなければならない質問をぶつけてきた。
「レーゼ殿や女王はルピスを頼りにしているように見えるし、闇ではなく光の意志だと呼んでいる。しかし私の時代では、ルピスは世界を崩壊に導く闇の意志であり、決して目覚めさせてはならないものとして伝えられていたのだ。そして現に我々の世界は崩壊しつつあり、残っているものはすでにレーベンスの町のみとなっている。アナの研究がルピスと共鳴し、ルピスは徐々に目覚めつつある。だからこそ私は君を召喚した。ルピスの復活を阻止するため、君という人間を必要とした。なのに、この時代――私たちの未来では、同じ世界であるはずなのに、なぜこのような矛盾が生じるのだろうか。私たちの時代はどうなってしまったというのだろうか?」
 そんなこと俺に聞かれたって、何も分からないから答えようがない。以前の俺ならそう冷たく言っていたことだろう。今だって何も分かっちゃいないけど、それでもこいつのこの質問に真面目に答えてやらないと、俺はもうどうしようもない子どもになってしまいそうな気がしたんだ。
「……実際、この時代と俺たちの時代って、どれくらい離れてるんだろうな。何百年も離れてたりしたら、言い伝えとかそういうのって大きく変わってても仕方ないと思うし」
「それはそうだが、しかしルピスは……」
「世界を滅ぼすっつったって、すぐに滅ぶわけじゃないんだろ? ルピスが光か闇か考えるのは明日になってからでいいじゃん。明日、ルピスの封印を解いてみて、それから考えてみればいい。それでもしルピスがやっぱり闇の意志だったなら、この神木の力でもう一回封印し直したらいいんじゃねえの?」
 もちろん俺はまだ神木の力がどんなものなのか何も知らない。でも封印を解けるということは、もう一度封印を施せるということにもなるような気がするんだ。だからこの鍵を現代に持ち帰ったなら、アナの研究を止めなくてもルピスを封印できるんじゃないかとか思ったりした。そりゃそれがうまくいく保証なんてこれっぽっちもないんだけど。
「どーでもいいけどもう寝ようぜ。また明日も森の中を歩かなきゃならないんだから」
「それもそうだな。よし、寝るとしよう」
 いちいち偉そうなキーラの態度も、慣れるとなかなか可愛いもんだったりするから面白い。確かにまだちょっとむかつくけどな。
 地面にごろりと寝転がり、暗い天をじっと見つめる。視界の端々に見えるのは黒いものではなく、風に揺られる木々の緑が闇に溶け込んでいる姿だった。隣では音も立てずに眠り込んでいる兄さんがいて、その姿はともすれば子供のようにも見えなくはない。無邪気に笑うことを忘れるくらいに、何かに没頭し束縛されている子供のように。
 浅い考えだと笑われるかもしれない。そう簡単にいくもんじゃないって、怒られるかもしれない。それでもそうだって信じていなければ、俺はもう二度と自分らしい生活を取り戻せないような気がしたんだ。あの平穏な現代に帰る為には、俺が今になって抱えているものを信用し、それに頼らなければならなかったから。
『心配と信用は別物だからね。――』
 そんなことは分かってる。だけど分からなくなる時だってある。
 俺は何をしているんだろう。俺がしているのは本当に信用だったろうか。信用しようと思っているだけで、実際はただ心配しているだけなんじゃないだろうか?
 俺は本当に、腹の底から、たった一つの疑いすらなく、エアーから貰った神木の力を信用しているのだろうか。本当にこれだけで、ルピスをどうにかできると信じているのだろうか。
 たとえこれらの答えが見つからなくても、日は昇るし世界は回る。
 そうして次に見える世界の姿は、はたして俺の目にどんなふうに映るのだろうか。

 

 

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