50

 そんなに多くのものを背負わせないで。

 

「アカツキ、アカツキ」
 声が聞こえる。これは、あのうるさい大僧正様の声だ。また俺の睡眠を邪魔しようとしているのか。相変わらず人の気持ちを考えない奴だな。
「豊。豊」
 今度はルイスの声だ。俺の名前を呼んでいる。何をそんなに怯えてるんだ? 俺はあんたに対して、酷いことをした覚えはないっていうのに。
「そんな奴は放っておけ。いずれ目を覚ますだろう」
 聞き慣れない声にはっとして目を開けた。そして最初に見えたのは、あの気色の悪い『無』の灰色だった。
 慌てて体を起こす。立ち上がろうとして地面がないことに気づいた。いいや違う、地面はあるんだけど、空も大地も何もかもが全て灰色になっており、物質と呼ばれていた全てのものがここには存在していなかったんだ。つまり、この世にあった何もかもが『無』になっているんだ。
「気がついたか、アカツキよ」
 振り返るとキーラとルイスが並んで立っていた。大僧正様はほっとしたような顔をしており、胸に片手を当てていた。それに対してルイスは普段通りの顔をしている。
「ふん、ようやくお目覚めか」
 再び聞き慣れない声が聞こえてきた。そちらに目をやると知らない奴が立っている。なんだか偉そうに腕を組んだ青年がこっちを見ており、俺のことを見下していそうな瞳であらゆる苦情を語っているようだった。
 相手は癖のある短い金髪を持っており、真っ黒の衣をまとって裸足のまま無の上に立っていた。俺はまた偉そうな人に会ってしまったのだろうか。もう偉そうな役はキーラだけでいいってのに。
「まあこんな奴がいようといまいと関係ない。問題となっているのはただ一つだ。……分かっているんだろうな、ルイス?」
 偉そうな青年は鋭い瞳でルイスを睨みつけていた。その視線の先に立ち尽くすルイスはぐっと俯き、だが確実に大きく頷いていた。
 何を言っているんだろうこの人たちは。この無の上に立ったままで、一体どんなことを問題としているのだろう。俺には何も理解できなくて、ただ目の前で繰り広げられる劇を見つめているだけだった。それ以上の何かができるというのなら、是非とも俺に教えてほしいところだ。
 偉そうな金髪の青年は音もなく歩き、ルイスの目の前に立った。なんだかよからぬことが起こりそうな気がする。この青年、ひどくルイスのことを嫌っているようだから。いや、あるいはルイスに対して怒っているのかもしれない。それはなぜ? そんなこと知らない。でもきっと分かっていた。怒っているその理由は、全ての景色が無になったからなのだろう。
 青年はルイスの胸ぐらを掴み、そのまま力任せに相手の顔を殴りつけた。その衝撃でルイスはこっちに吹き飛ばされてくる。びっくりしてルイスの体を受け止めると、全く体重を感じられなかった。まるで羽のように飛ばされたというのだろうか。それは非常に壊れやすそうな、儚いもののように見えた。こんな奴がレーゼ兄さんを止めようと強大な魔法を操っていただなんて、今まで俺は一体何を見ていたというのだろうか。
「おい」
 上の方から声が降ってきた。顔を上に向けてみると、俺を見下ろす鋭い目がある。それを見た瞬間に俺はわけも分からずぞっとした。
「そいつを渡せ」
 抽象的なことを言ってくる相手だった。そいつ、と一言で言われたって何を指しているのか分からない。だけどそんなことはもうどうでもよくて、俺は相手の青年の言いなりになるのが嫌だった。こうなったらもう相手の何もかもに反発して、相手をとことん困らせてやりたかった。しかしその反面俺は相手を恐れていた。なんだか言葉で表せないような威圧感があって、それが容赦なく俺を縛りつけている。そのため恐怖は恐怖であるままで、その姿を決して逆らえない絶対的な忠誠に近いものに変えてしまっていた。
 相手はこっちに向かって手を伸ばしてきた。求めているのはルイスなのだろうか? でも、その先は一体どうなるだろう。ルイスを相手に渡したその先は?
 俺は本能的に何かを覚って咄嗟に両手に力を入れた。この腕で抱えているものを、決して手放してしまわないように。強い力で脅されようと屈しないつもりでいた。命の次に大事なものを守る時のように、ただ一心にルイスの体を抱えていた。
 相手の手がぐっと近くに来たように感じられた。俺はさらに両手に力を入れた。そうして準備を完璧にしていたのに、相手の手がこっちに向かってくることはなかった。あれ、と思ってふと横を見ると、偉そうな青年は俺ではなく大僧正様の手の中にあるものを奪ってしまっていた。
「何をするのだ、そのバケツの中身は――」
「黙っていろ。お前らの責任を俺が消してやる」
 苛ついた顔のままの青年は、ヴィノバーのバケツを地面の上にすとんと置いた。そしてふっと瞳を閉じ、バケツに向かって片手を突き出す。この青年、まさかヴィノバーを元の姿に戻そうとしているんだろうか。でもレーゼ兄さんや魔法王国の女王様でさえできなかったことなのに、こんなただの一般人じみたあからさまに怪しい奴なんかがちゃんと元に戻せるんだろうか。もし失敗なんかして、今より大変なことになったりしたら、こいつはどうやって責任を取るつもりなんだろうか。
 一瞬だけぱっと光が煌めいた。そして次に見えたのは、バケツの中の水が宙に浮き、それが少しずつ人の形を形成していく様だった。
 ……いや、まさか。
 徐々に形が分かるようになる。空になったバケツは音もなく倒れ、ルイスの足元までころころと転がってきた。全ての水が消え去って、一粒の水滴すら残っていない。そして俺の目の前に浮いていた水は、あの時跡形もなく消えた青年の姿を美しいくらいにはっきりと映し出した――いや、水となっていたヴィノバーが、元の人間の姿に戻っているんだ。
「……アカツキ、キーラ」
 ヴィノバーは口を開いた。それは久しく聞けなかった声。
 青い瞳がぼんやりと輝いている。
「俺、水になった状態で、全部見てたんだ」
 彼は何を言おうとしているのか。この先を聞くことが怖いとさえ思えてくる。
 そう、彼は一体、何を。
「ほんのちょっとだけ一緒にいただけなのに、ここまで俺のことを思ってくれていて――俺は何も返せないのに――こんな危ない力を抱えているのに――あんたたちは、ここまで頑張ってくれて……。いや、どう……どう言ったらいいのかな、こういうのって。はは、俺、大聖堂にずっと閉じこもってたから、実はすっごい世間知らずなんだ。なんだかもう、何も言葉が出てこなくってさ」
 ヴィノバーは片手で目を隠した。そうしてしばらく黙っていた。だけど俺は、この先にまだ隠された声が続いていることを知っているような気がしていた。
「嬉しかった。でも、何も言えなかった」
 それだけを言った青年は、目を隠したまま、声も上げずに静かに涙を流した。
 俺はもし彼が元に戻ったなら、真っ先にお礼を言ってくるものだとばかり思っていた。だけどそれは半分正解で、半分は全くの別物だった。確かに彼は俺たちに感謝している。でも、本当はそれよりも、お礼を言いたくても何も言えなかったことが彼をひどく苛んでいたんだな。もしも彼がいつものあの笑顔を見せながら「ありがとう」と言ったなら、俺はその言葉をまた疑いの目で見ていたかもしれない。そんな言葉が欲しかったわけじゃないって、真っ直ぐすぎる彼の全てを否定していたかもしれない。そう考えるとこれは俺にとって良い結末だったんだろう。自分を守ることで精一杯の馬鹿みたいな俺にとっては。
「そんなに気に病むことはないぞ、ヴィノバーよ。我々は当然のことをしただけなのだから。そうだろう、アカツキ?」
「え? あ、ああ……」
 突然聞こえるキーラの声はいつも心臓に悪い気がする。能天気というか、何も考えてなさそうというか。どんな時でも無駄に気楽そうで、それが苛々する原因になっているのかもしれないな。
「ん?」
 ふと気づけば俺はルイスを後ろから抱いたままだった。そういえばこいつのことをすっかり忘れてたな。とりあえずもうあの偉そうな青年の脅威は去ったようだから手を離す。そしてちょっと顔を覗きこんでみると、どうしてだか分らないけど、こっちもまた静かに涙を流していた。
「お前たち、事の重大さに気づいてないだろ」
 そして忘れていたもう一人が口を挟んでくる。うるせぇ奴だな。
 金髪の青年は偉そうに腕を組み、ものすごく機嫌の悪そうな顔をこっちに向けていた。
「何か変わるかと思って信じていたのに、全く何も変わらないんだからな。やはりお前なんかを信じるべきではなかったということか、ルイス?」
 また俺たちを置いて話を進める気か、こいつ。
 ルイスは服の袖で涙を拭った。
「お前が自分に任せろと言ったから、わざわざ時の竜の力を借りたのに」
 無の上に立つ人は落ち着いている。
「その結果がこれか。幾らかの変化はあったものの、最終的に世界が滅ぶことは避けられなかった。お前はルピスを止めることができなかった。見ろ、無と化したこの空間を。自然や生命が作ったものは何一つ残っていない。それなのに、どういう皮肉か、人の意志であるお前だけが残っている。それでもあとわずかでお前も消滅するだろう。本来ならここに存在できるはずがないのだから。……さて、どうする? お前が決めればそれでいい。このまま自ら消滅していくか、あるいはもう一度時を越えるか?」
 本当にわけが分からなくなってきた。こいつらは一体何なんだ? この金髪の青年も、ルイスも、まるで正体が見えてこない。いや、それよりも、本当に世界は滅んでしまったというのだろうか。俺がルピスを目覚めさせたから、世界が無になったっていうんだろうか?
 なんだ、じゃあ、世界が滅んだのって、俺のせいなのか? 俺のせいなんだろ? そうだ、間違いなく俺のせいじゃないか。それなのにどうしてこの青年はルイスを責めてるんだ? 俺が責められるんじゃなかったのか? ルイスのどこに責任があったっていうんだ? もう本当に、わけが分からない。
「も、もう一度……」
「何度挑めば気が済む? 言ってみろ」
「それは――」
 ルイスは俯いたままで、青年は見下ろしたまま。これをどうすればいいんだろう。俺は、この二人に何を言いたいのだろうか。
「なあ、アスター」
 後ろから声がした。振り返ると、泣き止んだヴィノバーが無の上に立っている。なんだ、ヴィノバーの奴、この金髪の青年のこと知ってたのか。知ってたのか?
「そいつは頑張ってたんだぜ。そこまで責めなくてもいいんじゃないのか? そりゃ、俺は何も知らないし、水になってて何もできなかったけど……でも、そいつが頑張ってたことだけは分かるよ。だから」
「だから許せと言うのか? この世界が無になっているというのに?」
 確かに世界は滅んで、無になった。もしここに神様でもいたなら、世界を破滅に導いてしまった人間たちを責めるだろう。このアスターとかいう奴の言っていることは正論だ。でも、俺は納得できなかった。だってその責任を負っているのはルイスじゃなくて、鍵を使ってルピスを目覚めさせた俺なんだから。ヴィノバーを元に戻したいという願望のためにルピスを封印から解いた、他でもないこの俺の方が、罰を受ける対象となっているはずなのに。
「頑張って、それで未来が変わったなら俺だってこいつを責めたりはしない。しかし結果はすでに出ている。この変えられない結果を見れば、ルイスを責めることも当然のこととなるだろう?」
「未来が変わるとか、変えられないとか、一体どういうことなんだよ」
 このまま黙って聞いてるのは癪だった。だから俺も口を挟んでやった。
 金髪の青年はこっちを睨んできた。部外者が口を出すなと言いたいんだろうな。ヴィノバーだって部外者だろうに、俺の時とはえらい違いだな。こういう奴って嫌いだ。
「ふん、まあいいだろう。巻き込まれたお前たちにも説明しておいてやる」
 あくまでも相手は偉そうだった。こいつのどこが偉いんだか。ただの怒りっぽい青年じゃないか。
「こいつは――ルイスは、ルピスの片割れとでも言うべき存在だ。その為ルピスのことをよく知っている。だからルピスの封印を守る役を自分から申し出てきたんだ。俺はそれを信用し、ルピスの封印を解こうとしている人間がいる時代へルイスを飛ばした。そしてうまくいけばよかったのに、こいつはそれに失敗した。一度きりなどではない、何度も何度も失敗した。失敗するたびにこいつは『もう一度』と言う。そうやって同じことを何度も繰り返しても結果は同じだ。もうこいつに任せることはできない、そうやって言っているのに、こいつは決して引き下がらない。だがもう限界だ。これ以上同じことを繰り返しても結果は変わらない。それはもう明白なことだ。だから」
「だからどっか遠くにでも行けって言いたいのか?」
「いや。ルピスと同じように封印する」
 先程までの苛々した様子の相手はどこかへ行き、今は非常に落ち着いた彼が話している。それは逆に恐ろしくて、出てくる言葉全てが真実であるようだった。
 ルイスの正体はまだいまいち分からないけど、このままだとルピスと同じように封印されてしまうんだろう。
 ああ、もしかしてこのアスターって奴、過去の英雄のアカツキなのかな。でもこいつ、英雄ってレベルじゃないよな。世界が滅んだのに生き残ってたり、ルイスを違う時代に飛ばしたりして。アカツキって、もっと人の好い奴だと思っていた。俺とは正反対の、とんでもなくお人好しな、強い人だと思っていた。
「最後にもう一回だけ機会をやれよ。今度こそ変わるかもしれないじゃないか」
 俺はずっとルイスは嫌な奴だと思ってた。今でも気に入らないところがたくさんある。納得できないとこも、腹の立つとこも、考えれば考えるだけほいほいと出てくる気がする。ルイスは俺とキーラを勝手に未来に飛ばした奴で、なんでか知らないけど俺のことを嫌ってて、何を聞いても一つも答えてくれないような奴だ。でも、そんな奴でも、俺の代わりに全ての責任を押しつけられる様を見るのは、俺が世界を滅ぼした奴だと厳しく責められることよりも嫌だった。そんなことをされるくらいなら、こいつを引っ張ってあの時代に戻り、レーゼ兄さんと女王様を止めに行く方がずっといい。俺の責任は俺の責任だし、ルイスの責任はルイスの責任だ。他人が勝手に代用していいものじゃない。
「無駄なことだ。何度やっても同じだとすでに分かっている」
 アスターは完全に諦め切っているようだった。俺とも目を合わさずに、どこか遠くの方を見つめていた。
「確かに一人じゃ何も変わらないかもしれないな。けど二人、いや三人ならどうだ?」
「……お前たちが手伝うと言いたいのか?」
「別に手伝って困ることなんかないんだろ?」
 こっちを向いた金髪の青年はちょっと顔を歪ませた。何か考えているようだ。こんな一般市民に意見を出されて気に食わなかったのかもな。こいつ、どこぞの国の王子みたいな奴だから。
 ルイスはちらりとこっちを見た。何か言いたそうにしているけど、その口から言葉が出てくるのを期待してはいない。でも相手の表情から言いたいことは推測できた。
「……二度はないと思え。それが条件だ」
 やがて言葉を吐き出した青年は、真面目そうな顔で俺の顔をまっすぐ見てきた。それは怒っているようにも見えなくはないけど、相手が非常に真剣であることが伝わってくる。俺はちょっと笑って見せた。どこか自信がありげな、不敵な笑みを相手に見せた。
「ヴィノバー、お前も手伝ってやれ」
 俺から視線を離したアスターはヴィノバーの肩をぽんと叩いた。この二人って本当に知り合いだったんだな。……あれ、でもヴィノバーってずっと大聖堂にいたはずなのに、なんで外にこんな変な知り合いがいるんだ?
「当然! 俺はアカツキとキーラに助けられたんだ、今度は俺が二人を助ける番さ」
 ――あ。
 そっか。そうなんだ。
「私も手伝うぞ、アカツキよ。我々でこの世界を守らなくてはならないのだから」
 やっと俺にも分かったような気がした。この人の正体が。
「このままあの時代に戻るより、根本的な原因を叩く方がいいかもしれない。よってお前たちにはこれから過去のティターンの世界へ行ってもらう。ルピスはその世界の者によりこの世界へもたらされた。その者を止めることができたなら、この世界はルピスの脅威に怯えることもなくなるだろう。……さあ、分かったならもう行け。あまり時間をかけることができない。この無の空間はもう少しで消滅する。俺はその前にお前たちを飛ばすことにしよう」
 ルイスを真ん中に囲み、俺たちは一点に集まった。その真正面にアスターが立つ。よく見てみると相手は裸足だった。確かエンデ教のシェオルも裸足だったよな。靴を履かないことに何か意味でもあるのだろうか。偉い人の考えることってのは、いつも分からないことばかりだ。
 相手がすっと片手を突き出すと、無の世界がぐにゃりと歪み始めた。元々何もない景色だけど、歪んでいくのがはっきりと分かるんだ。これはきっと世界の消滅だ。無のままで状態を維持することはできず、完全に消え去ろうと世界が動き出したのだろう。それに飲み込まれる前に俺たちは脱出する。ただ一人生き残っていた青年を置き去りにして。
 でも、それは相手が望むことだったかもしれない。だってアスターはきっと、この世界の神だから。
 何もかもが消えていく。怒りも、悲しみも、喜びも、全て消える。これがルピスの望んだ結末。何もできない人間たちが、否定しようとしている結末だ。
 頭の中がふわふわして、意識がぼんやりとし始めてきた。ルイスに飛ばされた時とは違う感覚だ。次に目を覚ました時、俺は何を見るんだろう。もう誰かが泣く姿は見たくないな。
 レーゼ兄さん。エーネット姐さん。ラットロテスの司教様。そして、エアー。
 あの人たちが生きる世界を奪っていいのは、他でもないあの人たち自身であるはずだ。ルピスのようなわけの分からない奴がいきなり奪っていいはずがない。
 だから俺は納得できなかったんだろう。嫌いだったはずのルイスの味方をしてまで叶えたくなった願い。
 もう後に引けないところまできていることは明らかだ。残された選択肢はただ突き進むということだけ。この先どうなっていくかは分からないけど、無理矢理にでもどうにかしなければならないんだろう。
 やがて体に力が入らなくなり、何も見えなくなった。
 暗闇は何も教えてくれない。でも、闇があるからこそ光を見つけられるんだ。
 さあ、そろそろ意識を手放そう。次に目を開いた時、ひどく疲れてしまわないように。

 

 

 

前へ  目次  次へ

inserted by FC2 system