59

 望みが叶えば幸福に。
 願いが叶えば永遠を。

 

「おかえりなさい」
「ただいま、姉さん」
 ユリアの家に帰ると、真っ先に姉弟の和やかな挨拶が交わされた。二人とも安心したような笑顔を作り、見ているこっちまで穏やかになってしまう。
「それで、時の砂は?」
 穏やかな表情は一瞬にして崩れ去った。ユリアは真面目そうな目でこっちを見てくる。いつの間にか俺がリーダーになっちゃってるんだね。まあ駄目お頭はいまだに気絶したままだし、仕方がないとも言えるかもしれない。
 俺は手に持っている白いカップをユリアに渡した。相手はビンに入っていないことに対して驚いた様子もなく、ただ無言で俺からカップを受け取った。それを持って俺たちに背を向け、部屋の奥へ引っ込んでいく。
 やがて部屋から出てきたその手には、もう何も握られていなかった。
「ありがと。助かったわ」
 そうして吐き出されたのはお礼の言葉。なんだかとてもストレートで、聞いてて悪い気分にはならない。
「だけどエースが気絶したままだと話ができないわね。仕方がないからあなた達はアジトに戻ってなさい」
「へ? いいの?」
「大丈夫よ。それともここに残って、この世界について詳しく聞きたい?」
 どこか怪しげな微笑を浮かべるユリアニア。何やら裏がありそうな気がするが、今はこのティターンという世界について情報を集めておいてもいいかもしれないと思った。あのお頭は自分のことでいっぱいで何も話してくれなさそうだもんな。もしかしたらユリアはルピスのことを知ってるかもしれないし、聞いてみて損はないと思うんだけど。
 ちらりとヴィノバーの顔を見てみる。相手は俺の視線に気づき、一つ頷いて見せた。これは何の合図なんだろうか。話を聞いておけと言いたいのだろうか?
「君たちはこの世界の人間じゃないのかい?」
 横から口を挟んできたエイシス。こっちはユリアと違い、多少驚いているようだった。それがなんだか普通の反応だったのでほっとする。
「別の世界から来たってのは確かだと思う」
「へえ。どこの世界から来たんだい」
「どこって――」
 そういえば、あの世界にもこのティターンみたいに名前がついてたのかな。
 もう一度ヴィノバーの顔を見る。ヴィノバーは俺がしつこく顔を見るもんだから、とっても不思議そうな表情を作った。それでも負けじと懇願するように見続けると、相手ははっとした表情を作り、今度はエイシスとユリアの方へ向き直った。
「俺たちはスイベラルグって世界から来たんだ。知ってるか?」
「スイベラルグ? うーん、聞いたことない名前だなぁ」
「要するにウラノスから来たのね」
 弟は聞いたことがないと言うのに、姉は変な横文字を出して納得してしまった。何なんだこの姉弟。全然会話が成立してないぞ。
 それにしても、あのラットロテスや魔法王国がある世界にもちゃんと名前があったんだな。何だっけ、スイ――ああ、もう忘れた。まあいいや、名前なんて知らなくたって生きてはいけるんだから。
「姉さん、ウラノスから来たってどういうこと?」
「ここティターンとは違ってね、ウラノスにはたくさんの世界があるのよ。その一つにスイベラルグも含まれているの。だからウラノスから来た、ということが言えるのよ」
「へえ、たくさんの世界があるのか。面白そうな場所だね」
 ユリアとエイシスは非常に仲がよさげな姉弟だった。それは二人によって作られる平穏かもしれないけど、俺にはエイシスによってのみ作られているもののように見える。なんかユリアニアって怖そうな人だもんな。ちょっと変なことを言ったら百の棘が飛んできそうな、そんな感じの。
「ねえあなた達。あなた達はこの世界に興味がある?」
 気づけばユリアはこっちを見ていた。翡翠色の瞳で見つめられる。その目は俺の奥底の感情までえぐり取りそうで、少し気を抜けば魂ごと持って行かれそうな心地になった。
「この世界にも神はいるのか?」
 などと俺が得体の知れない恐怖を感じていると、横でヴィノバーがなんとものんきそうな質問をした。だけどそのおかげでユリアの目は俺からそれた。ようやく手足が解放されたようでほっとし、どうしてこんなに怖れる必要があるのか分からなくなった。
「このティターンの世界はね、天空神ディオネによって創られたのよ。そしてその天空神と、世界の至る所に存在する十二の柱によって支えられているの」
「ふーん。俺の世界じゃ神の名前はエンネアっていうんだ。その神と幾人かの天使によって世界は支えられてんだぜ」
 あれ、何かおかしくないか?
「なあヴィノバー。神の名前って」
 台詞の途中で口を塞がれる。それがものすごい勢いだったからちょっとびっくりしたが、なんだか相手の言いたいことが伝わってきたような気がした。
 あの胡散臭い神の名前はアスターだった。けど、それは限られた人しか知らない名前で、表向きはエンネアということになっているんだろう。なんで本物の名前を隠す必要があるのかは分からないけど、もしここでアスターという名を口にしたら、おそらく俺はヴィノバーによって再起不能の状態にされるんだろうな。それは非常に恐ろしいことだ。だったら俺は何も言うべきではない。うん、それが一番いいことだ。宗教の信者を怒らせるとろくなことがないんだから。
「このティターンにはたくさんの神話が残ってるんだよ。姉さんの家には確かその本があったよね。君たちも読むかい?」
「いや、俺は別に興味ないから」
「アカツキは相変わらずだな……」
 横から渇いた笑みが聞こえた。でもそんなものは無視。
「君はどうする?」
 エイシスに問われ、死体運びの兄ちゃんはちょっと黙った。顎に手を当てて何やら考えているらしい。何をそんなに考える必要があるんだろう。読みたくないならそう言えばいいのにさ。
「本当はちょっと興味あるんだ。けど、やめとくよ。俺が信じてるのはエンネア神だけだからさ」
「そっか」
 そう言って笑い合う二人。
 ヴィノバーは本気であの神のことを信じてる――ううん、尊敬してるんだろうな。それは今までの言動からも充分に窺えることだったけど、興味を持ったものさえ手にしない姿勢を見て、なんだか改めてそれを知らされたような気がした。俺にはあの胡散臭さ全開の神をなんで信じられるのか分からないけど、あるいは命の恩人というものは、俺たちが思っている以上にその人を支配してしまうものなのかもしれない。支配して、動けなくなってしまうくらい、全ての細胞に深く浸み込んでいくものなのかもしれない。
 そうなったらもう逃げられないだろうな。違う意見を持っても、抵抗さえできないだろうな。ヴィノバーはそれを許しているのだろうか。精霊になるという未来を受け止めているのと同じように、神を信じるという望みを受け入れているのだろうか?
「もう日が暮れるわ。どうする?」
 ユリアニアは窓の外を見た。俺も真似をしてそちらを見る。そこに映る景色は少しオレンジに染まり、もうすぐ夕方が世界を包み込みそうだった。
「動きたくないから、ここにいたい」
「そう。だったらそうしなさい。カチェリ、あなたもどうか逃げないでいてね」
 ああ、そういえばカチェリもいたんだっけ。この家に入ってから一言も喋ってなかったから、なんだかすっかり忘れていた。後ろを振り返ると、水色の髪の女性は黙って立っていた。その目はユリアをしっかりととらえ、二度と放すまいという気迫すら伝わってくる。
 カチェリに、エースに、ユリアに、エイシス。彼らは一体何者なんだろう。どんな目的があって、何をしようと思っているのだろう。
 彼らと関わることがルピスと繋がることならば、俺たちはたくさん関わらなければならないんだろう。だけどもしそうじゃなかったら、俺は時間を無駄にしているようにしか思えない。
 今はここにルイスがいない。ルピスのことを一番よく知っている奴がいないから、ユリアやエイシスと関わっても、誰も何も教えてくれない。ルイスが彼らを見たら何を言うだろう。何を思うだろう。普段から何を考えてるか全然分からないけれど、その考えを分かりたいと思うのは、どうしようもなく愚かなことなんだろうか。
 少しだけ。ほんの少しでいいから。
 せめて、ひとかけらでも、あいつの本心を見せてほしいんだ。

 

「カチェリ!!」
 騒がしい声によって一気に目が覚めた。これは、あの駄目お頭の悲惨な声だ。
 ベッドからむっくりと体を起こす。周囲は闇に包まれており、蝋燭の光がこっちにふらふらと近づいてきた。目を凝らしてみるとそれはヴィノバーだった。片手に蝋燭を持ち、眠そうな目でこっちを見ている。
「今の声、何なんだ? アカツキの声か?」
「俺じゃねーよ。あのお頭の声だよ」
「ああ、起きたのか……」
 ふあ、とあくびをするヴィノバー。夜中に無理矢理起こされるってのは腹が立つことだよな。ちょっと文句でも言ってきてやろうか。
 俺たちはエースが目を覚ますまでユリアの家にお邪魔になることにした。しかし夜になってもお頭は気絶したままで、結局そのまま泊まらせてもらうことにしたのだ。そうして気持ちよく寝てたのにこの仕打ちとは。それで叫ぶのがカチェリの名前って、どんだけカチェリが好きなんだよ、あのお頭は。
「おい、カチェリはどこだ!」
 なんとこっちから行く前に相手が来ちゃったよ。お頭は焦った表情で俺たちをじっと見てくる。その顔には幾筋かの汗が流れ、よっぽどカチェリが逃げてないか心配らしいな。
「カチェリならもうどっか行っちまったぜ」
「なんだと! どうして止めなかった! あいつは、あいつは――」
「いや嘘。隣の部屋で寝てる」
「なっ……」
 がつん、と頭に雷が落ちた。まったくお頭は頭に血が上りやすくて――。
「嘘なんか吐くな! みっともない!」
 ……あれ。
 握り拳を作り、怒った顔をしているのはヴィノバーの方だった。お頭の方を向くとちょっと驚いた顔をしている。俺だって驚いたさ。まさかヴィノバーに怒られるとは思ってなかったから。
「アカツキ、エースに謝れ」
 そして命令された。
「……悪かったよ」
 軽い冗談のつもりだったのに、ヴィノバーにはそれが分からなかったらしい。本当に真面目な奴だな。真面目な奴だけど、なんだか俺は、それを見て妙に嬉しくなってしまった。
 だって、叱ってくれる人ってのは、いつだって。
「分かればいいんだよ。簡単に嘘を吐くような人には、なってほしくないからさ」
 ヴィノバーは俯き、微笑んだ。
 その姿にラットロテスの司教の姿が重なる。見た目は全く違うけれど、醸し出されている雰囲気は同じだ。
 ――ああ、こういうことか。ユリアとアスターが似ていると言ってたのは。
 エースは静かに部屋を出ていった。隣の部屋に向かったのだろう。俺は再びベッドの中に転がり込み、ヴィノバーは蝋燭の炎を消した。
 ようやく穏やかになれたと思ったのに、その日の夜は、隣の部屋から聞こえる騒音によってあまりゆっくりと眠れなかった。

 

 +++++

 

「空から行くのなら、アルーに乗って行けばいいわ」
「しかしそれじゃ目立ち過ぎる気が……」
「それ以外に方法はなくってよ。エイシス、彼らにアルーを預けてあげなさい」
「分かったよ、姉さん。アルー、彼らの力になっておやり」
 翌朝になって早々、俺たちはユリアの家から追い出された。エースが目を覚ましたからもういいだろうということらしい。そして短い会話の後に、洞窟などでお頭を乗せていた鳥がくっついてくることに決定した。この鳥の名前をアルーというらしいが。
「エイシスはユリアの本当の弟じゃないんだ。あいつは自身の故郷が分からなくて、たまたま会ったユリアを姉と見間違えた。それ以来共に住んでいるというだけの関係だな」
「ふうん」
 アジトへ帰る道の上にて、駄目お頭は偉そうに聞いてもないことを喋ってくれた。とりあえず相槌くらいは打っておいたが、別にエイシスとユリアの関係に興味はない。それより俺はエイシスが鳥と会話ができることの方が気になるんだけど。
 アルーという名の赤い鳥は、なぜだか小さくなって俺の横を飛んでいる。自由にサイズ変更できるなんて、なんだか天才科学者ルーチェ殿の怪しい発明品を思い出してしまった。何だっけ、あれの名前。もうすっかり過去のことになっちゃって、細かいことは何もかも忘れてしまったな。
「アジトに帰ったらお前らの仲間二人を連れて、いよいよ世界樹に侵入するぞ。いいな?」
「何がいいな、だ。私をさっさと解放しろ!」
 お頭はカチェリの腕を掴んだまま歩いている。昨日の夜から派手な喧嘩をしていたけど、どうしてもカチェリと一緒にいたいらしい。しかしカチェリの方はお頭をとてつもなく嫌っているようで、逃げるかもしれないと危惧するのは当然のことかもしれないな。
「お前も一緒に世界樹に来るんだ。そうしたらきっと、いろんなことを思い出す」
「私は過去のことなど知りたいと思っていない!」
「いいから行くんだ!」
「この……っ!」
 また暴れ出そうとするカチェリ。お頭も手くらい放してやればいいのになぁ。
「不安じゃねーのかな」
 歩きながら、ヴィノバーの声が聞こえた。
「何が?」
「自分が何者か分からなくて、不安じゃないのかなって思ってさ」
 自分が何者、か。
「人それぞれなんじゃねーの? 少なくとも俺は、カチェリと同じで気にしない人間だ」
 それだけを答えるとヴィノバーは黙った。
 やわらかな日差しが全身を包み込む。そこに緑の風が自由に舞い踊り、森の中の道は清々しい空間を作ってくれていた。

 

 

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