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 それはひとりでに出てきただけ。
 それは怯えぬまま帰っただけ。

 

 ルイスの話によると、この紫色に染められた世界は魔界らしい。
 魔界と言って連想されるのは魔物だ。ちょっと周りを見回してみてもそいつらは影すら見えないけど、この紫色の空と言い、この世界がおぞましい場所であることだけは確かだと思う。ついでにここでは人間は生きていけないらしい。俺たちが今、この大地の上に立っていても生きていられるのは、ルイスが最初に使った魔法によって結界が張られたかららしいのだが。
「だから神木の力が必要、か」
 右手に光るのは金色の鍵。俺がこいつに念じ、魔界でも生きられるようにしなけりゃ移動さえできないってことか。しかしそんな長時間持続させるような魔法、この神木の力に向かってどうやって表現すればいいのやら。ここから帰るまで俺たちを魔界の空気に慣れさせてほしい、とか念じればいいのか?
「おい、向こうの方から声が聞こえるぞ」
 なんて鍵と睨めっこをしていると、カチェリがどこか遠い彼方を指差していた。そっちに目を向けても紫の森が見えるだけだ。いきなり何を言い出すんだろうこの人は。俺には声なんて少しも聞こえないんだけど。
 そしてさっさと歩き出そうとしていた。……って、そんな勝手に結界から出ても大丈夫なのか?
 ちらりとお頭の様子を窺ってみる。すると、どういうわけかお頭はまだ地面に寝転んでいた。ついでにキーラとヴィノバーも地面に座り込んでいる。何やってんだろうこの人たち。
「ア、アカツキよ」
「何」
「私は少し気分が悪いのだ」
「ああ、そう。それで?」
「ここの空気、俺たちにはちょっときついみたいだ。お前はよく平気でいられるな……」
 大僧正様も死体運びの兄ちゃんも、どうやらこの魔界の空気にやられてしまったらしい。しかし、俺は別にどうってことないんだけどなー。息を吸うことも、喋ることも、体を動かすことも普通にできる。だけどそんなふうに普通でいられるのは、俺とルイスとカチェリの三人だけのようだ。確か俺は昔に鉄壁防御を手に入れてたけど、今回のこともそれと何か関係があるのかな。
「なあ、ルイス」
 ルイスに意見を求めて振り返ると、相手は何やら困ったような顔をこっちに向けた。そしてカチェリが指差した方へ体を向ける。そこにはカチェリが一人で歩いている姿が見えた。なんかもう大僧正様以上にフリーダムだな、あの人。
 って、そうじゃなかった。
 とりあえず俺とルイスとカチェリはどこにいても平気だってことは分かった。しかし一般人である男三人は妙な環境に放り込まれたらすぐにへこたれてしまう。これをどうにかするにはやはり魔法が必要で、ルイスにはどうにかできないらしいから俺の神木の力が頼りになる、ということなんだろう。
 あーあ、面倒臭いな。なんで俺が野郎三人の為に神木の力を使わなければならないんだ。どうせなら可愛い女の子の為に使いたかった。
 なんて、そんなのどうだっていいんだけど。
 とりあえず神木の力さん、この情けない男三人をここでも生きられるようにしてやってください。
 金色の鍵にそれだけを念じる。しかしその願いは目に見えて分かるものじゃないし、俺が実際に体験するものでもない。もし失敗したとしても俺は痛くも痒くもないわけだから、それはそれでいいことなのかもしれないけど。
「おお、アカツキよ、気分が楽になったぞ」
 横からものすごく嘘っぽい台詞が聞こえた。返事をする気力すら湧いてこない。
「言われてみればちょっと楽になったかも……」
 続いてヴィノバーが立ち上がる。そしてのびたままのお頭を無理矢理引っ張り起こした。この駄目お頭、さっきから気絶してばっかりだな。完全に足手まといキャラになってる気がする。
 お頭はとりあえず目を覚ましてくれた。ルイスはお頭を背後から殴ったにもかかわらず、お詫びの言葉の一つさえ口にしなかった。俺はそれをなんとなく穏やかな心持ちで眺め、カチェリが向かった方へと足を運んだ。
 魔界の冷たい空気が体にまとわりつく。
 それは執拗に絡み、ねばつき、大きな重荷を幾つも背負わされたように心を圧迫した。歩くだけで、息を吸うだけで、とても嫌な心地になっていく。本当にここは人間が住める場所じゃないと思った。おとぎ話の中の存在のように、この空間が意思を持っているように、俺たち人間を意識的に排除しようとしているように感じられた。

 

  先に歩いていったカチェリに追いつき、しばらく何もない魔界の大地を探索していると、なんだかいかにも魔物っぽい生物を発見した。
 しかしそれはでかかった。世の中の全ての常識を軽く吹き飛ばしてしまうくらいに、誰もが「あり得ない」と口を揃えて言いそうなほどでかかった。例えるなら、そう、山だ。自然の素晴らしき造形物であるあの山が意思を持ち、神から自由を授かったかのようにためらいもなく生命を営んでいるような感じだ。
 実際に目に見えて分かる事実は山じゃないんだけど、そいつは遠くから見たら山にしか見えない。紫に染められた白色の巨体を持ち、二つのどす黒い赤の瞳が左右にちょこんとくっついている。目だけは無駄に可愛らしいんだけど、その目の下に穴が開いているような黒い空間があり、なんだかあの世界樹につけられていた傷を思い出した。
 そんな奴が俺たちの進んでいる道の前にいる。まだこっちには気づいてないようだけど、わざわざあいつの注意を引きつけることもないだろう。無視だ無視。
「アカツキよ、あれは何だ」
「は? 俺に聞くなよ。聞くならヴィノバーに聞け」
「いや俺に聞かれても困るって」
 キーラは俺に聞けば何でも分かると思っているのか、あることないこと全てひっくるめてまず俺に質問してくる。大体お前、俺は異世界の事情なんて何も知らないような現代っ子なんだぞ。なんでわざわざそんな奴に質問しようと思うかね。
「エース殿、あれは何だ」
「ここって魔界だろ? 魔界なんだろ? そんな人間が生きていけないような場所に住む魔物のことなんて俺だって知るかよ! 少しは自分で考えやがれ」
「あの魔物の……向こう側」
 騒いでいる俺たちを無視し、ルイスは魔物をすっと指差す。その小さな声に誰もが口を閉ざし、相手の次の言葉を静かに待った。
 しかしそんな言葉は元からなかったようであって。
「……とりあえずあの魔物の向こうに何かあるんだな」
 こくりと頷くルイス。当然のことながら、こっちに向いてはくれなかったけど。
「おい、あいつを倒しに行くのか?」
 何やら場違いな台詞を吐き出し、二本の剣をカチェリは手に握っていた。いや、倒せるのならそれに越したことはないんだけど、そんなこと本当に可能なのか? 俺はどうなっても知らないぞ。
「カチェリ、無茶はよすんだ」
「うっさいな、私に命令するな!」
 ああ、この駄目お頭の野郎、なんでここで話しかけるんだよ。そんなことしたらカチェリが怒って無茶をしてしまうじゃないか。本当に何も分かってない奴だな、このお頭って。これじゃカチェリに嫌われ続けるのも納得できるわ。うん。
 カチェリはすたすたと歩き、魔物の方へ一直線に向かっていった。巻き添えを食らいたくないというのが本音だけど、あの人を一人だけ見捨てていくというのもとても嫌な行為だった。誰もがそう思ったのか、皆がカチェリの背中を追う。その中でも真っ先に歩き出したのがルイスだったことには少なからず驚いたが。
 魔物は俺たちに気づいたようだ。しかし全員が真正面に立つまで律儀に待ってくれた。赤く可愛らしい目でこっちを見下ろしてくる。そんな目で見られたら恐ろしさなんて吹っ飛んじまうじゃねーかよ。
「おい魔物! そこをどけ! どかないって言うんなら……」
『ティターン!』
 ……え? 何だ、今の。
 カチェリが魔物に向かって脅すように話しかけると、頭の中に誰かの声が響いてきた。びっくりしてキーラの顔を見てみると、こちらもまた非常に驚いていることが目に見えて分かる顔をしている。こいつもあの声を聞いたってことだな。
『よくぞここまで来た。さあ、早く私の元へ来い』
 先ほどの声が静かに続ける。それは誰かに向けられた言葉であることは間違いないんだろうけど、誰に向けられたものなのかは分からない――はずだった。
「な、何だお前は……私に言っているのか?」
 カチェリの問いかけは虚しく空を舞っていくだけ。もう声は答えなかった。
 ちらりとルイスの顔を見る。しかしルイスは普段通りの表情をしていた。少し暗い、焦点の合ってない目で遠くを見つめている。目の前の悲劇なんて、もうずっと昔に忘れられたものだと言わんばかりに。
 ……あれ。なんだかそこに違和感を感じる。確かにいつもこんな感じの顔をしてたけど、本当にこんな顔だったっけ?
「ルイス」
 名前を呼んでも無視される。それも普段通りだ。だけど、今。今この刹那から作られた時の中で生きる相手は、どこか俺の知らない相手の表面にしか見えなかった。
 唐突に地面が揺れ始める。しかしそれはすぐに収まった。よく見てみると目の前の魔物のつぶらな瞳が消え、黒い穴の中に細い道が続いている。それはすっかり山へと化してしまったようだった。なんだ、元から魔物なんかじゃなかったんだ。
 本当にそうだろうか? そんなことは、俺が知ったことじゃない。
「カチェリ、行くのか?」
「行くに決まってんだろ!」
 俺のすぐ傍で小さな喧嘩が巻き起こる。それも先ほどの地震と同じようにすぐに収まればよかったのに、終焉を迎えて鮮やかな平穏を描いてくれるのは、もっともっと先のことであるように思えた。

 

 +++++

 

 進んだ道の先、そこに待っていたものは、例えばどんなものだったなら俺は許せたのだろうか。許せるものなんて存在しないと思った。それを分かっていながらも許せないなんて、わがままもいいところだ。
 そこには光が差し込んでいた。あの薄気味悪い紫の空気は光によって浄化され、俺たち人間が住んでいた世界での透き通った空間が作られている。足元には白い石が敷き詰められ、壁には緑の植物のツタが自由に伸びている。魔物の気配は感じられないし、生命の息吹すらかき消されているようだ。だけど、そこには確かに植物が存在し、そのツタに囚われている一人の人間の姿も確認できた。
 その人の顔を見た時、俺はびっくりしたように立ち止まってしまった。
「……ユリアニア?」
「いや、違う。よく見ろ」
 お頭は俺の意見を否定する。目を閉じたままの相手の姿をよく観察すると、相手はユリアではないことが分かった。だけど、驚いたな。まるで顔はそっくりだ。髪の長さも同じくらいだけど、その色は全く異なっている。ユリアは青と緑を混ぜたような色で、目の前にいる相手はカチェリと同じ水色だ。そう考えると今度はカチェリに似ているように思えてきた。俺は何を考えているんだろう。
「あの者は何者なのだ?」
「それは――」
 キーラの問いかけにお頭は少し俯く。この反応、お頭は相手を知っているんだな。しかし簡単には教えてくれないか。これじゃあカチェリと同じじゃないか。
 透き通った空間の中、一人の靴音が大きく響いた。それはカチェリが女性に向かって歩いていく音。その先に危険が待ち受けているかもしれないのに、彼女は臆することもなく欲望を満たしていく。それは記憶がないから為せる業なのか、あるいは。
「ようやくここまで来てくれたか、カチェリ」
 天から降ってきたような声が建物中に響く。
 ぱっと白い光が周囲に溢れ、俺はポケットに手を突っ込んだ。どうやら敵がお出ましらしい。そいつがどんな奴かは知らないが、登場の仕方がいかにもそれっぽいから敵なんだろう。
 気がつけば透き通った空間の中に、誰か知らない人が一人増えていた。
「これで長きに亘る不公平を――生命を、無へと帰すことができるだろう」
 ユリアに似た女性の前、カチェリが立つ地の目と鼻の先。そこに現れた見知らぬ男は、それだけを言って優しげに微笑した。

 

 

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