62

「うっ……!」
 背後からの小さな声。はっとして振り返ると、ルイスが頭を抱えて地面にしゃがみ込んでいた。
「お、おい、どうした?」
 慌てて声をかけても返事はない。ああ、こういう時ってどうすればいいんだっけ?
 相手の隣に行って俺もしゃがみ込み、ルイスの背中をさすってやった。今は変な男が現れて、こんなことしてる場合じゃないってのに。
「何だお前は……私に何か、用でもあるのか」
 突然の男の登場に、カチェリは戸惑っているようだった。自分の目の前に唐突に出てきたんだもんな。それで驚くなって言う方が無茶な話だ。
「そうだ。私はお前に用事があるんだ、カチェリよ」
「私に……」
 相手はカチェリを知っているんだ。エースも知っていたカチェリの正体。ただの一般人かと思ってたけど、これだけ大それたことをしているんだ、きっと常識からかけ離れた答えが返ってくるんだろうな。それを目の当たりにした時に驚かないようにしなければならない。
 突然現れた怪しい男は若い人だった。あのラットロテスの司教様と同い年くらいに見える。髪は深い紫色をしており、体は紺色のマントで隠されている。彼から見出せる雰囲気はエンデ教のシェオルを思い起こさせた。
 ものすごく悪役オーラを放っている奴だな。だけどその表情はどこか穏やかだ。その裏に怒りだの嫉妬だのが潜んでいればいいのに、ここから見る限りそんなものは一欠片も見えてこない。まるで負の感情全てをどこかに置き去りにしてきたみたいだ。負の感情がなければいい人のように見えるかもしれないけど、本当はそんなものはまやかしだって俺は知ってる。だからこいつはなんだかやばい気がした。
 俺のすぐ隣でルイスが咳をする。
「あなたはクロノス殿ではないのか?」
 どこか驚いたような声色でお頭が相手に問う。またお頭は相手のことを知っていたのか。このお頭、本当は何者なんだ? なんだかいろんなことを知りすぎているような気がする。
「そう。私の名はクロノス。ティターンの世界の十二柱の一人だ」
「そんなあなたがなぜ魔界に?」
 知らない単語が目の前で飛び交う。十二柱? 何だっけ、どこかで聞いたことがあったような気がするな。だけどもう忘れてしまった。確か、ユリアがそんなことを言ってたような……。
 そうだ、十二の柱だ。世界樹や天空神と同じようにこの世界を支えている、十二の柱が存在するって話していた。だけどそれって神話だろ? 神話って、人々の間で語り継がれて、決して本当のことじゃない夢のような話のことだろ? 現実なんて、いつだって汚いことの連続なんだから。そんな現実が夢と重なったらどうなる。どうなる?
 そんなこと――俺は知らない。
「君は昔、王国に忍び込んだ賊だね。名は確か、エースといったか」
「そんなことはどうでもいい、俺の質問に答えろよ!」
 お頭と相手――クロノスの会話は悲鳴を上げている。何も分からない俺たち未来人は、ただ部外者のように黙り込む他にここにいる方法はなかった。
 そしてそれはカチェリに関しても同じであって。
「よろしい、せっかくここまでカチェリを送ってくれたのだから、私の理想を話すとしよう」
 理想? 理想だなんて、相手は一体何を言っているんだ?
 クロノスはすっとカチェリに手をのばした。それに気づき、カチェリは一歩後退する。そして腰から二本の剣を抜いた。どんな相手でも容赦はしないという心意気がよく伝わってきた。
「私は世界に疑問を抱いている」
 カチェリに触れられなかった手を自分の元へ引っ込め、クロノスは静かに目を閉じた。口元には壊れそうな微笑を浮かべている。それはやはり穏やかなものだった。破滅さえ知らないような綺麗な微笑みだった。
 それでもひしひしと圧力を感じるのだから恐ろしい。
「あの世界――ティターンに限らず、ウラノスもガイアも、全てハデスとの契約の上に成り立つ世界だということを、君たちは知っているかい」
 また新しい単語が増えた。ウラノスは前にも聞いたことがある、俺たちが元々いた世界の名称だ。ガイアとハデスは知らない。そんなに一度に単語を増やされても覚え切れないんだけど。
「ティターンもウラノスもガイアも、全てハデスによって空間を与えられているんだ。元々それぞれの世界には『時』しかなく、ものが存在するには『空間』が必要だった。だから三つの世界はハデスと契約したのだ、空間を与えてくれるようにと。しかしそこに一つの問題があった」
 何も分かっていないままで話は進む。俺はこの話を何一つ理解できていない。いきなりハデスがどうとか言われたって、そんなもん俺が知るかよ。そもそも俺は異世界なんか存在しないと思ってたんだ、今更世界の誕生秘話なんか聞いたって、別に感心もしないし驚きもしない。
 隣を見てもルイスは俯いたままだった。今はクロノスの話より、ルイスの体調を気にかけることを優先しようと思う。どうしてだか分らないけど、クロノスに会ってから調子が悪そうに見えるから。
 話なら勝手にやっちゃって。俺の代わりにキーラやヴィノバーが聞いてくれるだろう。あの二人、ルイスが一人で苦しんでいるっていうのに、そんなことはそっちのけでクロノスの話に集中してるみたいだから。
 だけど彼らを責めることはできない、と思う。
「三つの世界には『空間』が必要だった。そしてハデスは契約により『空間』を与えた。しかしその『空間』では不可能なことがあった。生命が生きられる環境が整っていなかったのだ。……だから三つの世界はハデスに頼んだ。ハデスの中でしか存在できない三つの世界は、与えられた『空間』を基とし、生命が生きることのできる『空間』に創り直してもらった。そうして安定した『空間』を手にした三つの世界は、神や世界樹などを創り、それらを『壊れそうな安定』を守る為の鍵とした」
 ルイスは俺の手を振り払った。この反応は、少しは元気が出たという表れだろうか。そうだったら嬉しい。嬉しいけど、まだ相手の瞳さえ見せてはくれなかった。
「ハデスによって安定した空間を手にしたものの、少し気を抜けばその安定は壊れてしまうだろう。それを知っているのはティターンでは神や十二柱だけ。もし安定を失えば世界はハデスに飲み込まれる。いいや、それ以前に生命は消滅するだろう。だから我々はハデスと約束をした。もし安定を失うようなことがあれば、瞬時に世界を守ってくれるようにと」
 俺は金色の鍵を取り出した。こいつでルイスを楽にできるなら、何だって祈ってやれるような気がした。目の前で俯いている相手は息をするのも苦しそうだ。その苦しさは俺には分からないけど、過去に高熱を出した経験があったから、きっとそんな感じなんじゃないかと思う。
 だけどなんでいきなりこんなことになったんだろう。やっぱりあのクロノスって奴が何かしたのかな。
「そうやってハデスと約束をすることで、世界は永久の平和を手にしたように思われた。しかし、それがそもそもの過ちだったのだ。――ハデスはここ数百年の間、我々の世界やウラノスに強く干渉し始めている。ハデスからの誘いが良いものなのか、悪いものなのか、私には分からない。しかし我々もウラノスもハデスに存在させてもらっているから、ハデスに意見することなどできはしない。我々はハデスに頭を下げ続け、常にハデスに怯えながら暮らさなければならない。果たしてそれは耐えられることだろうか? そんなことで、本当に、『生きている』と言えるのだろうか?
 私はそれを否定する。これではハデスに支配されているだけだ。確かに我々はハデスがなければ存在できなかった生命だが、我々はハデスの奴隷などではない。そう、我々はハデスの元から自立せねばならないのだ」
 唐突にルイスは耳を塞いだ。何をそんなに怯えているんだ。あのクロノスとかいう奴の話はつまらないことばかりで、何も恐ろしいことなんかないじゃないか。彼が語るのは滑稽な理想論だ。怯える要素もなければ、笑い飛ばす要因もない。
 俺たちは世界に依存している。しつこいくらいに依存し続けている。その事実を底から引き剥がすには、神以上の強い力がなければ不可能なことなのだから。
 だから恐れる必要はない。耳を塞ぐ必要はない。もしもそれでも安心できないというなら、ぐっと瞳を大きく開けてみればいい。そこにはきっと醜い世界が映るだろう。そしてそこから世界の不安定さを見出し、ああこんなものかと妥協できるだろう。そうやって諦めることによって忘れることができる人間は、とても幸福な生命だと言える。お前が人間かどうかは分からないけど、そんなことは関係なしに俺たちは同じだと思うから。
 ふと視線を感じた。それを辿るとルイスの目が見えた。相手はじっとこちらを見ている。その潰されたような光から読み取ることができたのは、全て俺の中にあったものだった。
「だから私は、あるものを造った。それはハデスの環境でも生きることのできる生命。人間では決して生きることのできぬ地で、それらは時を経て徐々に勢力を拡大していった。――これがどういうことだか、君たちに解るかい」
 分からない。分かるわけがない。あんたもシェオルと同じことを言うのか。俺の中にあったものだったのに、俺が分からないことを分からせようとするのか。
 俺の中にあったもの。彼の中にあったもの。
 ……いや、俺は、何のことを言っているんだ?
「魔物……」
 呟いたのは誰だったろう。気がついたのは誰だったろう。分かっても黙っていてほしかった。なんにも分からないままに終わらせてくれれば良かったものを!
 静かに時がざわめき出す。このざわめきを、俺は確かに知っている。
「魔物! 数百年前、唐突にティターンに現れた人を襲う怪物、魔物! それを造っただと! 一体なぜ――」
「なぜ、だと? 決まっているだろう! 彼らはハデスの環境で生きられる生命だ。ハデスから独立するには、ハデスの環境でも生きられる能力が必要不可欠。ハデスの中でしか存在できない三つの世界は、ハデスからの守りを破棄することによって、初めてハデスの束縛から抜け出し、本当の『自由』を手にすることができる! 私の理想はハデスからの独立――自分たちだけの力で生きる、ハデスからの自立だ」
 独立。自立。
 本当の自由。
 クロノスの理想は束縛からの解放。それは、とても素晴らしい意見だと俺は思う。
「そうやってハデスの環境に適合した魔物を造ったって、俺たちがハデスの環境で生きられるわけじゃない。こんな方法ではハデスから自立するどころか、またハデスに頼らなければならなくなるんじゃないのか!」
「分かっているよ、そんなことは昔からね。しかし、もとより私は、我々人間がハデスの束縛から解放される可能性は限りなくゼロに近いと考えている。我々がどう足掻こうと、ハデスの環境に適合することは不可能だからね。だから私は、人間を滅ぼそうと思った。不必要な生命を破棄し、環境に適合した魔物だけの世界を創造し、ハデスから自立して本当の自由を得る。……君たちは魔物と呼んでいる彼らだが、まことの名前はレーベンス――つまり、生命という名だ。世界から人間が消え、魔物だけの世界が完成すれば、本当の意味で彼らの生命は光り輝く。私は私の中のものを使い、彼らのような生命を造り上げてきたんだ」
 クロノスは理想を穏やかに語る。彼は自由になれば生命は輝けると言った。確かにそれは間違っていないと思う。だけど、その為に犠牲になる生命はどうなる?
 いや――やめておこう。俺は、そんなことを考えちゃいけない。俺はクロノスでもなければエースでもない。彼ら二人の会話を邪魔することは、二人の存在を否定することに繋がってしまうだろうから。
「エース。君は、世界樹にできた傷からこの世界へ来たんだね」
 ここは魔界。人間が生きられない世界。魔物だけが生きられる世界。つまり、ハデスの環境と全く同じ。
 俺たちが生きていた世界とは似ても似つかない。
「ティターンの世界樹、ウラノスの神木、そして魔界に広がる虚空。これらは互いに繋がり合っている。奥の方で、ひっそりと。あいにくガイアにはそのようなものはなさそうだけどね」
「……何が言いたい?」
「私がカチェリを必要とする理由。私が君たちをここまで誘導した訳。エース、頭のいい君はそれをもう察しているはずだ」
 お頭は黙っていた。困ったように下に俯き、何も答えようとしない。それは事実を隠しているようで、だけどはっきりと肯定している証でもあった。この人は本当に、あらゆる意味で不器用な人だ。
 相手が何も言わないのを見て、クロノスはカチェリの前に立った。カチェリは剣を構えたまま黙っている。この人はエースと違って何も分かっていないようだ。これから起こることも、これまでに起こったことも。
「アカツキよ、あのクロノスという者は……」
 はたと気がつけばキーラが俺の横にしゃがみ込んでいた。ひどく心配そうな瞳でこっちを見てくる。だけど俺は相手を安心させてやろうとは思わなかった。
「お前もあいつの話を聞いてただろ。あいつは魔物を造った人間で、ハデスとかいうのから自立しようとしてる。けど自立するには人間が邪魔で邪魔で仕方がない。そうなったら、次にとる行動ってのは自ずと見えてくるだろ?」
「その行動というのは――」
「おそらくあいつが世界樹に傷をつけた張本人だろうな。世界樹がティターンとここを結んでいるのなら、世界樹の傷……つーか、穴を拡大して、魔物の軍団をティターンに送り込むことくらい考えてそうだ。ついでにウラノスにも同じことをするだろうな」
「そうか。我々の世界に魔物がいるのは、クロノス殿がこの世界とウラノスを繋ぐ扉を開いたからなのだな」
 理屈は分かってもいたたまれないな。理解できるけど頷けないってのはこういうことを言うのか。
 そして俺たちは未来を知っている。彼の計画が難航することは明白だ。あるいは俺たちが生きていた時代では、それすらすっかり諦められていることかもしれない。どちらにしろ魔物の存在意義はよく分かった。分かったけれど、だからと言って黙っていられるほど俺はできた人間じゃない。
「……いけない」
 心のままに立ちあがろうとすると、ぐっと服を掴まれた。そして聞こえてきた小さな声に耳を澄ます。
「やめて――」
 ルイスは懇願する。過去を変えるなと言いたいのだろうか。
「お前の理想なんかどうでもいい」
 お頭は黙ったままだった。次に口を開いたのは、何も知らないままのカチェリ。
 静寂は俺たちを助けてくれない。
「なぜ私を必要とするんだ、私の力などなくても、お前はそれほどのことを為し得たんだろ? それに私は何も覚えていない。お前の望むことなどできやしないさ」
「記憶がない方が都合がいいから、私が君の記憶を消したのだよ、カチェリ」
 俺の服を掴んでいるルイスの手にぎゅっと力が入る。それはどこかカチェリの心情を表しているように思えた。
「もし記憶が残っていれば一気に複雑になるからね。エースは君の記憶を取り戻そうと頑張っていたようだが、一度消えてなくなったものは二度と取り戻せない。……さあ、カチェリ、お喋りはここまでとしよう。君にはティターンと魔界を繋ぐ扉を造ってもらう。私と共に来てもらうよ」
「何を勝手なことを――」
 黒い光が瞬く。それは眼前に影として周囲に滑り、カチェリとクロノスを包み込んだ。そうして二人を連れ去って光は消える。
「カチェリ!」
 いくら叫んでもお頭の声はカチェリに届かない。
「くそっ、クロノスの野郎! ティターンと魔界を繋ぐ扉だと? そんなもの、造らせてたまるか!」
 どこぞの熱い少年主人公のように、お頭は一人で突っ走っていきそうだった。それを立ち上がったキーラが止める。俺はもう立ち上がる気にはなれなかった。この場所でできることは、全て時の流れをかき乱す行為のように思えてきたから。
「エース殿、教えてほしい。カチェリは一体何者なのか、あなたは知っているはずだ」
 キーラのストレートな質問が飛ぶ。お頭は少し落ち着き、キーラの目をじっと見た。
 やがて一つのため息が。
「そうだな、ここまで話を聞かれてしまっては、カチェリの正体を黙っておくこともできないな」
 お頭は諦めたようだった。隠すことにどれほどの価値があったかは知らない。少し黙って長く息を吐き、お頭は植物のツタに囚われている女性の方を向いた。
「あいつの名前はカチェリ・ティターン。そこに囚われている天空神ディオネの娘であり、この時代でのティターンの神だ」
 それだけを言ったお頭は下に俯く。ふと今まで忘れかけていた黒いものが視界に入ってきた。それはルイスにも見えているようで、俺の隣で震える人を他人だとは思えなくなっていた。

 

 

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