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 傍観なんてしたくなかった。
 手を伸ばしてはいけなかった。

 

「おい、お前ら! クロノスとカチェリを追うぞ!」
 目を覚まさぬ天空神に見守られる部屋の中で、俺たちは淋しく取り残されていた。お頭は先陣を切って部屋の外へ走って出ていく。だけど俺たち未来人は、考えなしに行動することを許されているわけじゃなかったから、なかなか本音を曝すことができないでいた。
「アカツキよ、我々も行くぞ」
「あ、ああ……」
 いつでも自分に正直なキーラは俺の腕を引っ張ってくる。俺は無理矢理立たされ、そのまま部屋の外へ引きずられそうになった。
 だけど不安になる。未来から来た人間が過去を変えるのって、本当は許されることじゃないはずだろ? そうしたら俺たちが生きていた時代がガラリと変わるかもしれないんだから。そもそも俺たちの目的は、クロノスを止めることじゃない。ルピスがウラノスに行くことを阻止するためにここまで来たんじゃないか。
 ちらりと後ろの部屋の中の様子を確認する。天空神と呼ばれた女性は目を覚ます気配はない。身体にたくさんの緑のツタが巻きつき、呼吸さえしていないように微動だにしなかった。
 そしてそれを黙って見続けている青年の姿が――って、あれ?
「ちょっと、待ってくれよキーラ」
 慌てて大僧正様に声をかける。相手に俺の声は届いたようで、すぐにぴたりと足を止めてくれた。ついでに手も離してくれる。
 天空神を見続けているのはヴィノバーだった。さっきクロノスが話していた時からずっと黙ったままだ。一体どうしたというんだろうか。こんな時、普段の彼なら真っ先にカチェリを助けに行こうと言いそうなものなのに。
 一気に心配になったので彼の元へ駆け寄る。
「どうかしたのか、ヴィノバー」
 ひょいと顔を覗き込んでみると、特に変わった様子はなかった。ただじっと天空神の顔を見つめているようだ。見覚えでもあるんだろうか。
 その瞳がゆっくりとこっちに向けられる。
「あ、ああ……。気にしないでくれ」
 気にしないでと言われましても。そんな覇気のない声で言われたら、余計に気になってしまうっての。
「とにかく、一人で突っ走っていった駄目お頭を追おうぜ。ほら――」
 彼の腕を掴もうと手を伸ばした刹那。
「触るな!」
 耳元での怒声。
 思わずたじろいで一歩後退してしまう。
 本当にどうしたってんだ。ルイスもヴィノバーも、あのクロノスって奴に何かされたのか? あいつはカチェリとエースにしか興味がないって感じだったけど、実際はルイスにもヴィノバーにも何か罠を仕掛けてたってことなのか?
「あ……」
 ヴィノバーの青い瞳がこちらを見ている。そこにさっと黒い影がよぎった。
「ご、ごめん。その……今、俺の中で精霊の魔力が渦巻いてて……もうちょっとで抑えられそうだから」
 そう言って目をそらす。そして下に俯き、すっかり黙ってしまった。
 精霊の魔力が渦巻いてる? それって、魔力が暴走しかけてるってことだよな。やっぱクロノスが何かしたんだろうか? シェオルと同じような方法で、無理矢理ヴィノバーの中にあるものをいじくり回したんだろうか?
 俺の右手には鍵が握られたままだ。これ以上ぼんやりしていたら、カチェリはクロノスの思惑通りに動いてしまう気がする。
 目を閉じて神木の力に念じる。ヴィノバーの魔力が鎮まるようにと。
「あっ……」
 短い驚きの声にほっとした。修行僧の青年は振り返ってこっちを見てくる。その表情は雲が吹き飛んだように晴れており、だけどほんの少しだけ不思議そうな顔をしていた。
「さあて、それではカチェリとお頭を追いましょうかねぇ」
「ヴィノバーはもう平気なのか?」
「ああ。今は魔力もすごく落ち着いてる」
 地面にしゃがみ込んだままのルイスの隣に行き、俺もしゃがんで手を差し出した。しかし相手は俺の手を無視して立ち上がる。こっちもまた普段通りに戻ったようだ。やはりクロノスが調子を崩した原因だったんだろうか。
 そうして気合いを入れて立ち上がったはいいものの、俺たちは一体どこへ行けばいいのだろう。
「なあキーラ」
「……いけない」
 静かに言葉を発するのはルイス。俺が立っている位置からは、相手の背後には天空神が潜んでいた。
「クロノスの行為を妨げてはならない。それはあなた達だって分かっているはず」
 あくまでもルイスは過去を変えさせないつもりらしい。その目の中に宿る光は、かつてルピスを復活させまいとレーゼ兄さんに立ち向かっていった時と同じ輝きを見せていた。
 過去に手を加えれば未来が変わる。それは多くの人が望む願い。だけどそれを神は許さなかった。俺たち人間に時を越える能力を与えなかったのは、きっとそれが世界の秩序を乱してしまうからという理由だけではないだろう。もっと多くのもの、もっと大勢の生命が、たった一つの欲望に振り回されてしまう。そこにある形が分からなくなるほど、たくさんのものが消滅と生成を繰り返す。いわば、時だけを操り空間を無視した強引な力だ。それら二つがなければ存在できないものにとって、たった一つだけを自由に扱える能力は、知能ある俺たち人間には過ぎた玩具なのだろう。だからこそ人間は時を計る道具を作ったんだろうけどさ。
「豊。あなたは聡い」
 ――へ?
 突然ルイスが俺を褒めた。あまりにも唐突で、予想の範囲を遥かに上回っていたから、思わずびっくりして相手の顔を見た。
「あなたは分かっているはず。過去の歴史の重さ、変革の責任、そこから生まれる後悔」
 後悔。
 ずしりとした重さを感じる単語だ。俺の胸を容赦なく突き刺してくる。
「だからってこのままクロノスの行動を見過ごしたら、世界もカチェリも危険な目に遭っちまうかもしれないだろ!」
 いつもの調子に戻ったヴィノバーは、相変わらずお人好しなことを言っていた。噛みつくようにルイスに言い寄る。
「これは過去にすでに起こったこと。我々は傍観者でなければならない」
「だけど!」
 ヴィノバーの気持ちはよく分かる。俺だってクロノスを止めたいと思ってるから。だけどルイスの危惧もよく分かる。俺だって、歴史を変えることに抵抗を感じるから。
 またこれかよ。二つの選択肢。どちらを信じればいい。どちらの道を選んだなら、後悔しないでいられるというのか。
 あの時、俺は俺の欲望に従ってルピスを復活させた。その結果がルイスを苦しめ、俺自身もひどく苛んだ。もしあの時にルイスやエーネットの言葉を信じ、レーゼの手を振り払って立ち向かえたなら、ルピスは復活せず平和を守れたんだろう。俺一人の判断で世界を滅ぼし、重い責任を背負わされることになったんだ。
 ――間違った選択をすることが怖い。これ以上多くのものを背負いたくはない。そう思うのは、ただ逃げてるだけかな。常に正解を選べるわけじゃないと分かっているのに。
 そう。そうだ。俺たち人間は、二つ以上の選択肢がある時、どちらを選ぶことが正しいかと考える。悩みに悩んで選んだ一方の先にあるのは闇で、いつだって選ばなかった他方が光り輝いて見えてしまう。それを克服するには何が必要だっただろう? きっと俺たちは何かを選択する時、後悔せずにいられる方法はないんだ。
 だとすれば、俺が選ぶべき道は一つ。
「要するにクロノスの邪魔をしなけりゃいいんだろ? あいつはもう無視して、カチェリだけ助ければいいじゃんか」
「あなた――」
「それが嫌ならついてくんな」
 ちょっとはねつけるような言い方をすると、ルイスは睨むような視線を浴びせながらも黙り込んだ。
 二つの選択肢のどちらを選んでも後悔するというのなら、最初から俺が本当に望んでいることを選べばいい。かつて世界よりもヴィノバーの姿を望んだ時のように、その選択によって世界が危機に瀕したとしても、また同じように頑張ればいいような気がするんだ。無論そればかりを繰り返せばどうにもならなくなってしまう。そういったけじめはいつか必ず俺に返ってくるんだろうけどさ、それはきっともっと先の未来の話だろう。
「では諸君、カチェリを追おうぞ!」
「それはいいんだけどさ、どこに行けばいいんだ?」
 キーラとヴィノバーも俺と同じように考えているのか、すっかりカチェリを助ける気になっていた。この中で不満そうな顔をしているのはルイスだけだ。分かってほしいとは思わないけど、そんなあからさまに気に入らないって顔しなくてもいいと思うんだけど。
「俺が神木に念じてみる。だからお前ら、そこから動くなよ。動いたらどうなっても知らないからな」
「よし、任せたぞ、アカツキよ!」
「……お前って本当に偉そうな言い方するよな」
「そうなのか」
 そうなのかじゃねえよ、そこの大僧正様。
 とりあえず目を閉じ、全員をカチェリやエースの近くに飛ばすよう鍵に念じた。強く思えば思うほどに体に風が吹き抜けていき、無造作に宇宙に放り出されたような感覚が襲ってくる。はっとして目を開けると、そこはもう天空神の見守る場所から離れた大地の上だった。
 手を伸ばせば掴めそうな平穏。それに触れてはならないという楔は、思ったよりも残忍な目をしている気がした。

 

 

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