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 理解はできても受け入れられない。
 純粋さを追い求めるあまり、自分の姿を見失ったなら。

 

 クロノスやエース、カチェリがどんな心持ちでこの大地に立っているのか、俺は何一つとして知らないままだった。それぞれの事情ならば聞いた限りで知っている。だけどそれが分かったところで、本当のところまで食い込んで承知することができるわけがなかったんだろう。
 この過去で俺は何をするべきなのか――それさえ忘れてしまいそうなほど、事態が切迫していたなら良かったのかもしれない。だけど俺は誰かの心配をしようとしても、その誰かの名を思い出すことができないでいた。確かに俺にとって大切だったはずなのに。あれほど気にかけてきて、今更になってすっぽりと抜け落ちてしまうだなんて、その人は俺にとってその程度の存在だったということなのだろうか。――いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。そう、そんなことは、どうだっていいことじゃないか。
 恐れちゃいけないのか。変わることを、怖いと思ってはいけないのか?
 辿り着いた先にあった光景は、探し求めていた人たちの立つ大地だった。クロノスはカチェリの後ろに立ち、紫の空に不釣り合いなほど不細工な扉を眺めている。カチェリは放心したようにその前に立ち尽くし、あのお頭の姿はどこにも見えなかった。まさかまだここに着いてないのだろうか。一人で張り切って飛び出していったのに、そうだとしたらかなり間抜けだな。……なんて、俺たちの方がズルをしたんだけどさ。
「遅かったんですね」
 お頭の姿を探していると、くるりと振り返ったクロノスが声をかけてきた。まるで自分の思い通りに進みすぎて退屈だと言わんばかりの態度だな。だけど用があるのはこいつじゃない。こんな途方もない理想を語る人間じゃなく、不器用ながらも一人の人を大きな力から守ろうとしている駄目人間に用があるんだ。
「ティターンの神のおかげで、魔界と世界を繋ぐ扉が造られた。もう世界樹を強引に起こす必要もなくなった。世界樹につけた傷跡も消しておきましょう。これ以上世界樹を利用すれば、あの樹が可哀想ですからね」
 樹が可哀想ってか。そう思うんなら、最初から樹を利用しなければよかったんじゃないか。意志もなく、動かないものだからこんな態度をとるのだとしたら、それは傲慢すぎることだと思う。
「さあ、カチェリ。これを持って――」
 再びカチェリの方へ向き直ったクロノスは、動かないカチェリに何かを差し出した。無言のままでカチェリはそれを手に収める。それが何なのかは遠くてよく見えない。カチェリももう何も言わないから、俺は遠くからただ動作を見ることしかできなかった。
 クロノスは白い扉を開けた。紫の空に不思議な空間が広がる。カチェリは機械のように歩いてその中へと吸い込まれていった。その様をクロノスは黙って見つめる。
「我々も行くぞ、アカツキよ!」
「え、まじ?」
 後ろから気合いの入った声が俺の背を押した。あのいかにも怪しげな空間に入っていけというのか。そりゃカチェリを助ける為にここまで来たんだけど、あれに飛び込めっていうのはちょっと躊躇われる。
「さあ!」
 ぐいと手を引っ張られる。そうしてきたのはさっき声をかけてきたキーラではなく、真面目そうな表情を顔に貼りつけているヴィノバーだった。よろめきながらも前進し、そのまま扉の中へと導かれていく。

 

 

 それは暗黒だった。
 俺の周囲に何かがある。辺りは真っ暗なのに、それが呼吸する音がはっきりと聞こえたから、そこにあるのは生命なんだと分かったんだろう。
 そいつらは俺を取り囲んで離さないようにしている。逃げることを許してくれない。俺ははなから逃げるつもりなんてないのに。……違う、俺は逃げてきたんだった。俺は逃げ出して、そしてまた逃げるべき位置に立っている。そこから逃げるか否かは、今の俺が決めるべきこと。
 俺はアカツキになるのか、それとも白石豊になるのか。
 どちらも嫌といえば嫌だった。でも、どちらも捨て難い選択肢であることも確か。
 何を選べば幸福を掴めるか。何を信じれば後悔から解放されるのか。そのどちらの答えも形のないもので、口にすれば、考えれば、言葉として出ていって息吹にかき消されてお終いだ。そして死んだ言葉となったそれらは、俺が行動することによって唐突にふと甦り、憐れんだ淡い瞳で俺の顔をじっと見つめてくる。
 どうして人は悩まずにはいられないんだろう。それによって自分をさらに追い込むだけなのに。嫌なことや思い出したくないことは、全て闇に葬り去ってしまえばいいものを。どうして人にはそれができないんだろう。どうして人間はこんなにも、弱い生き物なんだろう。こんなことを繰り返して、自分の中に残るものは何だろう。蓄積されていった未来に待っているものとは?
 俺たちはいつだって、何について悩んでいるか分からないままに悩んでいる。だけど本当は分かっているはずだった。俺たちは分かっているものについて、それが分からないものであるかのように感じ、分かっていないからとうんと頭を悩ませている。そうして懸命に悩んだって明瞭な答えが出てくるわけがなく、だからこそそれが『分からない』のだと感じてしまうのだろう。……しかしそこに現実性はなかった。俺はまだ旧い人だから、新しい光景を見ることができない。
 そんな暗闇が周囲から消えると、俺はなんだかほっとした。このまま体の奥でくすぶる苦悩や難解さえ連れ去ってくれれば文句はなかったのに、暗闇はあくまでその存在として消えたため、俺の中にある全てのものがここから剥がれ落ちることは決してなかった。
 荒涼とした大地の上にカチェリは一人立っていた。俺たちに背を向け、両手をだらりと下に垂らしている。そこに何かが握られている様子はなく、あのクロノスから渡されていたものは持っていないようだった。
 まさかまた遅すぎたとか、そんなオチじゃないよな? 不審に思えば思うほど焦りが現れる。さっとカチェリの前に回り込み、相手の表情を確認してみた。そうして見えたものは、すっかり光を失ってしまった無機質な青い瞳だけ。
「……カチェリ?」
 声をかけても反応はなかった。まるで魂が抜けたように佇んでいる。これは一体どういうことなんだろう? こんな時、あのお頭がいてくれれば良かったのに、彼はいつだって肝心な時に姿を暗ますんだから困る。
「アカツキよ、ここは我がスイベラルグであるようだぞ」
「は?」
 横から口を挟んできた大僧正様は何やら理解し難いことを言ってきた。そんな変な横文字をいきなり出されたって、異世界人じゃない俺にとってはまるで意味が分からないってのに。
「そしてこの感覚……おそらくこの近辺にレーベンスの町があるのだな」
「レーベンス?」
 なんだ、じゃあ、俺はまた元の場所に戻ってきたってことなのか? 確かクロノスは魔界とティターンを扉で繋いだとか言ってた気がしたんだけど、まさかキーラやサラやソルの生きていた世界とも繋がっちまったってことなのか?
「ていうか、なんでそんなことが分かるんだよ」
「世界の風が教えてくれるのだ」
 どうやら異世界人にしか分からない方法で情報を掴んだらしい。これ以上聞いても有益なことは見えてこない気がしたので、俺はもう何も聞くまいと思った。
「豊」
 くいと後ろから服を引っ張ってくる。振り返るとルイスの青い目が見えた。そこに刹那の煌めきが光る。ノスタルジックな色が青に染み込み、俺は卒然この時代を理解したような心地がした。
「……カチェリが、そうだったのか?」
 ここはキーラたちの世界。ティターンの神によって扉は造られ、二つの世界は繋がった。
 クロノスに手渡された物。世界に侵入してきた者。そして自分が立っているこの大地の下は。
 ――こんなことなら、分からなければよかった。もう全てを無視していればよかった。いいや、俺はきっと気づいていた。カチェリやエースと関わることは、ルピスに近づく第一歩なのだということに。
「なんで」
 口から滑り落ちたのは何だったろう。
「なんでもっと早くに教えてくれなかったんだよ」
 責めるつもりなんてなかったのに。責められるわけがなかったのに。
 ルイスは俺の目をじっと見ていた。強い光で俺を貫いていた。相手の確固とした意志はその目から感じられる。一歩も譲るつもりのない、邪魔なものを容赦なく破壊する戦士のような気迫すら漂っていた。きっと今、俺はルイスに負けている。争うことなど無意味だと分かっているのに、俺は勝てない相手に戦いを挑もうとしているのか?
「アカツキよ、君は一体何の話をしているのだ?」
 人が真面目になっていると必ずあほみたいな声が聞こえてくる気がする。見事なまでに深刻な雰囲気をぶち壊してくれやがったのは、何も分かってなさそうな顔をしている大僧正様だった。まさか俺がこいつに説明しなきゃならないのか? そんなこと、すごく嫌なのに、ここには説明できそうな人が俺しかいなかった。
 説明したくない。説明したら、もう後戻りできなくなりそうだから? いや、そうじゃなくて、俺はただ、説明したくても説明できないだけだったんだろう。
 声が出ないんだ。伝えたい思いは胸の中にあるのに、いざそれを口の外に出そうとすれば足がすくむ。周囲は勝手な解釈を進め、結果として自分の声は届かぬまま。本当は言いたくて仕方がなかったことなのに、この自分の考えは自分の中に眠ったままだから、怯えたままで立っていると時が全てを変えていた。そうして残ったのはほんの小さな後悔で。
 ……あの時の感情。それは確かに今でも生きている。自分が意識した瞬間に淡く甦り、徐々に自分の全てに侵入し始める。そうなるのはきっとまだ未練があるからだろう。その足枷に囚われている限り、自分は前へ進むことが――変わることができないというのだろうか。
「豊……封印、してください」
 普段よりいくらか低い声で、悲しげなルイスの声が聞こえた。相手の顔を見てみると、何かに引きずられているけど無理に前へ突き出したような、そんな表情をしている。
 俺はまだ迷っているのに、ルイスはもう意を決したみたいだ。一体何を心に誓ったのかなんて分からないけど、俺だってルイスに負けてる場合じゃないんだろう。
 多くの過去なんてもう必要ない。
 ぱっと振り返ると、カチェリが風に吹かれたようにふわりと倒れた。それを人の好いヴィノバーが支え、カチェリが見つめていた地に白い光が溢れる。
 草もない、あのレーベンスがあった大地と同じような光景が広がっている。そんな何もない空間に光と共に誰かが現れた。それはティターンのクロノスでもなく、俺が探していたエースでもなく、全く知らない二人の小さい子供だった。
 知らない? いや、俺たちは知っているはず。きっとあの二人のうちの一人がルピスだ。だとすると、もう一人は、おそらく。
 二人とも輝かしい金髪を持ち、仲がよさげに並んで立っていた。俺たちが二人を見ていることに気づくとはっとした表情になり、二人のうち背の高い方がもう一人を庇うようにさっと前へ出た。
「私は他の誰よりもこの子を愛している。だから私はこの子を守らなきゃ――」
 背の高い方がきりっとした顔で言う。この感覚、以前ルピスに会った時とそっくりだ。一つ一つの言葉から恐ろしいくらいに強い意志が滲み出ている。それ故、俺たちが何を言っても相手の心を動かすことは不可能のように思えてくるんだろう。確かめてもいない事実に嘆いたって仕方がないっていうのにさ、俺たちは本当に可哀想な種族だよな。
 ぎゅっと鍵を握り締める。俺が立っているのは守るべき大地。かつて英雄アカツキがルピスを封印したと言うが、そのアカツキってのはあの神のことだと思っていた。
 もう逃げ場はない気がする。もう逃げるには遅すぎたんだろう。誰もが俺の鍵を見ている。全ての視線が俺の心に当たる。この金色に光る鍵――嫌な町で無造作に捨てられていた、見た目だけは綺麗な鍵。誰かの落し物かと思っていた。今も誰かがこれを探し、困っているんじゃないかと思ったりした。
 世界は俺の知らないところで造られて、俺の知らないところで成長していた。俺は世界にとって、あってもなくてもいいような存在で、俺が生きようと死のうと関係なく回り続けるのだと思っていた。
 そう。俺は英雄も鍵も世界も知らない。知らなかった。知らなかったけど――。
「アカツキ、君は……」
 きっと知らなかったわけじゃない。全て知っていて、今ここに戻ってきただけなんだろう。
『君が必要とされていることが、この世界にとって重要なことだったらしいから』
 かつてエアーが言っていた言葉。あの時は何のことだかさっぱり分らなかった。だけど今になってようやく、意味の切れ端が見えてきた気がする。
 目の前の二人の子供は俺の姿をじっと見ていた。逃げる様子もなく、ただ大きい方が小さい方を庇うように立ち、俺が何をするのか警戒しているようだった。俺はちょっと手の中にある鍵を見た。金の色は今も昔も変わらずに、同じ色彩を俺に与えてくれる。ここに加えられたのは神木の力だった。この鍵に付加されたのは、神木の偉大な力……だった。
 俺はいつだってこの鍵に念じてきた。この鍵を握って望みを頭に思い描いた。そしたら何だって現実のものになった。紙を出したり、水を出したり、場所を移動したり。どんなことでも思うがままだ。きっと今、あの二人の子供を消し去ることだってできるだろう。ほんのちょっと強く念じれば、俺の望みは全て叶う。これがきっと神木の力なんだろう。偉大な神木の力は時代を越えられるってことか。そんな、偉大な力は、人間が持っていいものじゃないはずなのに。
 ルピスを封印する。消滅じゃなくて封印する。それはナントカって石を壊すことじゃなくて、ルピスという精神体を大地に閉じ込めるということだった。……どうしてこんなことを知っているか、俺だって誰かに聞いてみたいさ。だけど俺は知っている気がした。大昔から、こんな時が来ることを、ずっとずっと待ち続けていたような心地さえするんだ。
 どこまでが史実で、どこからが俺なのか。
 そんなことはもう分からない。考えるだけで混乱しそうだ。あの神ですら俺のことを知らないようだった。だけど未来の世界で、エアーは俺の正体に気づいていた。
 ひとりでに導き出された事実は滑稽だ。俺は何の為に悩んできたんだろうって思えるくらい、本当にあっけない真実であるようだった。
 過去の英雄アカツキ。本名は不明だそうだ。そりゃそうだよな、それを知ってるのはこの中じゃ二人だけだし。
 ペオルムで拾った鍵。持ち主が誰かなんて知らない。でも持ち主なんて存在しない。だってこれは俺の精神。
 世界が俺を受け入れた理由。神が俺をこの時代に飛ばした訳。俺がキーラに召喚された原因。この世に俺が生まれてきた事実。
 それはきっと――。
「アカツキ、君が」
 すっと鍵を目の前に掲げ、ルピスの目をまっすぐ見る。
 そこから見えてくる強い意志はルイスにそっくりだ。他の者が侵入することを許さない、誰が何をしようと折れ曲がらない頑強な意識。これを完全に消滅させるには、それすら越えていかなければならないんだろうな。そんなことは人間には無理だ。だから俺はルピスを封印したんだろう。
 もう、この時代でやるべきことは分かってる。何も恐れることはない。俺は俺の使命を果たすだけ。
 金色の鍵がきらりと光った。俺の心も共鳴してくれている。後ろにはキーラやルイス、ヴィノバーがいる。俺の姿を見てくれていた人たちがいる。
 過去を断ち切る強さ?
 未来を切り拓く強さ?
 英雄なんて過ぎた言葉だ。今の俺には、勿体ない。
 さあ、歴史を始めよう。現在や未来に続く歴史を、俺の心から紡ぎ出していこう。

 ――ルピスを、封印せよ。

 

 

 +++++

 

 

「自分から気づくなんて、あなたなかなか聡い子ね」
「それ、ルイスにも言われた」
 一体どこから現れたのか、俺の目の前にはユリアニアが立っていた。
 他には誰の姿も見えない。こういう時にしぶとく残ってそうな大僧正様やルイスの姿もない。その代わりにと言うべきか、どこを探しても見つからなかったお頭がユリアの横に立っていた。今まで何をしてたんだこいつは。
「この時代での俺の役目は終わったんだな」
「そういうことになるわね」
 やはり目の前のユリアニアという名の女性は何でも知っている。そしてどんな質問にもはきはきと答えてくれる。それはなかなか清々しくて気持ちいいことだった。だから俺は平気でいられたんだろう。
 ちらりと足元を眺めてみる。そこに見えたのはいつか見たことのある『無』の色だった。そんな不安定な色の中にユリアとエースは溶け込んでいる。しかしそれはとても似合っている光景だった。
「いつから気づいたの?」
 不明瞭な質問も、今なら何のことだかよく分かった。そんなこと、別に分かりたかったわけじゃないのにさ。
「気づいたっていうか、昔から知ってたんだよ、俺は。知ってたけど全部忘れてて、何も知らないように振る舞って、突然思い立ったみたいに記憶が甦って。……いや、記憶が甦ったわけじゃないか。何というか、頭じゃまだ理解できてないけど、身体は全部覚えてるっていうか――」
「それはおかしな話だこと。あなたに昔なんてないのだから」
 そう言ってユリアは目を閉じる。
 何を言ってるんだこの人は。昔がないって、そんなことがあるわけないじゃないか。
「あら、あなた……まだ充分に自分のことを理解していないみたい。少しの事実を知っただけで満足してるのね。それはとても危ないことだわ。このままじゃ、あなたはアカツキになることはできない」
「なに言ってんだよ、俺は既にアカツキじゃないか。お前らがそうやって決めたんだろ。日本で平和に暮らしてた俺を無理矢理異世界に引きずり込んで、勝手に過去の英雄に仕立て上げやがって。ついでに俺の中に他人の記憶まで埋め込んだ。そういうことだろ?」
 そうとしか考えられなかった。俺はこっちの世界に来たことなんてないから、昔からルピスを封印するという役目を抱いていたわけじゃない。それがいつの間にか俺の中に浸透しているのは、誰かが意図的に俺の中にそういった意識を流し込んだからなんだろう。異世界って所は何でもアリだからな、そういうことだって俺の意思に関係なくできてしまうんだろうな。本当に、腹の立つ話だ。
「それがあなたの導き出した答え? 根本的な部分から、随分と大がかりな間違い方をしているわ」
「うるせぇな、もうどうだっていいだろ、そんなこと。それより俺を元の世界に帰してくれ。この世界ではもう何もすることなんてないんだから」
「……ええ、そうね。そうだったわ。だけどその前に、あなた達の時代に送ってあげないとね」
 ユリアニアはすっと目を開け、懐から小さなビンを取り出した。ビンの中には緑色に光る砂が入っている。それは俺が見つけた砂と同じだった。どんな色の中でも同じ色のままの、どうしてだか厳重に守られていたあの砂だった。
「ねえ知っている? 時や空間は神ですら自在に操ることができないのよ。それができるのはほんの少数の生命だけ。私はそんな生命を監視し、時の流れを調節している時の竜。以前あなた達をティターンに送ったのも私だし、アナやルーチェが用いる機械に力を与えたのも私。私は時を支配するよう神に言われ、今までそうやって生きてきたわ。おかげで私の中の時は壊れてしまったけれど」
 ユリアニアは長々と語りながらビンの蓋を開けた。これでようやく元の時代に帰れるらしい。ルピスの封印も無事に終わったし、神の望み通りにはならなかったけど、史実通りの結末が残されたんだから問題はないはずだ。
 たくさんの細々とした出来事が重なり合い、見上げるほどの大きな問題へと変わってしまった。だけどそれを今更嘆いたって仕方がない。俺たちはきっと――それを黙って受け入れるしかないのだろうか? いくら時を自由に操れると言ったって、全てのものを綺麗なままで元に戻すことなど……できるわけがない。
 だからこそ自分の言動に常に責任を持たなければならないのか? だけどそれって、とてつもなく難しく、辛いことのようにしか聞こえない。しかし俺はもう決められてしまったようだ。ここに立っている時点で既に白石豊という人間は消え、異世界で大僧正様に無理矢理つけられた妙なあだ名を名とする人間だけが残ってしまった。これは異世界人たちの望んだことだ。そしてきっと俺自身もまた、心のどこかで望んでいたに相違ない。でなきゃこんなにすんなりと、また何の違和感もなく受け止められるはずがないんだから。
 ――ああ、もう俺は、俺でなくなってしまうというのか。俺は異世界の人間たちが望む形として、定められた史実をなぞっていくというのだろうか。
 きっと過去には俺じゃないアカツキがいて、そいつが今の俺と同じことをやってきたんだろう。そのアカツキってのはあの偉そうな神様だったかもしれない。そんなことはもう分からないことだけど、違う世界からある日突然ひょいと現れた俺がアカツキの代わりになったって、こっちの世界じゃ何の影響もないわけだ。俺はこの世界の住民じゃなかったんだから、アカツキの性格が豹変したくらいで、他の変化なんて邪魔にならない程度のものなのだろう。まったく、誰がこんなことを考案したのか知らないけど、随分と都合のいい結論だよな。俺の意志は無視かよ。今までずっと引きずられてここまで来ちまったけど、結局俺は美しいままのシナリオを演じてきただけだったってか。ああ、もう、なんか呆れてきた。異世界って所は何でもアリなんだってのは嫌というほど分かってたけど、まさか他の世界の健全な市民を強制的に物語の中へ閉じ込めるなんてな。さすがはあの神が治める世界だ。俺はこの世界に拍手を送るよ。「なんて素晴らしき世界なんだろう!」ってな。
「なあ、ユリアニアさん」
 とりあえず目の前にいる相手に話しかける。この人もまた、本の中でシナリオを繰り返している登場人物の一人だ。
「なんつーかさ、俺の正体とかこの世界の意地汚さとか、そういうのはもう全部分かった気がするんだ。これ以上はここにいても、自分の家に帰っても、俺は要らない存在として扱われるんだろ。そこでちょっと頼みたいことがあるんだよ」
「頼みたいこと?」
 ユリアニアは表情を厳しくし、目を細めてまっすぐこちらを見てくる。あからさまに疑っている顔だな、おい。本当にこっちの人ってのは、分かりやすい人ばっかなんだから……。
「俺があんたに頼みたいこと。それは――」

 

 +++++

 

 きっとすべての人間が、何かを愛したり憎んだりし続けている。どんなものでも愛せる人なんていないように、何もかもを憎むだけの生活を送る人なんていないのだろう。また、どれほど救いようのないものでも愛せる人もいれば、愛すべきものを嫉妬心に支配され憎む人もいる。そうやって二つの感情をコントロールし切れず、人々はいつも苦しんでいる。正と負、二つの意志が互いに互いを支え合い、人間の心を形成する。正だけの心や負だけの心なんて存在せず、必ず二つの意志を持ち合わせているのが人間ってものだ。だからきっといつかは気づく。どれほど気に食わないものでも、単純に負の感情をぶつけ合うのでは何の意味もないのだと。そして人々は許すことを知る。穏やかな心持ちで、春の暖かな風のように、そっと憎んでいたものの肌を撫で、そのまま通り過ぎて消えてゆく。そうしてそれに気づいた相手が振り返っても気づかずに、ただ美しい瞳で空を見上げ、憎悪の意識をふっと手放して歩き出す。……ただ、それができるようになるまでに、たくさんの苦悩が待ち構えているだろう。一度答えに辿り着いたと思っても、ふと我に返れば新しい欲望が手招きしていて、また人々は深く考えなければならなくなる。人間は生きている限り悩みから解放されることはなく、常に自分と向き合いながら答えを探し続けるしかない。そして自分には理解できないことでも許さねばならなくなり、だけど許すことをやめることもできず、また永遠と対峙する心地がするのだろう。そうして後に残るのは、刹那に染められた淡い空白。
 俺はきっと今まで、この世界を憎んでいた。逃げてるとかそういうことじゃなく、何も考えず負の感情を押し付け続けていたのだろう。それは神木の森で目に見えるものとして現れた。そして俺はそれを否定する気もなかったんだ。
 だからちょっと、ほんのちょっとだけだけど、俺はこの世界を許そうと思う。勝手に俺の平穏な日々を遮断してくれたことは許すべきことじゃないのかもしれないし、正直とんでもなく腹が立つことだけど、ずっとそれに囚われてたって何も変わらないし、何より時間を無駄に浪費するだけだ。そうなんだとしたらいつまでも子供みたいに意地を張ってても仕方がない。俺はそっと静寂に触れ、世界を偽りのない裸眼で見てみようと思う。
 そして、今まで嫌っていたあいつのことも――いや、俺は腹の底からあいつを嫌ってたわけじゃなかった。ただ自分の幻影が見えるようで、怖かったから、必要以上に距離をあけ、その理由を憎悪に任せ切っていただけなんだろう。そんなことをしていても何も変わらない。変わるはずがなかったんだ。俺があいつをそういう目で見ている限り、あいつが俺に心を開くことは決してない。だから俺は過去の因縁を捨て、新しい視点であいつを見てみようと思う。もう旧い考えに捕らわれてる場合じゃない。俺が俺として生きるのなら、前へ進み始めなければならないんだ、きっと。
 だから、俺に見せてほしい。あいつ――ルイスが今まで何を見て、どんな考えで生きていたのかを。
 そうすることで少しでもあいつのことを知ることができるなら、俺は多少の代償など厭わない。せめて本当の名前だけでも教えてくれないか。だってルイス、あんたは、ルピスとは違っていたんだろ?
 これが今の俺の望み。どうかレーベンスに帰る前に、この願いを叶えてくれるよう――。

 

 

 

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