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 遠い地、虹の彼方に、一人の少女が立っていた。
 少女はただ一人で青い空に包まれ、灰色に染まりゆく空間のただ中で、はらりはらりと花のように落ちる涙を流していた。
 淡く変化してゆく自然から切り離され、それでもその存在は確かなものとして俺の目に映っている。少女の金髪は風になびくこともなく、深淵を見つめる瞳は常に涙に濡れていた。彼女の傍には破壊と生成を絶え間なく繰り返す青空しかなく、また足元には季節を反映するための草花が風に遊ばれている。そこから俺に入ってくる映像は刹那であるようで、しかしそれは間違いなく永遠だったのだろう。
 きっとこんな、世界は幻想であると思いたかった――のかもしれない。
「ねえ、君」
 長い時を経て、少女の前に現れたものがいた。今まで止まったままだった少女の時計が、ようやく目覚めて彼女を叱り始めたようだ。そうして現れたのは、淡い緑の光だった。少女の目の前まで近づくこともなく、少し離れた場所で煌めきを保っている。
「君は誰? どうして泣いているの?」
 少女は顔を上げた。
「お、おねえちゃんが……」
「おねえちゃん? 君にはお姉さんがいるの?」
「う、うん」
「それで、そのお姉さんが、どうしたって?」
「いなくなったの」
 緑の光から放たれる声は少し黙った。
「おねえちゃんの声も、聞こえなくなったの」
「……だけどきっと――ううん、ちょっと待ってて。私には心当たりがあるから。いいかい、きっと待ってるんだよ。どこにも行かないで、ここで待っているんだ」
 光の言葉に少女は頷き、緑の光はぱっと煌めいてその場から姿を消した。再び周囲に静寂が戻り、少女の時計のネジは壊される。
 やがて景色が違う時を迎えた。永遠は唐突に終焉を受け入れ、今後は刹那の積み重ねによって久遠を形作り始める。
 少女の前方の地に白い光の球が舞い降り、その地面からするすると一本の木が芽吹き、成長し、巨木となって少女の目を天へと向けさせた。
「君のお姉さんの意志を見つけたんだ」
 ふわりと風のように現れたのは緑の光。それはまた少女との間に少しの距離をあけ、巨木の傍に寄り添って少女に言葉を与えた。
「意志? 意志って、何……」
「意志は意志だ。君のお姉さんは、この大地の中で眠っているよ。だけどどうしてなのか意志だけが迷子になっていてね、その意志を私が導いてこの木の中へ送り込んでみたんだ」
「この木の中に?」
「そう。言い換えれば、この木は君のお姉さんの心を持っている。意志こそが人である証だと言うのならば、この木が君のお姉さん自身だと言うことも可能だね」
「この木が……」
 少女は乾かぬ目で木を見つめ、何か遠い地に思いを馳せる旅人のような顔をしていた。
 そうして刹那は量を増し、やがて塵のように散ってゆく。
 吸い寄せられるように少女は木に近づき、茶色の幹にそっと手で触れ、そのまま抱きつくように体をぴったりとくっつけた。
「おねえちゃん、わたしは、命になんてなりたくなかったのに……」
 木の幹に頬をすり寄せ、静かに涙を流すのは少女。その姿は俺の中にあるものであって、だけど雨にさえ打たれてはいなかった。
「君の名前を教えて?」
「わたしは……わたしの名前が分からない」
「分からない? 君の中に名前は残っていないの?」
「残っているけどふたつあって、どっちが本当の名前なのか分からない」
「じゃあ、お姉さんの名前は?」
「ルピス」
「そして、君は?」
 少女は少し黙った。
「ルイスと……エミリア」
 風が木の葉を奪い去ってゆく。

 

 +++++

 

「ねえ、もしも負の感情に押し潰されそうになったなら、私がすべて聞いてあげるから。だからもう君は何も心配しなくていいよ。きっと君のことを守ると約束するから」
「約束……ルピスはいつも、約束は裏切っちゃいけないって言ってたよ」
「当然。私はこの意志を覆す気はないから、どうか安心していて」
 緑に染まった空間の中、少女は少年と並んで木の傍に座っていた。
「きっと君は、あらゆる負の感情を知らないままそうなってしまったんだね。だとすれば、君は負の感情から逃げた方が賢明かもしれない。もしも生身のままでそれらに立ち向かっていったとすれば、君は抵抗することもできず飲み込まれてしまうだろう。そうなったら、解るね、君はその手に抱えている『残っているもの』を手放さなければならなくなる」
「わたしは、命になりたくなかった」
「大丈夫。君はまだ、命を持つものだ。命そのものとならないように、一緒に逃げていこう。私は君と話すことができるし、君の望むものなら何でも――」
 森の色をした髪を持つ少年は、常に少女に優しく微笑みかけていた。それはとても穏やかなもので、寒さに凍えたような表情をしていた少女にさえ、暖かな日差しが降りかかっているかのように見えた。
「ほら、見て。風が君に手を差し伸べてる。世界は君を必要として、君は世界を必要としている。そこに偽りなんてなく、また改変の余地もない。それはそれとして存在し、君は君としてそれを受け入れている。何の疑いもなく、ただひたすら頷き続けている。突然の意識でも、それが解放されるなら、君は瞬時にその命の意味を失うだろう。だから、君は今のままで、この世界の中に生きていけばいいんだ。命を喰い合い、幸福を奪い合う、そんな負の感情の溢れた世界でも、君の居場所は私の中にちゃんとあるから……」
 少年はそっと少女の手を取る。少女は少し戸惑った表情で、だけどとても穏やかな顔で、少年の小さな手をじっと見つめた。
「いいのかな。わたし、逃げていても、いいのかな?」
「それが良いことなのか悪いことなのか、決めるのは世界じゃなくて君自身だよ。君が望むものが正しいのか、間違っているのか、そんなことはきっと世界は知らない。君が自分で考え、悩み、見つけ出した答えなら、それは君にとって大きな意味を持つものとなる。溢れ返す負の感情に囚われてはいけないよ。それらがたとえ君を縛ったとして、君が君であることに変わりはないのだから」
「うん――」
「ねえルイス。確かに君は、今ここで生きてるんだよ。君のままで生きてるんだよ。どうかそれを忘れないでいて。自分は他のものだなんて、間違っても考えたりしないでね。もしそうなりそうになったなら、すぐに私のことを思い出して。私が君に話したことを、どうか思い出して。私が話している相手はルイスだってこと、私が見ているのはルイスだってこと、私が想っているのはルイスだってことを、どうか思い出して。私は君を見てるんだよ。他の誰でもない、ルイスという人を、私はずっと見つめている。たとえその姿が変わっても、私は君の存在を否定したりしない。だって私は、君のことを守ると約束したんだから――」
「わたしが話しているのは、アイザック。わたしもきっと、あなたのこと、姿が変わっても覚えているよ。否定なんてしないよ」
「……ありがとう。でも、私のことは気にしないで」
 その穏やかさは絵本の中のように幻想的で、だけど陽の差す森は怖いくらいに現実的だった。
 ここにあるものは何なのだろう。これは誰かの深い光? 消すことのできない過去? だけど、その存在は淡く揺れていて不確かで、人間が垣間見る夢のように現実離れしている。
 それでも偽りのない久遠の記憶。忘却の彼方に煌めく炎。
 誰も知らない――知ることさえできない、人々の中に巣食う負の記憶か。誰も気づくことはなく、さっと通り過ぎてしまうけれど、確かにそれは人々の中にあるものだった。そしてそんな負の心に約束した者が一人。
 あの時以来、正の心は眠りについた。だけどあの時以前から、負の心は逃げ続けていた。
 これが事実か。これが、あんたが感じてきたことなのか。いや、もうよそう。これ以上に望むことなど、単なるわがままにすぎないことだから。
 目を開けても闇しか見えないなら、人はそれを受け入れるしかないのだろう。懸命に光に手を伸ばしても何も掴めないなら、人は足掻くことさえ諦めねばならないのか。
 さあ、負の夢は終わった。俺もそろそろ、自分の夢を壊すとしよう。……

 

 

 

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