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 何も要らないとは言えなかった。
 それが悔しくて情けないのに、これ以上先へ進みたいとも思えなかったのは。

 

  重いまぶたを持ち上げると、黒く染められた闇が目に入った。しかしそれも徐々に晴れてゆき、目が慣れた頃には部屋の形が分かるくらいに全てがはっきりしていた。そうして映る鮮明な光景で、俺は今の状況を少しずつ理解していく。
 ここは、まだ記憶に浅い場所だ。確か異世界に来て間もない時期に、強引にこの場を求めていたっけ。レーベンス――別の世界で「生命」という意味だと教えられた、世界でたった一つの町。ああ、俺はまた、この場所に戻ってきたんだな。
 辺りはしんと静まっている。ここに一つの水滴が迷い込んでも、それは瞬時に世界の敵となるだろう。凍てついた音の空間は恐ろしく、でもそれはため息が出るほどに美しいものだった。そう考えると、音というものが存在する意味が分からなくなってしまう。何も考えなければ、何一つとして感じなければ幸福でいられるというのなら、このふとした刹那に込み上げてきた疑問さえ捨て去ってしまえと言うのだろうか。
 しばらくするとすぐ傍から音が聞こえてきた。静寂の世界は消え、再び動き出す空間。音の源を探ってみると、俺の横に置かれたベッドの中に誰かが押し込められている様が見えた。その誰かというのは暗くてよく分からないが、これまでの経験から考えると、相手は大僧正様かルイスのどちらかなんだろうな。
 ……そうだった。俺はもう、「これまで」という単語を使えるくらいにこの世界で暮らし、馴染み、知ってきた。何も理解できなかったあの頃とは違い、様々な知りたくないことまで教えられてきた。今までは当然のように、そうすることが無駄なことのようにしか思えなかった。でも、あの時――ルピスを俺の鍵で封印したあの時、これまでの行動は全てあらかじめ決められていたものだと悟り、すでに逃げ道なんてないのだと気づくと、今まで知ってきたこと全てが意味を持つ、生きた情報なのだということが分かったんだ。
 これまでの動的な勢いは静かな源の裏に隠れ、すべてが麗しく見える囁きは姿を消し、今ここに溢れているのは陳腐な淋しさに似合いそうな黒色だけだった。俺はそれを目を閉じては沈黙の中に感じ、目を開いては流れる時の中に感じるのだった。それらは俺に何かをしてくることもなく、だけど限りない影響を俺に与え、自らの正体を必死になって隠したがっているように見えた。後ろに感じる恐怖は何? それは嫉妬の先にある未来。それは忘れられることの淋しさ。それは自分が存在している事実。それは――。
 隣で眠っているのは誰だろう。俺はそれを確かめたくて仕方がなくなってきた。そうなんだけど、もしその相手がルイスだったなら、俺はもうまともに相手の顔を見ることができなくなりそうだったんだろう。だけど重い視線は知らぬ間に持ち上げられ、俺の意識など置き去りにしたままで、自分の右側に眠るその人の姿をしっかりと捉えてしまった。
 そうして見えたのは、可愛らしい寝顔のティターンの神様で。
 ……あれ。俺の予想が見事に外れちゃったよ。ていうか、なんであんなに悩んでたんだ自分。畜生、なんか虚しくなってきた。現実なんていつだって、人間の予想を上回るものなのに。
 けど、ここにルイスがいないとなると、あいつはどこにいるんだろうか。そりゃここはレーベンスのキーラの家の中で、ソルやサラはルイスとは顔見知りだし、あの頃あいつに対していい感情を抱いてなかったのは俺くらいだったもんだから、実際それほど心配するようなことでもないんだろう。だけど俺はもうあいつから目をそらしたくなかった。俺のいない場所であいつがいなくなったりしたら、それはどうしてだか耐えられないことのように思えたんだ。俺は、そうだ俺は、今までのように負の感情をぶつけるような真似はやめようと思ったんだ。そんなことは未成熟な子供の業であって、くだらない意地の張り合いにすぎないことだ。俺はもし大人になりたいのであれば、そんな低俗なお遊びから卒業しなければならない。
 そっと音を立てないように気をつけ、俺はベッドから床へ降りた。裸足のまま絨毯の上を歩き、恐ろしいくらい神経を使ってドアを開け、そして閉めずに夜の廊下を一人で進んでいった。キーラの家には無駄に部屋が多く、それらは今はどこも扉を閉めている。あいつがいるとしたらどこだろう。以前使っていた部屋はどこだ?
「アカツキ」
 小声で名を呼ばれ、振り返る。
「ヴィノバー」
「よかった、すぐ見つかって。あのさ、ここってどこ?」
 暗い廊下で出くわした相手はヴィノバーだった。死体運びの兄ちゃんは俺の姿を見て安心したらしい。まるでそんな顔をしているんだから、分かり易いったらありゃしないよな。
「ここはキーラ殿のご立派な邸宅さ。その主人が今どこにいるのかは知らねー」
「キーラの……家? ということは、ここは――」
「ヴィノバーにとっては過去ってことになるな」
「はあ」
 相手はなんだか間の抜けた表情を作った。この兄ちゃん、本当に分かってるのか?
「いや、ちょっと待てよアカツキ。ということはさ、アスターとの約束はどうなったんだ?」
「約束? 何それ」
「だから、ルピスを根本から消滅させるっていう――」
 ああ、そういやそんな話があったっけ。
「ヴィノバーは知らないんだろうけどさ、ルピスを消滅させるってことは……」
 俺が話してる最中に誰かが隣を通り過ぎて行った。反射的にそっちに目を向けると、暗闇の中で輝きを失った金髪が見えた。そいつはさっと闇に紛れて姿を消してしまう。
 あれは、多分ルイスだな。よし、いっちょ後をつけてやるか。
「アカツキ、どこ行くんだ?」
「ルイス君を尾行してやろうと思いましてね」
 きっとすぐにばれるだろうけど、そうなったって構いやしない。もう俺はあいつに対して特別な配慮をする必要が感じられないから。全て成行きに任せたって大丈夫だと頷けそうな気がしたんだ。それをあいつが許せるかどうかは別として。
 ヴィノバーをその場に残し、俺はすたすたと歩くルイスの後を追った。あの野郎、なかなかに歩くスピードが速い。廊下の端にある階段をとんとんと下りていき、なんだか地下っぽい部屋まで下りてきてしまった。キーラの家には地下室まであるのか。やはり偉そうで腹が立つな。
 地下室にはベッドが二つ置いてあり、その一つの中でのんきそうな大僧正様がぐっすりと眠り込んでいた。その横を音もなく歩いていくルイス。こいつは一体どこへ向かっているんだろう。つーか、俺が後ろからついてきてるのにも気づいてないのか? いやいやまさかそんなことはないだろう。だって相手はあのルイスだぞ、世の中のあらゆる常識が通じない相手だ。俺みたいな一般人が後ろからコソコソやってたら、何の脈絡もなく振り返っておっかない魔法でも放ってきそうな相手なんだから。
 しかしルイスは最後まで振り返ってくることはなく、地下室の奥にある扉の中へと消えてしまった。俺はその扉の前に立ち、さてどうしたものかと考え込んでしまう。
 だってさ、なんか怖いんだもん。この扉を開いた瞬間に、部屋の中から地獄の使者が使うような魔法とかが飛んできそうな気がするし、部屋の中は実は異次元と繋がってて急に宇宙に放り出されそうな気もするんだ。そう、これは、ルイスが俺に復讐するための罠なのかもしれない。今まで散々嫌いだと態度で示されてきたんだから、そういうことが現実になったとしても何らおかしくはないわけだ。
「じゃあわざわざ尾行なんかするなって話だよな……」
 自分の行動にわずかな矛盾を感じつつも扉を開ける。

 

 空に広がる宇宙が部屋の中に閉じ込められたらこんな感じになるだろうか。
 地球はないし、太陽もない。それを宇宙と呼ぶにはあまりに欠けているものが多かったが、それを宇宙と呼ばずにいたら何と呼べばいいのか分からないほど、この目の前に広がる光景は見慣れたはずのものだった。
 きらきらと煌めく無数の星々が足元に転がっている。そいつを感覚のない自分の体で踏みつけて歩くと、宇宙の上に小さくしゃがみ込んでいるルイスの姿がくっきりと見えた。
 すぐ後ろまで行くと相手を見下ろす。本当に誰よりも小さな体だ。こんな奴が今まで俺を嫌ってただって。こんな奴が今まで、泣きながらルピスを止めようとしてたのか。まるで笑い話じゃないか。永遠を持っていて、それが何になるっていうんだ? 時に殺されるしか道はないと言うのだろうか。
「一つ確認するけど、ここは確かにあの不健康大僧正様のお屋敷なんだよな?」
「ええ」
 ふざけて問いかけると、非常に落ち着いた声が返ってきた。なんだ、やっぱ俺が後をつけてたのも知ってたのか。それにしたってさ、一回くらい振り返ってくれてもよかっただろうに。そんなに俺が嫌いなのかよ。
 いや、きっとそうじゃない。それは表面だけのこと、それは目に見える範囲に過ぎない。何を見たって相手の本音など分からないんだから、ここは少し、相手の好きにさせてやろうかな。
「すみません」
「は?」
 黙って立っていると、なんだかこの世のものじゃない台詞が聞こえてきた気がした。
「すみませんでした、豊」
「……」
 聞き間違いじゃなかった。それは相手の口から出てきた、とても素直な謝罪の言葉。
 こんな声を聞かされて、俺は何を思えばいいのか。
 ルイスは立ち上がった。手を膝につけ、ゆっくりとした動作で体を持ち上げる。そうしてさっと振り返るとその大きな瞳をぱっと開き、深い青の光で俺の全てをぐっと掴んだ。
 なんだかもう二度と解放されない気がする。
「私の――私の中のエミリアの意志が、あなたを必要としてしまったんです」
「あんたはエミリアだろ」
「私はルイスです」
 ふっと目線をそらす相手。しかしそれは後ろめたさからくる行為ではないことが瞬時に分かった気がした。
「あなたは昔、私と同じようにいつも独りで生きていた。その痛みを私は知っていると思い込み、あなたを見守ることで優越感と安心感を得ていた。なのにあなたは変わってしまった。誰の愛情も拒むような姿で、だけど他者との関わりを誰よりも深く意識し、自らの意思を主張することを恐れない人間になった。……私はそれが許せなくて、自分を置き去りにして遠くへ行ってしまったと感じ、あなたを恨むことしかできなくなりました。それが醜い嫉妬の感情だと知るまでに、とても長い時間を費やしてきたように思えます」
 初めて会った時、確かにルイスは俺を睨むような目で突き刺していた。その目が変わったのはいつからだっただろうか。未来の世界で俺はルイスから離れていたけど、相手は俺の行動を全て見ていたんじゃないだろうか。
「そうした私の感情があなたを必要とし、この世界に引き込んでしまったのです。いわばあなたは私の個人的な羨望に巻き込まれたようなもの。私があなたを必要としなければ、あなたはこの世界に来ることはなかったはずです。あなたは私を恨んでも構わないのです、だけど私には負の感情が見えるから、あなたの次の行動も分かってしまうんです」
 恨んでも構わないと言われても、殴っても大丈夫と言われても、俺は今の相手を負の感情で包み込むことはできなかった。そこには何か見えない壁のようなものがあるように感じられ、手で触れようとしても冷たいものは分からずに、どこかに必ずあるドアを探さなければならないという心持ちになっていた。
 淡々と言葉を吐き出すルイスは無表情だった。そこには喜びも悲しみも怒りも恥じらいも何一つとして見えない。物語の中の登場人物のような顔をする相手は、俺と同じような時間に流されている人間のようには見えなかった。以前からこんな顔をしていただろうかと考えるけれど、過去のことを思い出そうとするとすぐに今の顔が重なってしまって、結局何も分からないままに今が正しいと思いたくなってしまった。そして怖ろしいことに、それだって俺や相手にとっては本当にどうでもいいことなんだよな。
「ルイス、あんたは――」
「私はルピスの妹のエミリアであり、あなたや他の人間たち全ての負の感情を総括する者――ルピスと違いみっともなく逃げ続けた、哀れな魂の塊です」
 そう言ったルイスは俺の目をじっと見つめ、ほんのちょっとだけ細めた瞳が微笑んでいるように見られた。それはどこか俺を試しているようにも感じられ、でも本当は欲しくても手にできない感情を、自分なりに表現している行為のようにも思えたんだ。

 

 +++++

 

 宇宙の床から木の温かさを感じる。手で触れることもできない空は絶えず流れ、背中にある小さな体温を確かめている。
 背中合わせに座って見る星は綺麗だった。
「俺を必要としたのは、傷の舐め合いをしたかったから?」
「今のあなたなら、私を笑うでしょうね」
「笑わないさ。あんたの言う通り、俺はあんたの痛みを知っていたから」
「今ではもう分からなくなってしまった?」
「さあな」
 風のない空間に風の音が聞こえてくる。光のない場所に影の虚ろが差し込んでいる。
「私の中にはたくさんの人が住んでいます。私という意志は、その人々の負の感情を合わせたもの。正の意志を知らぬ私には彼らの頑張りが分からなかった。光が見えない私には、彼らの眩しさがくすんで見えていたんです。なぜ世界の為に必死になるのか、なぜ人の為に笑顔になれるのか。傷つくことを恐れたりしない、傷ついても立ち止まったりしない、どこへ向かうかも分からないまま、目指すべきどこかを見失わないでいられる強い意志……それを目の当たりにしても、私には何一つ理解できないんです。ふと新しい考えを見つけても、それらはすぐに内に潜む負の感情に殺されてしまう。それを手放さないように握り締めていても、それが見つからないように隠していても、負の感情は私を執拗に追い立て、叱咤し、責めて踏み躙って頭から様々なもので染め上げていくんです。そうやって綺麗に作られた私の意志はあなたたちと分かり合えるわけがなく、彼らの美しすぎる純粋さが私には煩くて、理解できない事実に苛立って何かを憎まずにはいられなかったんです。何か一つでもいい、ただひたすらに憎んで、恨んで、わけもなく怒っていられたら、私はまだ普通でいられたはずでした。だって人間って、何かを強く意識していたら、それだけで生きることができるようになるんですから。――でも、その苛立ちがあなたに向けられたことにより、私の中の全ての事情がすっかり変わってしまいました。私は幼いあなたを見守り、慈しみ、自分の姿と重ね合わせて安心感を得ていました。それが唐突に憎しみに変わった刹那、私の中でくすぶっていたあらゆる負の感情が溢れ出し、あなたをこの世界に閉じ込めてしまおうと、あなたをとことん利用し尽くしてしまおうという考えが暴走し出したのです。その感情の渦に巻き込まれたあなたは一人の召喚師の呼びかけに反応し、この世界に連れ込まれる結果となってしまった。私はあなたを負の心で覆い尽くし、どんなことがあろうと許さぬ覚悟であなたの前に姿を現したのです。そうやって負の感情に流されていれば、何も考えなくてもどことなく幸福でいられました。それなのにあなたはまた変わろうとしていた。あの幼い瞳に映っていた孤独でもなく、現在のような鋭い目線に潜む希望でもなく、目に見えない遠い景色を羨望する、弾け飛んだ光の破片を求めるような、そんな人間に変わろうとしている――」
 呟くようなルイスの声ははっきりとしていて、それは音楽のように穏やかに流れていた。俺はその言葉の端々を一つ一つ丁寧に拾い上げ、内に含まれる正と負の両方の感情を黙って手のひらに刻みつけていくだけ。
「俺は未来や過去に行くことによって、少し変わったような気がしてるんだ」
「そんなあなたの姿を見て、私にもようやく分かったような気がしました。あなた達の正の意志――あなた達がまっすぐ目をそらさずにいられる、根拠のない平和を追い求める理由が。そしてそれを知った時から私は、もうあなたに全てを押し付けるのをやめようって、そう考えることにしたんです」
 それは、とてもいいことのように聞こえる。けど、なぜだか不安が募る。どうしてだろう、前向きに考えるようになった相手の姿を見て、なぜこんなにも心が揺れる不安定さを感じなければならないのだろうか。
 何か不自然なものがこの空間を支配していた。
「でもそう考えたら、負の意志ってヤツが邪魔しに来るんだろ。……」
「そう……です。でも、あなたのような不安定な意志と共にいることにより、彼らは手を出せなくなっているようなんです」
「俺は不安定なのかよ……」
 否定することはできなかった。思い当たる節ならたくさんある。過去の英雄の意識のことや、鍵として道端に落ちていた俺の意志のことなど。
「あなたにはたくさんの迷惑をかけてしまいましたね」
 ルイスはすっと立ち上がった。背中から温もりが消え、途端に寒さが身に沁みてくる。振り返ると相手は俺を見下ろして立っていた。薄い暗闇の中でルイスの黒服は空気のように存在していた。
「私はもう、あなたが元の世界に帰る邪魔をする気はありません。あなたの望むことはあなたのものであり、それは私のものではありません。今もまだあなたがあの頃の願いを持ち続けているのなら、すべきことを終えてしまった空虚さに押し潰されそうになっているのなら、私はあなたの願いを叶えることだってできるんです」
「それって、ルイスが俺を元の世界に帰せるってことか?」
 相手はこくりと頷いた。そこにやわらかな雰囲気はなかった。
「俺が元の世界に帰ったら、それからルイスはどうするんだ」
「今までと同じように、ルピスを封印する手段を探します」
「ルピスを封印って――お前それ、姉を封印するってことだろ」
 淡い世界で見た記憶が俺に語りかけていた。それはルピスとルイスの悲しげな物語。ルイスが「闇の意志」と呼ばれるものなら、確かにルピスは「光の意志」だったのだろう。キーラ達の意見は間違っていて、レーゼ兄さん達の主張が正しかったと、ただそれだけのことだった。そこに個人の感情が混じっていないなら。
「ルピスは私の姉ではありません。あの人の意志はもう、この世界では生きていないのですから」
「あー、確か神木? あれになったとか何とかって、エアーが言ってたんだっけ」
「それはアイザックが私を安心させる為の嘘です。今ならもう分かっています、姉は人々の正の意志にその心を委ねてしまったんだって」
 また分からない話になっていく。ルイスはエアーのことを「アイザック」と呼ぶけど、エアーは名を名乗った時に先に「エアー」という名を俺に教えていた。ルピスは正の意志を総括する者だってことは分かるけど、なぜルピスの意志が生きていなくて、ルイスの意志だけ生き続けているのだろう。一人きりにしてはいけない姉という存在が、ルイスをエアーに託して逃げ出したかのようにさえ感じられる。
「ルピスとは、仲……悪かったのか?」
「いいえ。私は姉を愛していたし、姉も私を気にかけてくれていました。姉はとてもいい人です。人の好い、誰にでも心を開く、絵に描いたような素晴らしい人でした。それがかえって姉を犠牲者に仕立て上げてしまったのです。優しすぎたから姉が犠牲にならなければならなかったのです」
「ということは、つまり、ルピスは人々の正の意志を受け入れたってことか?」
「そう。彼らの意志に飲み込まれ、頭の中を全て侵食され、彼らの意志そのものとして私の前に降臨しました。私は姉とは違い、負の意志から逃げていました。姉は彼らを全て受け入れたけれど、私はそれが怖かったから、逃げていたんです、今だって同じように……」
「それでいいんじゃないか?」
 俺の口から出てきた言葉にルイスはちょっと驚いたようだった。また俺が相手を否定すると思ったのだろうか。また俺が理由のない苛立ちで、相手の心臓を突き刺すナイフを持っているとでも思っていたんだろうか。
「たとえお前の存在が闇の意志って呼ばれるものでも、お前の中にエミリアの意志が残っているんなら、それは大事に取っておくべきだと俺は思うんだけどな」
「……あなたもアイザックと同じことを言うんですね。少し、意外です」
「意外って何だよ、意外って」
「ふう……」
 今度は息を吐き出す相手。何だ、何をしているんだルイスは? なんでこの流れで息を吐く必要があるんだよ。それも、何やら呆れたように吐き出したようにも見えるしさ。やっぱこいつって意味が分からない行動が多いんだけど。
「あなたは、彼らに協力しろと、そう言いますか?」
「彼らってキーラ達のことか? 別に俺はルイスの好きにすればいいと思うけど」
「ルピスの力が強まっていく原因を、彼らに知らせるべきなんでしょうか」
 再び息を吐く相手。本当にどうしたんだこいつは。こんな姿、今まで一度だって見たことないぞ。
「ルピスの力が強まってるって、あのアナって姉ちゃんの研究のせいなんだよな? あの姉ちゃんが研究を始めたからルピスの封印が解けかかってるって話だし……」
「それは、確かにそうなんですが、ルピスは正の意志の総括者ですから、この世界の人々の正の意志によって力を強めていっているんです」
「……ってことは、何だ、俺たちが気合いを入れれば入れるほど、ルピスがその気合いを全部吸い込んで強くなっていくってことか?」
 こくりと頷く相手。しかしまあ、随分とシビアな事実であることで。
 この滅びかけの世界に残っているのは皆、どうにかして世界崩壊を防ごうと頑張ってる奴らばかりだ。彼らの頑張りが知らない間に敵の活力になってるんだとしたら、ルイスが事実を告げるのを躊躇ってる気持ちもよく分かるってもんだ。
「じゃあさ、一応聞いてみるけど、もしキーラ達がルピスの封印を諦めて別の世界に移住でもしたら、ルピスは目覚めずに済んだりとかするのか?」
「いえ、既にルピスの封印は解けかかっているし、彼らの正の意志はあなたの想像以上に鋭く尖っています。ルピスは現在、それを急速に吸い込んでいるはず。もし今から別の世界に移り住んだとして、この場に残された正の意志が尽きたとしても、ルピスの内に蓄えられた強い正の意志によって彼女は自ら封印を破るでしょう。ですから――」
「要するに手遅れってことか」
「……ええ」
 まるで希望のない話だな。こういうのを「絶望的」って言うんだろうか。
「つーか、それをあの熱い大僧正様やソルお兄様に話したとしても、あいつらが素直に引き下がるなんて思えねーよなぁ」
「引き下がってくれなければ、困ります」
「……俺、やっぱまだここにいようかな」
 なんだかやたら心配になってきた。キーラ達のこともそうだし、ここにいるルイスのことだって心配だ。こうやって眺めているとすごく危なっかしい感じがする。それを俺がどうにかできるとは思ってないけれど、誰かが傍で助言を与えてやらなきゃならないような、そういう雰囲気になってる気がするんだ。
「帰るのではなかったのですか? 私はもう、あなたを必要とはしていない」
「けど心配なんだよ。ルイスのことも、この世界のことも」
「あなたとは関係ない話なのに? あなたの正義は随分と甘いのですね」
 馬鹿にされたって構うもんか。でも、心配だけで残るっていうのもなんだか腑に落ちない。
「とりあえず、もうちょっとだけ考えさせてくれ。帰るにしたって、みんなに挨拶くらいはしておきたいし」
「分かりました」
 てきぱきと答えてくれる相手は、確かに俺の知ってる姿でここに存在している。
「……お前、今日はよく喋るな」
「暗くてあなたの顔がよく見えないから、平気でいられるんです」
 よく考えたら初めて会った時、頭に黒いフードを被ってたんだっけ。その時はフードを脱いだ時とは違ってなんだか偉そうなことをよく喋ってたな。相手の姿が見えなかったら大丈夫ってわけか。へっ、ますます昔の俺によく似てら。
 俺はその後ルイスと別れ、元の部屋に戻ってベッドに潜り込んだ。隣から聞こえる静かな寝息が時計の音と重なって、目に映る天井の無機質さが余計に際立って見えた気がした。
 この世界の未来を知った俺は、今更何をしようとしているんだろう。次にソルやサラに会った時、何を伝えれば怒られずに済むんだろうか。
 俺の知らない空白の時間に何が起こるのか、それがもうすぐ解明されようとしているんだろう。そこに立ち会うべきかさえ分からないのに、まだ俺は出口のない迷宮で一人さまよい続けているのだった。

 

 

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