67

 戻りたいと思っても戻れない場所がある。
 辿り着いたと思っても、まだ前に道が続いているんだとしたら。

 

「何を寝ぼけたことを言っているんだ」
 朝の眩しさに負けて目を覚まし、誰かの姿を探して下の階に下りていくと、何やら広間の方からただならぬ気配を感じた。
「未来や過去に行っていたなど、そんな嘘を誰が信じるというんだ」
「しかし本当なのだ、ソル――」
「おはようさん」
 適当に挨拶すると途端に視線が集まってくる。
 広間にある巨大なテーブルを囲み、寝起きの大僧正様と険しい表情のソルお兄様、そしておろおろした様子のヴィノバーが座っている。どうやらキーラがソルにこれまでのことを話していたようだが、お兄様は疑いの眼差しを向けるだけで全く信用していない、ってところだろうか。
「アカツキよ、君からも説明してほしいのだ」
 まるで泣きつくかのようにこっちに飛んでくる大僧正様。俺から説明してほしいだって? 俺はこの世界の人間じゃないんだぞ。そんな奴の説明が果たしてちゃんとした説明になるのやら。
「俺とキーラがタイムトラベラーになってたのは本当だぜ、ソルお兄様」
 空いていた席に腰かけ、紺色の髪を持つ子供の瞳をぐっと覗き込む。なんと懐かしい光だろうか。俺は今までこの鋭さや強固さをすっかり忘れていたんだな。だからなのか、何を言っても許されそうな気がしたんだろう。
「お前までそんなことを言うのか、豊」
「信じる信じないは勝手さ。けどさ、だったら、ここにいるこいつは一体どこから来たんだろうなぁ?」
「わ……っと」
 俺はちょうど隣に座っていたヴィノバーの肩を抱き、にやりと笑ってやった。この未来からの客人のことをお兄様は知らない。この事実は効果があったのか、ソルはますます表情を厳しくしたが、喉に言葉が詰まったかのようにぐっと黙り込んでしまった。ざまあみろだ。
 しかしここは懐かしい場所だった。数日間しか滞在していなかったけど、知っている場所に戻ってきた時の懐かしさは異常なほど心地いい。あの頃はまだ駄々をこねてばかりだったけど、今ではルイスやヴィノバーのおかげで大切な何かを知ったような気がしている。
 俺は何を連れてここに戻ってきたのだろう。この町の名である「レーベンス」とは、生命という意味なのだということを俺は知った。他に何を理解しただろう。どんなことを覚えてきたんだろう。長い時間をさまよいながら、俺とキーラは何を手に入れたんだろうか。
「ところでアカツキ、カチェリはどうしたんだ?」
 いいかげん鬱陶しくなったのか、俺の腕から力ずくで逃れたヴィノバーが目を丸くして話しかけてきた。そういえば俺はカチェリと同じ部屋で寝てたんだっけ。とは言え俺は相手を特別気にしてなかったから今どうしてるかなんて全く知らない。
「ティターンの神様ならまだ寝てるんじゃね? 俺が起きた頃にはベッドの中でうずくまってたし」
「では私が起こしてこよう」
 なぜか張り切っているキーラはすたすたと部屋を出ていった。それと入れ違いにサラが家の扉を開ける。
「あ、起きたんだ、アカツキ君」
「お久しぶりっす、元気だったか?」
「お久しぶりって……昨日以来じゃないの」
 おや、なんだこの取って付けたような矛盾は。
「昨日ルーチェの家に行ったことをもう忘れたのか? おれはお前を元の世界に帰す為に彼女の家へ行くことを薦めたのに、お前はおれを途方もない嘘で騙そうとしているとしか思えない」
「だから、俺の言ってることが嘘だったら、ここにいるこの青年さんはどっから来たんだって話になるでしょうよ。それにカチェリだって過去の人間だし、ルイスに聞けばもっと詳しいことを延々と語ってくれる……とは限らないけど、それでもあいつも一緒に未来や過去に行ってたんだから、事実であることに変わりはないんだってば!」
「証拠もないのにどうやって信じればいい?」
 わざわざ二度も同じことを言ったのに、相手は少しも俺の話を聞いてくれなかった。あーもう、なんでこのお兄様はこんなに頑固なんだ。こんな人だったなんて知らなかったぞ。せっかくの異世界で常識をわきまえてる数少ない人なんだから、俺の言うことだって少しくらい信じてくれてもいいだろうに。まったく、これならまだキーラの方がマシだな。なんだかんだであいつは純粋で可愛らしいとこがあるし。
 しかし証拠か。確かにそれを示してやれば相手を打ち負かすことができるだろうな。ヴィノバーとカチェリが証拠と言えばそうなんだけど、疑い深いソルお兄様はそれだけでは信じようとしてくれない。相手を確実に納得させるには、誰が見ても頷けるような完璧さを備えた証拠でなければならないんだろう。ふむ。
 ごそごそとポケットを漁ると何か硬いものに手が触れた。証拠と言えばやはりこれだろう。ぐっと握って机の上に置いたそれは、俺の心を表した金色に光る鍵であり。
「何だこれは」
「俺の心さ」
「こんなものが証拠になると言うのか?」
「今なら神木の力もついてるぜ。ついでに過去でルピスを封印したっていう実績もな」
 ふと鋭い視線を感じた。目の前の子どもが俺をじっと睨んでいる。そんなことされたってさ、実際にそうなってしまったんだから仕方がないだろ。俺だってあの時になるまでは、自分がアカツキだってことに気付く素振りだってしていなかったんだから。
 こんこん、と階段を下りる音が響いてくる。そちらに目をやると、上の階からキーラがカチェリを連れて降りてきていた。その後ろからルイスも降りてくる。これでようやく全員が集合したってわけか。
 さて、この話、一体どこへ向かっていくことやら。
「ねえソル、アカツキ君やキーラが言ってることは本当のことなんじゃない? 現にあたし達が知らない人がここに二人もいるんだし」
 俺の後ろで立ったままの童顔少女――サラはとても優しげなことを言ってくれた。そういえばそうだったな、彼女は顔のことにさえ触れなければ優しくていい人なんだった。もう記憶が曖昧になっている。それほどまでに俺たちは、ここから離れていたんだろうか。
「異世界から客人が来ることなど、さして珍しいことではないだろう」
「おいアカツキ、この感じの悪いクソガキは誰だ」
 落ち着いて答えたソルの後から、なんだか怖ろしい響きを持ったカチェリの声が聞こえてきた。……感じが悪いってのが無愛想ってことなら同感だけど、それを本人の目の前で堂々と言ってのけるなんて、さすが神様はレベルが違うというか、何というか。俺には到底できないことだなぁ。うん。
 なんて感心してる場合じゃないや。ちょっと焦ってソルの様子を確認してみると、どうにも普段と変わらない表情をしているみたいな気がしてほっとした。でもそれが本当に普段と同じだったのか、そんなことはもう既に忘れてしまっていることだった。俺はずっとここにいたわけじゃないし、色んな記憶が混ざり合って分からなくなってきているから。
「あのさ、アカツキ。俺ももうちょっと詳しくここのことを聞きたいんだけど……」
 横からヴィノバーの声が飛んでくる。いかにも真面目そうな台詞だな。俺なら面倒そうだから自分から聞いたりしない。適当に現在を生き、適当に自分を納得させるタイプだから。
「ここは私とソルが住んでいる家なのだ」
「ついでに言えばこの家があるのはレーベンスって名前の町で、世界にはもうここしか町が存在しないんだとさ」
「レーベンスって……確かクロノスって奴が魔物のことをそう言ってたな」
 キーラと二人がかりで説明すると、死体運びの兄ちゃんは新しく得た情報をわざわざ俺たちの目の前で掘り返してくれた。そう。レーベンスとは生命という意味であり、クロノスは魔物たちをそう名付けていたんだ。あいつの理想論なら聞き飽きた。だから今は意図的に黙っていようと思う。
「それで、何だっけ……この時代じゃルピスはまだ封印されてるんだっけ?」
「そうだ。しかし、アナという者の研究によりルピスが封印を解きつつあるのだ。我々はそれを阻止する為にこの世界に残り、私は異世界からアカツキを召喚したのだ」
「ふうん。異世界から召喚、ねえ……」
 ヴィノバーの青い瞳がじっとこちらを見ている。その中に流れる水の煌めきが見えたのはきっと気のせいなんかじゃなかったはずだ。
 ルピスの封印が実験のせいで解けかかり、それが完全に解けるのを阻止する為に俺が召喚された、か。この世界に来て日が浅い頃は何も知らなかったけど、今から考えればアナが何の研究をしているのかさえ分かりそうな気がするな。ルピスとはつまり光の意志であり、俺たち人間の正の意志――つまり正義だとか優しさだとか、そういったものを総括する存在だってルイスから教えられた。そんな奴が反応するような実験ということは、アナの実験は正義感の塊が漂うような素晴らしい実験、ということになるんだろうか?
「この町に残っているのはほんの数人きりで、今では私とソル、サラ、コク殿、ディト、そしてリガーじいちゃしかいないのだ」
「ついでに怪しい変人天才科学者ルーチェ殿と、なんかやたら名前が長かったような記憶があるアナって研究者が町の外に住んでるらしい」
 ひととおりこの世界の状況を説明すると、ヴィノバーは何やら納得したような仕草を見せてきた。その反面、カチェリは機嫌が悪そうな目でこっちを見てくるだけ。どうやらまた苛々モードに突入したらしいぞ。何が原因でそうなるんだ。俺はエースみたいにしつこくしてないぞ。
「あ、じゃあルイスは? この町の住人じゃないのか?」
 俺のひそかな心配に気付いてくれないヴィノバーは思っていることを正直に話してくれる。ああ、なに、ルイスのこと? 説明し出すと長くなりそうな気がするけど、皆にもちゃんと話しておくべきなんだろうか。
 ちらりとルイスの顔を見てみても、相手は普段と変わらない何も映していないような表情をしていた。俺の視線に気づいても、黙ったまま動かない。やれやれ、また沈黙を守る気か。でもそれを見た俺は、なんだか新しい感情が胸の内から溢れ出てきた気がしていた。
「ルイスはまあ、ルピスの片割れみたいなもんって神が言ってたよな。だから――って言い方は変だけど、この世界で生きてたわけじゃない……んだよな?」
 自分で言ってて分からなくなってしまった。俺はあいつの話を聞いていたけど、あいつがどこで生まれたかとかはまだ聞いてないんだった。こんな曖昧なままで話したら誤解が生じるってのにさ、一体俺はなんで馬鹿なことをしてしまったんだろうか。
「確かに神はそう言ってたな、ルピスの片割れって」
「おい、神って何だ。お前は神に会ったことがあるとでも言うのか、アカツキ」
 静かにしていると思ったらカチェリがいきなり割り込んでくる。いやあのね、一応ここにいる人々はみんな神に会ってることになるんだけどね。世界は違うんだろうけど。
 あれ、ちょっと待てよ。何か話がおかしくないか?
「カチェリ、クロノスの話ちゃんと聞いてたのか?」
「クロノス? 誰だそれは」
 腕を組んで答えるティターンの神様。あー、分かった。またクロノスに記憶を消されたんだな。あるいは記憶が過去のどこかに巻き戻されたか。まったくあの野郎、対応がいちいち冷静でむかつくな。
「ね、ねえアカツキ君……」
「はい、なんでしょーか」
 声のした方に顔を向けるとそこには幼稚園児のような顔があった。おっと、このインパクトを身近に感じるのは久しぶりだな。また勢いに任せて「童顔」なんて言葉を口走らないようにせねば。
「君たちって、本当に一体何をしてたの? なんだか全然話についていけないんだけど……」
 そりゃまあ、あれだけ色んな事を経験したんだから、ここで一日を何事もなく過ごしていたサラさんじゃあついてこれないわな。戸惑ったような顔になるのも頷けるってものさ。うむ。
「そーだな、ソルお兄様も信じてくれるかもしれないし、俺とキーラがルイスに飛ばされて何をしてきたか、ここで一から順に話してみるってのもいいかもな」
 俺の前にいる小さな子供は厳しい表情を崩さない。俺が不敵に笑って見せても懐疑心が剥き出しであり、そんな相手を見て俺は、この人をぐうの音も出ないほどに納得させるまで事細かく話してやろうと決めたのであった。

 

 +++++

 

 ラットロテスから始まり、魔法王国、神木、ティターンから魔界に至るまでの長い話を、ソルとサラは何やら興味深そうに聞いていたらしい。俺もまた過去のことを話しながら、今まで自分が何をしてきたか、何を感じていたか、そして今になって何が変わっているのかを、改めて目の前に突き付けられたような心地がしていた。
「未来と過去に行き、ルピスの解放と封印を目の当たりにしたと……そう言うのか、お前たちは」
 話が終わった途端に口を開いたのはソルお兄様だった。どうやら話は信じてくれたらしい。というのは俺が思いたいだけのことだけど、それでも伝えるべきことが伝わったことに対する安心感だけは得ることができた。ここで誤解があったなら、本当にやっていけないところだったから。
「すごいじゃない、アカツキ君にキーラ! その話が本当なら、ルピスを封印し直すことだってできるんでしょ? この世界は崩壊を免れられるんでしょ?」
「え、それは……」
 ぱっと明るくなったサラの顔を直視できない自分がいた。なぜなら俺は昨日、ルイスからいろんな話を聞いてしまったから。
「まさか、それは不可能だと言うんじゃないだろうな?」
 さらに追い打ちをかけるソル少年。俺たちの言葉を信じてくれたのは嬉しいけど、その先にある事実を伝える勇気はまだ俺の中にはないことも確かだった。
 言うのか? 伝えるのか? この人たちの耳に、この人々の心に、語りかけられるだろうか。突き付けられるだろうか。あの絶望的な事実を、俺の口から吐き出せるっていうんだろうか?
「まあ、いい。簡単に未来を知ったお前たちが得た力なんて、おれたちは必要としていない。頼るのは自らの力だけだ。……サラ、行くぞ」
「え、ちょっとソル――」
 がたりと椅子から立ち上がったソルは、サラの手を掴んで家の外に飛び出すように出ていった。家の中に残されたのは、未来や過去を行き来していた人々だけであり。
「あのソルって人、アカツキやキーラが未来を知ったことに対して怒ってるみたいだったな」
 すっかり静かになった空間でヴィノバーの声が虚しく響く。
「違うだろ。あのガキは、今まで必死こいて頑張ってたのに、アカツキの変な鍵のおかげで全ての片がつくと知って、それに対して苛立ってんだろ。いかにもガキの考えそうなことじゃないか」
「カチェリよ、ソルは子供などではないぞ」
 ソルが何に対してあんなに苛々してたのかは知らない。でも、ヴィノバーやカチェリの意見も苛立ちの原因に含まれていることは確かなんだろうと思った。なんかソルって一人で頑張ってたって感じがするから、突然現れた俺が何もかも壊していったみたいで、それが気に食わないのかもしれない。
 そんな相手にルイスの話をそのまま伝えるのは酷なことだろうか。確かルイスも迷ってたよな、ルピスの力が強まる原因を伝えるべきかどうかって。そうだよな、あんなに必死になって頑張ってる人たちに、もうこれ以上は何をやっても無駄だなんて、普通の精神じゃ言えるわけがなかったんだ。そしてもう彼らに協力しようとも思えなくなるし、だけど逆に彼らの心配をしなければ落ち着かなくなるんだろう。……ああ、なんだ。俺にだって、ルイスの気持ちが分かるじゃないか。単なる自惚れかもしれないけど、今は本当に繋がってるって感じることができる。
「なあ、キーラ」
 ここまで成長したのは誰のおかげ? それを人は変化と呼ぶかもしれないけれど、俺は自分は成長したと思っている。そして今の自分にちょっとだけ誇りを感じてる。
「それにヴィノバーとカチェリも。俺さ……」
 この世界やティターンでの経験は、俺に様々なものをもたらしてくれた。俺を柵の外に連れ出してくれた。俺が生きる空を感じさせてくれた。それだけでも喜ばしいことなのに、贅沢だよな、俺はあと一つだけ大事なものを見つけることができたんだ。
「俺さ、レーベンスに戻ったら、すぐにでも元の世界に帰ろうって――そう思ってた」
 本音を吐き出した瞬間に周囲の空気がぐらりと揺れた。小さな小さなざわめきさえ見逃さないほど、俺の耳はよく聞こえるようになっていた。
「アカツキよ、しかし君は」
「話は最後まで聞きやがれ。だからお前はいつまでたっても大僧正様なんだよ、キーラ。……って言っても、もうこのあだ名を変える気はねーけどな」
「す、すまぬ。続けてくれ」
 昔と違い、すぐに過ちに気付いて謝ってくれるようになったキーラ。こいつも俺と同じように、未来や過去の世界で徐々にだけど変わっていったんだろう。
 それは本当にいいことだった? 今なら自信を持って言える、そうに違いない、と。
「正直さ、俺の役目ってもう終わったんだよな。過去に行ってアカツキとしてルピスを封印するってことが、どうやら俺がこの世界に招かれた理由だったらしいから。それがすっかり終わった今となっては、もう何もすることないだろ? それにルイスがさ、俺を元に戻せるって言ってくれたんだ。こんなに順調に事が進んだらなんか怖くなったりしない? なんて……そんなことはどうでもいいか。だから俺は、元の世界に帰ろうって、そう考えてるんだ」
 相手の負の感情が目で見える。いつも視界の端に現れていたもの、それが人々の負の感情だった。それを見ることができる俺は、どこかでルイスと共通点があるんじゃないかってふと考えたりした。
「けどさ……」
 遠い昔に置き去りにした、虹の欠片が叫んでいる。
「たぶん、もう、そういうことって関係ないんだと思う。俺がどうしたいとか、何が欲しいとか、そういうのって。だって俺、もうアカツキなんだろ。もう俺は豊じゃなくなったんだろ。ここに帰ってきたのはアカツキで、豊じゃない人間が帰るべき場所なんて、もうこのレーベンスにしかないんだろ?」
「それは違うぞ、アカツキよ!」
「お前、思いっきりアカツキって呼んでんじゃねーかよ」
 俺の言葉にはっと目を丸くしたキーラが可愛らしく見える。そんな天然な大僧正様には思わず笑みがこぼれてしまった。
「た、確かに私は君をアカツキと呼んだが、本物のアカツキと君とでは全く違うではないか。君はアカツキだがアカツキではないのだ。それは間違いない!」
「けど俺がルピスを封印した時点で、これからの歴史じゃ俺がアカツキとして描かれるってことになるんだぜ。オーケイ?」
「……そう、なのか? 私はよく分からないぞ」
 俺だってよく分からないさ。けど、結局はそういうことになるんだろ。
「なあ、たとえそうだとしても、アカツキの帰る場所ってのが失われることには繋がらないんじゃないのか? アカツキが元々住んでいた世界にはアカツキのことを知ってる人たちがいるし、そこにはあんたの家だってあるんだろ?」
 心配性なヴィノバーは俺を落ち着かせようとしているのだろうか。それでもその目に潜む戸惑いを俺は瞬時に見破ることができていた。
「まあ、そうだわな。俺の貧乏な家庭はあの世界にあるし、今からそこに帰っても、俺は豊として迎え入れられるだろうな。……つーか、思えば今はイギリス旅行中だっけ。忘れてた」
 懐かしい自分の世界の国の名前を口にしても、誰もそれについて問い返してくることはなかった。そうしてくれても怒ったりしなかったのに。いや、キーラが聞いてきたら怒っただろーな。うん。
「そんなふうに受け入れられて、何気ない生活の中に戻ることができても、きっと俺は落ち着いていられないんだと思う。だって俺はアカツキになってしまったし。誰のせいってことは言わないけどさ――けど、まあ、それでもいいんじゃないかって気持ちはあるんだよな、正直言って。うん……なんつーか俺、初めて異世界に来た時、すんごいガキだったなって思うんだよ。今でもそれほど変わってないかもしれないけどさ、でもあの頃よりはマシになったと思わね? 俺はさ、未来のラットロテスでヴィノバーに会って変わったし、過去のティターンでルイスと行動して変わったと思ってる。ついでにレーゼ兄さんやエアーやカチェリの影響も受けたかなーとか思ってるわけであって……」
 たくさんの人に会って、たくさんの思いを抱いてきたから。振り返ったなら、レーゼ兄さんに対する同情や苛立ち、エアーに対する穏やかさ、カチェリに対する心配など、言葉では語れない感情をしっかりと育ててきたんだと分かる。中でもヴィノバーやルイスに対して抱いた気持ちは、きっと今までのどの感情よりも大きくて、大切で、過去に背を向け続けていたものに他ならなかった。かつて奪われぬよう握り締めていたその箱が、ようやく俺の手の中でゆっくりと開かれたように全身を包み込んでいるんだ。
「なあ、ルイス」
 そっと金髪の下に隠れる青い瞳を覗き込んでみる。昨日とはまた違った輝きが存在する相手の内に、言い様のない愛おしさがめいっぱい詰め込まれていた。
「エアーに会った時、心配と信頼は別物だって言われたことがあるんだ。それを否定しようってわけじゃないけど、俺はなんかこの世界が心配なんだよ。それに、ルイスのことも心配だ。
 別に信頼してる人を心配したって許されるだろ? だから俺は、心配なものをできる限り守りたいって思う。この世界を、この世界にいる人たちを、そして――ルイス、あんたのことを」
 思い出したのは、何かを守るという意識。
 傷の舐め合いならいらない。欲しいのは、互いを想い合う純粋さだけでいい。たとえそれで双方が傷ついたとしても、後に何かを生み出せるなら、手を取り合う意義だって充分にあるはずだ。そこに永遠がなくっても、過去の中にあるそれならば、きっと誰かが見つけ出してくれるだろう。だから俺は。
 俺は。
「……あなたは、何も分かっていない」
 ルイスは俺の目をじっと見ていた。そして普段以上に強い声で、だけどどこか悲愴さが混じっている響きを俺に与えてくれた。
「私はもう、誰にも頼りたくない」
 その意見なら知っている。昨日の夜に、はっきりとした声で聞いたから。
「俺がここに残ることが俺に頼ることになるってわけじゃないだろ? 俺はただ、自分にできることをしようって思ったわけで――」
「あなたの……あなたのその優しさが、私を動けなくする足枷になってるんです、どうしてそれに気付いてくれないんですか、あなたは何だって知っているのに!」
 大きく目を開けてそれだけを叫んだ相手は、そのまま誰の目も見ずに家の外へ飛び出した。
 なんだ、俺は、何か余計なことをしてるって言いたいのか? もうあいつには関わらない方が賢明だっていうのか? 今まで通り、偽りの嫌悪感の中に埋もれて、理由のない悲しみに涙を流し続けていろというのか? 分からない、分からない。ようやく分かったと思った相手なのに、どうしてこんなにもすぐに分からなくなってしまったんだろう!
「アカツキよ、気に病むことはないぞ」
 状況を理解したのか、キーラは俺に優しげな言葉をかけてくれる。いつもなら煩く感じられる彼の声に、今はほんのちょっとだけ救われた気がした。
「君のその判断に私は感動したぞ」
「お前が感動したって意味ないんだってば。まったく……」
 それは慰めというよりも、ただ単に思ったことを言っているだけのようだった。確かにキーラが空気を読める発言をするわけがないもんな。でも今は、そんな相手が霞んで見えてしまったような気がする。
 すぐ傍でがたりという音がした。椅子から床に降りたカチェリは無言で扉の方へ向かう。なんだ、カチェリはどこに行こうとしてるんだ? 右も左も分からないような世界で、何を探しに行こうと外へ向かってるんだ?
「カチェリ、どこに」
 問いかけると相手は振り返った。その瞳に感情はない。
「ちょっとあいつ――ルイスを追っかけてみるのさ。私はなんだかあいつが気に入っちまってな。まさかお前にあんなことを言うとはな。なかなか度胸があっていい奴じゃないか」
 話を聞いていて俺はますます混乱してきた。カチェリの基準では、大声で相手の意見を否定したら度胸があるってことになって、そしてそういう人のことを相手は気に入るっていうんだろうか。確かエースもまた大声で否定していた気がするけど、その対象が自分だったら誰であろうと嫌いになるんだろうか。まあ、カチェリらしいと言えばそうなんだろうけどさ。
「お前さ、なんか気を遣いすぎなんだよ。少しはあいつに判断を任せてみりゃいいじゃねーか。あいつだってガキじゃないんだから、お前のその優しさが鬱陶しくなってんだろうよ。何つーの、反抗期? とはちょっと違うかもしれないけど、せっかく腹くくって決めた未来を、他人のお節介でぶち壊されようものなら誰だって腹立つだろ」
 そう、だろうか。本当にルイスはそう思って出て行ったのだろうか。俺は今はあいつの傍を離れ、あいつが必要とした時に、また戻ってくればそれでいいというんだろうか。
 ティターンの神様はドアの前でふっと笑った。自信に満ち溢れたその笑みを、俺は他の誰かの顔の上に見た気がしていた。
「心配すんなよ、お前がいない間は私があいつを守ってやるから」
 限りない自由を持っているはずのカチェリは外へ出た。ばたりと閉められた扉がこの場を支配している。
 なんだかふっと力が抜けた。同時に眠気が襲ってくる。さっき起きたばかりなのに、まだ睡眠が足りなかったのだろうか。
「カチェリの奴、さすが神様って感じだったな。あーあ、俺、ルイスに嫌われちまったかなー……」
 ごろりと机の上に頭を寝かせる。不思議とそれほど悲しみは感じられない。あの嫌な後悔だって出てこない。どうしてだか落ち着いていられて、なんだかこのまま深い海の底にでも落ちていきそうな気がした。
「やっぱ帰ろうかな」
「アカツキよ、私は君がいなくなると淋しいぞ」
「俺はお前がいなくても淋しくないから、このまま帰ってもいいな」
「そ、そんなことを言わないでくれ」
 ちょっとからかったらすぐに涙目になる大僧正様。お前、本当に純粋な奴だな。何でもかでも信じすぎてんじゃねーのか。
「帰るべきかそうでないかは、アカツキが決めればいいと思う。ルイスのことは、カチェリもああ言ってることだし、彼女に任せてもいいんじゃないかな」
 更に純粋な人が隣にいた。修行僧の青年はすごく真面目そうな顔でいろいろと言ってくる。
「俺だってルイスと同じくらい腹くくって決めたのに、お前ら俺のことなんてどうでもいいって言うんだな。ふんだ、もういいもんね。俺の決意は誰にも受け入れられないまま殺されておしまいってわけなのね」
「そんなことはないぞ、アカツキよ!」
「そうだぞ、俺たちはちゃんとアカツキの決意だって分かってるつもりだ」
 無責任なことを二人は言ってくれる。俺やルイスの事情だってまだ何も知らないっていうのにさ。本当にこの二人は、人間の感情だけで全てを動かせると思ってるんだな。
 負の感情と、正の感情と。
 たかが二つきりだ、それほど難しいことじゃない。そこにいるのはルピスじゃなくても、ルイスじゃなくても、俺じゃなくても構わないってことだ。誰が何を持っていようと、世界は正常に機能する。
「……分かってるさ。今のあいつの為には、俺が消えちまうことが一番の親切ってもんなんだろ」
 いつまでも待っていたって誰もやって来ない。だったら俺は、そろそろ行かなければならない。金色に輝く鍵が色褪せてしまう前に、新しく作られるはずの感情を後押しするべきなんだ。
 完全に納得できるまで、幾らかの時間が必要だとは思う。だけどこの場所で留まることが誰かの為になるとも思えない。そうだと分かっていながら駄々をこねるのは、それこそ小さな子供のすることだ。俺は何歳だ? もう十年以上生きている。何が正しくて何が間違っているかも判断できるほど、多くの悲劇を見てきたはずだ。
 また戻ってくるかどうかは分からない。だから今日が最後かもしれない。思い出した時に後悔しないよう、俺は残された時間でこの世界をもっとよく見ておこうと思った。

 

 

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