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 月下で想う世界は美しい。

 

 家を飛び出したソルは夜になっても帰って来ず、彼に連れ去られたサラもまたその姿を見せることはなかった。ついでに俺に怒って出ていったルイスと彼女を追っていったカチェリもまだ戻ってきていない。さすがに町から出て行ったとは思えないし、探しに行ってもまた相手を怒らせることになりそうだったので、俺はキーラの家で今日一日をのんびりと過ごしていた。
 二階にあるベランダで一人夜空を見上げる。顔面に容赦なく吹きつけてくる荒野の風は冷たいが、そこにはわずかな緑の匂いが混じっているように感じられた。凍てつく生命が地の底に眠っている。地下で見た小さな宇宙は、今思えばどこかルピスや神木と似通ったものを感じられる世界だった。
「アカツキよ、そんな所にいると風邪をひくぞ」
 いつの間にやってきたのか、部屋の方からのんきな大僧正様の声が聞こえてきた。なんだか昔にも同じことを言われた気がする。そんなに俺の体を心配して、一体何になるっていうんだろう。
「……君は本当に、明日、帰るのか?」
「止めに来たのかよ」
 誰に何を言われようと、俺はもう動じないことにした。だってこれがあいつの為になることだから。しかしこの図も昔にあった気がするな。相手は確か、コクだったっけ。
 小さな音を立てながら、キーラはベランダに出て俺の斜め後ろ辺りに立った。非常に何か言いたげな行動だ。言いたいことがあるんなら遠慮せずに言ってくれ。隠し事なんかもうごめんだ。
「アカツキよ、私は君に言いたかったことがあるのだ。どうか聞いてほしい」
「何?」
 ベランダの手すりに肘をつき、星の瞬く夜空を見つめる。俺は明日には別の世界でこの景色を眺めることになるんだろう。だけど見える光景は変わらないなら、世界の違いなんか気にするべきことじゃないんじゃないだろうか。
「私は君に感謝しているのだぞ、アカツキよ」
「ふうん。それで?」
「だからもっと真面目に聞いてほしいのだ、お願いだから」
 風に寒気を覚えた。今ってこんなに冷える季節だったのか。
 振り返ると見慣れた顔がすぐ近くにあった。青い髪と目は夜の闇に紛れ、どちらも深淵に近い色に染められている。寒くなった身体が暖を求めていた。だけど見つかるのは凍えるようなものばかりで、俺はますます身体が冷えていく過程を知らなければならなくなった。
「……君は驚くかもしれないが、私は昔からこのような性格だったわけではないのだ」
「そりゃお前、ガキの頃からそんなんだったら怖いだろ」
「私とソルの親は、父上も母上も、魔法を扱うことができた人間だった。しかし彼らの顔はもう覚えていない。二人はルピスを封印する為に町を出て、そのまま帰ってくることはなかった。私とソルは二人の子供だったことから周囲には期待されていたのだが、私たちに魔法を操る力はなかった。しかし一般の人間では魔法の力があるかどうかさえ分からず、何も知らない周囲の人々は私たちに大きな役割を押し付けてきた。それがルピスを封印するというものだったのだが、ソルは――私の兄上は彼らの期待に耐えられなくなり、魔法の勉強を放り出して武術を磨くことに専念した。私はその頃はまだ幼くて、何も分からないような状況だったから、魔法と似通った勉学である召喚術についての知識を吸収していったのだ」
 静かな昔語りは風の音にかき消されていく。これを間近で聞いているのは彼一人。俺の元に届いたならば、それは相手の様々な感情に包まれた本音だっただろうか。ただ今は、周囲が真っ暗で何も見えないから、そこに負の意志が漂っているかどうかは分からなかった。正の意志に関しては、もとより俺には見えないんだからどうしたって知りようがない。
「私は強く抑えつけられていた。ソルはもう誰の命令も聞かないと言い張り、本さえ読まなくなっていたから、大人たちは私だけを期待し始めていた。どれほど多くの期待が集まろうと、しかし私は少しも気にならなかった。ただ何か逆らってはならないような威圧感があるような気がしていた。だから私は家の中から極力出ないようにしていた。外の知らないものに触れるのが怖かったのだ。今から思えば不思議なことだが、私はきっと、外にある自分の知らない自由を見ることを避けていたのだろう。それを知ってしまえば絶望してしまうだろうと、もう元に戻ることができなくなるだろうと、何か本能のような力で私は知っていたのだろう。ソルと私、小さな子供が二人きりで、この大きな家を使っていた。私はずっと地下にある特別な部屋の中で、椅子に座って召喚の本を開き続けていた」
 相手は笑ってなんかなかった。俺も泣いてはいなかった。それでも聞こえる声は笑っているようであり、泣いているようでもあったのはなぜだろう。そんなことはもう、どうでもいいことだ。だって何がどうなったとしても、この先の未来を変えることはできないのだから。
「そうやって長い時間を家の中だけで過ごしていた頃、ある日ソルが北の方まで行ってくると言って家を出た時があった。ソルが家を出ることはそれまでにも何度かあったが、その日は夕方になっても帰って来ずに、私はすっかり心配になっていた。何より大きな家で一人きりでいることが怖くなって、私はお守りとして一冊の召喚の本を持ち、ふらりと北の方までソルを探しに家の外に出た。知らない道を歩き、とにかく家から北の方へ向かって歩いて行っても、私にはソルを見つけることができなかった。そんなふうに一人でさまよっていると、いつの間にか空が暗くなっていた。そして私は道に迷って帰れなくなっていた。突然闇の怖ろしさが私を襲い、その場から一歩も動けなくなってしまった。しかしどこか遠くの方から人の声が聞こえ、私は助けを求めるようにそちらへ走って行った。そして私はサラとアナに会った。二人は家に帰る途中だった。私は兄を探していることを伝えたが、もう遅いから共に町へ帰ることになった。私にはそれが納得できなくて、困り果てて泣いてしまうと、アナが私の持っている召喚の本に気付いた。そして私が魔法使いの息子であることを知ると、彼女はこんな弱虫がそうだったなんて知らなかった、と言った。どういうことかと聞き返すと、魔法使いならもっと威厳がある態度をしなきゃならないと言ったのだ」
 幼き日々の相手の姿が目の前に浮かぶようだ。そしてその顔を俺は知っている気がした。ずっと昔から、俺がこの世界に来る前から。
「私は立派な魔法使いになろうと思っていたから、アナの言うことは正しいことだと思い込んだ。そして自分の性格を変えるよう努力し、今のこの喋り方、考え方、接し方を身に付けた。これで私はより理想に近づいたと思っていた。そうやって過ごしているうちに、過去の自分を思い出せなくなってしまったのだがな。……結局あの日、ソルは私が家を出たすぐ後に帰ってきていたらしく、心配して探し回ったんだと言われてしまった。私がソルを探していたはずなのに、とても可笑しな話だと思った。そして数年後には町の人々がルピスを恐れ、世界の荒廃を止める術はないと諦め、次々と別の世界へと移り住むことになった。私はソルと共にこの世界に残った。その理由は、ソルがここに残ると言ったから。私には兄が必要だったのだ。私にとっての理想は、本当の意味での理想像は、他の誰でもないソルだったのだから。私は兄のように自由に生きてみたかった。しかしそれに気付いていながらも、その気持ちに背を向け続け、まるでそんなものは初めからなかったかのように暮らしていた。なぜそんなことをしたか、君ならもう分かるだろう? 君はとても賢い人だから、私の愚かしい思考も見透かしてしまうんだろう」
 相手の言った言葉に一つ頷いた。自信があったわけじゃないけど、分かるような気がしたから。明確な答えは胸の内に溢れてくる。だけど今は、それが何なのかを口にするのはやめておこう。
「そう、君は、とても賢い人だ。いいや、賢いと言うよりは、様々なことを経験してきた人だと言うべきかもしれない。君はいつも私を叱っていたな。私のしていることは自分勝手だとか、人の話を聞かないだとか、喋り方が偉そうだとか。初めて会った頃は君に何を言われても全く気にならなかったのだが、君と共に未来の世界に行って、過去のティターンに行って、たくさんの人のたくさんの悩みを見て、なぜ君が私を叱るのかということを考えてみたのだ。君は笑うかもしれないが、私は真剣に考えねばならなかった。そのままの私では、それを理解することができなかったから。そうやって考えてみて、私は過去の自分の姿を思い出したのだ。遠い昔、別の誰かのように映った自分の姿は、確かに私自身であったのだと急に分かった。それと同時に、私は君の存在を理解した。君がなぜ私を怒るのか、その理由が判明して私は嬉しかった。そして私は恵まれていると思った。誰も叱ってくれなかった今までとは違い、間違ったことをすれば叱ってくれる人がいることが、とんでもなく幸福なことだということにようやく気付くことができたのだ」
 いつしか風が冷たさを失っていた。内に宿るのはあたたかい何か。その正体を俺は知っていた。いつだってそれに向かって手を伸ばし続けていた。
「だから私は君に感謝している。そしてできればずっと君と共にいたいと思っている。しかし、君は帰ってしまうと言う。ルイスのことを思って帰らねばならぬと言う。私はそれを止めようと思ったが、そうするのはもうやめようと思うのだ。私もいつかはルイスと同じように、君から貰ったものを守りながら、君のいない地で生きていかねばならないのだから。今回はそれが早まっただけのことと思い、私は君に私の思いを伝え、別れを告げようと思ったのだ。誰も助けてくれる者がいなくなったとしても、一人きりになったとしても、もう夜に怯えたり自分勝手な行動をしたりしないと誓いたい。だから、アカツキよ、もしよければ――」
 すっと手を差し出してくる相手。それはどこか不思議な光景だった。
「……ふうん。ま、別にいいんじゃない」
 ぎゅっと相手の手を握る。まるではじめましての挨拶のようだ。これで俺は、相手と同じ位置に立ったのだろうか。やっと知ることができた相手なのに、俺はもう彼から離れなければならないのだろうか。
 悲しんでる? 馬鹿な、そんなことがあっただろうか。ここでずっと暮らせるなんて、思ってもいなかったのに。
「感謝するぞ、アカツキよ!」
 そして頬を赤く染め、急にハイテンションになる大僧正様。
 ……お前なあ。少しは大人しくなったのかと思いきや、なんでここで逆戻りするんだよ。今までのなんとなくいい感じのシーンが台無しじゃないか。まったく、まだまだ変わってない部分も多いってことかな。
「さあ、君もそろそろ休むのだ。明日になって風邪をひいては帰れなくなってしまうだろう? 今夜はゆっくりと休むがいい」
 普段の命令口調が目の前に飛んでくる。相変わらず偉そうな奴だ。これがキーラっぽいと言えばそうなんだけど、なんだか複雑な気分だな。本当に、さっきまでの相手が別人のように思えて仕方がない。
 そんなあり得ないことを受け止められるようになったのは、一体いつの頃からだったかな。
「おやすみ」
 つい口から懐かしい言葉が出てきた。その不慣れな単語を耳にしたキーラは小さく微笑み、大きな家の中へと溶け込むように消えていった。

 

 

 誰もが歩き始めていた。俺から離れ、一人きりで各々の道を見出していた。
 それぞれの決意が自立へと向かっている。
 俺は彼らの道標だったのだろうか。俺がいたことで彼らが強く生きられるなら、それはとても素晴らしい役目だと言ってくれるかもしれない。
 だけど俺は神じゃない。俺は、たった一人の一般人だ。
 自立。
 もう彼らの傍にいる必要はない。
 もう俺は……彼らには必要とされていないんだ、きっと。
 きっと――

 

 

 +++++

 

 夜明けと共に目が覚めた。いつも朝日が昇り切ってからでなければ起きられないのに、なんだか今日は誰かに急かされているような感じがする。
 身体を起こすと隣のベッドが空だった。昨日の朝にはいたティターンの神様の姿はない。まさかまだ家に帰っていないんだろうか。ルイスは一体どこまで行ってしまったんだろう。
「豊」
 ふと声が聞こえた。俺の名を呼んでいる。だけどそれがどこから聞こえてきたのかは分からない。相手を探すように闇に目を向けると、部屋の扉の前に何気なく、ルイスがぽつんと立っていた。
「ルイス、俺を元の世界に帰してくれないか」
「そのつもりです」
 まるで何でも知っているかのように相手は言う。俺は相手を怒らせてしまったのに、そんなことは全て忘れてしまったとでもいうのだろうか。確かに俺だってそれをいつまでも引きずりたくはないけれど、こんなふうに最初からなかったかのように演じられると、あの時の気持ちは嘘だったんじゃないかって疑いたくなってしまう。
「なあルイス、もしまた俺のことが必要になったら、遠慮せずに呼びつけてくれて構わないぞ」
「要りません」
 短い一言で粉砕される俺の台詞。酷い奴だな、おい。
 ルイスは俺と目を合わせてこなかった。むしろ無理に合わせまいとしているようにさえ見える。目を見たら名残惜しくなっちまうって思ってるんだろうか。闇の意志だとか総括者だとか言ってたけど、こうして見てみたら、たくさんの感情を持つ普通の女の子のようにしか見えないんだけどな。
「私はもう、誰にも頼らない」
 何か決意のような言葉を吐き出してから、相手はようやく俺の顔を見た。すっと右手をこちらに向かって突き出し、相手の周囲に魔法の淡い光が集まり出す。
「私の思いを分かってほしいとは、言わない。だけどもう頼りたくないんです、あなたにも、ルピスにも、……アイザックにも」
 エアーにも?
 そうだ、ルイスにはエアーがいたじゃないか。ルイスをいつも見守ってくれる人が、俺も知ってる優しい人が、この世界のどこかに存在しているはずだった。彼は今どこにいる? ルイスを見捨てているはずはないだろう。だってあんな約束をしていたんだ、エアーがルイスを見捨てるわけがない。
 光が俺の体を包んでいく。
「豊、今まで、ごめんなさい……迷惑をかけて、ごめんなさい」
 視界が光で溢れている。世界が真っ白に染まっていく。
 ルイスの声が遠く聞こえた。そして俺は、相手の目から零れた涙にはっとした。
「ちょっと待ってくれ、ルイス、お前――」
「ありがとう、ございました」
 聞こえていないのか、俺の声が。
 初めて聞いた『ありがとう』という言葉。だけど、その涙は一体何だ? 別れを悲しんでいるのか、情けなさに嘆いているのか――いいや違う、その涙の正体を俺は知っている。知ってるんだ、持ってるんだ、そこに必要な夢の欠片を。
 見えない相手に向かって手を伸ばす。何も掴めなくて体が傾く。まだ消えてしまいたくないのに、もう俺は相手の前には存在していなかった。もう少し、あとちょっとで構わないから、時間が欲しい――あいつに一つでいいから質問したい。
『君の声は彼女に届かない』
 頭上から誰かの声が響く。厳しい言葉なのに、それはふわりと優しく俺の心を包み込んでいた。
『彼女はもう君を必要としなくなったから、新しい生き方をしようと決めたから』
 これは誰の声。新しい生き方に必要な人の声?
『ねえ、何にも必要とされなくなって、世界から消えてしまうのは、一体どんな気持ち? 置き去りにされて、要らない人だと言われて、跡形もなく消えてしまうのは――どんな気分?』
 消える。体が消える。鍵が消える。生命が、精神が、何も残さぬまま葬り去られる。
 ああ、『理想』は、どこまで行っても『理想』でしかないから。

 

 

 最後に金色の鍵が床に落ち、小さな音を立てたことだけが俺にはっきりと伝わってきた。

 

 

 

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