第五話  闇の意志

 

 

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 カラン、と乾いた音が静かな空間に大きく響いた。少し離れた床の上に、輝きを失った鍵が忘れられたように落ちている。
 そこまで歩き、しゃがんで鍵を拾い上げると、不思議な感覚が全身を包んだ。それは自分で作った事実に他ならない。
 一人で生きていくと決めた、あの人のいない世界。
 もう戻ることはできなかった。あの頃のように、誰かの影に隠れて生きていくなんて――二度としたくないことだった。強く、強くなった自分を見つける為に、私はここで生きなければならない。闇の意志に負けぬよう、しっかりと自分を保ちながら。
 拾い上げた鍵をぎゅっと握り締める。最後に彼、何かを言おうとしていた。だけどそれを聞いたとしても、きっと今の状況は変わらなかっただろうな。だって私には彼の幸福を邪魔する権利なんてない。
『無理だ、一人で生きていくなど、お前にできるはずがない』
 そうやって何でも決めつけていたから何もできなかったんだ。これからは何もしないうちから決めつけず、自分の力を信じて生きていこうと思ってる。
『不安がある。失望が待ち構えてる。それらの息吹に気がつかない?』
 大丈夫。もう何が襲ってきても、今の私なら跳ね返すことができるから。
『その自信はどこから来るの? 今のと言っても、昔と何が変わった? また同じ失敗を繰り返すつもりなんだろう、それくらい、誰だって分かる――』
 うるさい。
 頭の中で騒ぐ闇の意志を振り払う為に部屋の外へ出ていく。明るい場所なら安心できる気がした。人間のいない地ほど安全な場所はないけれど、そこへ逃げ込むほど私は落ちぶれてはいないはずだった。何か輝かしいものを見ていれば、自然と心が洗われるように、眩しい何かが欲しかった。それを望んで願ってしまった。だからあの人がここに呼ばれて……ううん、もう考えるのはよそう。あの人なら私を許してくれたはず。だから最後に会った時も、あんな穏やかな顔を見せてくれたはずだから。
 部屋を出て、階段を下り、玄関を通り抜け、陽の下に飛び出す。
 朝日が緑の街を染めていた。その景色を見るだけで、何か新しいものがやってきたのだという感覚が間違いじゃなかったんだと分かった気がした。

 

 「おお、帰ってきたのか、ルイスよ」
 朝の日差しを浴びて再び家の中に戻ると、玄関の傍にある広間にキーラが一人で立っていた。彼は片手に白いカップを持ち、それを大きな机の上にことりと置く。
「しかしソルとサラはどこに行ったのだろうか。昨日の夜から家に帰ってきていないようなので、探しに行かねばならないな」
 棚からもう一つのカップを取り出し、独り言のように口を動かす相手。私は彼に何か言った方がいいんだろうか。でも、別に言うべき言葉なんか見つからない。
 ちょっと困って立ち尽くしていると、上の方から誰かが階段を下りる音が聞こえてきた。そちらに目をやると、寝起きで眠そうな表情をした未来からの客人が下りてきていた。
「おはよ。ふあ……」
 私の目の前で大きくあくびをする。そしてふらふらとした足取りで倒れるように椅子に座った。
「喉渇いたんだけど、何かくれない?」
「しかしヴィノバーよ、今日はちょうど水を切らしているようなのだ」
「……は?」
 ぱちりと目を大きく開けるヴィノバー。彼の中に静かな負の感情が溢れ始める。
「水を切らすってどういうことだよ。川とか泉とかねーの?」
「この世界では生活に必要な水は全て井戸から汲んできているのだ。普段はこの壺の中に入れてあるのだが、もう全て使い切ってしまったようだな。しかし心配することはない、井戸に行けばたくさんの水が手に入るだろう」
「うう……」
 若干涙目になった相手はちらりとこちらを見てくる。その中にひっそりと光る負の意志は心配と焦りに似たようなものだった。彼にとって水がないことは不安要素となっているらしい。それは彼が水の精霊となる未来からきた要因らしいが、それよりも思い込みからくる不安定さの方が大きいようだった。
「なあルイス、なんか魔法でパッと水とか作ったりできない?」
 魔法で水を作る、って。何やら期待を込めてヴィノバーに問われてしまったが、魔法で作った水は役目を終えれば瞬時に消えるものであって、それだけで心を満たすことができるとは思えない。この人は魔法なら何でもできると思っているんだろうか。
 とりあえず首を横に振った。
「ほら、アカツキは神木の力で水を作ってくれたしさ、そんな感じでどうにかならない?」
 できないって言ってるのにまた聞いてきた。なんだか、困った。わざわざ説明しなきゃならないのかな。
「ヴィノバーよ、私が井戸まで行ってくると言っているだろう。それまで待ちたまえ」
「いや、正直言って、キーラに任せてたら夕方くらいまでかかりそうな気がするし……」
「な!」
 何気に酷い言葉だった。ヴィノバーは豊に影響されたんだろうか。
「だからさ、ルイス、どうにか水を作ってくれないかな。水が無理なら水っぽいものでもいい、とにかく喉が潤う何かを飲まないと俺は……」
「おいこら神官。ルイスが困ってんだろーが」
 再び懇願の声を浴びせられていると、後ろから力強い正の感情に似た負の意志が飛び込んできた。かすかな怒りが苛立ちとなって黒く染まっている。後ろを振り返ると、腕を組んで厳しい顔をしたカチェリが立っていた。
「し、神官って俺のこと?」
「あ? なんだよ、お前宗教に凝ってるんだろ。だったら神官じゃねーか」
「いや俺はまだ修行僧であって――」
「ところでルイス、お前なぁ、せっかく私が心配して追っかけてやったのに、なんで寝てる隙にさっさと一人だけで帰っちまうんだよ。まったく、いい度胸してやがるな、お前って奴は」
 少々粗っぽい言葉ではあったものの、どうやら相手は私の心配をしていたらしい。私は彼女が眠っていたから起こさないようにしようと思ったんだけど、それは間違った行動だったということなんだろうか。どちらにしろ、今のままじゃ理解できない。
「カチェリよ、ヴィノバーの為に井戸まで行こうではないか」
「……なあルイス、何言ってんだこの大僧正は。それよりアカツキはどうしたんだ、今日帰るとか言ってたんじゃなかったのか」
「もう帰りました」
「へえ。そいつはよかったじゃねえか」
 カチェリは少しも動じない。正も負もない感情でいつものように過去を受け止めた。反面、隣にいる二人の青年は大きな衝撃を受けたようだった。それがどことなく不思議な感じがする。
「アカツキはもう帰っちまったのか。帰る前にもうちょっとちゃんと話しておけばよかったな……いろいろとお礼も言いたかったし」
「我々は近頃アカツキに頼ってばかりだったが、今後は自らの力でこの世界を救わねばならない。その為にもまず、カチェリよ、共に井戸まで行こうではないか」
 キーラのきらきらした台詞の後、瞳をぐっと覗き込まれたカチェリは相手を鋭く睨み返した。
 そうして非常に気まずい沈黙が訪れる。
 なんだか今にもよくないことが起こりそうな気がする。でも、よくないことって何だろう。喧嘩かな、争いは避けなくちゃ。どうやって避ければいい? こんな時、あの人ならどんなふうに割り込むだろう。たとえそれを知っていたとしても、私にそんなことができるわけがないけれど……。
「喉渇いたな。おい大僧正、水くれ、水」
「だからその水を切らしているのだ。井戸まで汲みに行かねば水は手に入らぬぞ」
「だったら最初からそう説明しやがれ、このヤロー!!」
 カチェリは豊と違って喧嘩っ早かった。それでも黒い負の意志がはっきりと目に見えないのは、やはり彼女がティターンの神だからなのだろうか。

 

 +++++

 

  レーベンスの街の中、比較的中央部に近い位置に苔がむした井戸がぽつりと存在していた。周囲には小さな畑や案山子が風に吹かれて淋しく立っており、当然のことながら人の気配はどこにもない。顔を上げると大きな家の壁や屋根が見え、人気のない場所とは思えぬほどの賑やかさが感じられるような気がした。
「まるでゴーストタウンだな」
 隣を歩くカチェリが景色を見ながら漏らす。
「我々がいるではないか。それよりも、水を汲み上げるのを手伝ってくれ」
 井戸の前に立ったキーラは足元に置いてあった古びた桶を拾い上げた。それには井戸の上に設置してある縄が結ばれており、彼はそれがしっかりと結ばれていることを確認して井戸の中に桶を放り投げた。
 少しの時間をおいて、一つの乾いた音が井戸から響いてくる。
「……なあ、この井戸、もうスッカラカンなんじゃねぇの」
「ふむ。そのような話は聞いたことがなかったが、まずは桶を引き上げてみようぞ」
「じゃ貸してみろ」
 キーラを押しのけてカチェリが縄をぎゅっと握る。そうして思いっきり縄を上に引っ張ると、桶は井戸の中から軽々しく姿を現した。
「なんと! 本当に水がないではない――」
 かこん、といういささか間の抜けた音と共に、引き上げられた反動で宙に浮いていた桶がキーラの頭に直撃した。見た感じではあまり痛そうには見えない。
「井戸以外にはどこから水を補給してたんだ?」
 頭に手を当てるキーラを冷めた目で見つめ、カチェリははきはきと質問する。この場には負の意志も正の意志も出てきていなかった。二人とも落ちついているようだ。
「普段はこの井戸から汲み上げたものしか使わぬ。この井戸が涸れることなどなかったからな。それ以外に水が存在する場所は私は知らぬ」
「現に今! 涸れてんじゃねーかよ! つーかお前らルピスをどーのこーのするとか偉そうに言ってたくせに、水がなくなったら全員喉渇いて死んじまうんじゃねーの? まったく情けねー連中だな、おい」
「す、すまぬ」
「私に謝ってどうするんだよ。私は水の在りかを探し当てる力なんか持ってないぞ」
 ふう、とため息を吐くカチェリ。それはなんだか珍しい光景のような気がした。
 水の在りかを探ることは私でもできない。探そうとしたら、どうしても情報が地下水と混ざり合って混乱してしまうから。すごく大きな川や広々とした湖なら別だけれど、この世界にそんなものが残っているはずがないことは昔から知っている。
 カチェリに連れられてここまでついて来てしまったけど、私にはきっと何もできないんだな。そうだって分かってたはずなのに、どうして断ることができなかったんだろう。ルピスの封印のこともそうだし、もっと昔、あの人に質問された時も――。
「出でよ、水の精霊サータァよ!」
 はっとするとすぐ近くで青い光が煌めいた。深海のような青の中から人型がくっきりと浮き上がり、光が消えて一人の精霊が私たちの前に姿を現す。
「お呼びですか、キーラさん。しかし今はとても忙しいので用件は手短にお願いします」
 キーラに呼ばれた人はこのウラノスの世界を支える水の精霊、サータァだった。肩まで垂れている青い髪を持つ、眼鏡をかけた頭のよさそうな女性。この人とは一度だけ会ったことがあったはずだった。ルピスを封印する方法を探して天の図書館に行った時、この人は火の精霊と共に何かの本を探していた。声をかけることはなかったけど、ふと目が合った瞬間を私は今でも覚えている。
「サータァよ、我々の街の井戸水がなくなってしまったのだ。水を分け与えてはくれないか」
「……このレーベンスの街にはまだ水の気配を感じます。とは言え地中深くに存在しているようですが」
 じっと地面を見つめながら相手は言う。その言葉に対し、キーラとカチェリは揃って首をかしげていた。
「それじゃ、掘れって言うのか」
 ぽつりと漏らすカチェリ。いや、それはちょっと。
「穴掘りなら私に任せておきたまえ! 今すぐ召喚で穴を掘ることができるものを――」
「温泉ですね」
 ……あれ、なんだか話が不思議な流れになってきている気が。
「温泉? へー、いいじゃないか。よしお前、そこまで私たちを案内しろ」
 なぜか笑顔になったカチェリがサータァに命令する。温泉ってそんなにいいものなんだろうか。私にはよく分からない。そもそも私たちの目的は飲み水を探すことだったのに、温泉の水って飲めるの? いろんな成分とかが混じってそうなのに、飲んでも大丈夫なの?
 心配になっても口出しできなかった。二人は水の精霊に教えられた方角へと歩き出していた。それに気づいた私は慌てて彼らの後を追い、言いたかった不安はもう胸の内に捨てておこうと決めてしまったのだった。

 

 

「待たせてしまい、すまなかった。しかしヴィノバーよ、我々は素晴らしい水を手にすることができたのだ。さあ、心ゆくまでこの水を飲むといい!」
 家に帰るとキーラは机に突っ伏しているヴィノバーを無理矢理起こし、相手の口に湧き出たばかりの水を押し込んでしまった。
「あーあ、可哀想なこった」
 その様を後ろから眺めながらカチェリが笑う。この人は彼を止めようとは思っていないようだった。むしろこの展開を楽しんでいるように見える。
 コップいっぱいに入っていた水を飲み干したヴィノバーはぱっと目を開けた。その瞬間に彼にまとわりついていた不安や怠惰がどこかへ吹き飛んでいく。
「水を持って来てくれたのか! 三人とも、ありがとうな」
 お礼の言葉が痛い。
「困っている仲間を助けるのは当然のことではないか。気にすることはないぞ、ヴィノバーよ」
 気がつけばこの小さな家の中は正の意志で溢れ返っていた。視界の端々に白いものが漂っている。それらが私に口を開くことはないけれど、これだけ多いせいなのか、今は嫉妬深い負の意志が黙り込んでいるようでほっとした。
 そうして少しの安堵に酔いしれていると、家の扉がそっと開いたことに気づいた。
 外から二人の人間が入ってくる。小さな姿になったソルと、幼い顔立ちのサラ。正も負もない色をした目を持つ人たちだった。
「げっ、またあのクソガキだ……」
「カチェリよ、ソルは子供などではないぞ」
 二人の登場によって場の空気がざわめき出した。安堵が逃げていく。いいや、少しの乱れによって容易に消えていくものなんて、安堵と呼んでいいはずがないのに、私は一体何を期待していたんだろう。今を精いっぱい受け止めなくちゃ――。
「キーラ、それに、他の三人も。昨日は失礼した。おれがどうかしていたようだ」
 以前よりも少し優しくなった口調でソルは謝った。その素直さがどこか不思議。
「今更謝ったって遅いぜ。もうアカツキは帰っちまったからな。お前の謝罪はあいつにゃ届かない。それを分かった上で、一体どんな話を私らにするのか……とくと聞かせてもらおうじゃねえか」
 腕を組んだカチェリは強い意志を放っていた。彼女は彼女なりに豊のことを心配していたらしい。そんなこと、私は少しも知らなかった。ちっとも気がつかずに一人だけ走っていた。
「アカツキが帰ったのなら、尚更あなた方に頼みたいことがある。今は一人でも多くの協力者が必要だ。だから――」
 再び負の意志が私を脅し始める。
「ルピス復活を阻止することを、あなた方に手伝ってほしいと思っている」
 だけどもう、そんなものは聞こえていないふりをしていよう。聞こえなければ大丈夫。実体のないものに怯えたって、馬鹿らしいことだと思わない?
 そう、実体のないものなんて、単なる夢にすぎないのだから。

 

 

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