70

 届かない願いなら最初から持たなければいい。
 届きそうな想いなら、最後まで演じていればいい。

 

「ルピスは『光の意志』だと、そう言うのか、お前たちは」
「そう。我々の解釈は間違っていたのだ、ソル」
 日の差し込む小さな家の中で、様々な時代の人間が固まって話し合う。周囲に漂うのはどれも些細な感情ばかり。それは全て驚嘆に彩られた異質な感情だった。私にしか見えない滑稽な代物だった。
「光の意志。つまり、人間の正の感情を総括する者。それがルピスの正体だった。しかしルピスを復活させてはならぬ。彼女が目を覚ました瞬間に、未来の我々の世界は消えてなくなってしまったのだから」
 冷静に知識を語るのは若い召喚師の青年、キーラ。彼の中に宿るのは落ち着きだけであり、以前のような慌ただしくて煩い言葉は一つとして見えてこなかった。彼は変わっていた。この世界に立っていた頃に比べ、非常に大きく全てが変わっていた。そこまで導いたのは誰? その人のことを、私は知っている。
「ちょっと待って。ルピスが光の意志だってことは、だったら本物の闇の意志は何なの?」
 時を巻き戻された少女は偽りのない疑問を吐き出した。その問いに対し、正確に答えられる人はこの中にいない。
「……ふむ。そのような者はいないのではないだろうか」
 いいえ。ここにいる。私がそう。私が闇の意志だから。
 分かっていても言い出せないのはなぜだろう。知られたら、恐れられると思ってるから? 人の負の感情を食らいながら生きる私は滑稽? 他者の怒りに耳を塞いで逃げ続ける私は愚か? 聞きたくても何一つとして声に出ない。私は彼らと離れることを恐れている。
 どうして。こんな薄い繋がりなど、あの人がいなければ何の意味も持たぬものだったのに。
「ルイスがそうじゃねーのか、なあ」
「……え」
 右から聞こえてきた声に、心が止まる思いがした。そちらに目をやるとティターンの神様が目を細めて私を見ている。私には先ほどの彼女の声が豊の声のように聞こえた。いないはずの人が遠くから言葉を残していったように感じていた。そんなことがあるはずないのに、それに頼らないと決めたばかりなのに、私はまだ心のどこかで期待をしている。逃げ道を探そうと森の中で周囲ばかりを見ているんだ。
「そうなのか、ルイス」
 この場にいる誰よりも純粋な目がこちらを見ていた。遠い未来の修行僧の青年。豊が変化を味わうきっかけになった人だと、そう言っていたのを覚えている。私は彼のことはよく知らない。個人を深く知りたいとは思わない、いずれそれらに飲み込まれてしまうから。だけど今はなんだかもやもやする。この人のことを知りたいと思っているのだろうか。そうしてまた後悔するのを知っているのに、どうして?
「確かアスター殿がルピスの片割れだと言っていたな。ルイスよ、我々に君のことを教えてくれぬか。私は君のことを知りたいぞ」
 陰りのない笑顔が眩しい。そんなにまっすぐな正の心をぶつけないで。私には俯くことでしか、それらを避ける方法がない。
「私は……」
 誰の前で語ってる? 誰が私の声を聞く? 誰が私を理解する? そんな人、きっとどこにもいない。
 いっそ心を無にしてしまえ。
「私は、闇の意志。人間の負の感情を総括する者」
 ああ、そんなことができたなら、どれほど楽だったことか。
 無理なことを願い続けている。私が私であることは、もうずっと昔に決められていたのに、今更どうしてそれを否定できよう? 誰もが私をルイスだと認める。ねえそれって幸福なことでしょ? それなのにどうして私にはこんなに悲しく響くのかな。どうしてルイスなんてどこかに行ってしまえって、そんなことばかりを夢見続けてるのかな。
「ルピスの片割れって神は言ってたけどさ、だったらルイスはもともとルピスと一つだったのか?」
 一つ?
 顔を上げてヴィノバーの目を見る。汚れのない瞳は光が差し込んで綺麗に見えた。彼の質問は静かに私を動揺させていたけれど、思ったより深く入り込んでこなかったのが救いだったかもしれない。
「私たちは源石という物の魂です。あなたの言うとおり、私とルピスは同じ存在でした。一つのもの……一つの世界、それを持つ存在でした」
 本当のことを口にするのは怖くないことだった。だけどそれは私の口から出た言葉ではないような気がしていた。私の中にいるたくさんの私が、何も言い出せない可哀想な私の為に無理矢理口を開いているようだった。そんなものが私の為になるとでも思っているの? だとしたら、すごく楽天的。
 豊に話した全てのことは偽りのないことだった。いずれ元の世界に帰る彼だからこそ、あそこまで詳しく話せたんだと思う。ここにいる人たちは彼ほど多くを知っていない。ルピスを倒そうと必死になっている姿は、私と豊から見ればあまりにも痛ましい。
「しかしルイスよ、なぜ君はルピスと分かれてしまったのだ」
「そりゃお前、ルピスが光でルイスが闇を総括してんだろ。分かれて当然じゃねーかよ」
「……なぜ当然なのだ?」
 私の両隣から交互に意見が飛び交う。キーラもカチェリも私のことを真剣に考えてくれているらしい。そんなことをされても、何も返すことができないのに。彼らは私に期待しているのだろうか……豊がいなくなった今、この中で強い力を持っているのは、私とカチェリだけのようだから。
「なぜって、光と闇は全く逆のものだろ。逆のものが一緒になれるわけがないのさ。そうだろ、ルイス?」
「ちょっと待ってくれよ、カチェリ。神は光と闇は同一のものだって言ってたぞ。カチェリのその考えで決めるなら、むしろルイスとルピスは同じものになるんじゃないのか?」
「はぁ? なんで光と闇が同じになるんだよ。お前みたいなわけ分かんねー宗教に興味はねーよ!」
「わけ分かんねーって……神を侮辱する気なら許さねぇぞ!」
 いつの間にかカチェリとヴィノバーの喧嘩が始まろうとしてるし。
 ああ、豊、こんな時にあなたなら何を言うだろう? それとも何も口出しせずに、誰かが喧嘩を止めてくれるのを待っているの?
「やめないか、みっともない」
 誰かが何かを言うその前に、子供ながらに威厳を放っているソルが喧嘩を制止した。彼は手にコップを持ち、キーラと同じ青い瞳で喧嘩を始めそうな二人をじっと見つめている。
「偉そうなクソガキだな」
「ソルは子供などではないぞ」
「お前さっきからそればっかり言ってんじゃねーかよ! このガキのどこがガキじゃないって言うんだ」
 カチェリの中に静かな苛立ちがじわじわと広がっていく。私もなんだか苛々してきた。
「ソルは私の兄上だ。そうだろう、ソルよ」
 にこりと微笑む姿にはあどけなさが溢れている。
 ……なんだ。この人、ちゃんと理解していたんだ。ううん、やっと認められるようになったんだろうな。これも豊のおかげだったのかな。彼は私たちに何を残していったのだろう。
 幾度繰り返しても変えることのできなかった未来。やっとの思いで変わった結末は、だけど今までと何ら変わりはなくて。ただ一つ、彼の存在を除いては。
「今はそんなことはどうでもいいことだ」
 聞く者全ての注目を集める声で、ソルは静かに語り出す。
「我々の為すべきことは、豊がいなくなった今でも変わらない。アナの研究を阻止し、ルピスを封印し、この世界を守ることだけだ。他のものに目がくらんではならない。目指すべき場所を見失うな。……未来からの客人と、過去からの客人。お前たちも協力してくれるな?」
 彼のまっすぐな視線が、意志が、私の胸を貫いてしまう。これが罪悪感というものだろうか。どうすることもできない現実に、いたたまれない感情が渦を巻いている。
「俺の力がどこまで役に立つか分からないけど……協力するよ。それが神との約束だし」
「私はルイスに協力するだけだ。お前らの目的が何だろうと関係ないね」
 眩しいヴィノバーの青い瞳と、カチェリの穏やかな感情の波が、この場の空気を謙虚なものに変えていた。
「でも協力するって言ってもさ、具体的には何をすればいいんだ?」
「アナの研究を止めればいいだけだ」
 簡潔なソルの答えに未来からの客人は首を傾げる。
「アナの研究により影響を受けたルピスが、その封印を自ら解こうとしているんだ。だからアナの研究を止めればルピスが封印を解くこともないだろう」
「そいつがルピスと関係があるとして、そのアナとやらは一体何を研究してんだよ。ルピスってのは光の意志なんだろ? その光の意志様が影響を受けるほどの研究ってのは、実はこの世界の為の研究だったりするんじゃね?」
 すらすらと言葉を並べるカチェリは正直な気持ちを持っていた。彼女の姿はつい豊と重なってしまう。彼も彼女とよく似た心の在り方をしていたから。
「そのことについて、おれはよく知らないが……どうやら命と時に関する研究をしているらしいな」
「はぁん、なるほど」
 相手の曖昧な答えで納得できたのか、カチェリはにっと笑って腕を組んだ。彼女には心当たりがあるのだろうか。私はまだそれを知らないというのに。
 ルピスが力を吸収するほどの意志がアナの中にあるのなら、私たちは彼女を止めに行かねばならないだろう。だけどもうそれだけでは世界は救えない。ここに残った人たちの強い正の感情が、ルピスを大きなものに変えてしまったから。
 どうしてそれを彼らに伝えられるだろう。どうにかして自分たちの世界を守ろうと、絶望から目を背けて強く歩き続けている彼らに、もうこれ以上頑張るなと命令するのは酷なことだった。残酷なことだと分かっているから苦しくなる。悲しいことだと理解できるから悔しくなる。こんな気持ちを味わうなら、いっそ感情なんか持たなければよかったのに。
 この場にいるのが辛くて、私はそっと気付かれぬように家の外へ出た。彼らと同じ空気を吸ったりしてはいけない気がしたんだ。頑張っている人の傍で諦めを知っている者が黙っていてはいけないと思った。馬鹿だな、私は、それさえ分かってるのにどうすることもできない――街は淡いオレンジ色に染まり、郷愁の思いが胸を満たす。
 ねえ、あなたも彼らには何も言えなかったよね。彼らに事実を告げることは、彼らの夢を壊すことは、たとえ何が起きようとやってはいけないことなんだよね? 私のこの選択は正しいのかな。もう誰にも聞けなくなってしまった質問を、私の中の負の意志に聞いたって……答えが返ってくるはずがない。それでも誰かに聞かずにはいられない淋しさは、どうしたって消えてくれるはずがなかった。無意識のうちに私は鍵を掴んでいた。彼の残した金色の美しい鍵は、夕日に照らされてきらきらと輝いている。神木の力なんてきっとない。同様に、彼の意志も――。
「どうしたの?」
 はっとして隣を見ると、幼い顔立ちの少女が立っていた。声をかけられるまで彼女がそこにいることに気がつかなかった。いつもはあんなに周囲を気にしていたのに、私はどうしてしまったんだろう。
「それ、アカツキ君の鍵よね? キミが持ってたんだ」
「……」
 彼女は何も知らない。だから私は何も言わない。
 言うべきことなんて何もない。
「みんな中でこれからどうするかを話し合ってるよ。ルイスは聞かなくてもいいの?」
 いい。聞けば悲しくなるから。もう悲しいことは受け止めたくない。私が私を保てなくなりそうで、怖い。
「……協力したくなかった?」
 私は首を振って否定する。
「じゃあ、私たちのこと信用できない?」
 もう一度同じように否定する。
 相手はちょっと黙った。家の壁にもたれかかり、夕焼け空を私の隣で見上げている。それは夢のような光景だった。温かいはずなのにどこか冷たい、矛盾をはらんだ景色だった。
「私ね、アナが何を研究しているか、聞いたことがあるんだ」
 ふと彼女から漏れた声に私は少し驚いた。ちらりと相手の顔を見上げると、夕日に照らされた美しい表情が私の目をくぎ付けにした。
 赤い髪が夕焼けの中で燃えている。
「彼女、言ってたの。もうすぐこの世界は駄目になるから、もし駄目になっても生きていられるように、誰もが平等な幸福を得られるような、そんな存在になるべきだって。彼女は私たちがルピスの脅威を知る前から、もう何もかもを知っていたみたいだった。だから彼女は世界が滅亡した後のことを考えていたらしくって――人間の中の時を操作して、永遠の命を作り出そうと考えているの。どんな傷を負っても巻き戻せる身体と、老いることのない精神を作ってみせるんだって、そう言っていた」
「不老……不死?」
「うん、そうね。きっとそういうものを作ろうとしてるんだね、アナは」
 永遠を作り出そうとしている。
 それを浅はかだと笑い飛ばすには、あまりに愚かなことだった。滅びを前にした人間が考えることは、荒れた精神の叫びが乱雑に飛び散っているだけだから。逃げ出せば救われる生命なのに、彼女はこの地に縛られている。何がそうさせているのかは知らない、だけど、ここで戦っている人たちは皆同じだった。何も変わったところなんてない、全員が同じ感情を根底に抱えていたんだ。私はその中へ入り込むすべを知らない。だからただぼんやりと、空を見上げて時の流れを見つめていなければならなかった。
 いつか、彼女にもこの世界にも救いがあれば。ううん、私がどうにかして救いを見つけなければならない。絶望なんかしてる場合じゃない。あの人にも言ったとおり、他の誰でもなく私がルピスを止めなければならないんだから。
『止める? 止められるわけがない。だって今までどれほど頑張っても、私の努力は踏み躙られてきたのだから』
 そんなことはもう関係ない。今までは今までであって、今や未来のことじゃない。私が行くべきなのは未来だから、過去のことばかりを気にしてはいけないんだ。
『嘘ばかり。ただ怖いんでしょう? 見捨てられることが。笑われることが。だから頑張っているふりをしているんだ。本当は少しも努力していないのに』
 いいや、私は、必ず見つけるって約束したもの。自分一人だけでも生きていけるって、ルピスを消滅させるって、あの人にも言ってしまったもの。
『単なる強がりで豊を突き放して、そして後戻りができなくなった?』
 ――息が詰まる。
 囁きかけてくる負の感情が、頭の中で大きく響き渡っていた。どんどんと自分が何を考えているか分からなくなってくる。私たちの中にあるものは永遠を知っていた。だけど私には、それが何なのか理解できていないみたい。
 私が彼から離れたのは強がりだった? 私が彼に言った決意は嘘で彩られていた? あれは本当に私の気持ちだったのだろうか? 私の中にいる別の誰かの悪戯だったんじゃないだろうか? だけど、それ以前に、私は誰だったんだろう……あの時あの人と話していた私は、一体私の中の誰だったんだろう。
 エミリアはもういない。扉の奥に押し込められてしまったから。
 幼き日の幻影を追い求めるのは、何の意味も持たないこと。いくら望んだってあの頃に戻れるはずがないのにね。私にはもう振り返るべき場所さえなかった。ただ前方に広がる途方もない世界へ走っていくしか生きる道はなかったんだ。
「ルイス、泣かないで……」
「私は泣いてません」
「だけど、涙が」
 頬を伝うのは確かに涙だった。だけどこの空虚な精神に、悲しみという名の感情はない。
「或いは、あなたの――」
 泣かなかったあなたの涙かもしれない。私には見えていた、決して泣かなかったあなたの涙なのかもしれなかった。

 

 

前へ  目次  次へ

inserted by FC2 system