71

 騒ぎたいならよそへ行って。
 私はその声を聞きたくないから。

 

 夢を見ていた。忘れかけていた遠い昔の夢を。
 綺麗な花畑の中で私たち二人が、初めてあの人に出会った日のことだった。
 あの人はふわりとした黒髪を風になびかせ、優しげな瞳で、だけどどこか憂いを帯びた表情で、私と姉に声をかけてきた。
『楽しそうだね』
 私は何も答えずに、ただ精いっぱいの笑顔を相手に見せた。
 今ではその笑顔すら、どんなものだったか思い出すことができないのに。私はあの人の声を覚えていた。あの人の顔を、目を、口を、少しも笑わない頬を覚えていた。あの人の少し長いまつ毛、紙のように白かった手、陽に照らされて黄色く光った衣――それら全てを何一つとして忘れることができなかった。
 夢の中で会った相手は、どこかの研究室の中で椅子に座り、コンピュータの画面を一人きりで眺めていた。少し汚れた白衣を丁寧にたたんで傍に置き、湯気の出ている小さなカップを左手に持ち、目まぐるしく変わる箱の中の世界をじっと見つめていた。そしてあの人は花を咲かせていた。無色透明の美しすぎる花を、何もない空間から描き出していた。
 それは瞬時に消える運命でしかない。だけど私にはそれが見えたし、気付くことができた。これは夢の中の記憶でしかないけど、現実が夢とは異なるなどと、一体誰が決めただろう? あの人もまた、私と同じ苦しみを知っていて、私と同じ悩みを抱えていた。今でこそ冷静に解釈できるけど、それをただの夢と呼ぶには――あまりにも軽すぎる。……

 

「ルイス、どうしたんだ」
 ふと気付くと、目の前に二つの青い瞳が並んでいた。それがあまりに不思議そうに丸くなっていたから、とりあえず私は首を横に振っておいた。
「悩み事があるんなら何でも言ってくれよな。できる限りではあるけど、協力してやるからさ」
 それだけを言い、ヴィノバーは顔を引っ込める。
 私はソルとサラとヴィノバーと共に、アナの研究室がある場所へと向かっていた。キーラとカチェリはレーベンスの街で待機している。キーラはアナに狙われているらしいし、カチェリは本人の自覚はないけれどティターンの神だから、街に残っている数人の住人の守護という名目で残ってもらうことにした。二人とも少し不満そうに顔をしかめていたが、それほど大きな反抗心は出ていなかった。あくまで今回は話し合いをする為に向かうのであり、アナを力でねじ伏せることが目的ではなかった。私は暴力で解決することは望まないけれど、ソルは最終的にはそれは避けられないことだろうと言っていた。
 アナの研究室がある場所は前から知っていた。彼女がルピスを刺激していることも分かっていたから、私は何度か彼女の研究をやめさせようとしたことがあったはず。その時のことはあまり覚えていないけど、それらは全て失敗に終わっていた。だからいつもアスターさんに叱られていたんだから。
「だけど、不思議なもんだよな」
 私の隣を歩くヴィノバーがぽつりと漏らす。ちらりと相手の顔を見ると、空を見上げてまっすぐ歩く彼の姿が間近に映った。
「ヴィノバー君、何が不思議なの?」
 振り返ったサラは普段通りの態度で彼に接していた。そして彼もまた、過去に怯えることなく普遍の態度を貫き通している。
「だって俺が住んでた時代は、ここと同じ世界なのに全く見える風景が違うんだ。ここは赤茶けた大地しかないのに、俺の知ってる大地は緑で溢れてる。確かにルピスは大地に眠っていたけど、その影響は微塵も感じられないほど平和な生活を送ることができたからな。未来に生きる俺が過去に来て、未来の為に世界の崩壊を止めようと頑張るなんてさ、なんだか不思議なことだと思わないか? 未来は崩壊なんか知らない顔で平然としてるっていうのにさ……」
 空白の時代。
 私たちが経験しているのは、誰も見たことのない時代に他ならなかった。神はそれを空白の時代と呼んでいた。神ですら知り得ない『時』のことだけど、ただ一人、時の竜だけはその結末を知っている。当然、それを彼女に聞くことはできないのだけれど。
「だけど私たちは立ち止まったり逃げ出したりしてはいけないのよ。目に見える未来が平和そのものだとしても、それが本当に実現される可能性なんて誰にも分からないでしょ。その未来は私たちの頑張りがあってこそのものかもしれないし、私たちは何もかもを怠ったりしてはいけないのよ」
「そうだ。お前が生きていた未来のことなどどうでもいい。おれたちが問題視すべきなのはただ一つ。言っただろう、目指すべき場所を見失ってはならないと」
 サラもソルも、以前会った時と少しも変わっていなかった。もちろん彼らは豊やキーラと共に未来に飛ばされなかったから、大きく変わっていないことはごく当たり前のことだけど、なんだかそれがとても好いものに見えてしまう。なぜだろう、変わらないことがこんなにも嬉しいなんて。変化を嫌っても仕方がないはずなのに、私はまだ新しいものを受け入れられないんだろうか。
 しばらく歩くと目的としている建物が見えてきた。それは荒廃した大地に似合わない真っ白の建物だった。どこか別の次元から切り離されてきたような、周囲の景色に溶け込むことを諦めたかのような色合いをしている。近くまで寄ってみてもそれほど大きさは感じられず、人が一人住んでちょうどいいくらいの広さしかないように見えた。
「ここがそのアナって人の家なのか」
 物珍しそうに建物を見上げるのは未来からの客人。外の世界を知らない人だから、どんな物にでも好奇を示してしまうんだろう。それは私にとって眩しいことだった。
「それで、これからどうするの? ソル」
「ここまで来たのだから、アナに会うに決まっているだろう」
「それもそうね」
 外から見た感じでは、強すぎる正の意志も負の意志も放出されてはいなかった。もう少し前に来た時は、こんなに穏やかな時などなかったような気がしていたけれど、今は気持ちも落ち着いているってことなのかな。だとすれば、今から彼女を説得すれば少しは聞く耳を持ってくれるかもしれない。希望を持って臨もう。
『きっと私を見た瞬間に態度は変わるさ』
「行くぞ」
 小さなソルが扉を開ける。

 

  +++++

 

 それは夢で見た光景とよく似ていた。
 狭い部屋に設置された机に、窮屈そうに並べられた幾つもの本棚。床には字が書かれた紙が散らばっており、机上にあるコンピュータは電源を入れられたままになっているのか、幾通りもの画面を数秒ごとに入れ替えていた。小さな窓は全て閉められており、扉を開けた瞬間に部屋の中へ風が入り込んでいったらしい。床に紙が散らかっているのはそのせいでもあったけど、元からたくさんの紙を散らかしていたことも避けられない事実であるようだった。
「……アナ、今はいないみたいね」
 研究室の奥にある小ぢんまりとした扉の奥を覗き込みながらサラが言う。彼女が言うと何やら逆らえないほどの説得力があった気がした。ここでアナを探すことは、とんでもなく無意味なことのように感じられてくる。
「ここにいないとなれば、アナはレーベンスにでも向かっているのだろうか」
「じゃあ私たちも急いで帰った方がいいんじゃない?」
 ソルとサラが話し合っているのをよそに、ヴィノバーはきょろきょろと物珍しそうに研究室を観察していた。本棚に手を伸ばしてみたり、コンピュータの画面をじっと睨みつけたり、子供のようにはしゃいでいる姿が見受けられた。そのどれもに向ける瞳はきらきらと純粋だ。そしてその邪悪のない目と視線が合わさった刹那、彼はぴたりと動作を止め、ほんのちょっとだけ顔をしかめた。
「おい、何をしている」
 話を終えたソルが叱るように声をかけてくる。それを真正面から受けたヴィノバーは、やはり何やら考えている様子で、すっと右手で床を指さした。
「この下あたりから音が聞こえるんだけど……」
 音が聞こえると言われても、私には何も聞こえなかった。
 彼の不可解な答えを聞き、ソルとサラは顔を見合わせていた。どうやら二人も音など聞こえていないらしい。私だけが聞こえないわけじゃなかったんだ、よかった。これ以上人間から離れるのはもう嫌だったから。
「サラ、アナの家には地下があるのか?」
「そんな話は聞いたことなかったけど……でも可能性は捨て切れないね」
 サラはヴィノバーの前でしゃがみ込み、床に散らばる紙を片づけ始めた。ヴィノバーもまたしゃがみ込み、それを手伝う。
 紙の下にあった床は、何の変哲もない普通の床だった。特別汚れていたり綺麗だったりするわけでもなく、何か怪しげな傷跡がついているわけでもない。しかしそれにも怯まなかったヴィノバーは床を手で軽く叩いてみた。そうして跳ね返ってきたのは、広い空間を示すような幾重にも重なったたくさんの音。
 アナはこの下にいるのだろうか。彼女を止めることによって、一体何が変わるだろう。私は何のためにここへ来たのか分からなくなりそうだった。もう彼女を止める必要などなくなったはずなのに、誰に頼まれたからここまで来たのだろうか。
「地下に行く階段なんてない、よな。こうなったら床を壊すしか――」
 懐から球を取り出す。そっと魔力を込めると、それはひとりでに床へと向かっていった。驚いた表情でヴィノバーとサラが飛び退いた頃、球によって壊された床に地下へと続く穴が開いていた。役目を終えた球は私の元へ帰ってきて、誰の視線も浴びることなくその姿を自ら消してしまった。
 ちょっと周囲はざわついたようだけど、豊のようにはっきりとした声が聞こえてくるわけではなかった。彼らは私のことなどそれほど気にしていないらしい。その方がいい、気を遣われすぎるのは嫌いだから。
「下に行ってみるか?」
「当然でしょ。そこにアナがいるかもしれないんだから」
「……そうだな」
 床に開いた穴は人が一人やっと通れるほどの大きさだった。先陣を切ってソルが下へ降り、続いてサラが軽々しく降りていく。二人とも迷いのない気持ちで地下へ向かっていったらしい。それは心強いことなのか、ただ心配すべきことなのか、今の私には判断することができなかった。
「ルイスのその玉ってさ、なんかアカツキの鍵に似てるよな」
 穴へ飛び込もうとしていたヴィノバーは振り返り、突然おかしなことを言ってきた。
「ほら、アカツキの鍵も力で動かすんじゃなくて、心で念じて力を発揮する感じだっただろ。ルイスのその玉も同じなんじゃないかと思ってさ。……違った?」
「い、いえ」
 つい焦って質問に答えてしまった。私の短い答えを聞いた相手は「やっぱり」と言って笑い、そのまま穴へと落ちていった。
 豊の神木の力とは違うけど、おそらく原理は同じものだと思う。いつからこんな大きなものになったのかは覚えていないけど、他のどの物質よりも硬いこの球が、私と姉とを繋ぐ唯一の物なのかもしれない。姉から渡された頃とは煌めきも色合いも変わってしまったけど、あの時の彼女の笑顔を、幸福を、私は手放すことができないでいた。それが弱さとなっていることにも気づいているのに。
 そっと床にしゃがみ、穴の下を覗いてみる。そこには地下に似つかわしくない緑の色があるようだった。それを確かめる為にも穴の下へと落ちていく。それほど高さはなかったようで、魔法を使うまでもなく無事に着地することができた。
「こんな所にまで入り込んでくるなんて、あんた達も随分としつこい連中ね」
 顔を上げると同時に聞き覚えのある声が響いてきた。それは感情にまみれた研究者であるアナの声。彼女は緑の草に囲まれて私たちの前に立っていた。そして彼女の後ろには、見たこともない大きな木が生えている。
「アナ、この空間は一体……」
 それはもはや森だった。ううん、草原と言うべきかもしれない。狭い空間にたくさんの種類の草花が押し込められていた。この時代には既に絶滅したものや、未来でしか見えない未発見のものさえ混じっている。だけどそれらは背の低い草や花だけであり、天まで届くほどの木はたった一本しかないようだった。
「草木は私たち人間よりもずっと生命力の強い生き物だと思うのよ。私の研究にはうってつけの材料だと思わない? ねえそう思うでしょ、サラ……」
「ちょっと待ってくれ! それ、もしかして神木じゃないのか?」
 ――え?
 ヴィノバーの一言でその場の空気が凍りついたように感じられた。実際には私の視界が狭まっただけかもしれないけれど。
「なあ、ルイス……ってそうか、ルイスはあの時一緒にいなかったから分からないか」
 振り返った彼の顔をまともに見ることができない。
 神木がこの時代にあるはずがない。そう、あの木がこの時代にあるわけがなかったんだ。だってアイザックはまだ眠っているはず。門番のいない神木なんて、神木であるわけがなかったんだ。
 それでも確かめずにはいられなかった。ここに誰がいるかなんてことを考える余裕さえない。私の足はアナの後ろにある木へと向けられていた。誰も私の邪魔をする者はいなかった。――ううん、アナに止められたような気がする。「近づくな」って言われた気がする。本当にそうだったかなんて分からないけれど。
 木の根元まで近づいても、それが神木かどうかさえ判断できなかった。私はいつもあの木をどんなふうに眺めていただろう。あの木に宿る生命を、どんな目で見つめていただろう。違うものばかり見ていた気がする。呼びかけに応えることで精いっぱいで、小さな囁きに耳を澄ませる機会がなかったように思われた。
 そっと木の幹に手を伸ばし、直接それに触れてみる。
『必要とされないことが――』
 思わず手を引っ込めてしまった。これ以上知って確信を持つことが怖かった。
 神木? そんなはずはない。この木が神木であるはずがなかった。だって彼は――アイザックは、神に会ったことによって、深い眠りについているんだから。
 いくら探しても見つからなかった彼の姿。傍にあるべき神木をこんな場所で見せつけられて、一体私にどうしろと言うのだろう……

 

 

前へ  目次  次へ

inserted by FC2 system