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 どうして自信が持てないの、なんて、
 私が聞いたら迷惑かな。

 

『手伝ってあげることができるよ、僕なら』
 そう言って微笑むあなたは活力に満ちていた。
『誰も君を奪うことはできないさ』
 語りかけてくるたびに感じる儚さは、彼の不安定さを物語っているようで。
『何も心配しなくていい。不安なことは、私が全て食べ尽くしてあげるから』
 嘘は嫌い。それが優しい嘘でも、私を騙すことに違いはないから。あなたを裏切ることに違いはないから。
 だからどうか、そんなふうに、自己の確立ばかりに目を向けないで――。

 

 ここ最近はよく夢を見る。それも決まって昔の夢ばかり。もう既に捨てられた記憶であったはずなのに、それはしつこく私に何かを押し付けようとしていた。いくら振り返っても帰るつもりはないのにね、何をそんなに引っ張ろうとしているんだろう。
「気がついた?」
 夢から目覚め、身体を起こすと、すぐ近くからやわらかい響きの声が聞こえてきた。そちらに目を向けると、ふわっとした表情のサラが座り込んでいた。
 一つ頷いてから周囲を確認する。ここはレーベンスにあるキーラの家の一室だった。私はアナの研究室にいたはずだけど、あの木を見て以来の記憶がどこかに葬られてる。どんなことがあろうと気を失わずにいようと思っていたのに、駄目だな、あれほどのことで動揺してしまうなんて。私はまだまだ油断を殺し切れていないみたいだった。
 だけどもうこれ以上強い心を持つことは、無理なような気がする。前へ進もうと思えば負の意志が邪魔をするし、乱暴に自分を変えるほどの勇気だって湧いてこない。怖くて踏み出せない一歩が重なり合い、いつしか私の前に絶望という名の崖ができていた。その端で青ざめた顔をしている私は、前に進むことも、後ろに下がることも忘れ、どうしていいか分からずに、助けを求めるすべさえ見失ってしまったようだった。
「ねえ、大丈夫? 随分と顔色が悪いみたいだけど……何か飲む?」
「いいえ」
 自分でも驚くほどはっきりとした声が出てきた。それを聞いたサラはびっくりした様子はなく、ただ心配そうな表情で私の顔を覗き込むばかり。
「あの後のことだけど、アナは私たちの言葉に耳を傾けてくれなかったの。ソルがどうにかして説得しようとしてたんだけど、アナは私たちの頑張りは無駄だって言うのよ。世界が滅ぶことは昔から決まっていたことで、避けられない史実なんだってね。彼女の研究はその為のものだと主張して、この意見を変えるつもりはないと言ってた。……そしてソルは、もう彼女には何を言っても無駄だと判断して、力ずくで彼女を押さえつける方向へ変えると言ってた」
 避けられない史実。
 彼女がどこでそれを得たのか、そんなことまでは分からない。だけど彼女は既に察しているのかもしれない。彼女らの強すぎる思いがルピスを成長させてしまったこと、元に戻せないくらいにルピスが力をつけてしまったこと、それらを知った上での研究が彼女の答えなら、私たちは彼女の意見を真正面から受け止めるべきなのではないかと、そんな気がしてきた。ただ力で乱暴に押さえつけるのではなく、これから起こるべきことを双方に正しく知らせ、それに対する回答を求め合うべきなのではないかと。
 やはりソルやサラ達に事実を告げた方がいいのではないだろうか。このまま黙って自分一人で悩むより、彼らに全てを打ち明けて、共に世界を救う方法を探した方がいいのではないだろうか。事実を知っているのが私だけであるのなら、私の口から、彼らに全てを語り、説明し、納得させねばならないのではないだろうか。
 誰が? 私が。臆病で他人の負の感情に怯えている私が、彼らに更なる絶望を与えようというのか。そんなことができる? 私はそれを望んでいる? いいや。そんなことは望んでいない、決して! 今彼らに事実を話すことは、彼らに苦難を押し付けることは、彼らの中に眠る諦めの精神を目覚めさせ、故郷を失う悲しみとやるせなさとを与えることに他ならない。そしてそれを私は味わわねばならない。こんなに近くにいるんだもの、こんなに少ない人数なんだもの、きっと一人一人の絶望が、鮮やかにはっきりと流れ込んでくるだろう。私はそれに耐えられる? 私はそれを、受け止めるの?
『独り善がりの善意でそれを教えたとして、あなたはきっと耐えられなくなる。そうしてまた私たちに頼るんだね。奥の部屋に閉じこもって、大きな扉に鍵をして、彼らの感情が収まるまで私を代わりに表へ出すんだ』
「い、いいえ、そんなことはしない」
『そう言い切れる? 本当にそう言い切れるの? だったらいいよ、その言葉を信用してあげる。でも一体これまでに何度その言葉を聞いてきただろう。なんて、そんなことはどうでもいいことか。そうだね、私と、僕と、あなたは、みんな同じものなんだもの……』
 同じもの。私は闇の意志と呼ばれる。ルピスと正反対の塊だから。幻滅なんてしないから。
『だけど、覚えているんだ。君のその善意は君だけのもの。それは君の責任となり、最後まで君を苛み続ける。分かるでしょう、偽善者さん。誰に恨まれようと関係ないけどね、僕らは君を生み出すことができるんだから』
「うるさい――」
 聞きたくない。もうあなた達の声は聞きたくない。
 扉よ、閉まってしまえ。二度と飛び出して来れないように、金色の鍵で封をする。たとえそれでエミリアへの道が途切れたとしても、私は泣いたりしないから。
「ルイス?」
 声が聞こえる。それは安心できる声? 知ってる声だ、サラの声。私を心配している声。危害は加えないと言っている声。
『心配されて心地いい?』
 やめて。
『仲間ができて安心した?』
 聞きたくない。
『薄い繋がりで馴れ合って、仲良しになって、互いを「仲間」と呼び合うことに安堵を覚えているなら、それは素晴らしいことだよ、ルイス。ああ君は一時の幸福に酔いしれる癖があるからね。その場しのぎの平穏を見出すことにかけて、君より勝るものはこの世にいないだろうからね。でもだからこそ面白くなる。だからこそ君が愛おしい。裏側のもの……いつか必ず目の当たりにする裏に潜むものを知った時、君は最高に美しい花を咲かせるだろう』
「お願いだから、黙っていて!」
 耳を塞いで目を閉じて、暗闇の中でうずくまっても誰も助けてくれなかった。私の中に溢れるたくさんの私が、囁きかけてくることをやめることはなかった。知っている。言われなくても分かってる。綺麗なものの裏側には、安心と平和の反対側には、裏切りと失望と侮辱とがきちんと並んで笑ってる。私を捕まえて離さないそれらが、永遠の中で生き続けている。
 逃げられない。
「言って……」
 逃げられなかった。逃げていいと言われたのに、それらから逃げることなんてできなかったんだ。最初から、私が闇の意志として生まれた時から、私に偽りのない確かなものが訪れるなんてことは、何が起きようとあるはずがなかったんだ。
「言って。どうか、言ってよ……」
「何を? ……」
 傍から聞こえるのは何だった?
「私は逃げられるって」
「ルイスは逃げられるよ」
「私は逃げ切れるって」
「ルイスは逃げ切れるよ、絶対に」
「私は……ルイスとは違うんだって」
 続かない。誰の声も続かなかった。
 ただ私は誰かの体温を感じた。あたたかい手のぬくもりを感じた。背中に優しく回された手を、闇の中でも確かに光る面影を、かすれた視界の中に見たような気がした。サラに守られる夢を見た気がした。
 淋しい。
 そう、淋しかった。『私』はずっと淋しかった。優しくされることによって初めて気づいた淋しさは、抑え切れない感情となって私の全てを飲み込んでいく。
「大丈夫よ。もう、あなた一人で頑張らなくていいから……」
 何より聞きたかった言葉は何だろう? ただ私は満たされた気がした。本当は少しだって満たされていないのに、私はすっかり安心した気分になっていた。

 

 +++++

 

「ちょっといいか、ルイス」
 私の目を覚まさせたのは、子供にしては低すぎる声だった。
 サラの胸にうずめていた顔を上げる。その重さは想像以上のものだった。大きな青い目がこちらを見ている。普段と何も変わらない、どんな小さな感情も映さぬ静かな空の瞳だった。
「どうしたの、ソル」
「ルイスに確かめておきたいことがある。サラ、少し席をはずしてくれないか」
 ソルの落ち着いた悪意の感じられない言葉を聞き、サラはふっと私から体を離した。支えを失って私はまた目を覚ました。これで二回目、今後私は一人で歩いていかねばならない。
 サラは何も言わず素直に部屋を出ていった。狭い部屋にソルと二人きりになる。正も負もない感情が漂う場所だった。それは安心を覚える場のように見えるが、実は他の何よりも気持ちの悪い空間だった。
「ルイス、お前はルピスの片割れだと言っていたな」
 彼の威圧的な物言いが、私をいつも脅迫する。
「そんなお前に一つだけ聞いておきたい。このまま我々がアナを止め、ルピスの封印を守ったとして、それで本当に世界は滅亡を免れるのか? ただそれだけのことで、ルピスの脅威からこの世界を守ることができるのか?」
 感じている人は感じているし、案じている人は時に鋭い。
 彼がこういった問いを私にぶつけてくることは、あるいは必然的だったかもしれない。私がいくら黙っていても、相手の方から気づいて語りかけてくることは、容易に想像できることだったのだろう。しかし私は少しも考えなかった。そんなことが現実になるなんて、ただ怯えているだけで考えたこともなかった。だけど、どうしてだろう、今はこんなに落ち着いていられる。それは心の奥底では既に覚悟ができていたから? それとも――。
 きっと私たちは全てを知っていた。
「あなたは絶望しますか」
 ソルは不思議そうな目を私に向ける。
「例えば私が諦める他に道はないと言えば、それであなたは諦めるのですか」
 あなたでも諦められる? あなたでも絶望する?
 相手は何も言わない。その大人びた思考でたくさんの思いを整理しているようだった。そんな彼の姿を私は何を思いながら見ているんだろう。ねえ、自分がどこにいるかも分からないのにね、どうしてそんなことが分かっただろうか。
 私には私の姿が見えない。そしてそれを『悲しい』と思ったことはない。
「――そうだな」
 ようやく声を吐き出した相手は、とても強い正の意志を持っていた。
「事実を突き付けられて諦めるくらいの覚悟なら、世界を救うことなどできはしない。おれ達は自らの命を犠牲にするつもりで立ち向かわなければならないんだ。……おかしなことを聞いてすまなかった。目が覚めたよ、ありがとう」
 彼は立ち上がり、後に扉が閉まる音が聞こえた。
「え……」
 静寂の中、私は動揺を隠すことができない。
 彼は何を言った? 私に向かって何を言っていた? 短い言葉、多くの意味を含有する、味わい深い言葉、感謝を示す、当たり前の連なり。そう、「ありがとう」って。私の言葉を聞いて言ったの? 私の台詞を聞いてそう言った? 私は、ああ、私は――彼の背中を押したの?
 闇の意志が人の背を押したって? 負の感情が人を前向きにさせたって? ええっ、そんなのは、きっと幻よ。幻に決まってる。私は頭がどうかしちゃったんだ。だって普通に考えてあり得ないでしょ、悩んで苦しんで深淵ばかり見ていた魂が、他人に光の意志を与えるなんて。どうしてそんなことが起こったのだろう。――え、起こった? それは本当に起こったこと? いいえ嘘よ、私はそんなこと知らない。何も知らないよ、だって悲しすぎる結末なんて、まだ一つも口にしてないんだから。
 時計。時計が欲しい。時間が分かるもの、過去か未来か分かるもの。
 あった。時計を見つけた。六時五分。大きい針と小さい針が自分を主張してる。あれはいつ起こったこと? それはいつ起きたこと? 知らない……時間なんて気にしてなかったから、当然だ。何も見つけられない。あれが未来だったのか過去だったのか、今がどこに隠れているのか、時計が動いているのか壊れているのか、私の頭ではその一つだって理解できない!
 ああ、どうして? どうしてこんなことが起きてるの? 誰がこんなことをさせているの? 私はどこに向かえばいいの? どうか言って。
 言って? 違う。どうか聞いて。私に聞いて。誰か、誰でもいいから、私に聞いてよ、私はどこに向かっているのかって。お願いだから。お願いだから、私に確かなものを示して。決して変わらぬ空白を。常にうごめく無常観を。

 ……声が、溢れてきて止まらない。

 

 

 

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