73

 雨に打たれる子供の姿を見ていた。
 そこに降り注ぐのは悲しげな色をした狂気だけだった。

 

 どうやら私はあのまま眠ってしまったらしかった。何もない床の上に倒れ、夢も見ずに息を止めたように転がっていた。身体を起こすとあらゆる部分がずきずきと痛む。私はただ心が痛くなくてよかったと思った。体の痛みが精神にまで入り込んでくることは、生きていく上では他の何よりも怖ろしいことだったから。
 宵闇に沈む光が眩しかった。明るい全てが目にしみて痛くなる。私はそれが世界なのだと知っていたし、幾度も見てきた景色だったから、驚く要素など一つとしてないはずだった。誰の声も聞こえないから安心できる。迷いが私を押し潰す前に、何か一つでもいいから新しいものを手にしなければならなかった。そして私はそれを守り続けるの?
 昨日の混乱は私の心を揺るがしたが、それが終焉を迎える頃には既に過度の安定をもたらしてきた。あの苦しみは私がいたからこそ感じられたものだし、あの戸惑いは私がいなければ現れなかったものだった。苦悩や驚愕は私を私として認識してくれる。それがあるからこそ私は私を知ることができるし、より強く自我を保つことができるのだと分かっていた。逆に言えば、私という存在はそれによって生かされているということになるけれど、そうだとしても嫌なことなんて何もなかった。だって私が私として存在できるのなら、もうそれ以上に何を望めばいいか分からなかったんだから。
 目が覚めた時に孤独でいるのは淋しいことだった。だけどもし傍に誰かがいたならば、私は相手を邪魔だと感じるだろう。結局のところ、どちらがいいのかなんて分からなかった。その両方が真実であり、また黒く塗られた嘘でもあるのだから。
「よおルイス」
 ぼんやりと目の前の空間を見つめていると、部屋の入り口から声が響いてきた。そちらに目をやると平然とした顔つきのカチェリが立っている。彼女は私を呼びに来たのだろうか。いや、呼ぶって、一体どうして?
「今後の予定だけどさ。あのソルとかいうクソガキが言うには、明日にでもアナって奴のとこへ殴り込みに行くんだってさ。で、なんかアナは未来とか過去に行った形跡があるみたいだから注意しろ、って言ってたな。そんでもって今日は何もすることがないみたいだぜ。ゆっくり休めとか言ってたし」
 明日にでも、か。
 アナの研究を私たちが止めて、ルピスの復活を阻止して、それでどうなるというんだろう。全ての事情を知った時、彼らは何を思うだろうか。私や豊のように諦める? それとも事実を根底から否定する?
 信じる。
 私は彼らを信じるべきなんだろう。だけど今のままの私では、闇の意志から逃げ続けている私では、誰かを信じることなんてできなかった。だって人を信じたって、いつかは必ず裏切られるんだもの。誰もが私一人を置き去りにして、どこか遠くへ行ってしまうんだから。
「ほら、いつまでも部屋にこもってないで、ちょっくら散歩がてらに魔物でも蹴散らしてこようぜ。いい気分転換になるぞー」
 そう言いつつカチェリはぐいと腕を引っ張ってきた。逆らうこともできずにそのまま部屋の外へ出る。狭い廊下を通って階段を下りると、広間にサラとヴィノバーの二人が机を挟んで座っているのが見えた。私たちに気づいた二人は短い挨拶を投げかけてきた。
「二人とも、どこに行くの?」
「散歩」
 後ろからのサラの問いに簡潔に答え、カチェリは入口のドアノブに手をかける。そうして堂々とした態度で素早くドアを開けた。
「へ?」
 しかしドアの向こう側には先客がいた。とても驚いた表情で背の高いカチェリの姿を見上げている。
「あ? 何か用か、クソガキ」
「あんた……誰?」
「なんで私がいちいちガキに名乗らなきゃならないんだ」
 ドアの前に立っていたのは、このレーベンスの街で暮らしている少年だった。片手に茶色い紙袋を持ち、ドアノブを掴むはずだった右手が不自然に宙をさまよっている。
「ディト、この人は過去からのお客さんよ。カチェリさんっていうの」
「おい、なに勝手に教えてんだよ」
 いつの間にかサラが私の隣に並んでいて、ディト少年にカチェリのことを知らせていた。少年はそれほど驚いた素振りを見せず、ただちょっと珍しい生き物を見ているような目でカチェリの顔をまじまじと見つめていた。
「まあ何だっていいや。それより今日はパンの安売り日だよ。お客さんが来てるんなら、いっぱい買っておかないといけないんじゃない?」
「そっか、今日だったね。最近ちょっと忙しくてすっかり忘れてたわ」
「な、なんだお前ら……何の話をしてるんだ?」
 このレーベンスの街には異世界から定期的に物を売りに来る商人がいる。ディトとサラの話から、今日はパン屋が来るらしい。この世界にはもう食べるものが少なくなってきたから、商人は皆の命の源のようなものだった。更に人数が増えた今となれば、彼らの来訪を見逃すと生活が苦しくなることが目に見えて分かっていた。
「ルイスとカチェリさんとヴィノバー君は何のパンが好き?」
 幼い顔つきのサラが目を大きくし、透き通った質問を与えてくる。
「俺は食べられるものなら何でも食べるけど」
「私だって食えるものなら何でもいい。味とか見た目とかは二の次だ」
 未来と過去の客人は、二人とも似たような答えを続けて口にした。しかし表面は同じものだとしても、彼らの底に流れる思いは全く異なるものだった。
「じゃあルイスは?」
「え」
 まっすぐこちらを見てくる瞳が痛い。
 食べ物で何が好きかだなんて、今まであまり考えたことがなかった。それに、私は何も口にしなくても生きていける体だから、そんなことを考える必要が感じられなかったから……。
「うーん、じゃあ、一緒にパン屋さんのとこまで行こうよ。実際に見て何を買うか決めよう。ね?」
 彼女は、優しい言葉をかけてくれる人だった。それは私が弱さを見せたから?
「おいルイス、私と魔物退治――じゃなかった散歩するってのはどうなったんだよ、ええっ?」
「散歩のついでにパン屋まで行けばいいじゃないか。おまけに俺も連れてって欲しいなー、なんて……」
「じゃあみんなで行こっか?」
 あれ。
 なんだか知らない間に皆でパン屋を目指すことになっていた。特に断る理由も思いつかなかったから黙って従うことにしたけど、明日はアナの所へ行くと決まっているのに、こんなにのんびりとした時間を過ごしても皆は後悔しないでいられるのだろうか。私はどうか分からない。その時になってみなければ、本当のことなんて誰にも分からないのだから。

 

 

「いらっしゃい、ディトにサラ。それから……」
「ルイスとカチェリさんとヴィノバー君。ちょっとした理由で一緒に暮らしてるのよ」
 パン屋はレーベンスの街の中心部で待機していた。誰もいない広場でディトとサラが来るのを待っていたらしい。相手は少し痩せた中年の男性で、頭に被った小さな帽子が商人らしさを醸し出していた。彼は私たちの姿が見えてから大きなテーブルを組み立て、その上に商品のパンを一つずつ丁寧に並べ始めた。
「さて、今日は安売りの日だけど、何にするかい?」
「えーとねぇ、僕とコクさんはいつもので、それから……」
 商人の男がディトやサラと話を始めた頃、街の奥からふらりと現れた見慣れぬ青年がいた。両手に大きな袋を抱えつつ、危なげな足取りでこちらに近寄ってきている。私が彼を観察しているのに気づいたのか、カチェリが誰よりも早くそちらへ足を向け、彼の前に立ち塞がって進行を止めてしまった。
「何だお前は。私らに何か用か」
 そうして腕を組み、軽く睨みつける。
「ああ、そいつは手伝いの子だよ」
 後ろからパン屋の声が響いた。それにより納得したのか、カチェリは何も言わずにこちらに戻ってきた。
 袋を抱えた金髪の青年はパン屋の傍まで行き、重そうな荷物を地面の上にどっと下ろした。そしてまだ慣れない様子で袋を開けると、中にはパンを作る為の粉が入っていることが分かった。
「おっちゃん、この人バイト?」
「まあそんなとこだ。真面目な奴でこっちは大助かりさ」
「優秀なお手伝いさんなのね」
 どうやらディトもサラもこの青年のことを知らなかったらしい。ここに来たのは今日が初めてだったんだろう。隣で自分のことを話されているにもかかわらず、青年は何一つとして口出ししてこなかった。ちょっとこっちの様子を気にしているようではあるけど、特別何かをしてくる気配はない。そして不可解なことに、彼からは正の感情も負の感情も見出せなかった。
「なあ、あんた何してんだ?」
 一人で何かの準備をしている青年に、好奇心が旺盛なヴィノバーは目を丸くしつつ問いかけていた。彼の純粋な汚れのない一言を聞き、青年はその動作をぴたりと止めて相手の顔をまっすぐ見る。
「今からパンを作るんです」
 透明感のある綺麗な声だった。ただ、ひどく懐かしく感じられたのはなぜだろう。
「パンを作るって、ここで? 普通、パンって室内で作るものじゃないの?」
 非常に驚いた表情で問い返したのはサラだった。質問をした張本人であるヴィノバーはどこか感心している態度に見える。
「ええ、ここで作ります。この街の中はすごくいい空気が溢れています。ここにいるだけで、生命力が湧き出るような……そんな空気を吸い込んだパンは、きっととても美味しいものになると思うんです」
「おうよ、何か物を作る時に大事になってくるのは、なにも創造者の精神だけじゃない。その場の環境も創造物の価値を左右する要因になるってこった。こいつはそれを理解している。どうだ、いいバイトだろ?」
「へー」
 青年と商人の話を聞き、カチェリを除く皆が感心した声を上げていた。私もなんだか納得してしまった。よく人は物を作る時に「気持ちが大事だ」と繰り返すけれど、確かに周囲の環境も忘れてはならないんだよね。時にそれらは生まれたものの全てを形作ることさえあるのだから。
「そういえば、ここスイベラルグの世界には、星の光で育った特殊な魔法草があるそうですね」
 お手伝いの青年はパン作りの手を休め、ちょっと幼げな瞳をきらりと輝かせた。
「ああ、星の草のこと? 昔はあったらしいけど、今の環境じゃ、きっと絶滅してると思うな……」
「なぜそんなことが分かるのですか?」
 サラの自信のない答えに、青年の鋭い台詞がずしりとのしかかる。まるでさっきまでのやわらかな姿が感じられず、突如として別人にすり替わったような感覚がした。
「なぜって、それは――」
「お前馬鹿だろ。こんな滅びかけの世界にさ、そんないかにも珍しそうなものが残ってるって考える方がおかしいだろうが。よそ者はよそ者らしく指でも咥えてじっとしてな」
「いや、それ、カチェリが言っても説得力が――」
「何か言ったか、神官! お前も黙ってろ!」
 ここじゃない時代を生きていた人たちは、二人ともすごく正直で、素直に自分の考えを述べることができる人たちだった。それ故の小さな争いは些細なことで呼び起されるけれど、必ずしもそれらが悪い方向へと私たちを導くわけではない。
「うーん、じゃあ、この世界で一番高い所は?」
 二人の自由な様を目の当たりにしてか、青年はいつしか緩やかな表情に戻っていた。
「そりゃー兄ちゃん、ここから北にあるレヴァイム山が世界で一番高いんじゃないの」
「レヴァイム山? おいおい……」
 無垢なディトの答えにいち早く反応したのはヴィノバーだった。確か彼が生きる時代で、レヴァイムは一つの国の名前となっていたはず。さらにレヴァイム国は世界の北に位置する国だったから、地理的にも両者は何らかの繋がりがあると見てもおかしくはないようだった。
「なんだユリス、お前、そのナントカって山に行きたいって言うのか」
「え、ええ。ちょっと、星の草というものに興味があって……」
「仕方のない奴だな」
 短いやり取りを終え、商人の男はすんなりとお手伝いの青年に許可を与えてしまった。でも、なんだか話がうまく進み過ぎている気がする。もしかしてこの青年、もともと星の草だけを目当てにバイトを始めたんじゃないだろうか。なんて、考え過ぎかな。
「レヴァイム山に行くの? だったら私が案内してあげるよ。あそこはすごく険しい山だから」
「いえ、僕は一人でも――」
「俺も山登りしたいな」
「いかにも魔物が住んでそうな場所だな。よしルイス、私たちも行くぞ」
 ……あれ?
 少し気を抜いただけで周囲は賑やかになり、あっという間に何もかもが決まってしまっていた。私はいつも彼らに引きずられている気がする。だけど今ではそれが当然のようになっていて、それでも否定したい気持にはならなかったから、自分でもとても不思議な感覚がしていたんだと思う。
 また一つ、私は彼らに近づいてしまったんだ。

 

 +++++

 

「じゃあ一番高い所ってのは、一番空に近い場所って意味だったのか」
「ええ。星の草は星の光を受けて成長するもの。星の光は太陽のそれよりとても弱いですからね、空との距離が小さくなければ、星の草は存在し得ないんですよ」
「いちいち面倒臭い草だな、それって」
 赤茶けた地面を踏みしめながら、私たちはのんびりとレヴァイム山を目指していた。特に急ぐ様子もなく、まるで子供のピクニックのようにゆっくりとしたスピードで歩いている。こんなに遅く歩いていると、普段の私なら焦ってきてしまうんだけど、お手伝いの青年の声を聞いているとそんな感情は表に出てこなかった。ただ、それが裏に潜んでいるかどうかなんて分からなかったんだけれども。
「ところであんた、ユリスって名前なんだな」
「はい。僕はユリス・カーライズ。あなたは?」
「ヴィノバー・エルノクレス……」
 ヴィノバーは不思議そうな目でユリスと名乗った青年を見ていた。彼の中には限りない疑惑が溢れてきている。それは最終的に相手のことを知りたくて仕方がないという感情にすり替わっていた。そして私は彼のその疑惑をそのまま身近に感じることができたんだろう。
 ユリスという名は聞き覚えのあるものだった。何かとても有名な話に出てきていたような気がする。
「なんだよ神官、そんなにこいつの名前が気に入らないのか」
 私と同じように考え込みながら歩いているヴィノバーの姿を見て、カチェリはちょっと苛立ち始めたようだった。彼女は優柔不断な態度をとても嫌う。何事も白黒はっきりさせないと気に入らない性格だから、思ったことをすぐに口に出してしまう癖があるのだろう。私はなんだかそれが羨ましかった。彼女のそのさばさばした態度の一片を、私のしっとりした一面に突き刺してほしかったのだろう。
「気に入らないんじゃないさ。ただ、俺の時代に残ってる伝説で、ユリスって名前の青年がいるからさ……もしかしてって思ったんだ」
「ここにいる彼がその伝説の人なんじゃないかって? 確かにヴィノバー君が暮らしてたのは未来だから、有り得ないわけじゃないものね」
「おいおいお前ら、こんなひょろひょろした奴が伝説に残るような人間に見えるか? もっとよく見てからものを言えよ」
 話は話題の中心であるユリスを残して盛り上がっていく。その賑やかな様をユリスは静かに見つめていた。穏やかな微笑みをごく自然に顔に湛え、どこか彼らを遠くから眺めているような、そんな距離感さえ感じられた。
 彼はヴィノバーの言うとおり、歴史に名を刻む人なのではないだろうか。具体的にどんなことをしたのかということは思い出せないけど、今の彼の表情を見ていると、それが間違った解釈ではないことが痛いほど分かるような気がしたんだ。だって自分のことを目の前で話しているのに、すごく落ち着いて余裕のある態度を演じられるんだから。
「なあルイス、お前もそう思うだろ?」
 ふとカチェリに話を振られて焦った。どうしよう、皆の話を全く聞いてなかった。こんな時はどう答えればいいんだっけ。
「僕がその伝説となっている『ユリス』になるのなら、きっと今頃パン屋のバイトなんかしてませんよ。おそらく人違いでしょう」
 穏やかなままの顔つきで、青年はよく透った声で皆の沸き立った心を鎮めた。
「僕はパン屋になりたくてバイトをしているわけじゃないんです。普段はあてもなくいろんな場所を旅しているんですが、とても困った連れがパン屋で食い逃げをしたもんで、その尻拭いをさせられているだけなんですよ」
「へ、へえ……」
 続けざまに放たれたなんとも庶民的な発言に、ここにいる誰もが拍子抜けしたことは言うまでもないことだろう。そうして皆が黙りこんだ頃、私たちの前にレヴァイム山と呼ばれている山が姿を現してきていた。
 陽の光がやわらかく私たちを包んでいる。この穏やかさがずっと続いていられたら、何も悩むことなんかないのにな。

 

 

前へ  目次  次へ

inserted by FC2 system