75

 

 爪も牙も隠したところで、憎しみは消えようとしない。
 それさえ認めることができない私は、何を知らねばならないのだろう。

 

 一歩踏み出すたびに大地の感覚が体に浸みる。踏み荒らすつもりはない、ただ通り過ぎようとしているだけ。私は地中の眠りを妨げぬよう、いつだって気を配ってきた。それを壊すことなど考えられないことだった、だってそれは彼女の幸福を――。
「……」
 幸福は誰かの犠牲により現実のものとなるなら、私は常に犠牲となるべきなのだろう。誰もが通り過ぎていく、振り返ることもない存在感である私が、誰か知らぬ人の幸福を奪ってまで幸せになろうだなんて、それは望んではいけないことだった。私は消費される命であり、尚且つ人々の象徴となる精神。自我を持つことさえ許されるべきではない、哀れな影の死人だった。
 底のない暗闇が世界を覆い尽くした頃、私は一人何もない大地の上を歩いていた。草も生えぬ永遠の時代に、残された空間は冷たくて静かだ。この場に風は無用のものとして取り外されたまま、赤い花びらが舞う刹那さえ訪れない。壊れるのではないかと思った。神から「不必要」の判を押され、誰も知らない時間の中で音も立てずに崩れていくのではないかと怖くなった。そうやって耳を塞いだって仕方がないのにね、追いかけられている心地になるのはなぜだろう。焦燥感だけが渦を巻いている――色のない眼鏡では、見るべきものを手放してしまいそうだ。
『これ、お友達に渡してあげてね』
 腕の中に抱えるのは、人々の間で英雄と呼ばれている青年から受け取った茶色い袋。中には二つのパンが入っている。レヴァイム山から帰った後に作った、星の草を使った温かさの残る小さなパン。彼はパン屋の主人と共にレーベンスで一泊し、今はキーラの家で夢を見ている頃だろう。私がここを歩いている理由は彼が作ったものだったが、彼があの家で眠る理由は私が作ったものではなかった。
 目指す場所はアナの研究所の地下。いつかソルやサラと共に訪れた、神木がひっそりと佇んでいる緑の溢れる狭い空間だった。当時はあの木が神木だと思いたくなくて否定していたけれど、私に神木の存在を否定する権利なんかなかったはずだった。だって私はそれに生かされているようなものだから。もし神木がここになかったとすれば、私だって既に消滅してしまっているだろう。
 そうやって途方もない問いに埋もれていれば、いくらか平気でいられることが分かった。闇の意志から目をそらす方法ばかりが頭の中を支配していく。ここで立ち止まれば傷つかずに済むはずで、それも分かっていながら歩き続ける私はあまりにも滑稽だっただろう。どうか笑ってほしかった。だけど笑ってくれる人なんて、もうどこを探したって見つからなかった。耳を塞いでも、目を閉じても、闇の意志は心の中を徘徊し続ける。彼らを無視することは、この命を神に捧げることよりも困難なことだった。
 風の温度が変わったとき、私はアナの研究所の前に立っていた。星の光が赤茶けた大地を照らしている。ここを自由に飛び回っていた大地の守り神はどこに行っただろう。赤い月が見えていた時代は、皆が笑い合いながら平和を分け合っていた。
『私が犯した罪を知ってほしい。私が行なった儀式を見てほしい』
 かつてこの地を守っていた存在は、赤い月を利用する儀式を行なって破滅した。世界は崩壊しようとも、守り神だけは生き延びてしまった。赤い月がなくなった世界で守り神は私と出会った。私は相手の話を聞き、相手の罪の瞬間を共に見た。それが相手の望みだと言った――自分の過ちを見てほしいと頼んだ守り神は、後悔や責任に押し潰されている様子ではなかった。だけど確かに過去を悔やみ、背負わされた重荷に苦しんでいる様子だった。相手の中に沈んだ負の感情には重々しさと軽快さとがあった。あの人なら、豊なら、その姿を「悟り」と呼ぶだろう。
 守り神と共に訪れた過去で、私は自由に飛んでいた。相手の体にしがみついて、だけど制限などない翼で広がる世界を上から見つめていた。そこから見えた景色はまだ心の底に眠っている。美しい青色の空の下、大きな木がいくつも頭を出し、その隙間に人々の住居が並んでいる。どこへ行っても人々は笑顔で、守り神に親しく話しかけ、毎日がお祭りのように争いもなく暮らしていた。彼らの間を飛び回る守り神もまた笑顔を絶やさず、人々の問いかけに気軽に答えては天を仰いでいた。それが私のすぐ近くで見えた光景であり、私が今でも憧れている世界だった。
 だけど当時を思い出す度に寒気がすることもまた事実だった。自由を獲得したかのように思えた守り神もまた、何者かによって束縛される存在にすぎなかったんだ。人々の間をすり抜けるように飛んでいると、ふと見覚えのある人影が私の目に飛び込んできた。通り過ぎてから振り返って確認したら、守り神と全く同じ姿をした誰かが立っていた。その誰かは顔に表情を浮かべておらず、光のない目でじっとこちらを見ていた。そしてそれは一人だけではなく、少し離れた場所でも背中が見え、幾人かが存在していることが暗示されているように思えていた。私はそれを守り神に伝えなかった。見たものをそのまま伝えることができなかった。今の自由が心地よかったから、それを壊して自ら責務へ飛び込む余裕など持ち合わせていなかったんだ。
 思えばそれは、警告だったのかもしれない。大地を守る者が人々と関わることをよく思っていない者たちが、空を飛び回る守り神を陥れようとした負の感情の表れだったのかもしれなかった。もうここにはいない守り神に今更それを伝えようとしたって、たとえば奇跡が起きて守り神が私の前に現れたとしても、相手は自分の罪だけを語り、他の生命や魂の話には微笑んで対処するだろう。あの平和が壊れたのは自分の責任だって、悪かったのは自分一人なんだって、それだけを主張して他の意見を受け付けないだろう。なぜなら相手は壊れた世界で鍵を拾っていたから――白くて細い、輝きさえない質素なものだったけど、高い山の上で見つけたそれは私には拾えないものだった。私の知らないことを知る相手の姿は、ただひたすらに羨望を募らせるには充分すぎる要素だった。
「ルイス」
 風に乗って懐かしい声が運ばれてくる。
 振り返るとアイザックが立っていた。神木の門番が茶色い大地の上で、ぽつんと淋しげに立ち尽くしていた。

 

 +++++

 

  アナの研究所の地下は何も変わっていなかった。この時代では珍しい植物がたくさん生い茂り、それらに囲まれるようにして大きな木が堂々と天を仰いでいる。アイザックは私をその木の前に案内した。どうやら彼はそこからあまり離れられない様子だった。
「これ……」
 私は相手にパンの袋を手渡した。アイザックはにこりと笑った。ただそれだけで他には何も言わなかった。彼は木の下に座り、私は彼の隣に腰かけた。
「君も未来に行っていたんだね」
 アイザックは遠くを見つめながら問う。彼の瞳は生きているようで、実際は既に死んでいるみたいだった。
「そして未来は変えられなかった……豊の存在があっても、結末は変えられなかった。それは君がルピスを恐れているからだよ」
「いいえ」
「いや、恐れてるよ。正確に言えば、ルピスを消すことが怖いんだ。姉の形をした魂を壊すことが恐ろしいんだ」
「それは、違います。私はもう、あの人を姉とは思っていない――」
「ルイス」
 彼はこっちを見た。私の目を覗き込んだ。肩に手を置き、ぐっと顔を近付け、すぐ傍で相手の心臓の鼓動が聞こえた。私の心の中で何かが静かに動き始めた。
「ルピスが怖いなら、僕がどうにかしてあげるから。君はもう何もしなくていいんだ、あの神の言うことなんて気にしなくていい。ルピスは君が消すべきじゃない。もう一度豊を呼び寄せてもいい、とにかく君は動いちゃ駄目だ。君はこれ以上つらい思いをするべきじゃない」
「ルピスを封印することは、妹である私の役割なんです。私がいなければ彼女はルピスではなかったはずだから、私は彼女の為にルピスを封印しなければならないんです」
「違うよ、それはエゴだ。君はもう充分つらい思いを経験した。怖いものから逃げ続けてきた。もうその追いかけっこは終わりにしなきゃならない。だって今のままでは、君はルピスを封印することさえできないじゃないか。ルピスと向き合ったら足がすくむでしょ? ルピスの声を聞いたら心を奪われるでしょ? 君は守られるべき魂なんだ、僕なら君を悲しませるものを壊せるから」
 アイザックはいつも私を守ってくれた。姉を失って宙に浮いた私の心を、現実に引き止めてくれた私の支えそのものだった。私はもう彼に頼りたくなかった。これ以上彼の影に隠れていたら、私は本当に私を失ってしまいそうだったから。
「……あなたは神に会った時、自分を必要としてほしいと頼みました」
 あの時のことはよく覚えている。私がルイスとして生まれてきた時、共に生成されたアイザック・エアーという不必要な魂。私が闇の意志で、ルピスが光の意志という存在であった反面、彼に与えられる役割はなかった。
「あなたは私を守ると言うけど、それは私に必要としてほしいからじゃないんですか……見返りを求める優しさなんじゃないですか? あなたは私に、有料の、意地汚い、利益に目がくらんだ、支払われるべき犠牲になれと言っているんじゃないですか?」
「ち、違うよ! ルイス、それは違う……」
「だったら何故? 何故そんなにあなたは私を気にかけるの? あなたと私では立っている場が違う。異なる高さから見た平穏なら要らない……そんなものを押し付けられるなら、もういっそ深淵の底を突き破って、二度と這い上がって来れない闇の中に消えてしまう方がいい!」
 腹の探り合いには疲れた。闇の意志の嘲笑も聞き飽きた。結局は逃げられないこの立場から守ると言ったって、彼の努力は神の手のひらの上の演劇にしかならないだろう。それなら決められた道を歩む登場人物の一人でありたかった。いつか破滅へ向かう人物でも、美しいシナリオを演じ切った消滅なら喜んで受け入れられるだろう。
 心がミシミシと悲鳴を上げている。
「ルイス! 僕は――」
「もういいです」
 私は立ち上がっていた。目に映るものは緑の集まりだったけど、ルイスはもう何も見ていないみたいだった。
 だけどね、私はあの人の目にあった光を見つけたよ。閉められた扉の奥から、鍵穴を通して外の世界を眺めていた。いつかそこに飛び出した時、戸惑って立ち尽くしてしまわないように。
 私は歩き出した。アイザックは私を止めようとした。でもどうしてだろう、彼が口から紡ぎ出す高い言葉は、耳に届いたはずなのに聞こえなかった。その理由さえ分からないままアナの研究所から脱出した。私は彼を置き去りにしてしまった。
 彼が生きた証も私が存在する証も、何一つ見つけられないまま世界は加速した。

 

 キーラの家に戻ると、皆が眠りの中に沈んでいた。私もその仲間に入れてほしかった。古ぼけた扉を開き、真っ暗な廊下を歩いて、与えられた自らの部屋へ向かった。後ろに消えていく景色は悲しい世界の出来損ないなんかじゃない。
 豊と最後に話した部屋に明かりが見えた。あの部屋は誰が使っていただろう。豊がいなくなった今では、部屋を共有していたカチェリが眠っているはずだった。彼女がまだ起きているのだろうか。そして何をしようとしている?
 私の足はカチェリの部屋の前でぴたりと止まってしまい、そのまま動かなくなってしまった。私とは違う誰かの意志により手がドアノブを掴み、また違う誰かによって手に力を込め、ドアを開いた。そうして置き去りにされた私を無視してルイスは部屋に入った。中から甘いキンモクセイの匂いが漂ってきた。
「ルイス?」
 明りの元で動いていた人が振り返り、私の名を呼んでいる。
「ああ、本当に、本物の、ルイスだ……私が探していた、未来の希望になる、なくてはならない存在だ!」
 アイザックと同じように、相手は私の肩に手を置いて、ぐっと顔を近づけてきた。
「あなたを探してた。ずっとずっと探してた。誰かと一緒にいるあなたではなく、一人きり孤独に怯えるあなたが欲しかった! それがようやく手に入ったのね。やっとの思いで私はあなたを、ルイス・エアーを手に入れた!」
 途端に闇の意志が騒ぎ始める。いけない、これはいけないことだった。私は逃げなければならない。相手に捕まってはいけない、何があろうと絶対に!
「やめて――」
「逃がさない! あなたは私のもの……その希望を手放すなんてことはできないんだから!」
 強く掴まれた肩が痛い。相手から逃げようと思えば思うほど、相手から体を離そうと抵抗すればするほど、私は相手の中へ吸い込まれている心地になった。飲み込まれる。このままだと、彼女の中の一部として私の存在が消えてしまう!
 それは嫌だった。どうしても嫌だった! 私がルピスを消さなければならない、他の誰でもない私が彼女を! それだけじゃない、私は、愛してくれるアイザックを遠ざけて、優しくしてくれた豊をはねつけて、やっと意地を張りながらも自立を始めたんだから、こんなところで消えてしまいたくない。そうだ、私は、消えるのは嫌なんだ……私は誰よりも『ルイス』が好きだから!
 消えたくない、手放したくない! 私がルイスを守らなきゃ、他に誰が作ってくれると言うの? やっぱり私はルイスじゃなかった、だけど真相はちっぽけで、私はルイスでしかなかったんだ。私はルイスなんだ!
「その体……意識の集合体! それがあれば、それさえあれば、私は! 完全な生命を、永遠を喰い尽くす魂を作ることができる!」
 相手の手が目の前に飛んでくる。暗闇の中で肌色がはっきり分かった。生きている人間の肌、あたたかい血の流れる命の形。それが私を捕らえようとしている、ううん、きっともう捕らえてしまったんだ、そして私を消そうとしている?
「助け――」
 いや、駄目だ! 助けを求めたら何もかも終わってしまう! やっと始まったのに、ここで終わらせるなんて絶対に嫌! 私だけの力で相手を倒さなければならないんだ、きっと!
「ルイス、いいや、エアー! あなたの身体は、私が――」
 駄目。違う。嫌。壊れれば、壊れればいいのに!
「わたし……が」
 闇に沈めば、深淵に喰われれば、無に飲み込まれればいいのに。
「あ、ああ……ああ!」
 容易い。
 ずしんとのしかかってきた相手の体。その体温を感じる時間もないまま、嫌な感触を残して相手はずるりと地に落ちた。
 どうしてだろう、体に力が入らない。気がつけば床に座り込んでいた。目の前に横たわるものを見ることができなかった。闇に心を売ることが怖かったあの時のように。
 私は自分を守る為、アナを殺した。
 それなのに、死んだはずのアナが私を見下ろしている。
 これはどういうことだろう。何が起こったのだろう。私を使おうとした憎いアナが生きていて、絶望の混じった瞳で私を見下している……いいや、違う。違う、彼女は違うんだ、彼女は、ああ、別の物を見ているんだ!
「どうし……て」
 どうして? どうして!
「だって……友達、だもの」
 聞こえた声に私は反応した。アナも反応した。私は目の前の床を見た。目の前の床に横たわる、身体から赤い血を流したサラの姿を見た。……

 

 

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