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 いつの頃からだろう。
 私は滅多なことでは驚かなくなっていた。

 

第一幕 見知らぬものと渇望の果て

 

01

 艶やかな緑色の草を容赦なく自転車の車輪が襲う。踏まれた草は以前の勢いすら失いながらも、しばらく時が経てば何事もなかったかのように上を向く。
 田舎の細い道や整備されていない空き地の中を私は自転車で走っていた。別に行きたい場所があるというわけではなく、ただ引っ越してきたばかりで何も知らないからいろんな場所に行ってみたいというだけだ。逆に言えば見知らぬ場所だからこそこんなことができるんだよね。よく知っている場所だったら、すぐに知り合いに会ったりして自由がなくなってしまうんだから。
 車が走ることも滅多にない道では吹き抜ける風が気持ちいい。私は誰もいない空き地の中でふと自転車を止めて、青く澄んだ高い空を見上げた。白い雲がゆったりと流れ、太陽はあたたかい光を私に向かって差し出しているかのよう。思わず口からため息が漏れた。
 そんな気持ちのいい瞬間を満喫しようとした矢先、それを見事にぶち壊してくれる邪魔者がやって来たようだ。誰かの声が聞こえる。それもかなり近くから。一体誰だろうと辺りを見回してみても、人影など一つも見えはしない。
 はてさて、これは一体どうしたことでしょう。
 おかしなことに誰かの声は耳を澄ませば澄ますほどはっきりと聞こえた。むしろ遠くではなくすぐ近くにいるように感じられる。それでもどこにもその声の主はいない。まるで私を嘲笑うかのように。
 小さな疑問は膨らめども、答えはどこにも見つからない。そんな静寂の空間の中で、車も人も通らない場所であるのに風さえも止んだ。それによって本当に無音になる。しかしこれはいい機会かもしれない。
 何の音もない静寂の空間の中、一人の少年のような声が語る。
「――やはりごく一般的な意見からするとそれはとんでもなく珍しいものだから、逆に周囲の人々が皆変な顔をするに違いない。だからそれはすなわち、当然避けるべき事柄であってもっと別のものを用意しなくっちゃあ――」
 私はなんだか聞いてはいけないものを聞いたような気がしてきた。それにもかかわらずに声は続ける。
「――けれども普遍的なものを避ける為にこうして今こんなにも頭を悩ましているのだから、きっと答えを見つけないと後になって後悔するに違いない。だけど変な顔をされるなんて嫌だ。でもやっぱり普通なのも嫌だ。じゃあどうすりゃいいわけ?」
 知るか。
 なんてことは口が裂けても言わない。ここはあえて黙っておくことにしよう。
 声はまだ独り言を続けていた。
「そんな悲観的になっちゃ駄目だ。きっと今に見つかるはず。そう、自分にぴったりな一人称くらいすぐに得られるって!」
「は?」
 思わず声が漏れ、私は驚いて手で口を塞いだ。わけが分からないことよりも相手に反応してしまったことの方が重大であるように思われた。つい言っちゃった、では済まされないような気がする。
 その後、まるで図ったかのような沈黙が訪れる。
「……なんだか今、持ち主が自分に反応したような気がしたけど、きっと気のせいに違いない。そんなことよりも一人称を――」
「一人称を……何?」
 もういいや。話しちゃえ。
 結局私はこの得体の知れない相手と話をすることに決めた。もうどうとでもなれ、だ。しかし相手はそのまま黙り込んでしまう。
「っていうかさ、あんた、何?」
 何も言わないならこっちのもの。正直な気持ちをぶつけてみることには少なからず価値があると思う。それでもごく小さい声で話しかけてみた。だってどうやら相手は、私の近くにいるみたいだから。
 それこそ推測に過ぎないものの、あながち間違ってもいないらしい。その証拠に小さい声にもしっかり反応してくるんだから。
「まさかとは思いますがこの声が聞こえちゃったりしているの、君?」
「あんた、私の質問に答えてないね」
「うわぁ聞こえてるんだ、どうしよう」
 何がどうしようなのか。少々腹が立ってくる。
「勝手に話を進めるな。質問してんだから少しくらいそれに答えたらどう?」
「あ、ごめん」
 私の言葉を無視していた者とは思えないほどの素直さである。そこに妙な違和感を感じた。
「えーと、自分は、君の乗っている自転車なんですけど」
「へえ、そう。それで?」
「それでって言われても、他には別に何も言うべきことは……ってなんで驚かないの?」
 なんでと言われても、私にとってはなぜその程度で驚かなきゃならないのか分からなかった。自転車が喋ったからといって何かが起きるってわけでもないし。確かに変だとは思うけど。
「一人称がどうとか言ってたのは?」
「あれはだね、自分にはまだこれだって決めた一人称がなかったからさ、誰かと知り合いになる前にって思って考えてたんだけどもう遅かったっていうわけだね、あーもう……」
「そんなに悩む必要なんて感じられないけど」
「何を言うか。これは大事なことなんだぞ。それによって大方その人がどんな奴かってことが決まっちゃうくらいに」
 なんか、変な自転車さんだなぁ。
「あんた男だよね?」
「おおよそ」
「じゃあ『僕』とか『俺』でいいじゃん」
「駄目! 普遍的なものなんて嫌だもん」
「わがままだねぇ」
 自転車はなんだか子供じみたことを言っていた。そんなことにつまらない意地を張るなんて……とは言うものの、世の中にはいろんな人がいるから一方的に責めることもできないんだよなぁ。
「だったらいっそのこと無しにするってのはどう? 頭使うよ?」
「な、何故」
「それはそのうち分かるって。じゃあ無しってことで決定。よかったね」
 とりあえず笑ってみた。全然心のこもってない笑みだけど。それにしても自転車に向かって笑いかけるのって、なんだか変な感じだ。
 風が思い出したかのように吹き始める。
「そういえば忘れてたけど、私は真(まこと)っていうんだ。河野真。そして、あんたは?」
「名前なんてないよ。ただの魂だもの」
「だったら魂君だね」
「それは嫌だ!」
 ああ、またですか。やっぱりなんだか子供みたいなところがあるなぁ。
「仕方がないね。私が何か考えてあげるよ」
「変なのは遠慮させてもらうよ」
「へえ、そう。それで?」
 先程と同じ言葉をそのまま繰り返してみると、今度はごく自然に笑みが顔から漏れた。

 

 今の生活に退屈するほどわがままでもないし、他に何か欲しいものがあるかと聞かれても答えられない。
 こんな私は愚かなのだろうか。

 

 

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