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03

 この近辺での生活も慣れ、学校にも馴染みを感じ始めた頃、私はある一つの事実を発見した。その事実というのは他でもない、この喋る自転車についての事だ。
 どうにもこの自転車、好き勝手なことをよく喋る割には大人しい面もあり、私以外の人間とは少しも喋ろうとしないのだ。それもまた不思議な感覚がしたものの、本人曰く普通の人間には魂の声なんて聞こえないのだと言う。だからこれまで魂という者は異世界でもあまり存在を知られていなくて、とんでもなく地味で平和な生活をしていたのだ――と熱く語ってくれた。
 しかしこの自転車は異世界の現状と呼ぶべき説明はできるくせに、自身の過去を何も知らないらしい。つまりこっちの世界に来る前の記憶が微塵も残っていなくて、だからこそ懸命に一人称を考えていたんだと主張した。でもそれとこれとはまた別の話のような気がする。一人称なんてさっさと決めちゃえばいいのに、彼はまだそれを決められないでいるらしい。
「そういえば今日さ、あんたの名前思いついたんだ。二つ」
「二つも?」
 学校からの帰り道。誰もいない道の上で他愛ない会話を交わす。
「そう。『インノケンティウス』と『キコ』、どっちがいい?」
「……は?」
 自転車は変な声を上げた。失礼な奴だな、せっかく人が考えた名前を提案しているというのに。
「どっち? 私は断然インノケンティウスがいいと思うけど」
「いや、どっちかと言われたらキコの方がいい!」
 思いっきり反論された。まあ自分でそう言うのならそれでいいのだろうけど。
「それにしてもなんでそんな突拍子もない変な名前を思いつくわけ? キコもなんか変な名前だし」
「インノケンティウスは思いついたんじゃなくて、聞いたの。で、まさに君にぴったりだと思ったんだよね」
「どの辺が!?」
 確かにそこに理由はあったものの、それを言い出したらキリがないように感じられたので言わないでおくことにした。もちろん『キコ』の方にも理由はある。だけどそれを言ったら怒られそうなので言わない。とにかくどちらにしろ厄介なことになりそうだったので、何も言わずに想像に任せようと考えたのだ。どうにもこの魂君、話を始めると熱くなってくるようだから。
「じゃあキコで決定。よかったね」
「またそんなエセ笑顔で……」
 喋るだけが特技ではないらしい。私の偽物の笑顔は見事に見破られていた。少々残念だったものの、これを見逃す人は相当ぼんやりしている人だろうからまあ仕方がないのかもしれない。
 それにしてもこの魂君と話していると疲れる。
「あれ?」
 ふと後ろから声が聞こえた。振り返ってみると二人の少年が立っている。この自転車の時とは違って普通の展開だったので少しほっとした。そう、こういうことがずっと続いていけばどれほどいいことか。
 相手側は二人とも学校の制服を着ている。私と同じ中学校らしい。とりあえずその二人の元へ自転車を押して歩いていくと、どうにもこの二人はどこかで会ったことがあるような気がしてきた。
「河野さん、だったよな、君」
 二人のうちガラの悪い方が話しかけてくる。もう一人は口を閉ざして少し暗い表情をしていた。よく見てみると茶色を帯びた黒い目をしている。
「そうですが、何か?」
「いや俺たちさ、この辺に住んでる幼馴染みなんだけど、河野さんって俺の家の隣じゃなかったっけ?」
 そういえば隣の家にも同じ学校に通っている人がいた。それがこの人らしい。だけど今まで気にしたこともなかったので名前も思い出せなかった。確かに失礼だとは思うが。
「ありゃ、やっぱ覚えてない? まあそうだよなぁ。まだ一週間くらいしか経ってないもんな。俺は川崎薫。んで、こっちが川崎樹。同じ名字だけど兄弟とかそういうんじゃないぜ。ただのご近所さんだから」
「はあ」
 覚えていないと口に出す前に相手は説明してくれた。特に聞いてもいないことまで教えてくれ、どうもこの人はお喋りが好きらしい。これじゃまるでキコだ。なんだかこれ以上話すと疲れそうな気がしてくる。
「そういうわけで、何か困ったことがあるならいつでも――」
「薫」
 ふっと風が吹いたかのように静かな一言が相手の言葉を止める。それを発したのは彼の隣で佇んでいる人物であり、その顔には先ほど見えたあの陰りのようなものが浮かんでいるように見えた。
「どうしたよ、樹」
「いや、俺、そろそろ夕飯作らなきゃいけないから」
「ああ、そうだっけ」
 短い会話を交わしてすぐに樹は歩き始める。その姿も、先ほどの声も、彼の持つ空気でさえがなんだか儚いもののように思えて、相手の姿が見えなくなるまで目が離せなくなってしまった。どうしてそこまで気になったのかなんて分からないけど、どこか普通の人とは違うものを抱えているような――そんな印象を受けたのだろう。
「悪く思わないでくれよ、あれで仕方のないことなんだから」
 すぐ近くからもう一つの声が聞こえる。
「あいつは歳の離れたお姉さんと二人暮らしで親がいないんだ。それにお姉さんはほとんど仕事で夜になるまで帰ってこないから、あいつ家のことはほとんど自分でやってるんだとよ。そのせいで勉強より家事の方が得意になってんだ」
 いいお父さんになれそうだな、と続けて相手はけたけたと笑った。彼はきっとこっちが聞いていようと聞いていまいとお構いなしに、自分の喋りたいことだけを喋っているのだろう。そういう人に限って聞いていなければ文句を言い、自分を押しつけようとする悪い癖がある場合が多い。でもこの人はどうやらそれすらどうでもいいようだった。
「私にも姉さんがいた。けど、行方不明になっちゃってね」
「うお、それもまた大変だな。樹といい勝負になりそうじゃん」
「そんなことで勝負してどうするの」
「どうもしないけど」
 それだけを言ってまた笑う。よく喋りよく笑う人だ。なんだか幸福そうな人。
「おっと俺も用事があるんだった。じゃ、気をつけて帰れよ」
 陽気に笑っていたかと思うと急に態度を切り替え、短い台詞を残して相手は自転車に乗った。そして手で合図のようなものを見せ、そのまま道の向こうに消えてしまう。私は一人だけ取り残されてしまった。
 だけど彼の言動の中に気に入らないものなど何一つとして見出せなかった。相手は誰にでも好かれそうな人のように見えた。私とは正反対の人。そんなことは分かっているけど、別に憧れの感情を抱いたというわけでもない。私は自分が嫌いでもなければ、自画自賛するほど好きでもない。だから私は何も望まない。ずっとこのままで構わないから。
「ねえ真」
 次に聞こえてきたのは自転車の――キコの声だった。こちらももう聞き慣れたものへと化しつつある。男にしては少し高い、どこか控え目な面を持ち合わせた声。しかしそれだけならいいものの、話に熱中すると熱くなりすぎるきらいがある。
「何?」
「いや、真にお姉さんがいて行方不明だってこと初めて聞いたからちょっと驚いたんだけど……見つからないの?」
「そうだねぇ。もう随分昔のことだから」
 私はゆっくりと自転車を押して歩き始める。
「姉さんが行方不明になったのはちょうど十二歳くらいの時でね。その時私は十歳くらいだったから、なんにもできなくてね」
 それ以前に私は本当の肉親すら持っていない。姉さんだって私と血が繋がっている姉ではない。そんな私が彼女に対してできることなんて、せいぜい無事を祈ることくらいなんだろう。だから私は今では姉さんを捜そうとは思わない。それに今から捜して見つかったとして、「今更」と言われておしまいだろう。あの頃の私は驚きすぎていた。そして周りが何も見えなくなっていた。今から考えるとそれはいけないことだった。それが分かったからこそ、私は何もしないことに決めたのだ。
 なんてことはいくらでも考えられるけど、それを口に出して言う機会は一切なかった。何よりおじさんもおばさんもこんな私を受け入れてくれているし、他の何も関係ない人に言ったところで意味はない。それゆえ私はこのことをキコには話さなかった。
「まあそういうわけで、この話はおしまいね。もう帰ろう」
「なんとなく分かった気がする」
 少しだけ気になる言葉が聞こえた。
「何が?」
「真がこんな性格になった理由」
 こんな性格で悪かったね。
 とりあえず自転車の言葉を無視し、私はもう近くなっている家へと足を向けた。

 

 +++++

 

「ん」
 夕飯を食べ終えてもう寝ようかと自室へ入った時。なんだか変なものが部屋の中央を陣取っていた。
 一言で言うならそれは扉。私の身長より少し高く、やたら様々な模様が掘りつけられており、この部屋には不釣合いなほど煌びやかな白い光を放っていた。しかしそれは閉じられたままであり、特に開きそうな気配はない。
「ふむ」
 一通り観察を終えてから考え込んでみる。このあからさまに怪しい扉からはキコと同じ匂いがする。きっとまた異世界とやらが関係しているのだろう。しかしなぜわざわざ私の元へ来るだろうか。いや、もしかしたらこれはキコの元へ来たのかもしれない。だとしたら私とは関係ない、ということになるね。
「うん」
 自分を納得させるよう一つ頷いてから結論を出す。
 この扉は無視ってことで決定。
 結論も出たことだしもう寝ようか。明日はまた学校があるんだ、朝は早いんだから夜遅くまで起きていられない。
 そうして布団の中に潜り込む。

 

「おい」
 目が覚めた。
「起きろ」
 幾らか不愉快そうな声が上から降ってくる。聞いたこともない声。その声の主を探してみるとすぐ近くにいた。不機嫌そうな表情をした、金色の髪を持つ青年。
「不法侵入なんかしたら捕まっちゃいますよ」
 布団の中でそれだけを言う。そしてそのまま眠ろうと目を閉じた。
「こら、寝るな!」
 案の定それを邪魔してくる相手。
「何か用事ですか? こんな夜遅くに、こっちは眠たいっていうのに……」
「うるさいな、貴様、この扉に気づかなかったのかよ!」
「気づきました」
「じゃ、なんで無視したんだよ!」
「明らかに怪しいからです」
「な――」
「そんな得体の知れないものに誰が関わろうとしますか。私は一般人です。巻き込むならうちの自転車のところにでも行ってください。じゃ、おやすみなさい」
 そうして目を閉じる。
「こら、待て、寝るな! 起きろ! 起きやがれ!」
 相手は意地でも私の邪魔をしたいらしい。すぐ近くで大声を出してくる。そこまでされたらいいかげん鬱陶しくなってくる。仕方がないので目を開け、体を起こすことにした。まだ眠気は残っているが。
「早く済ませてくださいね」
 目の前にいる人は金色の瞳をしていた。この暗闇の中でも輝きを保ち続けている金色の髪と同じように、その中に宿る光はどこか常人とは異なるように見える。表情は相変わらず不機嫌そうなものの、私が起き上がったのを見て少し落ちついたようだった。
「お前……」
 先ほどまでの苛々した調子ではなく、いくらか冷静さを取り戻した声が相手の口から漏れた。その先の台詞を待ってみるがなかなか放たれない。
 不審に思って相手の顔を覗いてみると、その瞳はじっと私の身体に向けられているようだった。
「何ですか」
「いや、夜分に訪れることになろうとは――じゃなかった、おい、普段着に着替えろ」
 ちらりと自分の姿を見下ろしてみた。私は今、パジャマを着ている。
「なんでですか」
「うるさいな、いちいち口答えしてくるな」
 どうにも相手はなんでも自分の思い通りにしたい人らしい。
「分かりましたよ。じゃあ、あっち向いててください」
 そう言うと相手は意外にも素直に従った。くるりと背を向けて黙り込む。その時になってようやく相手が黒い服を着ていることに気づいた。そしてその隣には、うっすらと光を放っている扉がある。
 とりあえず普段着に着替えた。相手のご要望通り着替えてやった。「もういいよ」と言うと相手はこちらを見てくる。
「ふん、手間かけさせやがって。さあ来い」
 そのまま腕を掴まれ、ぐいと引っ張られる。気がつけばあの扉が開いていた。相手はとても力が強く、あまりに突然だったので、私はなすすべもなく扉の中に引きずり込まれてしまった。
 白い光が視界を支配する。
 ――冗談じゃない。
 ふっと光が消えたかと思うと見知らぬ場所に立たされていた。相手はまだ私の腕を掴んでいる。風すら吹いていないようで、何の音も聞こえない。
 ここの空は青い。
「お前をここに連れてきたのは、世界を――」
「帰らせていただきます」
 相手が説明する前に即答してやった。相手は少しだけ目を見開いたが、こっちには驚いている暇なんて残されていなかった。

 

 

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