前へ  目次  次へ

 

05

 私は平穏が欲しかっただけなのに。
 静かに暮らしていられればそれだけで構わないのに。
 一体どうしてこんなことに巻き込まれなければならないのだろうか。
 誰か詳しく教えて欲しい。お願いだから。

 

 目を覚ますと見知らぬ景色が広がっていた。どうやらここが『異世界』らしい。
 その世界は真っ暗だった。しかしよく目を凝らして見ると、ぼんやりと黄色く光っているランプが目に映る。そしてさらに足元を見ると、そこには何やら不思議な形をした物がどこか遠くまで続いていた。そうは言ってもそれは道ではないらしい。ランプはこの闇を唯一照らしている物のようだったが、その数はあまり多くはなく、ぽつりぽつりと申し訳なさそうに吊り下げられているだけだった。中でうっすらと燃える火は赤というよりもオレンジに近く、風が吹くと今にも消えそうなくらい小さな炎だった。
 私が想像していた世界とは全然違うここにはそれだけしかなかった。他には何一つとして目に映らなかった。あるのは暗闇とランプだけ。ここにはきっと、淋しさや恐怖なんかも置き去りにされているのだろう。そんな気がしても人がいなければ、それらは意味を成したりしない。
「やっと……成功した」
 ふっと聞こえてきたのは誰の声だったろうか。どこかで聞いたことのあるような声だけど、どこで聞いたのかとか誰のものなのかということは一切思い出せない。しかし唯一分かったことといえば、それは私のすぐ近くの、だけど下の方から聞こえてきたということだけ。
 ちらと足下を見下ろしても妙な物があるだけ。そのまま別の方向へ視線を投げてみると、暗闇の中で際立っている水色の髪が見えた。だけどその人は立っておらず、地面に突っ伏している。
 倒れている人。
「だっ、大丈夫ですか!?」
 私がぼんやりとその人を眺めていると隣から慌てたような声が聞こえてきた。そしてその声を発したキコは相手の元へ駆け寄っていく。本来なら私もそうしなければならない立場であるはずなのに、私には何もできないと分かっているからだろうか、ただキコの後に続いてその人の元へ歩いて行ってみただけだった。
「ありがとう、大丈夫だから……」
 あまり生気の感じられない声が耳に入る。水色の髪を持っている相手――少女はキコの手を借りて立ちあがった。
「勝手にあなた達を呼び出してごめんなさい。だけど、私にはもうこれ以上他の道を見つけられなかったの。それで巻き込んでしまったことは謝るけれど、どうか話を聞いて欲しいの」
 まるで吸い込まれてしまいそうな声だった。そしてふと思い出した、この人はあの時の夢に出てきた人とよく似ていると。姿は子供なのにどこか大人のような雰囲気を持っていたり、なんだか自分よりもずっと優れていて大きい存在であるかのような錯覚に襲われるところなんかが、あの夢の中の人と全く同じであった。
「いきなり何を言っているのか分からないと思う。だけどお願い、どうか聞いて。私はルノスというの。あなた達は?」
 私は手短に自己紹介した。そして相手がたくさんの傷を負っていることに気づいた。
「ねえ、その話って世界を創造して欲しいってことなんじゃないの?」
 隣から声が響く。私もおそらくそうだと思っていたので何も口出ししなかった。しかしルノスは幾らか驚いたようだった。無理もない、そんな話を持ち出す人なんてそういるものじゃないんだから。
「そう、あなた達――彼に会ったのね」
 ルノスはそれだけで理解した。この人には説明すら不要であるらしい。そんなところはさっきのあのアスターとよく似ていて、どこか凄そうな印象だけを受ける。
「だったらもう分かっているのね。あなた達が探すべきものは、世界を創造する為の『鍵』。それがどこにあるかは分からないけれど、どこかの世界のどこかにあるはずだから……」
「なるほど、その鍵ってのを探せばいいんだね」
 相槌を打ちながら聞いていたキコはそれだけで満足したらしい。私はふとアスターが漏らしていた言葉と違うことに気づいたが、あまり深入りしたくなかったのでそのままにしておいた。だってそうでもしなければきっとやっていけない。これ以上余計な心配事や命令を増やされたところで、私とキコにできることなんてたかが知れているんだから。
「真、あなたは随分疲れているように見えるけれど、大丈夫?」
 ずっと黙り込んでいたせいだろうか。気を遣ってくれたのだろう、ルノスは変わらない表情だったが私の顔を覗き込んだ。しかしその顔の中には何かが見え隠れしていた。そこには確かに心配も備わっているが、どこか焦燥感に似たようなものでもある、何か複雑なものが混じっている気がする。
「真はきっと全然やる気がないのに巻き込まれてすねてるんだよ。まったく子供だなぁ」
「あんたにだけは言われたくないね」
 とりあえず軽い言葉を発したキコを少し睨んでおく。それを見てか、ルノスは少し表情を崩した。しかしそれも一瞬だけで、またすぐに元の何も映していない顔に戻る。
「私はそろそろ行かなければならないわ。あなた達はこのまままっすぐ進んで、汽車に乗って別の世界への扉を探して。そしてそこで『鍵』を探して欲しいのだけど、『鍵』がその世界にあるとは限らないわ。途方もないお願いで悪いけれど、私はあなた達について行くことはできない。だから、どうか……いいえ、またどこかで会いましょう」
 まるでアスターと同じような言葉で締めくくり、そのままルノスはくるりと背を向けて歩き出した。彼女の束ねた長い髪がふわりと揺れる。この暗闇の中では少し遠ざかっただけなのに、さっと光が遮断されたように相手の姿はすぐに見えなくなってしまった。
「だ、大丈夫かな。すごい怪我してたように見えたんだけど」
「ルノスにも何か考えがあるんでしょ、きっと」
「うーん……」
 どうにもキコは納得していない様子だったが、とりあえずルノスの言う通りこのまままっすぐ進んでみることにした。暗闇の中で光るランプの光だけを頼りに、道が続いている方角を確認してから歩き出す。
 一歩踏み出すとなんだか二度と元に戻れないような気がした。一般人になることも、平穏な生活を送ることも、もしかしたら私はそれらをこの一歩で失ってしまったのかもしれない。
 そうだとしても何も怖くはなかった。ただ残念だと思った程度だった。本当はこんなことはやりたくないけれど、仕方がないのなら諦める他はない。私にしかできないのだと二人の人間が言うんだから、途中で投げ出したりすることはとてもじゃないが許されないことのように思えた。
 だからだろうか、この一歩を踏み出すことには少しも躊躇しなかった。そして一歩を踏み出したことに後悔することも一度もなかった。
 ただ言われた通りの道を歩くだけ。

 

 それからまもなくして、私たちはランプがたくさん集まっている場所に着いた。そこは今立っている地面よりも一段高くなっていて、まるでバス停にある看板のような物が一つだけぽつんと淋しそうに置かれていた。周りを見渡してみたがそれ以外には何もないらしい。ここにルノスの言っていた『汽車』という物が来るのだろうか。
「こんにちは」
 唐突に背後から声をかけられる。後ろを振り返ると誰だか知らない人が立っていた。相手は周りに吊り下げられているものと同じランプを手に持っている。
「君たちは迷子かい?」
 会っていきなり失礼なことを言う人である。相手は私と同い年くらいの少年だった。この暗闇の中でも綺麗に見えるような、肩まで伸びた白銀の髪と銀色に光る瞳を持っている。しかし衣服は全て真っ黒で、ランプの光によってかろうじて黒いマントのようなものを羽織っていることが分かったくらいだった。どうにもこの闇にふさわしいのか似つかわしくないのか判断しかねる人だ。そんなこととはつゆ知らず、相手は始終笑顔を見せている。
「別に迷子じゃないよ。汽車を待ってるだけだしさ」
 相手の言葉に気を悪くしたのか、キコは少し口を尖らせていた。それを見て相手は「これは失礼」と言って少し頭を下げる。
 なんだか不思議な感覚がした。
「あの、何か私たちに用でもあるんですか?」
「おや、そんなことを聞くのか、君は」
 つい口から出てしまった言葉は意外な方法で返されてしまった。それによって相手の顔から笑みが消える。
「分かってないなあ。僕はある目的の為にここを通りかかり、ふと珍しいお客さんが視界に入ったから声をかけてみただけさ。だから用事なんてないんだよ、初めからね。しかし君はそんなことを気にするんだね。話をするには何か用事がなければ許されないと、そう言うのかい? まあそう思いたければそう思っていればいいさ、僕には関係ないことだからね。――ああ、もしかして君たちがルノスに呼ばれた人? なんだあの人、ただ逃げてるだけじゃなかったのか。じゃあ、何? ルノスとはもう別れたの? ふうん……で、君たち名前は?」
 相手は一人で喋り、一人で納得し、最後には質問を投げかけてきた。その瞳には何が映っているのかさっぱり分からなかった。しかし決して逃げられないように捕まえられたような、そんな感覚だけがはっきりと頭の中に響いてくる。
 これを何と呼べばいいのだろう。この感覚を、この印象を。
「私は、真。こっちはキコ」
「真にキコか。なるほど」
 また納得する。一体何がなるほどなのか。
 相手は元のように口元を緩ませた。それは穏やかそうだけど、どこか影が潜んでいそうな微笑。
「真。お口、あーん」
 そうかと思ったら目の前でそんなことを言ってくる相手。
「は?」
 その一言を発する為にちらりと口を開いたのがいけなかったのだろう。小さく開かれた私の口の中に相手は指を突っ込んできた。彼の持っていたランプが下に落ちてうるさい音を立てる。そうして空いている方の手を彼は自分の口の中に入れた。
 一体何をするのかと思った時、相手は自分の口から出した手を私の口の中に押し込んできた。なんだか硬い物を口の中に残し、すぐに手を引っ込める。そして何事もなかったかのようにランプを拾った。
「な、何するんだよあんた!」
 すっかり驚いた様子でキコが声を上げる。それに対して相手は少しも動じることもなく、平然とした様子で笑顔を崩さないまま言葉を吐き出した。
「ちょっと預かってて欲しいんだ。そいつは重要なんだけど僕には別の目的もあるからね。いいかい、二人とも、それを手放したりしちゃいけないよ。人に渡すことも持っていると言うことも決してしてはいけないからね。特に警察の野郎には気をつけておくんだ」
 この世界にも警察はいるらしい。だけど、相手の言葉から推測すると、彼は。
「さて、僕はもう行かなければならないんだ。ロイ・ラトズっていうのが僕の名前さ。いつかまたその石を取りに来るから、名前くらいは覚えておいてよね。ああ、そろそろ汽車が来るみたいだ。君たちはそれに乗るのだろう? ほら、もう音が聞こえてくる……」
 ロイと名乗った相手は遠くの方を眺めた。私もそちらを見てみたが、そこにはただ暗闇があるだけで何も見えない。
 私は口の中に残された物を手の上に置いてみた。それは赤い色の石ころだった。ほんの少しだけ光を放っているように見えるけれど、こんな物よりもロイの髪の方がよっぽど綺麗に思えた。
「これは何なの?」
「その質問に対して僕は答える義務を持っていない。そっちの魂君にでも聞いてみるんだね」
 少しもこちらを見ることもなく彼は言う。その態度にいささか物足りなさを感じた。今度はキコの方へ視線を向けてみたものの、魂の少年は不安そうな顔でこちらを見てくるだけ。行き場を失った疑問は腹の底でぐるぐる回り始めた。私に一体どうしろと言いたいのか。
「あ! 忘れていたけど」
 急に大きな声を上げてロイはこちらを見てくる。そうしてまた何かを無理矢理渡してきた。しかし今回は私ではなくキコに渡す。
「ルノスに呼ばれたってことは君たち一文無しなんだろ? そんな君たちの為にこいつを渡しておくよ。まあ適当に取ってきた物だから、それだけで足りるかどうかは保証できないけどね」
 キコに渡された物を観察してみると、それは何やら小さな袋のような物だった。キコはすぐに中をあけてみた。中に入っているのは紙切れとコイン――つまりはお金なのだろう。
 数々の疑問が旋風のように吹き上がってくる。だけど私の口は鉛のように重くなっていた。これ以上深入りするのはよくないことだと、どこか心の奥底で警告している自分がいたんだろう。それゆえ何も言うことができずに、だけど本当は推測が当たっているような心持ちで、私はただ相手の瞳を覗いてみるだけだった。
 そこには答えなんて存在しない。
 やがて大きな音と共に黒い物体が真横に現れた。これが汽車と呼ばれている物なのだろう。地面にあった何だかよく分からなかった物は軌道らしかった。だけどやはりランプの光があっても暗闇の中なので、あまり細かいところまでは見えなかった。
「さあ、さようなら」
 微笑みを消さないままでロイは言う。そうしてくるりと背を向け、そのまま闇の中に溶け込むように消えていった。
「とりあえず汽車に乗ろうか」
 手に持っていた石ころを服のポケットに入れ、隣にいるキコを促して汽車の入り口へ向かって歩く。中に入っても誰もいなかったので、適当に席を見つけてそこに座った。隣にはキコが座る。
 車内には余計な物は一切なく、窓はおろか、入り口以外の扉さえない。そして明かりはというと、あの闇の中で見たものと同じようなランプが三つだけ天井にぶら下がっており、車内は外よりは明るいとはいえかなり薄暗かった。
 しばらくじっとしていると汽車の扉が閉まり、動き出す。そうして私はぼんやりとロイのことを思い出していた。
 あの人は、見た目はとても綺麗なのに顔に陰りがある。もちろん人は一つや二つくらいの罪を背負っていて当たり前なのだろうけど、あの人の場合、それだけではないような気がした。もっと何か、罪とは別のものがあるような、そんな感じの。
 だけどそれを裏返すような仕草を彼は見せてきた。瞳はとても優しそうなのに、微笑が残忍さをむき出しにしていた。そうかと思ったら今度は残酷な光を宿した瞳で、とても親切そうににこりと微笑んだり。
 なんだか気色が悪かった。とんでもなく不安定なようで実は安定しているような、そんな印象しか受けなかった。そしてそれが気色悪かった。まるであり得ないもののように思えてならなかった。
「真、大丈夫? 気分悪い?」
 すぐ傍から声が聞こえた。どうやら考えすぎていたらしい。
「大丈夫、平気」
「もしかして乗り物酔い?」
「平気だってば」
 ならいいけど、と言ってキコは黙り込む。この暗闇が心を弱らせてしまったのか、私もキコもなんだか不安に潰されそうになっていた。
 早く目的地に着かないかと思いつつ、汽車に揺られながら目を閉じる。

 

 

前へ  目次  次へ

inserted by FC2 system