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09

 いくら気力があったとしても体力の消耗は普段どおりに進行していくものであった。森の中を歩くという単調な行為を続けること約一時間、私の体は悲鳴を上げていた。どちらかというと私は運動は苦手な方であり、特に長時間続けるという行動に対しあからさまな嫌悪を示す人間だったのだ。そんな自分のことは自分がよく分かっている。もう限界だと声に出して言おうと考えた時、まるで図ったかのように一軒の家が見えてくるんだから恐ろしい。
 この世界はどこかで監視者が見張ってて、一人一人の人間に対して劇的な展開を逐一作成しているんじゃないかと疑いたくなってきたものの、今の私にとっては疲労回復の方が重大な目標であった。淋しげに森の木々に囲まれて建っている家に疑心も抱かず近づいてみると、入り口の扉の上に大きな文字で『宿』と書いてあるのが分かった。なんとも分かりやすい看板だ。しかし、なぜ日本語で書かれているのかということはさっぱり分からない。それを追究するほどの気合いは残ってないけれど。とにかくそんなことはどうでもよくて、早いところ休憩したいという気持ちの方が強かったので、キコと顔を見合わせてから中にお邪魔することにした。
「ちょうどいいや、ここで情報収集をしよう」
 キコはすぐに表情が変わる。喜怒哀楽が激しいのかどうか知らないが、何でも顔に現れるのでとても分かりやすい奴だった。今ではすっかり疲れも消え、陰りもない笑顔を見せている。
 しかし、改めて考えてみると私たちはどこへ向かっているのか分からなくなってきた。今まで何も決めずにただひたすら森の道を突き進んできたけど、一体どこへ何をしに行っているのか、当事者であるくせに私は一つも理解しないままでいた。この怠惰はさすがに少し情けないと思ったので、勝手に宿に予約を入れてしまったキコを引っ張って、広間に設置されている椅子に机を挟んで座った。周囲には同じような机と椅子が置いてあり、何人かの人が話をしたり本を読んだりしてくつろいでいる。
「ねえキコ、私たちってどこに向かってるの?」
 率直に聞いてみる。この質問に飾る必要も感じられなかったし、無駄に遠回りしても何の意味もないと判断したからそうしたわけだが、質問をぶつけられたキコは何度もまばたきをしただけだった。何も言ってくれない。
「ねえってば」
 答えを促すと相手ははっとし、それからわざとらしく咳をした。
「まったく君という人は、自分がどこに向かってるかも知らないでここまで来たわけ? それじゃなんにも知らない君のために説明してあげるけど、二度はないと思っててよ?」
 どこかロイを思い出させる口調でキコは言う。相変わらずな態度だったが今は少し高慢に見えた。
「ほら、あの泥棒が言ってただろ、この世界には魔法を教えてくれる施設があったって。そこに向かってるんじゃなかったの?」
 そう聞かれましても。私の頭の片隅に残っている目標といえば『鍵を探すこと』しかないので、細かな部分は全てキコに任せていたんだから。だけどそれより引っかかったのは、キコがロイのことをちゃんと名前で呼ばなかったことだった。さらにそこからは静かな嫌悪さえ感じられる。確かに彼は悪いことをしている人なのかもしれないけれど、そんなに嫌味っぽく言わなくてもいいだろうに。
「だから要するに、ここでの情報収集ってのはその施設がどこにあるかってことを聞くんだよ。分かった?」
「その前にこの剣をどうにかしたいんだけど」
「剣って……」
 ずっと持ち続けていた、あの魔物の尻尾に刺さっていた剣を机の上に置く。今では鮮やかだった赤は空気に触れてどす黒くなり、嫌な色と金属の錆びたような匂いが刃にまとわりついていた。
「ああそっか。それはだね、えーと、……武器屋がいればいいんだけどなぁ」
「はい、お呼びですか?」
 キコの声に答えたのか、後ろの方から変な声が聞こえてきた。声はキコの若い声よりもっと幼く、不思議に思って振り返ってみると金色の髪を持つ少年が立っていた。その背には何やら大きな袋を背負っている。見るからに冒険者風の格好をしており、顔には輝かしい金髪よりも眩しい笑顔が貼りついていた。
 この顔は、しかし、はっきり言って怪しい。
「僕はまだ子供ですがれっきとした武器商人なんですよ。今日はどんなご用で? 売りましょうか、それとも買いましょうか? もしくは情報交換をご希望で? あっ、鑑定もできますよ!」
 まだ何も言っていないのによく喋る人だ。始終見せる笑顔からは胡散臭さ以外には何も感じられない。相手は別の机に設置されていた椅子をさっと引っ張り出し、ちょうど私とキコの真ん中の位置に腰を下ろした。そうかと思うと背負っていた袋を床に下ろし、今度は机の上に置いていた剣をまじまじと見始める。
 これは新手の詐欺だろうか。
「じゃあその剣を売りたいんだけど、いくらになるかな?」
 キコは彼を信用したらしい。子供だから心を許したのだろうか。確かに現代では他人をなかなか信じられない人が多くなっているというものの、良心というものは誰にでも備わっているから利用できなくもないとは思うが。しかしもう少し疑ってほしいところだよ、そこの魂の少年よ。何でもむやみに信用するとろくなことがないんだから。
「この剣はですねぇ、汚れてはいますが洗って研ぎ直すとかなりの価値があるかと思われます。値段は、ふむ……まあ五万というところでしょうか」
「五万!? 売ります!」
 金の亡者め。
 自称武器商人の少年は大きな袋をごそごそとあさり、そこから五枚の紙を取り出す。そこに印刷されている模様はいつか見たことがあるものと同じだった。それが五枚ということは、一枚が一万の価値を示すお札なのだろう。相手はそれらをキコに手渡し、代わりに剣を袋の中に入れてしまった。
「どうもありがとうございます。しかしあなた方は見たところ武器をお持ちでないようですね。どうです、護身用に何か買っていきませんか?」
 まだ言うか、こいつは。しつこい。
 なんだかこれ以上疑っているのも疲れそうだったので、もうどうにでもなれという感覚で二人の商談を傍観することに決めた。少年達は年が近いからかお互いすぐに打ち解け、話の中に笑い声が混じることもあった。どこか遠くの方から聞こえるようなその声を聞いていても、私はただ早く終わらないかと繰り返し思うだけだった。

 

 変な武器商人から解放されたのは一時間ほどが経過した後だった。改めて余計な時間を過ごしてしまったと思う。キコは私が森の中で寝て怒ったりしていたけど、これではどちらも同じようなものだ。そうしてちらりと横に目を向けると、机の隅に置かれているサーベルと銃が目に入った。気がつけばキコは銃を買い、私の持ち物の中にサーベルが押し込まれていた。私の意見なんか少しも聞かずに勝手に決められて腹が立ったが、それよりも武器商人の少年から解放された喜びの方が遥かに勝っていたので、はっきり言ってもうどうでもよかった。
「これで魔物に襲われても安心だね」
 本当にそうなのかどうかはいいとして、何か大切なことを忘れていないだろうか。キコはすっかり上機嫌になって頼りにならないので自分で考えてみることにした。この宿へ来た目的が何かあったはず。それは、確か――そうだ魔法を教えてくれる施設の跡地だ。ここへ来た理由というのは、その跡地の場所を聞くことだけだったはずなのに。
「とりあえず宿屋の人に聞いてみようかな」
「え、何を?」
 真正面から間の抜けた声が聞こえたが、聞こえなかったことにしておこう。そんな軽い言い訳を作ってから立ち上がり、入り口の付近にある受付の方へと向かっていった。
「すみません。あの、この世界に魔法を教えてくれる施設があったと聞いたんですが、どこにあるか分かりますか?」
「ああ、それなら……」
 受付の女の人は少し口を閉じ、後ろに置いてあった使い古された地図を手に取った。茶色く変色したそれを私の前で広げると、森の中心あたりに赤で丸をしている印がまず目に入った。それが示す場所がきっとこの宿なのだろう。外の看板といい、とんでもなく分かりやすい印だ。
「この赤い丸がこの宿で、ここから北の方へ続く道がありますのでそれをまっすぐ進んでいけば着きますよ。道中魔物が出てくる可能性があるのでお気をつけて」
「ありがとうございます。それで、もう一つ聞きたいんですけど、その施設ってどんな名前なんですか?」
「名前は……えっと、何だったかしら」
 妙なところで悩む相手だった。場所を覚えておきながら名称を忘れたとなると、少し違和感を感じてしまう。単なる一時的な失念かもしれないが。
「忘れちゃったなら別にいいです。では……」
「その施設の名称は、マエストーソ学園ですよ」
 背後から声が響く。振り返ると紫色の衣服に身を包んだ銀髪の女性が立っていた。頭にはフードを被っているが顔は隠れておらず、瞳は深い赤色をしていて引き込まれてしまいそうになる。
「すみません、話が聞こえたもので。受付さん、今晩一泊お願いします」
 相手は軽く謝ってから受付で手続きを始めた。私はなんだかその場から離れにくくなり、彼女の手続きが終わるまで立ち尽くしてしまった。全てを済ますと相手はこちらを振り返り、席に座るよう促してくる。私は連れがいることを話し、とりあえず機嫌のいいキコが座っている席まで相手を連れて行くことにした。
「あれ、どちら様?」
 目を丸くして尋ねた魂の少年は私がいない間に机の上を散らかしていた。サーベルは机の隅にそのまま放置されているが、彼の所有物である銃の弾丸が机の上いっぱいに転がっている。彼は私が知らない人を連れてきて驚き、慌てて片づけを始めた。そんなに慌てるなら最初から散らかさなければいいのに。
「ああ、どうぞお構いなく。わたくしには椅子さえあれば充分ですから。――わたくしは占い師をやっております。ですが今は少し、人捜しをしていまして」
「人捜しかぁ。残念だけど私たちには協力できそうにないね」
 そもそも私はついさっき異世界を訪れたばかりなんだから。こちらでの知り合いなんてまだ数えるほどしかいない。これで私の知っている人を捜しているとなると、それこそ奇跡だとしか言い様がない。そんな劇的なことが起こり得るなんて考えられない――とも言い切れないかもしれないが。だって、人生ってのは何が起こるか分かったもんじゃないんだから。
「人捜しはわたくし個人の問題であって、今はこの世界に住んでいる人に仕事を頼まれたから来たんです。本来ならここではなく別の世界で捜さなければならないんですが、依頼主が急ぎだと言うもので……それより、あなた達のことでしょうか、あの魔物が言っていた黒髪の子供と魂の少年というのは」
「あの魔物? それって」
 魔物と言われて思い浮かべるのはただ一つだけ。この宿に来る途中で出会った、あの温和な性格なのだろうと推測される魔物のこと。不釣合いな尻尾に剣が刺さっていた、少し可哀想だった魔物。
 キコと顔を見合わせてみると私と同じことを考えているような気がした。しかし彼の表情の中にはまだ不安そうな色が漂っている。警戒心が強いのか、それとも心が狭いのか。私はどうにか前者であってほしいと願う。
「心当たりがおありのようですね。彼は今、この宿の外にいると思います。一度会いに行ってみてはいかがですか? ぜひあなた達と話がしたいと言っていたので」
「言っていたって……あなたにそう言ったんですか?」
 ころりと表情を変えて驚いている顔になったキコは相手に聞く。その質問を受けた占い師さんは一つまばたきをし、口元をふっと和らげ、服の中から小さな茶色い鞄を取り出した。それを机の上に置いて開くと、中から何か赤いものが見えた。何だろうと思って顔を近づけてみると、その得体の知れない赤いものが勢いよく飛び出してきてキコがこの上ないほど驚いていた。しかし私はあまり驚かなかった。よく観察してみるとその赤いものとは、鮮やかな赤い羽を持つ小さな鳥だった。
「この子、こう見えて魔物なんです。今は目立たないように小さくなる魔法を使っているから、まるで普通の鳥のように見えますけどね」
「へえ、魔物と友達なんだ」
 確かこんな話もゲームなんかではよくあることだ。そんな現実からかけ離れた事実を目の当たりにして、私は少しほっとしていた。
「あなた達を追ってきた魔物もこの子と同じように、とても穏やかな瞳をしていました。きっとあなた達も彼と仲良くやっていけると思いますよ」
「ありがとうございます。じゃあ行ってみますね。ほらキコ、行こう」
「えっ」
 なんだか普段と全く逆の立場に立たされていておかしな感じがする。それでも今はあの魔物と話をしてみたいという願望が現れてきたので、まだ不安そうなキコを引っ張って宿の外へ出ていった。
 以前会ったことがあるからか、不安なんて微塵も感じられなかった。全ての人や魔物がこんな感覚を覚えられたら、世界は変わっていたのかもしれない。しかしそれは難しいことだと分かっていた。人には人の信念があり、魔物には魔物の生き方がある。根本的な部分から異なっている両者はきっと、滅多なことがない限り分かり合えることなんてないのだろう。現にキコは魔物に対し怯えているし、あの占い師さんも魔物の鳥を目立たないようにして連れていた。それらが示すものは、私の理想とは正反対な位置にあるものだけ。
 望みは高すぎて手が届かないものばかり。それでも手を伸ばそうと足掻くのが、人間というものなのだろうか。
 外の景色は宿に入る以前と少しも異なっていなかった。森の中を吹き抜ける風も、どこか深い場所から響く鳥や虫の歌声も、何もかもが古くから知っている真実のように懐かしい香りがした。そうしてふっと自分の家の近所の景色が思い起こされ、今頃家の人達や学校の人々は何をしているのだろうとぼんやりと考え出した。

 

 

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