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10

「こんにちは」
 小鳥の歌と風が運ぶ慈しみとに囲まれた森の中に、静かに涌き出る泉があった。周囲は岩と緑の草、茶色い土などで埋め尽くされ、泉の水は底が鮮明に見えるほど透き通っていて美しい。泉は小さな流れを作って森の中へ消えていき、やがては広大な海へと繋がっていくのだろう。そこから生命が生まれ、盛衰の劇が演じられることは、この世界でも同じことなのだろうか。
 水面に映っているのは黒い髪を持つ自分自身と、黄緑色の明るくも暗くもある髪の少年、そしてもう一人、少し離れた場所に映る魔物の姿。相変わらず深くフードを被っていて顔は見えないが、前に会った時と同じようにこちらに危害を加えようとする気配は感じられない。
「本当に来てくれた、のか」
 静寂の空間の中で響くのは青年のような声。かつて聞いたことのある声と全く同じもので、少しためらいがちなものとして私の耳へ届いた。
「だってあなたが話したいことがあるって」
「ああ――」
 相手は顔を上に向ける。まるで空を仰いでいるような動作の後、薄汚れた青いマントの中から手を出してフードを頭から取り払った。そのまま手を下へ持っていき、今度は青いマントを破り捨ててしまう。
 隠されていた相手の姿は人間にしか見えなかった。肌色の顔や手、青みを帯びた長い銀髪、深い青色の瞳やまつげ、口から少しはみ出している小さな牙――普通の人なら一目見ただけでは相手が魔物だとは理解し難いだろう。彼が魔物だと知っていなければ。
 よく見てみると相手の爪は鋭く、髪から見え隠れしている片方の耳が人間のものではないことに気づく。体は黒く硬そうなローブで隠されており、その漆黒の中では細くて白い線によって繊細な模様が描かれていた。ゲームで例えるなら魔術師のような格好をしている。これで三角の帽子でも被ったら、私の世界にいる暇な連中が口を揃えて魔法使いだとでも言いそうだ。
「それで、話っていうのは?」
 一通り観察を終えてから本題に入る。私の隣では怯えたような疑っているような瞳の少年が佇んでいるが、今は彼の相手をしている時間ではなかった。これ以上話をややこしくされるのも鬱陶しいので、私はキコから離れて相手に近寄っていく。
「あんたみたいな人間がいてくれてよかった。ここじゃ否応なしに逃げられたり襲われたりしてばかりだったから」
「私は魔物に会ったのは初めてでね、何をしていいのか分からなかったんだ」
「おいおい、どこの箱入り娘だよ?」
 そう言われましても。事実なんだから仕方がない。
「じゃあ、俺の話を聞いてくれるのか」
「何を今更。そのために来たんだから」
 そうか、と口の中で呟いて相手は私に座るよう合図した。私がそれに従うと相手も同じように座り込む。後ろからキコもやって来て、三人は泉を背景に小さな三角形を描いた。
「俺は元々この世界で生まれたわけではないんだが、よく分からねぇけど突然こんな所に飛ばされてな……」
 なんだかキコみたいなこと言ってるなぁ。よく分からないけど私の世界に飛ばされたとか言ってたし。私の周りにはそういう人が集まって来やすいのだろうか。
「それだけなら問題はないんだが、俺が生まれたのはこの世界とは別の次元にある世界で、そこには魔物しか存在しねぇんだ。最初はこの世界も悪くはないって思ってたんだが、一体どういうことか、この世界のどこぞの馬鹿野郎が俺の故郷の世界とこっちとを繋ごうとしてやがるらしいんだ。そんなことしたらどうなるか分かるか? 今のこの魔物と人間との微妙な関係が全て崩壊しちまうに決まってる。俺はそいつを止めに行きたいが……それがどこのどいつなのかさっぱり分からねぇ。だから人間に聞こうとしたんだがこのザマさ。俺はすっかり途方に暮れていたが、あんた達に会えてよかった」
 なるほど。異世界にもいろいろ事情があるんだなぁ。それにしてもやっぱりこの人――じゃなくて魔物、すごく優しい性格をしている。私には到底真似できないだろうな。
「あのさ、ちょっと待ってよ」
 今まで黙り込んで相手を疑っていたキコが口を開く。その表情は先ほどから少しも変わらないが、怯えと疑心に加えて今では驚きまでが加わっている。彼の黄緑色の瞳は、まっすぐ相手の魔物の姿を見つめていた。
「そんな話、聞いたこともないよ。それが本当だとしたら人間にとっても大変なことなのに、あまり世間には知られてないことなの?」
「俺は少し知り合った魔物から聞いただけだから、大半の人間は知らねぇだろうな」
 相手の答えを聞いてキコは顔をむっと歪ませた。そこから窺えるのは不満と焦りと、あとは何かよく分からないものだけ。
「そんなにのんきにしてていいのかな……」
「あまり人を悪く言うなよ。魔物の側では有名な話だが、魔物と人間が話をすることなんて滅多にねぇだろ。知られてなくたって人間が悪いわけじゃねえ」
「さっきの宿では魔物と仲良くしてる占い師さんがいたけど?」
「あれは例外だろ」
 二人はいつのまにか仲良しになっていた。やれやれ、本当にキコは態度がすぐに変わるんだから。これを臨機応変とでも言うのだろうか。私の立場としては見ていて羨ましくなるんだろうけど、今では羨望よりも呆れの方が強くなっていた。
「ねえ、それはもういいから本題に戻ったら?」
 私の一言によって二人はぱっと顔色を変えた。
「そうだった。お前のせいで話が変な方向に走っちまったじゃねえか、この――」
 魔物の青年は何やら考え込んでいるキコの頭を一つ殴る。とてもいい音が森の中の静寂を揺るがした。
「いきなり何するんだよっ」
「俺の世界とこっちを繋ぐには魔石って物が必要なんだ。そいつはとんでもなく強い魔力を発してるんだが、人間にはそれが感じられねぇらしい。俺は今いるこの世界からそいつの気配を感じたからここまで来たんだ」
 キコの文句を清々しいほどに無視し、相手はすらすらと説明の文を述べる。それでキコの機嫌が悪くならないわけがなく、今までにはない表情を顔の上に貼りつけていた。
「そこまで分かるんなら自力で行けばいいのにさぁ、なんでわざわざこっちに話しかけてきたわけ?」
「ここにあるってのは分かったんだが、この世界の扉をくぐった瞬間に見失っちまったんだ。誰かが邪魔してるような、あるいは別の何かがあるのかもしれねぇ。そういうわけで困ってたんだ。分かったか?」
「な……」
 もしかするとこれが微笑ましい光景というやつなのかもしれない。なんだかキコが魔物の青年に軽くあしらわれているような気もするが。ここまでくると、私の中にはもう口出しする気力すら残っていない。
「厚かましい頼みかもしれねぇが、魔石がありそうな場所まで連れていってくれねえか。そこまでの道のり、あんたらの身の安全だけは保証できる。これでも魔物だから、魔法や魔術なんかはいくらでも使える、足手まといにはならねぇから。だから」
 伝わってきたのは何だったろう。これが魔物の言う台詞なのだろうか。私の目の前にいる相手は魔物には見えなくて、だけどやっぱり魔物でしかなくて。
 偏見というものは最も恐ろしいものなのかもしれない。
「私は別にいいよ。キコは?」
「真がいいって言うなら……」
 黄緑色の髪の少年はそれでも顔から不安を消すことはなかった。相手を認める言葉を口に出した瞬間から再び疑心も甦ってきたらしく、最初に会った時と同じように不愉快な視線を相手に投げていた。
「なんでそんな顔するの」
 試しに聞いてみるとむっと顔を歪ませた。
「真は魔物を知らないからすぐに打ち解けられたんだ。ほとんどの魔物はすぐに襲いかかってくるし、話をするなんてもっての外なんだから」
「へっ、つまんねぇ主観だな」
 自らのことを悪く言われたはずなのに、魔物の青年は口元にうっすらと笑みを浮かべていた。さらに腕まで組んで偉そうにしている。これだとキコを見下しているような、はたまた馬鹿にしているように見えてならない。
「そういえばまだ名前を聞いてなかったけど」
「名前なんてあるかよ。俺たち魔物は魔物でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。だからいちいち違った名前なんて与えられねえんだ」
 相手は丁寧なのかそうでないのかよく分からない説明をしてくれた。しかし私は魔物の事情なんか知らないからそれで納得する他はない。
「名前がないのに不便じゃないの?」
「別に」
 素っ気なく答える魔物の青年。そういうものなのだろうか。
「でも私が困るから名前をつけてあげるけど、いい?」
「構わねぇぜ」
「えっ、真がつけるの?」
 隣から変な声が聞こえた気がしたが、毎度のことながら無視することにしておこう。
 さてこの魔物の青年の名前を考えるにしても、キコの時と同じようにすぐには思いつかなかった。外見だけで決めてしまうのも失礼だし、かと言って私はまだ相手の性格や考え方を知り尽くしているわけではない。改めて考えると名前をつけるということは難しいことなのだと分かった。もちろん、分かったところでどうしようもないけれど。
「キコはどんなのがいいと思う?」
「どんなのって……変なのじゃなければ」
 以前聞いたような台詞を言われてしまった。しかし変なのと言われても、何が変で何が普通なのかそっちの方が私には分からない。
「ならキコが決めてよ」
「え? そうだなぁ、ハディート……ううん、ハンス……いや、ハウアーってのは?」
 よくもまあ短く呼びやすい横文字の名前が短時間で出てくるものだ。それにしてもなぜ頭文字が全て『ハ』なのだろう。何か意味でも含まれているのだろうか。いや、キコのことだから含まれていない可能性が高い。そうして勝手に疑問を解決させてから魔物の青年の顔を見ると、なんだかねっとりした感じの笑みを浮かべてキコの顔を見ているようだった。
「俺は何だっていいがな」
「だったらハウアーで決定ってことで」
 キコの言葉に相手は一つ頷いた。これで彼は今後ハウアーと呼び続けられることになる。今頃やっと気づいたけれど、名前というものはいつになっても逃げられない楔(くさび)でもあるのだから、名付けという行為は少なからずの責任を負うべきものなんだろう。私はキコに対して、キコはハウアーに対して。世の中そう甘いものが転がっているもんじゃない。
「おっと忘れていたが、俺はあんたのことはマスターって呼ばせてもらうぜ」
 立ち上がろうとした瞬間に言葉をぶつけられ、動作をぴたりと止めてしまった。ハウアーはまっすぐこちらを見ている。私に対して言ってきたのは間違いないのだろう。
「私がマスター? なんでまた、そんな」
「言っただろ、道中あんたらの身の安全は俺が保証するって。それに魔物が人間について行く時、人間のことをマスターって呼ぶのが常識になってんだ」
「へえ……」
 確かゲームでもそんな呼び名があったような、なかったような。ここは異世界と言うよりゲームの世界と言った方がしっくりくる場所なのかもしれない。
「あのさ、それはいいけどさ、なんで真だけ?」
「おいおい、お前までマスターって呼べって? 冗談きついぜ」
「なっ何だよその言い方は!」
 またしても喧嘩のようなじゃれ合いのような光景が見える。しかし、とりあえずキコももう疑心を抱いてはいないようだから、良かったということにしておかなければならない。
 それにしても変なメンバーになってしまったものだ。私は普通の人間だけど、キコは魂でハウアーは魔物。外見上は誰もが一般人に見えるけれど、蓋をあけてみれば異種族だらけのこの集まり。端から見ればどんなふうに映るだろう。遠ざかっていくのか、それとも笑われるのか?
 立ち上がると緑の光に包まれた森が私たちを歓迎してくれた。泉の水は光を反射してきらきらと輝き、鳥のさえずりは爽やかな風に運ばれて美しく周囲に響き渡る。地球ではもうあまり感じられなくなってしまったこの感覚を、どこなのかも分かっていない異世界で味わうことになるとは不思議なものだった。
「じゃあ、行こうか」
 私に続いてハウアーとキコも立ち上がる。その場を離れるように歩き出すと一人がついて来ていないことに気づいた。振り返ってみると、座り込んでいた場所で立ったまま動かない魂の少年の姿が見える。彼は、まだ魔物と行動を共にすることに不安を抱いているのだろうか。
「キコ――」
「真、それからハウアー!」
 彼は叫ぶ。
「絶対に魔石って物を見つけ出して、世界の平和を守ろうな!」
 とても素敵な笑顔で、静寂を粉々に粉砕するかのように。
 私の心配は杞憂(きゆう)だったと言うべきなのだろうか。それなら別に構わないんだけど、それでも、もう一つの心配事が再び甦ってきたようで素直に喜べない。忘れていたがキコは妙なところで使命に燃える熱血漢になるんだった。彼にとっては世界創造や世界平和の維持は自分に与えられた使命のように感じられたんだろう。それに振り回されるこっちの身の心配くらいしてほしいところだ。なんて言ったところで、きっと私の言葉は彼には届かないだろうけど。
 もういいよ。諦めたから。
「なんであいつがあんなに気合い入ってんだ?」
「放っておいてあげなよ……」
 これでキコが魔石探しに夢中になって本来の目的を忘れなければいいんだけど、その可能性だって充分にあり得るんだから油断はできない。私はつくづくキコなんか連れてくるんじゃなかったと思うものの、その後悔が長続きすることは滅多になかった。
 人間と魂と魔物。誰が聖で誰が悪かだなんて、きっと何者にも決められない。
 知ったかぶりだ、と言われるだろうか。あるいは自惚れだ、と言われるだろうか。私はそれらの非難に対して、何か一言でも言い返せるのだろうか。
 始まったばかりで分からないことだらけの道を歩んでいるけれど、誰かと仲良くすることはそんなに嫌いじゃない。確かにあまりにくっつきすぎることは嫌悪を覚えるけれど、お互いを仲間と呼び合うくらいの気軽な付き合いならとても楽しい。近づきすぎることはいけない――なぜなら関係を失うと深淵(しんえん)に放り込まれてしまうから。すると今度は出られなくなって、諦める他には光がなくなってしまうから。
 それでも今、私は光を見たような気がしている。その光がどこへ向かっているにしろ、少しくらいは信用しても許されるはずだと思わせてほしい。
 森の中の静かな道を、三人は歩いていく。

 

 

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