月のない夜に

 

 

 様々な誘惑、安堵への道程、快楽との葛藤。思い返せば自分は、そういった低俗な迷いの只中で、たった一人きり息を荒げながら、必死になって抗おうとしていたように思えてくる。周囲の人間は堕落に身を任せ、怠惰の中に生きることを常としていた。だけど自分はその中に取り込まれたくはなく、すでに無くなった理由を盾に、奴らの思惑から逃れようと走っていたんだろう。
 そうして得た平穏は、どこを見回しても甘いことばかり。
 異世界に住み着いて高校へ通うことになって、もうすでに一年が経過しようとしていた。まさかここで異世界に縁のある奴と知り合いになろうとは思っていなかったが、今はもう彼らのすべきことは終わり、愛すべき者の葬儀と呼ばれる決別もすっかり済まされてしまっていた。
「なあラザー」
 休みの時間になると必ずと言っていいほど誰かが寄ってくる。別に話すことなど何もないのに、ここの世界の連中はお喋りが非常に好きらしい。そうしてもたらされる情報は大抵どうでもいいことばかりであり、彼らは本当に平和ボケした連中なのだとつくづく感じさせられる。
 今回近寄ってきたのは、別の世界で兵器と呼ばれていた少年――川崎樹だった。
「あのさあ、悪いんだけど、昨日の数学の課題見せてくれない?」
「ああ? なんでだよ。お前はそんなことすら自分でできないのか?」
「いや、ちょっと答え合わせをしようかな、なんて……思ったりしたんだよ……うん。駄目、かな?」
 樹は昔から勉強が苦手らしい。特に嫌いなのが数学だとか言っていた。俺からすれば、あんなものはただの数字のパズルだ。解けない方がおかしいんだ、と思ったりするが、彼は欠陥品の兵器として創られたから頭が悪くなったということらしい。そして今はその呪縛から解放され、新しい道を自らの手で切り拓いている最中なんだとか。
「仕方のない奴だな」
「あ、ありがとうラザー! 恩に着るよ」
 俺がノートを手渡すと、相手は相変わらず安っぽい台詞を吐き出し、自分の席へすごすごと帰っていった。そんな言葉など少しも望んでいない。俺がもっと欲しいのは、そんな紙のように薄っぺらい、口の上だけの同情じゃないんだ。
 この世界での時間はとてもゆっくりと進んでいるように感じられる。実際別の世界と比べると時間の進みが遅い世界なのだが、なんとなくそれだけじゃなくて、他の要因がそう感じさせているような気がした。たとえばこの争いのない平穏だとか、つまらないことで頭を抱える一般人の姿だとか。そういった何の装飾もないものを眺めていると、過去にあった全ての事が夢のように感じられ、もう二度と現実に戻れないような錯覚さえ感じなければならなかった。その感覚だけは永遠を語っており、そうすると俺は自分の心臓にナイフを突き刺したくなってくる。冷たい刃が心臓に食い込む衝撃を直に感じ、眠っている興奮を呼び覚ますことによって俺はまた現実に帰ってくる。師匠は俺のその行為を憐みの目で見てくるが、今の俺にはそうすることでしか自分を感じることができなかった。他の陳腐な方法じゃ何もかもが中途半端で、結果として夢と現実の狭間に放り出されてしまうだけだった。俺はここで息を吸い、ゆっくりと吐き出していく。そうすることだけで生命の鼓動を聞くことができるなら、これほどまでに空虚を感じることもないのだろう。
 学校で勉強をしている時間も、つまらない話をしている時間も、長い久遠の中ではほんの一瞬間にすぎない。今日もまたその時を葬り、俺は師匠の家に帰ってきた。
 小さな木造の小屋の前でふと思い出す。そういえば、学校から出る前に同級生の薫が何かを言っていた。確か明日、暇だから師匠の家に遊びに行きたいだとか何とか。薫が来るのなら幼馴染である樹も来るんだろう。そして樹が来るということは、樹の家の居候であるリヴァセールも来るということなのだろう。
「やあやあ、おかえりラザー君」
「ああ」
 師匠――カイは机の上の花の水を替えていた。今週は赤い花を飾ってある。花の名前なんかいちいち覚えていないが、それは今まで見たどの花よりも儚げで美しい花だった。
「花にはちゃんと水を与えないとね。俺たち人間が花の命を掴んだなら、それはもうすでに俺たちの責任ってことになる。それを弄ぶような真似はしちゃいけないよ、ラザー君?」
 なぜそれを俺に言う。
「君って本当に生命の重さを知らないんだからさぁ」
 赤い花びらに触れながら、こっちを見もせずに師匠は言った。生命の重さだって。そんなことくらい知っている。ただ分からないのは、その生命をなぜそこまで守ろうとするかということだ。どうせいつかは果てる命なのに、無理に生き長らえてもいいことなんか起こりはしない。人間はそれさえ理解しているはず。それなのに生命を尊重し、慈しみ、許しを請うように守護することは、滑稽という域を超えてむしろ美しい事柄だった。そんなただ綺麗なだけのものなんて、俺のような人間に理解できるわけがないだろう?
「明日は土曜で学校が休みなんだ。それで、樹の幼馴染の薫が家に来るとか言っていた」
「へえ、薫君って確か、夏祭りに一緒に行った子だろ? 俺はあの子は好きだなー。どうせなら泊まっていけって言っとけよ、ラザー」
「なぜそうなる」
 あいつに振り回されるとろくなことがない。だけどこの世界の住人特有の気楽さが感じられ、俺は彼に対し苛々することはさほどない。
「薫が来るってことは、樹やリヴァセールもおまけについて来るということなんだぞ」
「だろうね。けど、いいじゃん楽しくて。君もさぁ、たまには何もかも忘れてパーっとやったら?」
「何もかも?」
 師匠の気楽そうな返答に俺は眉をひそめる。何もかもとは一体何を指しているのか。俺は何を忘れれば、終わりのない悩みから解放されるというのだろう。そんなことは不可能だとすでに分かっている。この命に終焉が来る時こそが、あらゆる苦しみや悲しみから飛び立つことのできる時だ。それまでは内に描く負の感情全てと背中合わせに歩かねばならない。誰の手にも触れられず、自らの足跡をじっと凝視せざるを得ない暗闇で、流れる時に追われながら何かを追いかけなければならない。それら全てをほんの刹那だけでも忘れられ、快楽に小さな手を伸ばしたとして、そこから得られる幻想が何だというのだろうか。
「そんなもの、ありはしない。いい加減つまらない理想論ばかり押し付けるのはやめてくれないか」
 ほんのちょっとだけ相手を睨むと、師匠は驚いたような表情を作った。
「反抗期だねぇ」
 小さく呟かれた言葉を無視し、俺は自分の部屋へと一人足を向けた。

 

 

 机の上に一枚のクッキーが置かれてあった。クッキーにはあまりいい思い出がない。組織で過ごしていた頃、これは仕事の合図に使われていた。具体的な内容としては、意外と手こずるから手を貸せ、というものだったか。
 誰がこんな物をここに置いた? また師匠が暇つぶしに作ったのだろうか。しかし、だったらそうだと一言でも言ってくれればよかっただろう。それが何の連絡もないということは、あいつが置いたわけではないのだろうか。
 とりあえずそれを手に取り、じっと眺めてみる。どこかの店で見たようなチョコチップクッキー。組織ではこんな洒落た物は見たことがなかった。いつだって何の飾り気もない、所詮合図にすぎない代物だったから。そうして組織のことを思い出してしまうと、この美しく着飾っている一枚のクッキーが、非常に安っぽい嫉妬の結晶のように見えてくる。
 何気なく口に運び、淡い味を舌の上で感じた。ぼんやりと空を見つめると、自分は今、昔憧れていた世界にいることにふと気付いた。何も隠す必要のない、自由の溢れる輝かしい空っぽの世界。俺はその中で息をして、過去に無理矢理口に入れられたクッキーを自らの意思で食べている。人はこれを幸福と呼ぶだろうか、俺はこれを運命と叫ぶだろうか。
「……ん」
 口の中に何か硬い物が入っている。クッキーの中に石でも紛れていたのだろうか。そういえば組織でもこういうことってあったな。そういう時はいつも、それを焼いていたティナアのおばさんにわざわざ文句を言いに行ってたっけ。
 石のような物を口の中から追い出す。指の間に挟まっているのはとても小さな黒いガラスの欠片だった。窓越しの陽光を浴びてきらりと光る。ちょうどいい、明日には樹が来るだろうから、その時にこれを渡してやろう。あいつは力石と黒いガラスそのものであるんだから、俺が持っているよりも安心できるだろうから。
 ――違う。何を考えているんだ、俺は、現実から目をそらす気か? そして後悔することだってもうすでに分かっているだろ。この黒いガラスは確かに組織で使われていた物。舞い戻ってきた物に気付き、平気でいられないことが怖いのか? なぜ? 今までだって、ほんの一瞬間だけでも、あの場に怯えなかったことなどなかったはずだ。そうだろう、そうだっただろ? そんなことを今更怖がっても、俺にはどうすることもできないのだから!
 電話が鳴る。リヴァセールに持つことを勧められた携帯電話。相手は誰だか知らない。確認する気にもなれなかったから。
 たった一つのボタンを押すだけで、俺の周りの空気が大声で嗤い出した。
『あ、ロイ?』
 この声。誰だ。なぜその名で呼ぶ。
「……ヨウト、か」
『そうだよ。久しぶりだね。今日はちょっと天気が悪いよ。そっちはどう?』
「快晴。うるさいくらいに」
『そう、それは残念だね。晴れの日ってどうにも調子出ないでしょ?』
「夕方くらいからなら普段通りだ」
『さっすがロイ。僕は夜しか思うように動けないや』
 機械を通じて話すことは、幾らかの安心と恐怖を俺に与えてくれる。
 怯えないで。脅さないで。
 もう俺に言葉を投げかけてくれるな。
「何か用事でもあるのか」
『サクが君に会いたがってるよ』
「嘘ばかり言うな」
『嘘だなんて失敬な。彼女は君を愛しているんだよ。それくらい知っているでしょ?』
「愛しているだって? そんなもの、嫌悪の間違いだろ」
『相変わらず酷い人だね、君は。彼女の愛は純粋だよ。今だって君のことを深く想っている』
 馬鹿馬鹿しい。サクは俺のことなど好いてはいなかった。これは明らかにヨウトの嘘だ。そんな汚いもの、もう二度と見せて欲しくなかったのに。
『本当に酷い人だよ、君って人は。僕は君のその鬼のような残酷さが怖かったよ。君ってどんな人間に対しても、平等に刃を突き立てるんだもの。どれほど相手が泣こうとわめこうとおかまいなしで。それでもサクは君を愛してるんだって。君が好きなんだって。僕は、正直どうでもいいんだけどね、君のことなんて。だけどサクの思いは本物だ。それなのに君は、君って奴は、赤い目の女性を愛し、精霊アニスを愛し、警察の男を愛し、黒い髪の異世界人を愛している。そして今度は兵器を愛するの? 君の愛は愛じゃない。それは君に逃げ場を与えるけど、君はそれさえ除去しようとしている。そうして見失った愛は決して逃げ場には戻らないよ。分かる? 君がどうすればいいか、ねえ、君にはそれがちゃんと分かっている?』
「黙れよ。カイに話すぞ、お前から電話がかかってきたこと」
『ああそうだった、君はそのカイって奴のことも愛してたんだっけ』
 愛することに対する後ろめたさはない。ヨウトの言っていることは全て否定できない事実だった。俺は今まで、組織にいた連中には考えられないような感情を抱いてきた。だから今の相手に俺が何を言ったとして、彼らはそれを理解することができないだろう。奴らはすでに感覚も感情も死んでいるから、怠惰の底から這い上がってきた俺の思いは、いくら解説したって奴らの胸に響いたりはしない。
『まあそう怒らないでよ。クッキー食べた?』
「ああ」
『じゃ分かるでしょ。仕事の話だよ。そっちの世界にエダが行ったからさ、彼を手伝って欲しいって、クトダム様が』
 ここでなぜあの人の名前が出てくる。いつも命令を下していたのはティナアかケキだったじゃないか。それに、なぜエダが動いている? 彼と直接話をした機会は多くなかったが、あいつは確か組織の事務を仕事としていたはず。そんな奴が自ら動くなんて、一体何を考えているんだ?
「それも嘘か。お前、いつからそれほどの嘘つきになった?」
『えええ、嘘じゃないってば。分かったよ、君がそこまで疑うんなら、明日君の元に証拠の品を持って行ってあげるから。そうだ、その時にサクも誘うよ。サクは君に会いたがっているからね』
「来なくていい」
『行くよ、行くよ、必ず行くからさ。君が居候している、カイさんの家のすぐ傍まで行くよ。君は家の外で待っててよ。いい? 明日の夜だよ。忘れないでね。じゃあ、切るよ』
「あ、おい……」
 電話が切れる。後に響くのは言い様のない不安感だけ。
 明日だって。明日は薫や樹たちが来る日じゃないか。そんな日の夜に組織の連中と密会しろというのか? ようやく掴んだ光の溢れる生活の裏側で、誰にも覚られず闇の住人と仕事の話をしろというのか? そんなこと……できるのか? 本当に、誰にも気付かれず、そんなことが可能なのか?
 いいや、きっとありえない。そうだ、この家にはあいつがいるじゃないか。あいつなら、カイなら、俺の隠し事をどんな時でも見破ってきたじゃないか。俺の不安からくる普段と異なる手や足の動きを、何気ない癖を、言葉の端々に潜む焦りを、あいつはいつだって的確に指摘してきた。そうして口をつぐんだ記憶はいくらでもある。今回もまたそうなるに違いない。そう、奴らの計画は失敗に終わるんだ。失敗に――何事もなかったかのように、全て闇に葬り去られ、永遠に押し潰されて、消滅する。
 なんだ! そんなことなら、何も恐れることなどないじゃないか。これなら明日もあいつらと普段通りの顔で会うことができるだろう。そして作っていく光の物語を、俺は心のどこかで待ち続けていたんだ。
 待ち続けて。待ちくたびれて。
 疲れている? いいや、そんなことはない。だけど身体はだるく感じられる。夜になるまでまだ時間はあるけど、もう眠ってしまおうか。そうしたらきっと師匠が心配する。どこか体の調子が悪いのかって。そうなったら、もう全て終わりだ。俺の携帯にヨウトから電話がかかってきたこともばれて、あいつが俺に力を貸してくれるだろう。そう……あいつが味方にいる。俺の裏には、クトダム様じゃなく、ティナアでもなく、一般人のように見えるスーリにそっくりな男がいるだけだ。それだけで安心できる。それに、いざとなれば警察の中で唯一信頼できるヤウラの所にでも逃げ込めばいい。あいつだって俺をはねつけたりすることはないだろうから。
 大丈夫。俺にはまだたくさんの逃げ道がある。そしてそれらは俺に対して扉を開けて待っている。誰も俺が逃げることを邪魔することはできまい。
 ごろりとベッドの上に寝転がると、窓から差し込む光が目に入った。かつて眺めていた窓とは違って大きなそれはたくさんの光を取り込み、俺のような人間にも等しく光を与えてくれる。それは喜ぶべきことなのだろう。こんな世界で――かつては汚いとさえ思っていた世界の中で生きられることを、俺は感謝しなければならないのか。
 すっと目を閉じると暗闇しか見えなかったけど、俺はもうそれに怯えることはなかった。何も恐れることなんてなくて、だけど一握りの不安は覚えたままで、薄れゆく意識の中どこかから流れる音楽にじっと耳を澄ませていた。

 

 

「やっほーい、ラザー!」
「ああ」
 事は俺の思惑通りに進んでいた。
 翌日になると薫が樹とリヴァセールを連れてやってきた。どんな方法でこの日本に存在しない家に来たのかは知らないが、きっと樹かリヴァが巧いことやったのだろう。まさか一般人である薫の前で呪文を使うなんてことはしなかったはずだが、そういう小細工はあの二人は非常に得意そうだ。
「昨日は薫を俺の家に泊めて、あいつが寝てる隙に呪文でこの近辺まで飛んできたんだ」
 薫が師匠と話している間にそっと耳打ちしてくる樹。しかし、なかなか強引な方法であいつを運んできたらしい。昔の出会って間もない樹では考えられないことだった。俺が睨みつけただけで縮こまっていた彼の姿がもはや懐かしく感じられる。
「ラザーはずいぶん清々しそうな場所に住んでるんだなぁ。俺の家なんかさ、どっちを向いても他人の家しか見えないんだぜ」
「まあ日本じゃそうなるのも仕方ないよな……」
 薫は何やらこの景色に感心しているようだった。右も左も緑の草しか見えず、長い時間をかけて歩かなければ近所の森にも辿り着けない場所。日本に住む人はこんな何もない草原に憧れるのだろうか? 文字通り目新しいものなど何もない場所なんだから、特にメリットなど考えられないんだが。
「まあまあ、立ち話もなんだし、君たち家の中に入りたまえよ」
 人の好さそうな笑顔で師匠は俺たちを家の中へと促す。その言葉に素直に従い、日本の高校生四人はカイのボロ家に入っていった。
「君たち朝食は?」
「俺はまだ食ってないな。なんか寝てる間に樹の奴に引きずられてたみたいだから」
「いや、引きずってはないって」
「ふうん。じゃ、ちょっと待ってな」
 カイは二人の言葉を聞くと奥の部屋へ引っ込んだ。きっと朝食を作るためだろう。俺はすでに椅子に座っていたリヴァセールの隣に座り、樹と向き合う形となる。
「あれ、これってカーネーションじゃん」
 ふと樹の横に座っている薫が声を漏らす。その目は机上の赤い花に向けられていた。そういえば以前カイがそんな名前を口にしていたような気がする。
「ラザーって親はいないの?」
 気付けば純粋な黒い目が俺の顔を眺めていた。
「そりゃ昔はいたんだろうな。けど、そいつらがどんな奴かは知らない。どこにいるかも知らなかった。それを知っても会いに行こうだなんて思わなかっただろうし」
「なに、親子喧嘩でもして家出したの?」
「俺は捨てられてたのさ」
「ありゃ……」
 正直に話すと薫は手で口を押さえ、すっかり静かになってしまった。聞いてはいけないことを聞いたとでも思っているのだろうか。確かに親に対していい感情は抱いていないが、そんなものはもうすっかり薄れてしまっている感情だ。今更親の話をされたって、嬉しくなることも悲しくなることもない。
 そんな俺の様子を樹は心配そうに見つめていた。また他人の事に気を遣っているのか。こいつは昔からそればかりだ。何でも自分を後回しにして、まず他人の幸福のことを念頭に置く。そうして動いた結果は、皆に『お人好し』と呼ばせるには充分な効果のあるものだった。そして本人はきっと、そういった自覚さえ持っているのだろう。
 彼は光。かつて精霊に「闇がない」と言われたらしい。その真相は黒いガラスの反対に位置する物質である力石の魂だったから。純粋な心から放たれる溢れんばかりの白い光輝は、俺の中の静かな殺気をも押し流してくれる心地いいものだった。
 穏やかな平和の終わりに、俺はまた闇の人間と対峙しなければならない。もしも彼がこの約束を知ったなら、俺を力ずくでも止められるだろうか。
 そっと手を懐に忍ばせる。
「ねえ、ラザーは手伝わなくていいの?」
 すぐ隣から声が頭に届いた。それは若き警察の幼い声。そちらに顔を向けると、まっすぐなリヴァセールの瞳が俺の顔を不思議そうに見つめていた。
「何を手伝うって?」
「何をって、師匠さんは朝食を作ってくれてるんでしょ?」
「なんで俺があいつを手伝わなければならないんだ」
 あいつは好きでやってるんだから放っておけばいい。わざわざ俺があいつの趣味に手を貸す必要などないじゃないか。こいつはそれも分かっていないのか?
「もしかしてラザー、壊滅的に料理が下手とか?」
 すかさず口を挟んでくる薫。
「誰が、下手だって?」
「あれぇ、もしかしてラザーくん怒った?」
「頼むから喧嘩しないでくれよ、薫にラザー……」
 すぐさま慌てた様子の樹の声が飛んでくる。こんなことで喧嘩なんかしない。それなのに樹は相変わらず心配性で、まだ俺の性格を勘違いしているようで呆れてくる。
 だけどこの平穏が心地いい。
 俺がちょっと笑ったのを見て、樹はほっとした表情になった。薫もまた普段通りの笑い顔に戻り、リヴァセールだけがぼんやりと心を置き去りにしたような顔をしている。そして彼らを見る俺の顔はどんな色をしているだろう。かつて警察の男に与えたこの花は、まだ咲き続けているのだろうか。
 懐から手を出すと、それは一つのナイフを握り締めていた。
「料理くらいなんてことはないさ。あんなもの、刃物の扱いが長けてたら、誰だってすぐに上達する」
「あの、ラザー、そのナイフは何?」
 再び心配に包まれた樹の声によって、俺は少し調子に乗ってきたのかもしれない。銀色に煌めく美しい刃を持つナイフを机上に置き、もう一つ、安物の粗い刃のものを横に並べた。
「樹、お前はどっちがいいと思う」
「へ? どっちって――」
 口から出てきたのはなんとも馬鹿馬鹿しい問いだった。一つは俺の相棒、一つはただの使い捨て。手に持った感触も、鋭い刃の切れ味も、ナイフ全体から伝わってくる振動も、何もかもが異なっている二つ。さて、光の魂はどちらを良いと感じるだろうか。その予感を俺に教えてくれ。
「俺はこっちが好き、かな……」
 彼が選んだのは安物の方だった。
 樹らしいと言えばそうなのかもしれない。彼は貧乏な生活をしているから、何かが彼をそうさせたのだろう。しかし、目に見えて触れられる物ですら素朴を選ぶというのなら、彼の中の光は全て質素なものでできているのだろうか。樹はこれまでの人生のせいで、豪華なものを受け入れられない体質になったのだろうか。
 ……これまでの人生のせいで? 受け入れられない体質? いや、俺は。俺は、もうそこから脱出したはずじゃないか。
「何言ってんの。断然こっちでしょ。ねえラザー?」
 横から体を乗り出してリヴァが割り込んでくる。彼の指は安物を無視して鋭い刃に向けられていた。そういえば彼もまた短剣を扱うことが多かったな。そういう辺りは上官であるヤウラにでも習ったのだろうか。
「そう。樹が選んだ方は安物で、使い捨ての他に用途はない。でもこっちはもうずっと昔から使っているんだ。切れ味だってまったく比べ物にならない。試してみるか?」
 安物の方を右手で握り、ついでに樹の手を左手で掴む。
「ラザー、何を……」
 彼は突然怯えたような目でこっちを見てきた。
 ――この目。忘れていた目。記憶の隅の暗い所で、ひっそりと俺に脅しをかけてくる威圧的な目。それは干渉だ。それは雪辱だ。俺はそいつに仕返しがしたくて、樹の手にナイフの刃を力任せに押しつけた。
「ラザー!」
 手の中に収まっていたナイフは、少し気を抜いた隙にリヴァセールに奪われた。
「あ、あれ。切れてない」
 そして驚き戸惑う樹の声。
 最初から彼を傷つけるつもりなどなかった。何の意味もなく傷をつけることなんて、この世界で生きていくにはあまりに無謀すぎることだから。
「言っただろ、そいつは安物だって。もうその刃は何も切れない。何かに痛みを与えることもできないから、俺には必要のない物だ」
 ひょいとリヴァの手からナイフを奪い、そいつを樹の手元に投げた。
「やるよ」
「え? あの……」
「せっかく家まで来たんだ。記念に、取っとけ」
 樹は不安げな表情のまま、俺からの贈り物をぎゅっと握りしめた。
 その裏には黒いガラスの欠片が付いている。昨日クッキーの中から出てきた、おそらく組織の物であるだろう欠片。樹の体には黒いガラスも使われていたらしいから、これで持ち主の元へ返すことには成功した。後はもう、何も考えなくてもいい。
「えー、俺にもなんかくれよ、ラザー。樹だけなんてずるい!」
「ああ?」
 妙なところで文句の多い奴だ。薫は不満げな瞳でこっちを見て、駄々をこねる子供のようにわがままを言う。しかし、何をやればいいというんだ。別に一般人に分け与えるべき有益な物など俺は持ち合わせてなどいない。
 仕方がないので赤い花――カーネーションという名のそれを花瓶から取り出して銀の刃で短く切った。今も昔も変わらない切れ味で、俺は酔ってしまいそうになる。
「ほら」
 茎の短くなった花を薫に向かって放り投げた。
「あれ、これ、いいの? 俺は遠慮なく貰っちゃうよ?」
 なぜかニヤニヤしながら言ってくる薫。何がそんなに可笑しいのだろう。俺が師匠のインテリアを崩したことが滑稽だったのだろうか。そんなこと、俺は芸術家じゃないんだから、笑うべきことでもないはずだろう。
「やあやあ皆さんお待たせしまし――」
 部屋の奥からすっとカイが現れる。相変わらずの胡散臭い笑顔を顔に張り付けていたが、彼の青い目が俺の手の中にある物を捉えると、彼はぴたりと動作を止めてしまった。
「……今度は何をやったんだ、ラザー」
 今度はとは何だ、今度はとは。
「ラザーが俺にこの花をくれたのさ」
 そう言って赤い花を見せびらかす薫。その動作は非常に若々しい。
「お、お前、俺がせっかく母の日の為に町で買ってきたカーネーションを!」
 なぜか涙目になって肩を揺さぶってくる師匠。何なんだこいつは、わけの分からないことで怒っている。そもそも母の日なんてまだまだ先のことだ。こいつは今日が何月かさえ分かってないんじゃないだろうか?
 とりあえず師匠の手を振り払うと、相手は意外にも素直に大人しくなった。普段からこれくらい従順なら疲れなくて済むのに。
「本当に仕方のない子だなぁ、お前は。そんな簡単に花を切ったりしちゃいけないんだぞ。この花だって生きてるんだからさ。それは分かってる?」
 そんなこと、いちいち知ったことじゃない。俺は樹みたいなお人好しじゃないんだから、善人じみた不器用な真似なんてできるわけがないんだ。
「そうやって何でもかでも自分の思い通りにしようとする辺りが腹が立つ」
「俺はお前の為に言ってやってんだぞ。子供は素直に大人の忠告を受け止めるべし!」
「ふん、何が俺の為だ。単にお前の理想を押し付けてるだけじゃないか」
「そうやってすぐ怒るのも直さないといけないな」
「ああ? お前だって怒ってんじゃねーかよ」
「何を――」
「ま、まあまあ二人とも……」
 師匠との口論の中に気弱な声が混ざってくる。それを発した兵器の少年は俺たちをなだめるような穏やかさを持つ瞳で、緩やかな傾斜を描く温かな心を目の前に示してきた。
 その場は樹のおかげで殺伐とした結果は逃れられ、師匠の作った簡単な朝食を仲良く食べることとなった。食事となれば誰もが幸福そうな表情で馴れ合い、そんな様を俺はただ一人、切り離された空間から見つめる傍観者のようにじっと眺めていた。
 そうしてこの何もない時間が、ずっと続いていけばいいと思っていたのだろう。

 

 

 

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