月のない夜に

 

 

 夜の闇は俺の心を落ち着かせるには充分だった。やはりまだ昼の光は俺には眩しすぎるようで、いつだって心が弱ったら夜の中に逃げ込んでしまう。今日はそんな黒い空に彩りを与える月や星の光さえ見えず、そのまま世界は暗黒に包まれてしまえばいいとさえ思える静けさだった。
「あれ、ラザー」
 玄関のドアを開けようとすると、背後から小さな声が聞こえてきた。それは俺の名を呼んだ。警戒などせず普通に振り返って確認すると、幼げな銀色の瞳がぼんやりとこちらを見つめていた。
「こんな夜中にどこ行くの?」
「散歩」
「ふうん……」
 相手は眠そうにあくびをする。
 今でこそ眠気で物事が理解できていないようだが、翌日になればこの俺の行為は不可解なものとして相手の目に映るだろう。そうでなくても家の傍でうるさく話し合っていれば、いくら鈍感なカイでさえ奴らの気配には気付くはずだ。俺はすでに幾つかの罠を手にしている。これらに誰かが引っ掛かるのは、もう時間の問題なのだろう。
 何も怯える必要なんてない。誰に何を言われようと、構うものか、俺は俺を貫き通してやるまでだ。そういった覚悟なら、組織を抜け出したあの日から持ち続けているはずだった。目に見えない物を信じられるようになってから、一体どれほどの月日が流れただろうか。
「気をつけてね。おやすみ」
 それだけを言って相手は――リヴァセールは部屋の奥へと引き返していく。さあ、後はもう奴らに会うだけだ。どんな仕事を押し付けられても、何食わぬ顔で聞き流してしまえばいい。いくら怒られようと、苛まれようと、立ち上がれないくらい踏み躙られたって、まるで傷つけられたことにも気付いていないかのように知らんふりをしていればいい。奴らを驚かせる必要もなければ、喜ばせる義務だってない。俺はもう二度とあの場へ戻らないと約束したのだから、その誓約を無駄なものにしてしまわないようにしなければならない。
 すっとドアノブに触れる。それは木でできているのに石のように冷たかった。だけどちょっと落ち着くと木の温かさが伝わってきて、俺自身がどうかしているのだとようやく気付いたほどだった。
「やあ、ロイ」
 開いた扉の向こうには、ヨウトが昔と変わらぬ顔で待っていた。
「ロイ、会いたかった。会いたかった」
 続けざまに抱きついてきたのはサク。彼女のピンク色の髪は昔よりはるかに長くなっており、それを見た途端に俺は少しだけ驚いてしまった。
「本当に、長い間、あなたのことを待っていた」
 ああ、この声。懐かしい声だ。サクの口から発せられる、一つとして本当のことなど混じっていない、偽りの支配する声。
「そう、あなたのことを――待っていた」
 胸と背中に重みを感じる。
 俺は一歩外へと踏み出し、開いたままだった扉を閉めた。すると前のめりになっているサクが俺の体をぐっと押して、俺は木のドアに背中を擦りつけるようにしてもたれかかった。
 抱きついてきたサクの片手には、俺がよく使っていた少し大きめのナイフが握られていた。そしてその刃は今、背後に回されたサクの手により、俺の背中を容赦なく突き刺している。
 馬鹿馬鹿しい。こいつらはまだこんなくだらないことばかりを繰り返しているのか。他のものに目を向けようともしないから、いつになっても怠惰を心地いいと感じられるんだ。
「ねえ、どうして刺されたか、分かる?」
 同じ姿勢を保ったままで、サクは静かに訊ねてきた。
「知るか」
「だってあなたが私の弟を奪ったんだもの。私あなたが好きよ。大好き。だからあなたが奪った弟を返して欲しいの。そこから永遠が見えるはずだから」
 ……こんな言葉は久しく聞いていなかった。奴らの言葉はでたらめで、まるで意味が通っていなくて、その空虚さが逆に動的で、俺の頭をさっとよぎって消えていく。いつの間にこれらの言葉に対する免疫がなくなったのか、サクの台詞を聞いた瞬間にぞっとするような寒気を感じた。
 駄目だ。懐かしく思ってはいけない。そんなことを考えたなら、俺はまた奴らの毎日に食われてしまう。もうここへは戻らないと決めたのだから。二度と深淵のせいで大事なものを失わない為に。彼らの思惑はすでに死んだものだと分かっているんだから――。
「ロイ、君の傍には兵器の少年がいるよね」
 横から口を出してくるのは青い布に身を包んだヨウトだった。幼い声と喋り方は、相手を油断させるにはもってこいの材料だ。だけどそれが効くのは一度きり。策略を覚えられたなら、また新しいものを捻り出さなければならない。
「あいつはもう兵器じゃない」
「確かにそう言うことも可能になったね。でも、彼は根っからの兵器であることに変わりはない。だって改造された魂は、直ぐには元に戻らないもの」
 こいつらは俺だけでなく、樹のことまで執拗に調べていたのか。樹は俺たちを巻き込んで迷惑をかけたと言っていたが、これでは俺が樹たちに迷惑をかけているんじゃないだろうか。ちょっと仲良くなっただけで俺のことを平気な顔して「仲間」だなんて呼んでいるあいつらに、俺は取り返しのつかないことをしているのでは――いや、よそう。過去に起こったことは変えられないのだから、今更嘆いたって仕方がない。それよりも、今はこいつらだ。可能な限り、樹たちに干渉させないようにしなければならない。
「そう睨まないでよ。君が黙って大人しくしているなら、クトダム様だって彼らにちょっかいを出すことなんてしないはずだよ、きっと。ところでサクが怒っているのはね、その噂の兵器君の家にさ、居候してる人がいるでしょ? 彼がサクの弟なんだって。昔に生き別れた、血の繋がっていない弟だってさ」
「居候……」
 思い当たる人物が頭の中で影として蘇る。まさか、弟とはリヴァセールのことか? そういえば、いつだったか樹に彼についての話を聞いたことがあった。彼はどこかの家に拾われて、そこで虐待じみた扱いを受けて、年の近い姉と別れたんだとか言っていた。その姉がサクだというのだろうか。しかし、それではあまりにも……いや、そうだとしてもあり得る話じゃないか。俺は何を否定しようとしている?
「どうやら心当たりがあるようだね、ロイ」
「心当たりがあったとして、それがどうだって言うんだ、お前らは」
「どうって、それこそがサクが君を刺した理由なんじゃないか。せっかくそれを教えてあげたってのにさ、君ってば本当に昔と全然変わってないんだね」
「変わってないだって? 変わってないのは俺じゃなく、お前らの方じゃないか。お前らは昔と変わってないから俺が変わったことに気付いていないんだ。お前ら自身が変わらなければ、周囲にある様々な変わったものに対して鈍感になって、何一つとして理解できない臆病者になるだけだ」
 俺は自分は変わったのだと信じている。俺を間近で見てきた真や師匠にも面と向かってそう言われたし、自分の中で何かが壊れていく感覚だって嫌というほど味わったのだから、組織の連中に否定されようと笑われようと、俺は俺自身の感覚を信じてみようと考えている。昔はそんなもの何も知らなくて、ただクトダム様の声を聞くことだけを愉しみとしていた。だけどそんな時代はもう通り過ぎてしまった。後に残ったのは壊された自分自身だけで、俺はそれを新たに一つずつ、丁寧に、気を配り、皆の中にあって俺自身の中にもあるものに近付けるよう、高く高く積み上げてきた。そうして完成を夢見るものはあの頃描いていたものと似ていて、だけど決して同一のものではないと分かっている。
 そして変わってないのは誰? それは俺じゃなく、こいつらだ。
「馬鹿だね。そういうふうに言う辺りが変わってないんだって言ってるんだよ」
 それでも否定してくるヨウト。何を言われようと、知るものか。こいつらに俺のことなど分かりはしない。
「あくまで反抗的な態度を取るつもり? だったら言わせてもらうけど、君は今も昔も、ある一つの言葉で相手を脅そうとする癖があるんだよ。その言葉が何だか分かってる?」
「勝手に言ってろ」
「分かってないんだね、でもそれは仕方のないことだね。だってそれは君自身を指しているんだもの。自分自身を貶める言葉なら、気付かないのも無理はない話だ」
 するりとサクが俺の体から離れる。今まで触れられていた部分が妙に温かく残っていて、それが非常に気色悪く感じられた。この感覚も長い間感じなかったものだ。誰もそうしてくれなかったのだから、仕方がないことなのかもしれないけれど。
 ――いいや。俺はもう戻らない。奴らは俺が戻ってくるのを待っているんだ。俺があの場に戻って、また同じ仲間として働くことを望んでいる。奴らの願望など知ったことか。俺は俺として生きているんだ、俺は奴らの駒なんかじゃない。かつては「組織のはしくれ」だなんて呼ばれていたけど、それはもうすでに終わったことじゃないか。
「いくら時が流れようと、いくら周囲の環境が変わろうと、君が君であることに変わりはない。君の望むものだって変化を知らず、君の厭うものさえ移ろいゆかない。だって君はロイだもの。名前だって、今はラザーラスだなんて名乗っているけど、君はロイと呼ばれて反応するだろ? それこそ君が君であることの大きな証明さ。君は今も昔も変わらない泥棒で、根っからの悪漢で、世の暗闇に逃げ込むことしかできない人殺しなんだよ、意気地のない臆病者さん!」
 言うな。何も言うな。聞きたくない。見たくもない。俺は耳を塞いだ。目も閉じた。だけどそこから見える暗闇が恐ろしくて、誰かが俺の手を引っ張ってきて、目を閉じることも耳を塞ぐことも許されぬこととなってしまった。
「何を恐れてるの? そんなに怖い? 心配いらない、また元通りになれるよ。だって君は君のままなんだもの」
「違う」
「違わない。違わないってことは、本当は君自身が最もよく感じていることなんじゃないの?」
「ちが――」
 唇に何かを押し付けられる。……息ができない。
「ねえ、君だって戻りたいって思っているんでしょう? クトダム様の傍に、快楽と安堵の中に」
 でたらめだ。でたらめに過ぎない。
 唇は解放されても、息ができるようになっても、目の前にいる子供の口は動き続けている。その奥から放たれる鋭い言葉は甘い冗談よりも何倍も甘くて、勧誘されることさえ悦の一環だと感じるようになってしまっては、今まで積み上げてきた様々な理想が破壊されてしまうに決まっている。逃げなければならない。この黄泉から無理に甦ってきた子供の言葉から、みっともないくらいに必死になって逃げなければ、本当にすぐに躓いて転んでしまいそうになる。それは、駄目だ。いけないことだ。だけど奴らは俺の目の前にいて、他の奴が俺の体を掴んで離さなくて、結局立ち尽くすことしかできない俺は、そろそろ「俺」と呼ぶことさえ限界に近付いている気がした。
「ねえロイ。意地を張る必要がどこにあるっていうの。遠慮はいらないよ、今の仕事だって教えてあげるから、組織に戻っておいでよ。君がいないとあの建物から火が消えたみたいで、まったく誰もが地べたを這いずり回って気色悪いんだよ。あの頃は楽しかったでしょ? 何も考えなくていい、ティナアさんの命令に従って、気が乗らなければ仕事をすっぽかし、苛々すれば周囲の人間を嘲笑えばいい。そして自分の中に芽生えるどうしようもない衝動は、ケキさんのように快楽の中に沈めてしまうか、君のように黒いガラスの力で砕いてしまえばよかった。これほど安泰なことはないよ。心が落ち着いていられる、心配事なんて些細なことで、一日中眠っていたって誰にも咎められない。そこには自由がある。決して責任の求められない、本当の意味での自由がある――そしてそれは君に対して心を開いているよ、君はいつだって戻っていけるんだ。だって、君はこっちの世界にいて、一体何を快楽と感じるの? なんにもないでしょう、こんなつまらない生活の中で、一体何を安堵とするの? そもそも安堵なんて必要ないでしょ、ちっぽけな望みしか持ち得ない人間に囲まれて、世の暗闇と光明の見分けもつかないボンクラに毒されて、永遠さえ忘れそうな時の中で漂っている君にとっては、安堵なんてすでにどこかに置き忘れてしまったかもね。なに、それが弱みになるわけじゃない。君がいくら忘れようとしたって、昔の君の姿を消し去ることはできないんだから。その証拠に、ほら君は、まだあの精霊の十字架を背負っている。そして君は、今も変わらず、クトダム様のことを腹の底から愛している。証拠の品は君の中に残っている――君が深淵にでも手を伸ばさない限り、それらを完全に破壊することは不可能なんだよ」
「うるさい――」
「咎めるの? 断るの、僕らの誘いを? それで後悔しようって魂胆? そして光に逃げ込むって目論み? そんなこと、君なんかにできるわけがないでしょう? ははっ、笑っちゃうよね」
「う、うるさ……」
 言葉がもう、出てこなかった。
 俺はこんなにも弱かった? 奴らの甘い言葉に騙されてしまうほど、平和な世界に慣れ切っていたんだろうか? 自分ではそんな世界に飽きを感じていたと思っていたのに、本当はすっかりその渦中に放り込まれて浸透してしまっていたのだろうか。
 ヨウトはすでに死んだ目でこちらを見上げてくる。いつも見ていた目。青い色の、生気のない、子供じみた幼い目。それが俺の思い出。俺の中に残る、決して消せない証拠の品。
 ああ、これが、全て夢の中の出来事でありますように。
「明日の夜から仕事だよ、ロイ。君の通っている高校の屋上でね、エダさんが仕事の説明をしてやるってさ」
 仕事。仕事なんて、紙の上にだけ存在する事実だ。それは架空の物語、想像上の未来でしかない。先の見えない未来なんて、要らない……俺も、ヨウトも、その他の誰もが、そんなものはこれっぽっちも望んじゃいなかったんだ。なのに、なぜ? なぜ彼らも俺も、そんな途方もない幻影に怯えながらも追いかけては破滅していくの?
「ロイ。必ず行ってよ。行かなかったら、君の周囲の人間がどうなるか、僕は責任なんて持たないよ。これは、そうだね、君自身の為でもあるんだろうね。僕はいつでも君が心配なんだよ。いつも誰かに依存しないと生きていけない君が、孤独のまま路上に放り出されやしないかってね、いつもそんな心配ばかりしていたよ。それもそろそろ終わりにして欲しいんだ。組織に戻ったら、またケキさんのとこへ行きなよ。きっと君を優しく包み込んでくれるはずだよ」
 優しさのない空間で優しさを語るなんて、ひどく滑稽なことをヨウトは言っていた。だけどそれを昔のように笑おうと思っても、俺は俺を保ちたかったから、内から湧き上がってくる言い様のない衝動をぐっと我慢して、震え始めた手をさっと背中に隠してしまった。
 偽りの見えない笑顔を残して、ヨウトはサクを連れて空中に浮いて消えてしまった。きっと組織に帰ったのだろう。今あの組織がどこにあるのか、俺はまだ知らないままだった。組織から追い出されて、あの人に「要らない」と言われてから、一度もあの場へ足を運んだことがない。
 ……あの人の声が忘れられなかった。今でもそれは鮮明に蘇ってくる。真っ暗な中で輪郭だけが見えて、俺と目を合わせてくれることもなく、ただ小さな声で「要らない」と言ったあの人。頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなって、絶望の景色をただじっと眺めるしかなかった刹那だった。全ての物が壮大に見えて、自分が世界に飲み込まれてしまうようで、美しく咲いた花が枯れ、襲ってくる孤独が怖くて逃げ出した。そして静かに変わっていく景色を見つけて、徐々に状況を理解し始めて、もう二度とはあの人に触れられないと、あの人に頭を撫でてもらうことも、あの人に抱き締めてもらうこともないんだと、理解したくもない事実だけが容赦なく俺を突き刺していった。そう、もう俺は、あの人の顔を見ることもできなくなった。大切だった人、尊敬していたあの人、いつだって変わらない、ただ一つの愛の形を捧げていたクトダム様。
 月も見えない夜の下、あの人の描いた世界を思い出す。
 海から始まり、陸に上がって、空を飛び、太陽を目指して消えていった生命の話。そんな世界を描いたクトダム様は、いつも温かな眼差しを俺に向けてくれていた。今だってそれを疑ったりなんかしていない。あの人は僕のことを、本当に愛してくれていたはずだ。悲しくて泣いていたら涙を拭いてくれ、苛々して八つ当たりしていたらふわりと優しく抱き締めてくれた。そして別れる時はいつだって、額に小さくキスをしてくれる。一度限り、唇と唇とが触れ合う接吻、それも記憶に留まっている。俺はあの人に恋をしていた。あの人の動作全てに、恋と表す他にはないような、そんな感情を抱いていた。もう増えることのない思い出。それは消えていくことだけは可能で、いつかは俺のこの感情も、すっかり色褪せて泥水の中に捨てられてしまうのだろうか。
 下に俯くとサクに刺された背中が痛んだ。刃物で切られたのも久方ぶりだ。痛いはずなのに痛くなくて、懐かしいはずなのに否定しなくてはいけなくて、もう一度あの人に会いたいという気持ちだけが大きくなっていく。あの人に会いたい。誰にも邪魔されず、過去のことは全て無にして、ただ温かかったあの瞬間を、思い出じゃなく直で味わいたい。だけど、それはもう不可能なこと。彼らがどこに住んでいるかも分からないし、会いに行ったところできっと、ティナアやケキに邪魔をされて追い出されてしまうだろう。そう、そうなんだ。僕はもう、あの人の傍に近寄ることも許されなくなってしまったんだ。
 それなら、ああ僕は、一体何を導として歩けばいいの……。

 

 +++++

 

 「ラザー、朝だぞーい」
 部屋の外から師匠の声が聞こえる。俺を起こしているつもりのふざけた声。今ではもうすっかり聞き慣れてしまったそれも、今日だけは重いメロディのように俺の頭にずしりと響いてきた。
 体が思うように動かない。全身がだるい感じがして、正直あまり動きたくなかった。それでもカイがそんなことを許してくれるわけがなく、普段のように布団を奪い去って強制的に起こしてくる。
「何やってんの。川君たちはもう朝食とってるよ」
「ん……」
 ごろりと寝返りを打つと、カイに背中を見せるようになってしまう。そういえば昨日の夜、サクに刺された傷があったはず。それを見ればカイだって気付くだろう。だから今日はもう、そっとしておいてほしい。
「こらこら、のんきにしてると薫君に怒られちゃうぞ?」
 傷について何も言ってこない師匠。まさか気付いていないのか? いや、そんなことはないだろう。だって相手はあの師匠だぞ、あいつがあれほど目立つ傷跡を見逃すなんてことは――。
「さっさと起きろ!」
 目の前に降ってくるのは銀の光。
「なっ、何すんだあんた!」
 思わず飛び起きてしまった。今まで寝ていたベッドに突き刺さっているのは刃物で、驚きのせいで体のだるさなんて全てどこかに吹っ飛んでしまった。
「ほらほら、ちゃっちゃと着替えて朝ごはん食べなさい」
「い、いや、それより師匠――」
「ん? なに?」
 なんだこいつは。普段は使わない刃物を持ち出したり、背中の傷に全く気付いてなかったり、昨日の組織の連中にさえ気付かなかったりして、何をぼんやりしてるんだ。
「背中!」
「背中? 背中がどうしたんだよ」
「いいから見てみろよ!」
「はあ?」
 ぼけっとしている相手に背を向け、服を脱いで上半身だけ裸になる。なぜ俺がここまでしなきゃならないんだ。師匠の奴がもっとしっかりしていたら、わざわざこんな面倒なことをしなくても済むはずなのに。
「何……別におかしなことなんかないけど?」
「馬鹿言うな、傷があるだろ」
「傷だあ? ラザーくん寝ぼけてんじゃないの?」
 寝ぼけてるのはそっちだろ。
「昨日、ちょっと色々あって……刺されたんだ」
「じゃあ夢の中で刺されたんだな」
 ……何だって、夢?
「で、でも」
「でもも何も、君の背中には何一つとして残っておりませんので、夢と現実とが分からなくなったんだろうね。えーと何だろ、ストレスのせいかな? ちょうど今日は休みだし、川君たちも遊びに来てるしさ、どっかに遊びに行ったりして、嫌なこと全部忘れてのんびりしてくれば?」
 何も残ってない。
 夢だったのだろうか。あの話も、あの苦悩も、あの懐かしささえ、全て俺の幻覚が見せる切望の形だったのだろうか。だけどそれを証明するものなんて――。
「……携帯」
「へ?」
 そうだ、携帯電話があった。あれには着信履歴が残っているはず。ヨウトからかかってきた電話の証。それが目に見えたなら、全ては夢じゃなかったことになる。
 全て、夢じゃなかったことに。
「携帯ならここに落ちてるけど」
「貸せ」
「か、貸せって君……。まあ貸すけどさ」
 師匠から携帯を奪い取る。着信履歴を見てみると、そこにヨウトからかかってきた電話の跡は残っていなかった。
 残っていない。
「あれ……」
 何も残っていない。
「なんだ、これは……」
 だったら、本当にあれは全て、ただの夢だったということなのだろうか?
「ラザー君?」
 だけど――そうだ。そもそも仕事で動いているのがエダだってことだけでも、充分に非現実的な内容じゃないか。あいつが組織の外に出ることなんて滅多になかった。普通に考えておかしいことを、俺は何を期待していたのだろう?
 こんな、ようやく得た平穏を壊すような期待。長い時間を犠牲にして獲得した、全てを元通りにするような巻き戻しの夢。あの暗闇の中に、あの怠惰の中に、戻りたいという願望なんか掲げていなかった。一つとして掲げていなかったんだ。それなのになぜ俺は、それを待ち続けていたかのように、あれを現実だと認識したのだろう?
 そう、師匠の言うように、あれは全て夢だったんだ。俺は悪い夢を見ていた。何か懐かしいものに触れたくなって、ありもしない現実を本気で信じようとしていたんだ。終わったことを掘り返して、かつて自分が生きていた姿をじっと見て、そうやってどうにかして今の自分を肯定したかったのだろう。……いや、でも、でも。本当にそうだっただろうか。本当に全てが夢の中の出来事で、俺には少しも関係のない、遠い場所で演じられた芝居だったのだろうか?
「ラザー君、早く着替えなさいって」
「あ、ああ」
 いつもと変わらず急かしてくる相手は、何一つとして理解していない。
 胸の内がざわついて落ち着かない。師匠を部屋から追い出して一人きりになると、俺は自身の胸に吊るされた十字架に懺悔をしたい心持ちになった。

 

 

「俺、知らなかったよ。ラザーって朝には弱かったんだな」
「……悪いかよ」
 普段着に着替えて広間へ足を運ぶと、そこにはすでに食事を終えた高校生三人が並んで椅子に座っていた。空いている席は薫の隣で、仕方がないのでそこに座ると、調子のいい声がすぐ横から俺の耳に響いてきた。
「まあラザーだし、行動が夜型なんだろうねぇ」
 続いて声を発したのはリヴァセール。その手にはミルクの入ったカップが握られている。
「そう言うリヴァだって夜型じゃん」
「まあそうだけどさ……ラザーよりは早く寝てるつもりだよ」
 普段と変わらない情けなさそうな顔で樹が話に入ってくる。しかし、こいつらは何の話をしているんだ。俺が朝に弱いことなんて、今に始まったことじゃないはずだろ。
「で、今日は何するの?」
「ラザーの家でくつろぐ」
「おい、ここは俺の家じゃねえぞ」
「細かいことは気にすんなって!」
 そう言ってけたけたと笑う薫。相変わらず何も考えてなさそうな奴だ。こんなこと、カイが聞いたらどんな反応をするだろうか。あいつはあれでこの家に対して異常な執着心があるからな。
「そういやさ、週明けに小テストがあったよな……」
「なんだよ樹、せっかく遊びに来てるのに勉強の話なんかしやがって。相変わらずというか、クソ真面目だねぇ」
「なっ、なんでそうなるんだよ。ラザーもテストのこと気になるよな?」
 突然こっちに話を振ってくる樹。テスト? ああ、そういえばそんなものもあったっけ。しかし、正直に言うと俺にとってそれはどうでもいいことだった。
「お前は自信がないのか?」
「そりゃ……まあ、全然勉強してないし」
「普段から真面目にやってたら、こんなに慌てる必要なんかないんだよ、樹」
「そう言うリヴァは自信あるのかよ」
「自信なんてあるわけないでしょ。いつだって過剰に自分の能力を期待しちゃいけないんだよ。そうでなきゃいざという時に絶望して、本来持っている力さえ充分に発揮できなくなっちゃうからね」
「……そ、そう」
 何もない時間が流れてゆく。
 いつかこの時を見失ったとしても、それが俺の中で生き続けられるなら、遠慮なく「永遠」と呼んでも構わないのだろうか。
 怖いものに立ち向かっていく覚悟も、優しい光に包まれる忘却も、かつて俺の中にしつこく巣食っていた自由だった。それをすっかり手放してしまった今、俺は一体何を信じながら、何を期待してどことも知れない場所へ走っているのだろうか。……

 

 

 

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