月のない夜に

 

 

 増えゆく不安と、静寂のもたらす怖いくらいの安定。夜にはそういった優しさが眠っているから、俺はいつになっても夜の闇から抜け出せられないのだろう。こんな事実を知ったら誰も寄りつかなくなるだろうか。いくら時が流れても進歩もしない、向上心のない愚か者だと見放されるだろうか。できればそうであって欲しかった。もう俺に近付く者はいなくていいと、本気になってそう考えていたのだろう。
 夜になると樹たちは各々の家へと帰っていった。残された俺は師匠と二人きりで、飽きるほど繰り返された毎日を演じることとなる。その頃にはもうすっかり組織の闇など忘れていて、心配事など何もなかったかのように頭がやけにすっきりしていた。両手の感覚や髪の肌触りなど、いつも味わっている全てのものがはっきりした意識として俺の心に釘を刺していた。
 時刻が十二時を回ったら、俺はいつも空を眺めていた。今日も普段のように窓を開け、四角くくり抜かれた箱の中の夜空を見上げる。俺は日にちが変わる瞬間の空を見るのが好きだった。日にちが一つずれただけなのに、人々は全てが変わったのだと言い合うし、何かそれだけで新しいものが始まりそうな活力が満ちている。昔はそれがどうしようもなく馬鹿馬鹿しくて毒づいていたけど、今になってやっとその意味が分かりかけてきた気がした。
 今日の空は星がよく見える。月も雲に隠れたりせず、暗闇には眩しすぎるくらいの光を放っていた。見えているのは小さすぎる空じゃなく、鉄格子越しの自由でもなく、ちょっと手を伸ばせば届く場所にある、だけど決して触れられない世界だった。牢の中に一人きりで立ち尽くした時、いつも高い位置にある小さな窓から夜空を見上げていた。まるでいつか必ず自分を連れ去ってくれる何かが現れるのだと信じて、それを見逃すまいと待ち続けていたかのように。
 俺はもう二度とあの場には戻らないだろう。あの鉄の冷たさを感じることも、周囲から絶えず聞こえる怒声を浴びることも、強制的に髪を切られて誰かを恨むこともないだろう。そう、俺はもうずっと、こっちの世界で生きていくと決めたのだから。真や樹たちと同じように、眩しい光を全身に浴びながら、恥ずかしいくらいに美しい未来を辿っていくのだと、そう決めたんだ。
 誰も俺を邪魔することはできない。誰も俺の意志を壊すことはできない。
「やあラザーラス」
 だって俺はもう、ロイではなくラザーラスなのだから。
「やあロイ」
 振り返る。おかげで夜空が見えなくなってしまった。代わりに視界に入ってきたのは、数えるほどしか会ったことのない過去の人間の姿だった。
 暗い中でも分かる赤の髪。口元に湛える静かな笑み。
「なあ、俺が誰だか分かる?」
「エダ」
「そうだよエダだよ。お前なんで指定された場所に来ないんだよ。お前が全然姿を見せないから、痺れを切らしてこんな所まで来ちゃったじゃないか。どうしてくれるんだよ、ええっ、お前は俺に何かをしてくれるのか?」
 何の話をしている? 俺はこいつのことなど知らない。何も知らない。知らないものを、何をそんなに必死になって探している? 馬鹿馬鹿しい限りじゃないか。
「忘れたなんて言わせないぞ、お前はヨウトから聞いたはずだ。俺の仕事を手伝うって証を見せただろう? あの黒いガラス、お前の為にわざわざ警察から盗ってきたんだぜ。お前ってタダじゃ動かない奴だからな、律儀だろ? いつもクトダム様に怯えてたくせにな」
「何を根拠に、そんなことを」
「ああ、もういいよ。俺はお前と口論するためにここまで来たわけじゃない」
 心の奥底でナイフが光っている。
「この世界には何もしないと言っていただろ」
「確かにお前がまだ組織にいた頃はそういうことになってたさ。けどさ、それって不公平じゃない? 俺がそう言って駄々をこねてたら、それがクトダム様にも届いたのかね、こっちに来てもいいって話になったのさ」
「不公平? 一体何が不公平だというんだ」
「当然のことを聞き返さないでくれよ、この世界を捨てておくことなんて、不公平以外の何物でもない事実じゃないか。それとも、何? ロイはまた懲りもせず、何かを愛そうとしているのか?」
 その名で呼ぶな。その名は捨てろ。
「お前たちには分からないことだ」
「分からないってことはないさ! だって俺も、俺の兄貴を愛してる。お前とその仲間が兄貴を自殺へと追いやってから、余計に兄貴を愛するようになったんだから」
 俺が自殺に追いやった? あれは、あっちが勝手に壊れただけだろ。元々彼は俺たちを許す気などなかったんだ、それで責任を俺たちに押し付けるなら、それは甚だしい勘違いだと言っても過言ではないだろう。
「ロイ。お前はたくさんのことを愛しすぎている。お前が今愛しているものを当ててみせようか?」
「黙れよ」
「お前は今、精霊アニスの亡霊に現をぬかし、赤い目の預言者から受け継いだ力を守り、警察の男を親友と呼び、創造主の代用となった少女を憐み、居場所を与えた男を頼り、さらに兵器の少年とその仲間に手を伸ばしかけている。その全てがお前の愛によって形作られている。お前が心変わりし、違う方向へと視線をそらしたなら、それらは生きる意味を失って深淵に食われてしまうだろう。お前はそれを待っている。そうやって多くの愛を振り撒きながら、それらが一斉に堕ちてゆく様を今か今かと待ち構えているんだ」
 外の夜空は美しく、中の闇は深みを増す。
「お前がいくらそれらを愛そうと、それらはお前を愛していないことを知るべきだ。お前は腹の底からそれらに愛情を注いでいるが、それらがお前に還しているのは愛情などではない。お前はもっとその意味を知るべきだ。そしてそれを知った時、お前はクトダム様の元へ帰ってくる。だから、ほら――ケキさんから教わったお前の『愛し方』を、俺にも実演してみせてくれよ」
 そっと頬に触れたのは何だろう。これは手。石のように冷たい手。
 ……手が触れている? 何を! こいつは何をしている? 俺に何をしている? こいつは俺を触っているのか? 石みたいに冷たい手で、寒さに冷たくなった俺の頬を触っているのか?
 そしてどうするつもりだ? 俺の頬に手を当てて、その先のどんな未来を想像している? 想像して――やめてくれ。俺はあんたの望みなど知らない。そんなもの知ったことじゃない。俺の頬に触れたって、俺の肌に触れたって、ただそれだけで全てを支配できるなんて考えるな。俺はこの肌をあんたに捧げるつもりはない。だからもう、そんなにも、愛でるように触れないでくれ。
「……たったこれだけのことで声が出なくなるなんて、お前も随分と生ぬるくなったもんだな。昔のお前ならこんな反応はしなかった。あの頃のままだったら、そうだな……きっと俺の言葉に腹を立てて、苛々したままでお前の『愛し方』を押し付けてきただろうな」
 目の前にいるのはエダ。昨日の電話でヨウトが語っていた人。いや、電話じゃなくて直接話したんだった。電話で言っていたのは何だった? 電話がかかってきたのはいつだった? 分からない。ああ、どうして分からなくなったんだ。どうして分からなくなった? 直接会うことも、電話で話すことも、大して変わりはしないはずなのに。媒介は必要なものだった? 壁は俺に優しさを示してくれず、高く高くそびえて俺を見下ろしているだけだ。
「明日からお前は学校へ行くんだろう? その時、家に帰らずにそこで残っているんだ。夜になったらお前を迎え入れよう。そしてそこから共に仕事を始めようじゃないか」
 仕事? 仕事って、何――。
「何をぼんやりとしている? お前はすでに分かっているはずだ」
 頭が痛い。こいつは何を言っている? 仕事だとか、学校だとか、夜だとか、途切れ途切れの単語しか俺の耳には届かない。駄目だ、気分が悪くなってきた。吐き気がする。もうあの赤い目を見たくない。
 床の上にしゃがみ込む。緑の絨毯が草原のように思えた。それでも手で触れると硬い感触しか伝わってこず、またひょいと深淵の中に放り込まれた光が見えた。
「その癖も直っていないな。都合が悪くなったら地面にしゃがみ込んで、口元を手で隠すその臆病者の癖も」
 違う。これはそういった類の仕草じゃない。あれはただの悪ふざけだった。でも今は、あんたが思っている以上に、とても純粋な仕草なんだ。だからもう黙っていて。不必要な言葉を俺の上に重ねないでくれ。そうしてくれないと、本当に。
「まあ、今日はゆっくりと休むがいいさ。学校って朝は早いんだろう? お前は朝日が嫌いだったよな。いつも寝坊をしてカイに起こされて、自分は愛されているんだと勘違いをしているんだろうな」
「もう帰れよ」
「分かってるって。それじゃ、明日また会おう」
「来るな……」
 ふっと目の前から人の気配が消えた。冷たい風が体を包み込む。
 来るな。もう二度と来るな。俺の前にみっともない姿をさらすな。俺にその醜態を見せびらかすな。
 消えてしまえばいい。どこか時の彼方に、空間の歪みに、飲み込まれて消えてしまえばいい。二度と甦ってこれぬよう、俺がこの手で棺に釘を打ち込んでやるから。
 明日の夜? 学校? また会おうって? 馬鹿馬鹿しい! 誰がそんな誘いに乗るものか。罪を犯すことでしか生きられない人間、社会に見捨てられた可哀想な人間たち。彼らは俺を待っているらしいが、俺は彼らを受け入れたりはしない。決して! 戻らないという声に嘘は含まれていないし、懐かしいと感じたことも、また事実だった。それは否定しない。だけどそれだってもう終わりだ。全ては終わったことであって、これ以上変わるものなどない。そんなもの、あってはいけないはずなんだ。でなきゃ俺が今ここで生きている意味が分からない。ヤウラに頼って、アニスを殺して、カイに甘えて、樹や真に手を貸して。俺が今までに辿ってきた過去は今の俺を作っている。それを底から覆すような、甘く苦い誘いなど、両手で力任せにはじき返してしまえばいい。
 立ち上がると眩暈がした。思わず頭を手で支えると、足元にエダの残した靴跡が見えた。
 彼はこんな、家の中にまで入り込んでいたのか。カイはもう眠っているのだろうか。あいつの部屋はそれほど遠くないはずなのに、どうして様子を見に来たりしないんだろう。
 家に侵入してきた者。俺を組織に誘導する者。いつからか見え始めていた光を遮断する、不明瞭な靄に包まれた現実。
 これらを夢だと思っていた夢は、音を立てながら崩れていってしまったんだ。

 

 俺の中の良心が囁く。まだ引き返すことができるはずだと。素直にカイに打ち明けてしまえ、そうすれば何も恐れるものなどなくなってしまうだろう。
 他方で俺の中の悪漢が叫ぶ。もう戻ることはできないと。一度自分で決めた道を覆すほど、俺は無責任な人間ではなかったはずだ。
 そして唐突に客観視し始めた俺の中のロイの心は、ふと危なげな香りに気が付いて嘲笑った。たとえどちらの選択肢を選んだとして、自分の周囲にいる者を巻き込むことだけは確かだと。
 嫌なことを最小限に抑えるには、俺は一体どうすればいいのか?
 最も聞きたかった答えはいくら待っていても、誰もが口をつぐんでまっすぐこちらを見るだけで、何一つとして助言も忠告も飛んで来たりはしなかった。
 決めるのは自分でしかない。行動するのも自分でしかなく、考えるのも自分にしかできないことだ。
 だけどすっかり導を見失った今、果たして俺に正しい判断ができるというのだろうか。

 

 +++++

 

 窓の外は快晴だった。薄い青の空が限りなく広がり、ぽつりぽつりと浮かんでいる白い雲。その全てを支配するかのように輝くのは太陽で、少しの音を立てながらその場を風が吹き抜けていく。
「ラザー、ちゃんと掃除しろよ」
「……ん?」
 ふと気付けば後ろに樹が立っていた。その手には二つの箒が握り締められており、一方を俺に向かって差し出している。ああ、そういえば、今は掃除の時間なんだっけ。まったく面倒なことをさせる場所だよな、学校ってのは。他の生徒たちはほとんどサボっているのに、樹は真面目だから決してサボらない。リヴァセールや薫は別の場所の分担だから教室にはいないが、きっとあいつらのことだから他の生徒に混じってサボっているのだろう。
「お前、なんでそんなに真面目な奴になったんだ?」
「え……俺ってそんなに真面目かな」
 適当に箒を動かしながら問いかけると、なんとも天然な答えが返ってきた。こいつ、さんざん薫に言われてきたはずなのに自覚していないのか?
「他の奴らはサボってるじゃねーか」
「普通はサボらないもんだろ。それに、俺は姉貴と二人暮らししてもうずいぶん経つし、自分のことは自分でしないと気が済まなくなったんだと思う」
「ふうん」
 なんだかよく分からないが、そうだと言っているのならそういうものなのだろう。
「ところでさ、ラザーは今日の小テスト、どうだった?」
「どうだったとは、どういうことだ」
「いやだから、合格した?」
「ああ」
 素直に答えると樹はちょっと悲しそうな顔をした。僻みや妬みならお断りだ。
「あのさ……また、教えてもらってもいい?」
 何事かと思えば、そういうことか。
 今日の小テストは数学だった。国語やら英語やらだといつも不合格になりそうな危ない点を取る俺でも、数学だけは余裕を持って合格することができる。そのため樹には数学の時だけしつこくつきまとわれるのが常だった。薫やリヴァセールはただ答えを見せてほしいと頼んでくるが、樹は何だか知らないが解説まで要求してくる。それが鬱陶しいと感じることもあったが、今日は特に苛々する理由もなかったので、一つ頷いて相手を笑顔にさせてやった。
「本当、助かるよ」
 最後にはほっとした表情を見せてきて、こんな奴が兵器と呼ばれていただなんて信じられないような気がしてきた。

 

 

「少しは理解できたか?」
「うーん、分かったような分からないような……」
 放課後、誰もいなくなった教室の中で、俺は暇つぶしとして樹に数学を教えていた。相手は非常に飲み込みが悪く、何度も同じような説明を繰り返す羽目となる。どうやら樹は頭が完全な文系らしく、数字を得意とする俺とは根本的に考え方が異なるらしい。そういう奴に数学を教えるのはなかなか骨の折れる仕事だった。
「とりあえず似たような問題でも解いておけ。お前に必要なのは慣れだ」
「そ、そうかなぁ」
「そうかなじゃなくてそうなんだよ!」
 しかしこの気弱な性格だけは早いところどうにかして欲しかった。
「じゃあ再テストまでに解いておくよ、うん。……うわ、なんか知らない間に外がすっごい暗くなってる」
「まあ、冬だしな」
 同じ時間でも夏ならこれほど暗くはならない。外の景色はもはや黒一色で、周囲には怪しげな人間が徘徊していそうな雰囲気が漂っていた。そんな中にこの気弱な樹を一人だけ放り込むというのは、どうにも気が引けることだった。
「お前、一人で帰れるか?」
「帰れるかって、帰らなきゃならないんだから帰るよ。姉貴も待ってるだろうし」
「夜は不審者が多い。送っていってやるよ」
 俺の言葉に樹は目を丸くする。何も言わずに幾度かまばたきをし、それからようやく目が覚めたかのように声を発した。
「い、いや、別に一人でも平気だって。俺だって一応男なんだし、今までずっと遅くなっても一人で帰ってたんだから」
「お前確か、暗闇が苦手なんじゃなかったのか」
「それは、そうだけど――でも、自転車のライトがあるから結構平気なんだ。俺のライトさ、普通のより明るいものをつけてもらってるから」
「……」
 なぜそこまで拒む。そんなに俺が送っていくことが不愉快か。
「だったら好きにしろ」
「え……ラザー、あの」
「帰るんならさっさと帰れよ。もう用事は終わったんだろう?」
 樹は戸惑っているようだった。しかし俺にはなぜ彼がそんな顔をするのかが分からなかった。自分から俺をはねつけたはずなのに、どうしてそんな後悔しているような表情をしている? やはりこの世界で生きていた人間の考えていることは理解できない。
「ラザー、教えてくれてありがとな」
 微笑みさえ見えないまま、樹は戸惑った顔でお礼を言ってきた。
 教室のドアが閉まる音が響く。窓の外の青さは消され、天井に配置された白い電気が一つの部屋を明々と照らしていた。その中央で俺は待ち続けていた。彼が来るのを、夜の中に、誰にも言うこともなく、ただ待ち続けていた。
 無心に過去を追い求める意識の儚さよ。嘲笑だけでは済まされぬ、鉛の足枷がこの鼓動を待ち構えているのだろうか。
 胸に煌めく十字架は俺を助けてはくれない。あるいは誰かが救世主だとして、その人は俺を踏み潰して光の国へと歩いて行くだろう。俺はその後ろ姿を睨みつけ、永遠の救いを呪い続ける。自由などと、簡単に口走ってはいけないのだと。
 あいつの花となった俺は、まだ足掻き続けるべきなのだろうか。そんなことはもうどうでもよくて、俺は今宵の美しい月を見上げながら、早くその時が目の前に降りてくるよう祈り続けていた。

 

 

 冬の空に吹く風が様々な思いを何処かへと運んでゆく。すっかり長くなった自分の銀髪が風に遊ばれる様を眺めながら、夢の中で立ち尽くすように俺は彼を待っていた。
 誰も登ってこないはずの高校の屋上。そこには何も面白いものなどなく、ただ一人きりの世界を作るには異様なほど適した場所だった。俺はよく授業を抜け出してここへ来る。そうして一人で空を眺めていると、心に突き刺さっていた様々な色の棘が消え、なんとなく安心できるような気がしていた。俺はこの場所を逃げ場としていた。誰の束縛も受けることもなく、余計な悩みに追われることもなく、流れる時間を俯瞰しながら永遠に手を伸ばす。それは穏やかな田舎で過ごす時と同じ種類のものだった。
 ふっと風に乗って感じられた人の気配。気付きたくもなかったものだけど、無意識のうちに俺の体はそいつに対して警戒を始めていた。大昔の眠っていた悪人の勘がフルに稼働する。そして遠くの方からこちらに歩いてきたのは、俺がずっと待っていた人だった。
「ちゃんと約束を守ったんだな。偉い子だ」
 すぐ近くまで寄ってくると相手は俺の手を取った。じっとその赤い目を睨んでも本心が見えてくることはなく、だけど奥の方に潜んでいる既に離れた絶望だけは、俺の全てを丸呑みするかのように大きく口を開けていることが分かった。
 手の中に何か硬いものが感じられた。表面はつるつるしていて、所々に角がある。ゆっくりと視線をそちらに落としてみると、俺は手に紫色の石を握らされていた。
「それ、知ってるだろ」
「魔界の石」
「そう。聞けばこの世界には魔物がいないそうじゃないか。だからこそ他の世界との繋がりが薄いんだろうけど、俺はこの世界の扉を魔界に繋げる術を得た。その方法に使用するのがこの石さ。なあ、ここまで話せば分かるだろう――今回の仕事は、こいつを世界のあらゆる場所に配置して、魔物を召喚し、この世界の扉を魔界と繋ぐってことさ。だけど焦っちゃ駄目なんだぜ。今はこいつを配置することだけを考えなけりゃあ。まず全ての石をまんべんなく並べて、一気に魔物を召喚するんだ。いちいち一体ずつ魔物を召喚してたら、それこそお前の家のカイって奴や俺たちの愛すべき神様に気付かれちまうってもんよ。だからこの仕事はあくまで水面下で、音を立てず、無心のままに行わなけりゃならない。俺はお前だからこの仕事を頼んだんだぞ。お前はどんな仕事だって妥協を許さなかっただろ? 今だって俺との約束をすっぽかさず、ちゃんとこの場に来てくれたんだから」
 目の前がぼやけてくる。その理由は、後ろめたさから?
「頼りにしてるんだからさぁ、ロイ」
 その名で呼ぶな。その名は捨てろ。
 未練など捨て去ってしまえ。後悔したくなければ、今ここではっきりと断ってしまえ。
 そんなことはもう分かっているのに、ああ、なぜ俺は、たった一言が出てこないのだろう!
「一応言っておくけどさ、目立つような場所には置くなよ? まあお前なら大丈夫だと思うけどさ」
 口が開かないから声が出てこず、体も強張って少しも動けない。視界はどんどん靄がかかるようにぼやけ、星や月の光が暗闇に広がってゆき、夢のようにはっきりしない世界が目の前に描かれていた。
「これから毎日一個ずつ渡していくからな。逃げるなよ……」
 ふっと相手の生温かい息が頬に当たった。赤いものがぐっと近くに寄ってくる。
 右目のすぐ下に何かが触れる――それは相手の体の一部。
 力任せにそれを振り払うと、触れられた部分に気持ち悪い温かさが残っていた。こんなものは必要ない。それを消し去ろうと自分の手で触れてみたら、目の奥から熱い涙が溢れていることに気付いた。
「その涙は何の涙? 再び闇に放り込まれて怖いのか、或いは闇に紛れ込む心地よさに酔っているのか? いや違うな。それはきっと、今まで信じてきた人を裏切ることへの後ろめたさから溢れたものだ」
 流れ出したものが止まらない。人前で見せるべきものじゃないのに。幾度手で拭っても、ぐっと目を閉じて我慢しても、焦れば焦るほど深い悲しみが襲いかかってくる。もうこれ以上持つことはできないと、そう叫んでいるかのように。
「だけど悲しむことはない。お前が泣くことなんてないんだよ、ロイ。だってお前はその人たちに、本当に愛されてるわけじゃないんだから。お前が想っているものは全てお前の中だけのものだ。現実に目を向けてみたら、彼らはお前をただ別の感情で見つめているだけだって分かるだろう」
 涙で何も見えなくなったけど、相手の手が俺の背中に回されたことだけはよく分かった。
「お前は少し疲れているんだ。こっちの世界に来て、光を浴びすぎている。お前は光を苦手としているんだろう? あまりに眩しい光を見つめすぎて、お前の目はすっかり悪くなってしまっている」
 違う。それは嘘だ。俺の目が悪くなったわけじゃなくて、目を開けてたくさんのものを見始めたから疲れているんだ。相手の言うことを信用してはいけない。いけないんだけど、こんなふうに抱き締められて、温かい体温を感じて、嫌いなはずの相手なのに安心できているのは一体なぜだろう。さっきみたいに力ずくで突き飛ばしてしまえばいい。髪だって触られてるはずだ、こんな許されない人間の汚い手で、あの人の為の銀髪が触られている。そんなこと、許せることじゃないじゃないか。今までずっと守っていたことを、今になって突然捨てる必要なんかないだろう? なのに、どうして体が動かないのか。どうして一言も声が出ない!
 それは組織を抜け出してから、誰にも愛されていなかったから?
 まさか! そんなことはない。俺の傍には真がいる、カイがいる、いつも困った時にはヤウラが受け止めてくれるし、最近じゃほとんど毎日樹と顔を合わせている。彼らは少なからずの愛情を以て俺と接している、それだけは誰よりも自分自身が強く感じていることじゃないか! そうだ、それはどんな言葉でも裏返せない事実だ。俺の中だけじゃなく、彼らの中にだってあるものだ。だけど、だけど、だったらこの不安は何だ? 彼らの愛情を疑ってしまうこの震えているものは何だ? だって――だって俺は彼らに、一度だって、キスをされたことがない。
「ロイ、組織に帰ってこいよ。そこにはお前を愛してくれる人がいる。ヨウトも、サクも、ティナアさんも、ケキさんだっている。必要があるなら、俺もお前を愛そう」
 要らない……あんな歪んだ愛情なんて、もう要らない。これ以上俺に背負わせないで。もう誰も俺を縛らないで。
「さあ、そろそろ行けよ。その石はこの学校のどこかに置いておけ。明日は隣の島まで行ってもらうからな、今日と同じここで待っていてくれ」
 相手の体が離れる。心臓の音が遠くに聞こえた。いつの間にか涙は枯れ、体中に冷たい風が打ちつけてゆく。
 赤い髪の青年は屋上から姿を消し、俺は手の中に残された紫の石をどうにかしなければならなくなった。ゆっくりと歩いて屋上から校舎へ侵入し、人目のつかない物陰に向かって冷たい石を放り投げる。乾いた音が静寂の中に大きく響き、だけど誰もいないから気付かれることもなく、俺はまた逃げ場を求めて屋上へと引き返していった。

 

 

 

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