月のない夜に

 

 

 太陽が昇るまで、俺はじっと高校の屋上でうずくまっていた。何かをしようという気分にはなれなかったし、家に帰っても眠れそうになかったから、多くの人々が溢れ返し安心できる時が来るまで何もしないで黙っていようと思った。そうして心を落ち着かせれば、嫌なことや分からないことも何もかも許されるような気がして、どこか心の奥底で記憶を失いたいと願っていたのかもしれない。だけど目が覚めれば夢は終わり、再び呼び戻された現実は冷たくて――でも温かいものだったから、余計に混乱してしまうのだろう。
 俺が朝早くから学校の教室にいたことに対し、樹や薫が非常に驚いていた。それからその理由をしつこく聞いてきた薫を樹がなだめ、リヴァセールも加わって四人で他愛無い話をした。これが現実だって分かっているはずなのに、どうしても夢の中の出来事のような心地がした。あの夜の闇を肌で感じ、忘れていた涙を止められなくなった瞬間から、俺の中の時間は過去へと急速に巻き戻されてしまったように感じられる。今がどこにあるのか分からなくて、気分が悪くなってまた屋上へと戻ってきた。そうしてしばらくぼんやりと空を眺めていても心が洗われることはなく、やがて迎えに来た樹に手を引かれて教室へ戻ったが、目の前を通り過ぎていく様々な人間の鼓動が我慢できないほど煩く聞こえてきて、結局放課後になるまで屋上で一人の時間を持て余していた。
 夕方になると景色がオレンジに染まる。学校にいる人の数も徐々に減ってゆき、風に乗って運ばれてくる雑音もその数を少しずつ失っていった。俺は屋上の手すりにもたれかかりながらオレンジの空を見上げる。かつて樹はこれを複雑そうな顔で眺めていたが、俺にとって夕焼けの空は純粋に美しいと思える至宝だった。
「ラザー」
 さして珍しくもない声が耳に届く。そちらに目をやると、不安げな表情の樹がリヴァセールを連れて立っていた。
「どうしたんだよ、今日は。ほとんどの授業サボっちゃうし」
「別に俺の勝手だろ、放っておけよ」
「でも……」
 うじうじと悩む少女のような瞳がこちらを見ている。こんな奴が世界を救っただなんて、聞いて呆れる話だった。
「ねえラザー。さっき師匠さんから聞いたんだけど、昨日家に帰ってないって本当?」
 やたらと情報を得るのが早いのはリヴァセールだった。彼はヤウラの部下で、警察だ。しかしよりによってなぜそんな情報を素早く仕入れる必要があるんだ。
「毎日家に帰らなきゃならないわけでもないだろ」
「でも師匠、すごいラザーのこと心配してたけど……」
 心配? あいつが俺のことを心配していた? だとすれば、それは喜ばしいことじゃないか。このまま彼を心配させておけば、いずれは俺が触れている闇にまで彼なら辿り着けるだろう。
「そんなに心配なら、あいつに伝えておいてくれ。俺はしばらく家には帰らないって」
 焦点がずれ、夕焼けの中に二人の姿が溶け込む。俺はそれを感じると彼らに背を向け、人が減って淋しくなった運動場を見下ろした。
「ラザー、何か心配事でもあるのか?」
 お人好しな樹はなかなか食い下がらない。その優しさが痛くて仕方がないというのに、彼はそんなこととはつゆ知らず、俺の為にと言葉を投げてくるのだろう。だけど今の俺はそれを受け止められるほど安堵に包まれているわけではなかった。今でこそ落ち着いていられるが、あと少しでも優しい声をかけてきたなら、俺は相手を屋上から突き落としたくなっただろう。
 そんな俺の心情を察したのか、俺が相手を無視していると、樹はすぐにリヴァセールを連れて屋上から姿を消した。それでよかったはずだった。組織の連中に付け回されている今の俺に近付くことは、世界の狭間へ悪人を追いかけて向かうことよりも恐ろしいことだったから。彼らをあいつらから守るためには俺が孤独であればいい。誰にも近寄らず、誰に頼ることもなく、一人きりで静かに戦っていればいい。そう、それこそが俺の望む答えだったんだろう。自分一人を犠牲にすれば、周りに迷惑をかけずに済むのだから。
 夜になるとエダが俺を迎えに来た。彼は無言で魔界の石を手渡してきて、そのまま屋上から姿を消した。手の中を見ると石の隣に小さな紙切れがくっついており、そこに今日の目的地が書かれてあった。
 この石を届ける場所は、日本を離れて中国まで行かなければならないらしい。外国にまで範囲を広げて、彼らは一体何を目的としているのだろう。この世界を魔界と繋げるだなんて言っていたが、本当にそれが目標なのだろうか。そもそもそれは誰の命令だ? クトダム様の言葉でないことは確かだった。あの人はこんな、無茶苦茶な命令を下したりはしないから。
 あの人の命令でないとしたら、俺がこの石をわざわざ中国に置きに行く必要が感じられない。きっと今回の仕事はティナアあたりが仕組んだ罠だろう。あのおばさんは真の存在を知ってからこの世界に興味を持ち始めていた。クトダム様に隠れてこんな命令を下しているのだとしたら、尚更あいつらに協力する気分になれない。魔界の石で魔物を召喚する? ふん、馬鹿馬鹿しい。そんなふざけた遊びはゲームの中だけでやっていればいい。現実の世界にまで侵攻してきて、お前たちは何を愉しんでいる?
 小さな紙をポケットに押し込み、紫の石を地面に落として踏みつける。硬いものが靴の裏で自己を主張し、それが無駄に煩わしく感じられた。苛々して思いっきり踏みつけると、石はガラスのように割れて粉々に砕け散った。
 壊した。俺は石を壊した。これであいつらの仕事の邪魔をしたことになる。はは、ざまあみろ。組織を抜け出した俺なんかに頼るから、こういうことになるんだってことを思い知らせてやる。
『なるほど、これで君のお友達の命の保証ができなくなったわけだ』
 命の保証? そんなもの、なくたって構いやしない。あいつらだって今まで遊んでいたわけじゃない。樹は異世界で創られた兵器だし、彼には精霊だってついている。リヴァセールにはヤウラがいるし、薫だって樹の家の近所なんだから彼に危険が及んでも大丈夫だろう。いずれにしても、誰もがそう簡単に命を奪われるほど甘い生命じゃない。彼らは強い。同じ時間を共有して、嫌というほど思い知らされたじゃないか。それを心配するなど、非常にナンセンスだ。そうだろ?
『確かに生命力だけはありそうな連中だった。けど、あいつらが得意とするのは何だった? 専門は殺戮と窃盗だ。そしてその裏で繰り返されていく一般人への虐待……』
 それだってふと誰かがいなくなればカイが気付くはず。あいつだって鈍感じゃない。いつも遊びに来ていた樹が来なくなったりしたら、真っ先に不穏な空気を感じ取って行動するだろう。それに、俺たちは毎日顔を合わせている。あいつらが彼らに手を出したりしたら、俺にだって分かるはずだ。
『馬鹿だなあ、そんなこと、分からないようにするのが彼らのやり方じゃないか。彼らの独占は水面下で、表面からは何も見えず、虚ろな陰の中で事は進行してゆく。お前が長い間ケキやティナアに虐められていたのだって、いつも追いかけられていたヤウラに気付かれなかったからじゃないのか?』
 それは違う。あれは、俺が何も言わなかったからだ。ヤウラは俺が組織でどんな扱いを受けていたか、言葉にはしなかったが知っていたはずだ。あいつは聡くて、敏感で、優しい性格をしている。だからどんな時だって、俺が自分の口で説明するまで黙って待っていてくれるんだ。
『それこそただの思い込みじゃないか。現実はそれほどうまくできていないんだよ、ラザーラス。もうすっかり流れに身を任せてしまったら? その方がずっと楽だし、苦しむこともない。また快楽の世界へ戻ろうじゃないか。もしもその世界へ溶け込むことができないなら、安心して、君の代わりに僕が出てあげるよ。君だって本当は戻りたいんだろう? 早いところあんな幼稚な連中とは別れてしまって、また僕として――ロイとして生きていきたいって願っているんだろう?』
「願っていない、そんなこと」
『嘘さ、それは嘘さ! だったらなぜあの時断らなかった? なぜエダの説明を黙って聞いていた? なぜ抱き締められたことを嬉しく感じた? その理由は、またあの組織に戻って彼らに愛されたかったからさ! そう、ラザーラス。君はすでに気付いている。エダにも言われた通り、この世界で君を見ている人々は、本当の意味で君を愛しているわけじゃない。だけど悲しむことも、驚くこともないんだよ。だって心から君を愛することができる者など、どこの世界に行ったって見つけられやしないんだから! 君は悪人だ。どうしようもない犯罪者で、人として最低の、闇で生きる既に殺された死体だ。そんな得体の知れない生命を一体誰が愛せるだろう? いや、うん――それを愛する者が少数だけいる。君を愛せる者は同族だけさ。つまり、君のことを理解できる者は、あの組織で這いずり回っている連中だけってことだ。こっちの世界じゃいくら探し回ったって、大声を張り上げたって、君を愛せる者は見つからないし君の声を聞く者も現れない。樹たちだってそうさ。君が今まで行ってきた数々の罪を知ったなら、彼らは一歩遠のいた場所で君をじっと見つめるだろう。その間にあるのはただの壁じゃない、それはあの硬い鉄格子さ。覚えているだろう、あの冷たさを。忘れていないだろう、あの冬の寒さを。ずっと警察に見張られて、苦しい労働を強いられて、高い窓の外に憧れていた日々を思い出してみろ。それらこそがお前の正体だ。それらこそがお前の真の姿だ。分かるだろう、彼らとは不釣り合いなんだってことが。彼らに近寄ったりしてはいけないんだってことが、平和ボケした愚かしい頭脳でも理解できるだろう? だから君はもう戻るべきだ。戻らなければならない。もう君の意志なんて関係ないんだよ、ここにいてはいけないってことだけがはっきりした現実なんだ。それに君は愛を求めているじゃないか。何の偽りもない、とても純粋な、ガラス玉のように壊れやすい愛情を欲しがっているんだろう? 組織に戻ればそれを示してくれる人がいる。いつも嫌だと叫びながらも、彼らに抱き締められて、刃物の冷たさを感じて、体中を引き裂かれるような痛みを身に受けても、いつの間にか快楽の中に沈んでいたのがお前だった。自分の意識を置き去りにして、身体は快楽を恋焦がれていたじゃないか。痛みの中に身を置いていれば、他の嫌なことを忘れられるからって。今でもアニスの十字架を捨てられないのはなぜなのか、そんなことを考えたことがあるかい? その理由はね、ラザーラス、お前がアニスを愛しているからじゃない。それは全身で感じる苦しみや悲しみを忘れるために、アニスと共に快楽の底へと堕ちていきたいという願望の表れにすぎないのさ』
 なぜだろう。なぜ俺の中のロイの心は、アニスさえ汚してしまうようなことを俺に囁いてくるのだろう。アニスを守ろうと必死になっていたのは、むしろロイの方だったじゃないか。俺は彼女と共に快楽の底へ堕ちたいなどと考えてはいない。それより彼女に対しては、すっかり隠されている肌を触れることでさえ躊躇われることだった。ああいった綺麗なものは、見ていて汚したくなってくるものだけど、アニスだけはどうしても綺麗なままでいて欲しかった。一点の曇りもない、黒い染みさえ残さないまま、美しい姿でいて欲しかった。それを壊してしまったのは俺自身。俺が彼女を救えたなら、この十字架を背負っていくこともなかっただろう。だけどその悲しみはもう終わった。すっかり消えてしまったわけではないが、俺はあの悲しみを乗り越えることができたんだ。今更アニスのことを掘り返されて、後悔してみたところで何かが変わるわけじゃない。
『そう、お前はアニスを殺したことを忘れてはならない。最も愛すべき者を殺した罪は、やがてお前の全てを支配するだろう。あの時の悔しさを消し去ってはならない。その負の感情全てを憎むべき相手に向けてやればいいのさ』
 憎むべき相手? それは組織の連中のことか? しかし、俺は彼らを嫌っているが、憎むべき相手として認識したことは一度もない。だってどうして憎まなければならないのか、まるで見当もつかないじゃないか。
 しかしそうやって問いかけてみても、そこでロイの声はふつりと切れてしまった。結局彼が何を言いたかったのかは分からない。最後に残されたのは言い様のない不安感と混乱だけで、俺は昔の自分であるはずのロイの存在を疑いたくなってしまった。
 彼は遠い場所から未来の自分を嘲笑っている。そんなことをした記憶はないのに、それだけがやけにはっきりと理解できてしまって、かつて真が俺に言った「人として最低」という言葉が頭の中でぐるぐると回り始めた。
 ロイを否定したくても否定できない。彼は昔の俺であり、彼がいなければ俺は存在しなかったのだから。彼が思っていたことは俺が思っていたことに他ならない。彼の吐き出す言葉は俺の闇だ、彼の見つめるものは俺の願望だ。もう分かっているはずの事実なのに、彼の執拗な囁きを耳元で聞かされたなら、あの残忍な目で笑う顔を殴り飛ばしたくなってきて、すぐに暴力で解決しようとする悪い癖が出てきそうになってしまう。
 彼はこういった負の感情を憎むべき相手に向けろと言った。しかし、彼の言うその相手とは誰のことを指しているのだろう。俺を誘惑したヨウトのことなのか、それとも俺を脅迫したエダのことなのか? あるいはもっと別の、今では愛しているとさえ思っている相手のことなのだろうか。
 自分で自分の言葉に振り回されることほど惨めなことはない。だけど俺にはロイの言葉の真意が分からなくて、みっともなく自問することしかできることはなかったんだ。

 

 +++++

 

「ラザー」
 昨日の夜はエダの仕事を邪魔して終わった。あれから家にも帰らず学校の屋上でエダを待っていたが、彼は俺の前に姿を現すことはなかった。このまま邪魔ばかりをしていれば奴らの計画は失敗に終わるだろう。そうだ、そうやって失敗してしまえばいいんだ。この世界を危険にさらす必要がどこにある? 俺は危機を知っている一人だ、誰に相談することもなく、自分でどうにかできるならどうにかすべきなんだろう。
「ラザーってば」
「……ん」
 窓から空を眺めていると、後ろに薫が立っていることに気付いた。その手には薄汚れた袋が握られている。
「次の時間は体育だぞ。早く着替えに行かないと遅れるぜ」
「ああ、そうだったか」
「そうなんだよ、だから早くっ!」
 相手はぐいと腕を引っ張ってくる。そんなに急がなくても、着替えなんてすぐに終わることじゃないか。
 慌てる薫に連れられて更衣室まで行くと、もうすでにほとんどの生徒が運動場に出ているようだった。残っているのはぺらぺらとお喋りをしている連中と、俺と薫を待っていた樹とリヴァセールだけのようだ。
「ラザー、どっか調子悪いのか? 最近なんかぼんやりしてることが多いし……」
 体操着に着替え終わると樹がストレートに聞いてくる。彼はまだ何も知らないからそんなことが言えるんだろう。こいつだってあいつらの意地悪さを知ったなら、俺の罪の数々を知ったなら、こんな心配そうな顔を俺に向けてくることもなくなるのだろうな。無知とは時に兵器よりも恐ろしい武器となる。
「お前は他人の心配より自分の心配でもしていろ」
「え……でも」
「平気さ。お前たちが気付いた頃にはもう全部終わっている」
 未来を見たわけではないが、樹にはそう言っておくことにした。俺の言葉を聞いた樹はわけの分からなそうな表情をしていたが、ちょっとだけ微笑んでみせるとすぐに笑顔を見せてくれた。
 そうして俺はまだ笑えることを確認して、ほっと胸をなで下ろしたのだった。

 

 

 体育ではサッカーとかいう競技を教えられていた。樹からはなんだか複雑そうなルールを聞かされたが、要するにボールを蹴って相手チームのゴールに多く入れた方の勝ちらしい。俺は正直それほど興味を持たなかったが、他の生徒たちは無駄に乗りが良く、特に薫が最も張り切っているように見える。逆に樹は最もやる気の感じられない態度を示していた。
 授業時間の前半はドリブルだのシュートだのの技を磨き、後半は二つのチームに分かれて試合をする。それが以前からの授業の進行方針だった。技を磨くと言ってもそんなに難しいものでもなく、すぐに習得できて練習がつまらなく感じられたが、ふと樹の方を見てみるとまるで下手な動きをしていたので、練習時間を設けることに対し妙に納得してしまった部分があった。彼は本当に運動音痴だった。異世界にいた頃も二本の剣を全くと言っていいほど使いこなせていなかったし、兵器が覚醒してもそれが長続きするわけでもないらしい。彼が欠陥品と呼ばれていた理由がよく分かった気がする。まあ今となっては死んだ呼び方となっているんだろうけど。
 試合の時間になると全員が二つに分けられた。二人一組になってじゃんけんをし、勝った方と負けた方とで二つに分かれる。俺は薫とじゃんけんをして負けた。負けチームは黄色の派手なゼッケンを手渡され、それを頭から被った。……しかしこの黄色はどう頑張っても慣れることができない。この学校の体操着は黒なので落ち着いていられるが、こんな蛍光塗料のような黄色に身を包むとなると自分が自分じゃないみたいに感じられる。俺と同じようにじゃんけんに負けたリヴァセールも、なんだか嫌そうな表情でゼッケンを受け取っていた。
「今日は黒服の二人が揃って黄色を着てるんだな」
「うるっさいなぁ、嫌味ばっか言うんなら殴るよ?」
 俺の隣でささやかな喧嘩が繰り広げられる。樹はすぐに「冗談だって」と言ってリヴァをなだめたが、若き警察の青年は普段以上に機嫌が悪そうに見えた。
「ラザーはよく平気でいられるね。ぼくはなんだか落ち着かないやっ」
 珍しく腕を組み、強い口調で言い放ってくる相手。何をそんなに苛々しているのだろうか。
「お前はなぜ黒服を着るんだ?」
「黒服は喪服。ぼくは昔の上官の為に喪服を着ていたいんだよ。それより、ラザーの方こそどうなのさ? なんで銀髪が目立つような黒服をいつも着てるの?」
 こいつはヤウラの部下であるくせに、俺のことを全くと言っていいほど知らない奴だった。確かにヤウラが俺のことをぺらぺらと喋ったとは思えないが、知り合いになってからあいつに訊ねることはあったはず。それが今でもまだ知らないのなら、それはヤウラが俺が話すまで待たせていたということなのだろうか。
「この黒服にはお前ほどの意味は含まれていない。ただ単に、黒じゃないと安心できないんだ。昔、初めてヤウラに会った時、汚れていた服の代わりにと渡されたのが黒服だった。それ以来ずっと着続けているな」
「へえ、上官が……」
 ぱっと明るくなる相手の顔。そういえば、この話をしたのはこいつが初めてだな。カイも真も知らないことを教えてしまった。だけどそこに優劣など存在するはずがなかったんだろう。
 試合が始まる合図が聞こえ、俺は適当に自分のチームの陣地をぶらぶらすることにした。ゲームに参加する気などないし、教師からの評価にも全く興味が持てない。授業などと言っても所詮は遊びに過ぎず、また俺はこんなことよりももっと楽しい遊びを知っていたから、これは競技でも遊びでもないただのつまらない行為のようにしか思えなかった。
 しかしいくらぼんやりしていても、容赦なくこっちに向かってボールが飛んでくることがある。今回もまた試合開始と共にそれが足元に転がってきて、仕方がないから相手側のゴールを目指すことにした。
 何も考えずにボールを蹴っていても、これを守りながらゴールへ辿り着くことなど造作もないことだった。相手はただの一般人であり、魔法も知らないような連中ばかりなので、毎日師匠の修行に付き合っていた身からすれば雑魚そのものだ。風の流れが相手の動きを教えてくれ、どこに向かって蹴ればゴールに入るかを指導してくれる。それにそのまま従ってもよかったが、それでまた注目されるのも嫌だったので、俺はわざと相手側にボールを奪われたふりをした。足元から白と黒のまだらが消え、周囲の視線も別の方向へと向けられる。
 取り残された俺は相手側のゴール付近で立ち尽くし、ゴールキーパーを任されている男子生徒の顔をちらりと見た。そいつの名前は忘れたが、やたら真面目な奴だってことはよく覚えている。俺がポケットに手を突っ込んで相手を観察していたのが悪かったのか、相手は額に汗を流して俺の視線に怯え始めてしまった。
「お前、暇そうだな」
 声をかけると相手はちょっと縮こまった。何をそんなに恐れているんだか。
「短い生命しか持っていないのに暇そうにするだなんて、お前の人生は無駄なものになりそうだとか思わないのか」
「人生……?」
 駄目だな、こいつは。真面目そうな顔をしているが、肝心なところで鈍感すぎる。
 俺はちょっと近寄っていった。手を伸ばせば触れられるほどの距離になると足を止め、ポケットに忍ばせていたナイフを手で掴む。
「生きていたって暇なことばかりなら、生きている理由なんてないも同然だろ? どうだ、今ここで全てを終わらせてみたいとか、そう考えたことはないか?」
「何を言っているんだ、ラザーラス?」
「分からないか? 分かってるんだろ? お前の人生がここで終わっても、世界には何の影響も残らないと言っているんだ」
「は――」
 相手の肩を左手で掴む。右手にはナイフを握り、それをポケットから出そうと思ったが、その前に相手に逃げられてしまった。さっと俺の手から離れてゴールの右端に立ち、競技の世界に戻ってしまう。俺だけが隔絶された空間に立ち、騒ぐ人々の影を静かに見つめる鳥のような心地になった。
 彼らとは生きている世界が違う。彼らに何を問いかけても、俺の望むような答えは返ってこない。
 悪寒がした。根本的な部分から異なると言われているようで、どこか遠くの方から俺だけを罵る声が聞こえてきて、もう二度と見失うこともないと思っていた光を奪われたような感触がした。
「ラザー、今日こそ負けないからな」
 ぽんと肩に手を置かれ、はっとした。次に視界に入ったのは向こう側へと駆けていく薫の姿で、俺はまた現実へと呼び戻されたのだった。

 

 

 

 あれほどの穏やかな日々。あれほどの温かい笑顔。俺はそれらを壊したくなかったし、ずっと守っていきたかった。
 昔の俺が不思議そうな顔で見つめている。あんな薄っぺらい時間の何を信用しているのかと。過去の自分のままでは分からなかったことを俺は知った。それだけでもう充分だと、これ以上に望むものなどないと思っていた。
「そんなに学校生活は楽しい?」
 耳元でエダの声が囁く。そんなに近くに寄ってくるな。お前の魂胆など、とうの昔にばれているんだから。
「魔界の石を壊して、仕事の邪魔をして、すっかり慣れてしまった一般人との触れ合いに酔っているのか。そんなものはお前に何ももたらさないよ、ラザーラス……仕事の邪魔をすることがお前の友達を守ることに繋がると思ったなら、それはとんだ勘違いだぜ。逆にお前はお前の友達を俺たちに売ったのさ」
「あいつらに手を出すつもりか? やめておけよ、お前ら程度じゃ返り討ちにされておしまいさ」
「ふうん、やけに自信があるんだな」
 無数の星が俺とエダに瞬いている。吹きつける風はいつにも増して冷たく、空からは風に押し流されている粉雪が降っていた。
「あの白黒の世界、アユラツとか言ったっけ? 俺の兄貴が憧れてた世界さ。そこで造られた兵器が川崎樹。ヴェインのそっくりさんだな。あいつが一番脆そうに見えるけど、どう?」
 何を聞いているんだ、この男は。俺の口からどんな情報が放たれれば満足をする?
「あいつは契約者だ。下手に手を出したりしたら、あいつの周りにいる精霊に拘束されるぞ」
「へえ。そいつは知らなかった」
 エダは俺の肩に手を置く。気色が悪くて振り払うと、相手は赤い目を大きく開けて俺の顔を覗き込んできた。
「じゃあガルダーニアのお姫様にしようかな」
「あいつはこの世界にいないんだぞ」
「そうは言っても近いんだし、すぐ帰って来れるじゃないか。それに、虐めるならやっぱり女の子じゃなきゃ面白くない」
「お前――」
 虐めるだって。こいつは何を言っている? 女の子じゃなきゃって? 面白くないって?
「どうかしたのかい、ラザーラス。そんなに蒼い顔をして。どこか気分が悪いのか?」
 他人をからかうようにエダは声をかけてくる。俺は相手の顔をまっすぐ見ることができなくなって、後ろに広がる黒い空に視線を向けた。
 急速に俺の記憶が色を持ち始める。過去のあらゆるものに埋められて沈んでいた出来事が、生温かい感情と共に溢れ返してきた。それは身体に押し付けられた刃物の冷たさでもなく、全身に浴びせられた罵声の嵐でもなく、救いを求めて必死に叫ぶ甲高い誰かの声だった。
 相手は俺の手首を掴み、顔をぐっと近付けてくる。
「組織での日々を思い出したのか?」
「触るな」
「あの頃の通常を意識したのか?」
「誰にも触るな」
「誰にも? 触るなって? そう誘導したのはお前自身じゃないか! お前が俺の言葉に反して魔界の石を壊し、大事な仕事の邪魔をしてきたんじゃないか。この責任を負うべきなのはお前だろう? それなのにお前は仲間を売った。友達のところへ行けと言った」
「そんなことは言っていない!」
「言っていなくとも、そう思わせるようなことを口走ったじゃないか! だから兵器の少年とガルダーニアの姫を比べ、どちらがいいか考えたのに、お前は彼らに触るなと言う。もう決まりかけた未来を否定した。だったら、その先に用意されている処理を聞こうじゃないか。彼らを庇うなら、それなりの物を俺に捧げてくれなきゃ負の感情が治まらないんだ。お前だってこの気持ちは分かるだろう?」
 分からない。彼が何を言っているのか分からない。だけどあいつらに迷惑をかけることの方が、今の俺にとってはずっとずっと分からないことだった。どうすればいい? 何を捧げれば彼は満足する? 一般の人たちの為に犠牲にすべきものは何だ? 綺麗な世界を美しいままで保つ為に必要なのは、元に戻らないくらいに汚れ切ってしまった生命だけ。
「……仕事、ちゃんとするから」
「へえ」
 嫌だ。
「もう逆らったりしないから」
「ふうん」
 戻りたくない。
「こんな俺の生命なら、好きにしてくれて構わない」
「よし来た」
 手首を握っている力が増す。
 俺は相手の目を見ることができなかった。そしてどうしてそうなったのか、俺はすぐに分かってしまった。怖かったんだ。俺は相手を恐れているんだ。いいや、自分自身に恐れているのかもしれない。すぐに感情の波に流され、善悪の間を彷徨し、白にも黒にも染まり易い自分の心を恐れていた。それによって生まれてくる自分の姿が怖くって、鏡を見ることさえできない状況に立たされている気分になる。
 相手に体を押され、屋上の手すりに背中が触れた。その位置で乱暴に肩を掴まれ、下に突き落とされそうになる。だけど背中が空中に投げ出されても体が落ちることはなく、今度は相手の方へと引っ張られて彼の胸に頭をぶつけた。そのまま後ろへ突き飛ばされ、手すりを挟んだ地面に寝転ぶ。相手は素早く俺の上に覆い被さってきて、懐から取り出したナイフをきらりと怪しげに光らせた。
 俺は友達を売ったと言われて悔しかった。でも、だからって自分を売ってもいいとは思えなかった。それなのにこれは何だ? なぜ俺は彼の貢献物となっている? 彼は俺の顔に傷をつけた。服をはだけて至る所を触った。俺は彼の物になり、何も抵抗することが許されなかった。もう全てを諦める他はないように思われた。
 こんなこと、少しも望んじゃいなかった。気持ちだけじゃなく体も激しい拒否反応を起こした。だけど相手はそれを面白がって、執拗に俺の身体を弄んだ。長く長い時間が必要だった。終わりのない欲望を満たすには、時間だけでは条件が足りなかった。道具が必要だったんだ。今の俺は相手の道具に過ぎない。いくら傷つけられても声を出さず、どんな辱めを受けても涙を見せなかった。それが終わるのを待っていることしかできず、俺は上空から自分の姿を見下ろすことで痛みを和らげようとした。

 

 

 全てが終わるとエダは去った。くらくらする頭を抱えて体を起こすと、足元に紫の石が転がっていた。白い雪が頭上に降りかかり、心の虚しさを際立たせる。黒い空間の中で胸に吊るされた十字架が悲しく光っていた。
 石を手に取ると冷たさを感じた。ぐっと俯くと前髪が垂れてきて、そこにふと違和感を感じた。あれだけ体中を弄られたのに、彼は髪には触れていないようだった。彼だって俺が髪を気にしていたことは知っていたはずなのに、これは一体どういうことなのか。
 優しさ? ううん、そんなもの彼は持っちゃいない。興奮してそのことを忘れていたのか? でもあの時の彼は、とても落ち着いているようにさえ見えた。だとしたら、なぜこんな中途半端な嫌がらせをしたのだろう。こんなことをされたって、ただ気色が悪くなるだけなのに。
 虐めるなら、いっそ徹底的に壊して欲しかった。これ以上堕ちることができないという深淵まで、怠惰と堕落を突き刺して欲しかった。こんな白と黒の狭間に置き去りにされてしまったら、汚いものを抱えたままで這い上がっていくことができてしまう。人間的な全てを理解できぬほど、何もかもを破壊してくれればよかったのに。
 頭を抱えてうずくまっても、俺の中の焦燥が体を動かした。昨日のメモを思い出して外国へ飛び、示された場所に石を置いて学校へ帰る。そこではもう朝日が眩しい光を世界に見せていて、俺はこの世界にさえ見捨てられたような心地がした。

 

 

 

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