月のない夜に

 

 

 朝早くから教室に行っても誰もいなかった。そんな当たり前のことでさえ今では不安に感じられる。世界にいる全ての生命が俺だけを取り残して去ってしまったんじゃないかって、どこから出てきたか分からないような焦りが俺をしつこく苛んでいた。
 名前も覚えていない連中が教室に入ってきても、俺の中で続く不安が消えることはなかった。だけど名前を呼ぶことのできる人が入ると急に心が落ち着いた。特に用事もないのに彼女の前へ行き、口の奥からするりと出てきた挨拶の言葉に自分で驚いてしまった。
「おはよう。でも、どうしたの? ラザーから話しかけてくるなんて珍しいね」
 相手の名前は上野あかり。つい最近になって名前を覚えた女子生徒。その理由は、彼女が俺を好きだと言ってきたからだった。
 普段はうるさく付きまとわれて鬱陶しく感じていた。でも今は、相手が輝いて見える。汚いものを知らず、怠惰や堕落から意識的に遠ざかり、俺のような人間を足蹴にして歩いていく一般人。俺はなぜ彼女に話しかけた? なぜわざわざ目の前に行って、挨拶の言葉なんかを投げかけた?
 ――それは自分を愛して欲しかったから。
 そうだろうか。そうなんだろうか。以前はっきりと言ったじゃないか、俺は相手のことが大嫌いだって。そうやって相手の愛を否定しておきながら、心が不安に追いかけられたら愛情を求めるのか。なんて厚かましいことを! そんなこと、許されることじゃないだろう、それさえ分かっていながらなぜ! どうしてこんなことを、こんな汚い真似をしたのだろう、俺は!
「ラザー、どうしたの? 顔が真っ青……」
「黙れよ」
 俺に触れようとしてきた相手の手を振り払う。俺なんかに触れたらいけない。そんなことをしたら、昨日エダに植え付けられた汚いものがうつってしまう。俺はもう戻れない所まで来てしまったのだから。
「あれ、ラザー何してんの」
 今度は薫が声をかけてきた。どうしてそんなに近寄ってくるんだ。いや、彼はいつも理由もなく近寄ってきていた。ここで彼を遠ざけたなら、俺は彼の夢を壊してしまいそうで怖くなってくる。今でさえ最低の人間なのに、他人の夢を平気で踏み躙るような奴にはなりたくなかった。だから逃げたい思いをぐっと我慢して立ち止まり、無邪気な瞳がこちらを見上げてくる姿を羨望の中に見出していた。
「なになに、やっぱ上野さんと付き合うことにしたの? いいよなー、俺なんかいつまでたっても樹の彼氏なんだぜぇ」
「誰が誰の彼氏だって? いい加減なこと言うなっつーの」
「お。我が親愛なる幼馴染みよ、おはよう」
 わらわらといつものメンバーが集まってきて、あっという間に全員が集合してしまった。樹に薫、そしてリヴァセールに俺が加わり、一つのグループを形成している。クラスの中でも圧倒的に浮いている連中が作った変人同士の集まり。そこにある共通点とは、薫を除いて、異世界の存在を知っているということ。
 そこには何の問題点もないように見えた。今までこの体制を不思議に思うこともなくって、何もかもが穏やかでうまくいっていると自惚れていた。もう怖いものなんてないと、心配することなどないんだと、困った時には互いに助け合い、同じ時間を同じ速度で共有しているものと思い込んでいた。同じ空の下で、同じ生命を抱え、同じ未来へ進むため、ゆっくりとしたスピードで歩いている。各々が抱える問題だとか、決して癒えることのない過去の傷跡だとか、そういったものさえいつかは許されるような心持ちで過ごしていた。この世界では全てがゆっくりと進んでいるようで――組織で見ていた底のない暗闇など、全て悪い夢の中の出来事のような気がしていた。
 だけど今、はっきりと感じられる。俺は彼らとは違うのだと。彼らの隣に並ぶべきではない、彼らと同じ空気を吸うべきではない存在なのだと唐突に悟ってしまった。昨日の夜、この学校の屋上で組織の者に常闇を見せられ、そう感じずにはいられなかったんだ。それを否定することさえできないくらい、はっきりと!
 昨日の傷ならすでに消えていた。顔につけられたもの、手足につけられたもの、背や腹につけられたもの、その全てが証拠として残らぬように。だけど相手の手の感触は全身に残っていた。あらゆる場所に指紋を押し付けられ、寒空の下で手の温もりだけが異様に体に食い込む感覚。思い出そうと思っても無駄だった。だってそれらは全て、思い出さなくとも生き続けているのだから。
 だけど、目の前にいる人たちの悪気のない笑顔を見ていると、自分があの気色悪い嫌がらせを受けてよかったとさえ思えてくる。俺が彼らを守ったのだと、そういった錯覚に陥るから心地いい。
 白い粉雪が体に降り注ぎ、遥か天空から星々の光が笑いかけ、虚しさに押し殺されそうになったあの時間。白いモクレンの花が地に落ち、遠い国から讃美歌が聞こえ、金の十字架が俺から純潔が消えることを嘆いているかのように煌めいていた。忘れかけていた全てのものが甦り、静かに壊されていた自分の姿が目の前に現れた。彼は俺を罵り、嗤った。やはりお前はそんな人間でしかないのだと。
 反論しようとしても動けなかった。相手に逆らってはいけなかった。俺はただじっと耐えて、どんなことをされても黙っていた。相手の好きなように遊んでくれればそれでいいと思っていた。反抗したかったのに? いや、そんな気持ちはなかった! だって彼は俺の体に触り、俺の体温を感じ、俺の心臓の鼓動を聞いていた。それって結局、俺が求めてやまなかった、あのなまめかしい愛情の形だったんじゃないだろうか。
 まさか! そんなはずはない。彼は俺で遊んでいただろ。俺を遊びの道具として扱っていただろ! 俺は人間として見られていなくて、魂の宿っていない物体として転がされていた。そんな相手が俺を愛していただって。そんな馬鹿なことがあってたまるか。だってそんなことがあったなら、俺は一体何に縋ったらいいのか――。
「ラザー、ぼーっとしてないで席に座れよ」
 薫の声にはっとした。周囲を見回せば大勢の生徒が席に座っていて、それでようやく授業が始まりそうなのだということに気が付いた。
 もうここにはいられないと思った。だけどそうやって俺が消えたなら、樹たちが心配して探し回りそうで、俺はどこにも行ってはいけないような気がしたんだ。

 

 

 その日の夜、エダは何事もなかったかのように石を持って屋上へやって来た。俺は無言でそれを受け取り、同じように小さなメモを貰って、相手の顔を見る前にさっさと目的地へと飛んだ。今日の設置場所はヨーロッパの小さな国だった。細かい位置は決められておらず、誰にも見つからないような場所を探すのさえ億劫だったので、俺はふと目についた大きな噴水の中に石を投げ入れてしまった。そうして学校に戻ってくると、そこにはもうエダの姿はなかった。ほっとして胸をなで下ろす自分がいた。
 俺は彼を恐れているんだ。彼はかつてのケキのようなことを強要してくるから。ケキラーダ・ウェイラム。武器マニアであり、血の繋がった真の兄である男。彼が人を見る時の目が忘れられず、組織を抜け出して日が浅い時などはよく夢で踏みつけられていた。繰り返された虐待。終わりのない凌辱。そんな日々から遠ざかっていた今、それらがエダによってもたらされようとしている。
『怖いのなら、逃げてしまえばいいじゃない』
 分かっている。逃げれば痛みが緩むことは、もうずっと前から分かっていたことだ。だけど逃げられないじゃないか。俺が自らあいつに体を捧げたのだから。
『そこまでして守る必要があるの、君の大切なお仲間は? そこまで必要な存在なの、君の大事なお友達は? 今まで一人で生きてきたくせに、他人がどうなろうと見向きもしなかったくせに、今更何を嘆いているの、馬鹿らしい!』
 俺は知ったんだ、仲間という言葉の意味を、友達というものの存在を。それがどれほど俺を支えてくれているかも分かっている、分かっているからこそ守りたいって思えるんだ。何も分からなかった頃は一人で生きていて、自分は何にも流されないから強いんだって勘違いしていたんだ。何も足を引っ張るものがなかった時は、他人のことを心配せずに自分勝手なことをしてきた。だけどそれは自由のように見えても、やがては自分を縛る苦痛となって現れた。守るべき誰かがいる今、俺は自分の全ての行動に意味を見出すことができるし、そこから充実感を得ることができる。やっとのことで生きる意味が見出せたんだ、俺は。だから彼らを守らなきゃならないと思った。何かそこには使命のようなものを感じ、どこかから聞こえる月の歌に心を預け、地の底から手を伸ばしてきた組織の前に立ち塞がらねばならなかったんだ。
『だけど彼らは君を愛してはいないよ、ラザーラス』
「愛しているさ」
『君に対し抱いているのは別の感情さ。だってもし本当に君を愛しているなら、なぜ誰もこの状況に気付かない?』
「それは――」
 ふと風が変わる。
 振り向けばエダが立っていた。曇り空の下で一人、風に吹かれて立っている。彼との距離はまだ大きい。近付くには時間がかかりそうでほっとする。
「今、お前の中にロイが見えた」
「……何の用だよ」
 平静を装ってエダに背を向け、手すりに肘をつく。なぜこいつがここにいる? いつも石を渡した後はどこかに消えていたじゃないか。まだ何か用事があるとでも言うのだろうか、それとも――。
「いやいや、すっかり忘れていたものでね」
 足音が背後から響いてきた。こちらに近付いている音。それが聞こえなくなった瞬間に背中から抱き締められる。
「仕事で疲れた俺を癒しておくれ」
「断る」
「何だって、断る? そんな権利はお前にはない。だってお前は俺に言ったじゃないか、お前の命を好きにして構わないって」
「それは昨日だけの話だろ!」
 かっとなって振り返ると、その拍子に無理矢理唇を押し付けられた。相手を突き飛ばして体を離すが、唇に残った温かさが消えない。
 気色が悪い。なぜそういうことばかりを望むんだ、あんたたちは。そんなもので何を得ようとしているんだ? 俺には分からない、何一つとして理解できない!
「お前が拒むんなら、俺はガルダーニアまで行かなきゃならない」
「だからそれは、昨日だけの話で――」
「お前、自分の立場が分かってないんじゃないの?」
 立場だって、立場だって? それが何だっていうんだよ、そんな勝手に作り上げた言葉の一体何が重要だっていうんだよ! どうでもいいことじゃないか、そんなもの、あってもなくても困らないようなものなのに、どうしてそんなものをここに来て主張しようとする!
「お前はまだ気付いていないんだな。だったら教えてやるけど、お前はちょっと昔の仕事に懐かしさを感じて手伝ったけど、それが全てお前の中の事情を変えてしまったのさ。お前はまだ引き返せると思っているんだろう? ところがどういうわけか俺が許そうとしない。お前は少しだけなら構わないと思ったのか? ちょっと触れるくらいなら大丈夫だと思ったのか? そんな甘い考えを持っている時点で、お前は既に俺たちに食われていたのさ……もう後戻りはできない地点まで来ている! 振り返っても誰も追いかけてきていない、ただ道の先にある暗闇へ向かって走らねば世界の全てに押し潰される! そうして永遠に否定されてしまわぬよう、お前は自分の体を売ったのさ、逃げ込むことのできる安全地帯を見失った今では、俺たちに全てを捧げる他に生きていくすべは見つかりやしないのさ!」
「黙れよ! 俺が生きる場所は自分で決める!」
「盲目の愚か者め!」
 頭に鈍い痛みを感じた。少し意識が飛びかけたが、無理に元に戻して相手を睨みつける。
「そこまで言うんなら、懐かしいものをお前にやろう」
 相手は懐から何かを取り出した。月も星も見えない夜空の下、それは鈍い光をうっすらと放っている。
「ほら、これを――」
 手に持っていたものをこちらに投げてきた。こんなもの、誰が受け止めるものか。苛々して手ではたき落とすと、その瞬間に胸を押されて地面に転ばされた。
「暴れんなよ、痛くしないからさぁ!」
 そのまま両手を拘束される。さっき投げつけてきたものは、警察の連中が使う手錠の一種だった。両手を背中に回され、そこで手錠を掛けられる。いつかの記憶が宵闇の空間に降ってきた。
 エダは微笑んだ。全ての主導権が奴に移った気がした。足はまだ自由だけど、どう足掻いても相手から逃れられるわけがなかったんだ。手の震えが止まらないまま、力任せに歯を食い縛り、暗闇の底で俺はぐっと目を閉じた。
 雪なんて降ってないのに白い斑点が描かれ、雨なんて降ってないのに冷水を体に掛けられた。ふと小さく髪に触れられたことが分かった。そっと俺の髪を撫でたんだ、相手は。胸の十字架が離れた気がした。金色の光が俺の心から離れようとしている。耳から重荷がなくなった。黒いガラスのピアスが消えた。代わりに耳たぶにおかしな感触がした。それは耳から離れ、首の方へと移動していった。
 やめて。ああ、やめてくれ。おかしなことをしないで。せっかく上へ向きかけた花を、どうしてそうやって折ろうとするんだ。これじゃ誰にも顔向けできない。ああ、誰にも会えなくなってしまう! また罵声を浴びるのか、また軽蔑の目で見られるのか! 中途半端な優しさが痛くなる、半分だけの平穏に耐えられなくなる! だけど、でも、助けを求めてはいけない。助けを求めちゃいけないんだ、どんなことがあったとしても!
 俺は奴らに魂を売った、この生命を食ってくれと頼んだ。それが全てだ、それが真実だ! 自ら犠牲者となった俺は、どんなに酷な扱いを受けたとしても、俺の手の中にある全てを失ったとしても、そんなことは何の問題でもないと言い切らなくてはならないんだ!
 この感情を、この感覚を、どうやって表現すればいいだろう? 俺は何を考え、何を想い、何を待っていれば、この引き裂かれた精神を氷らせられるだろう? 自分の選択に絶望さえ感じる――もう二度と、あの笑顔の中には戻れない。
 さようなら、光の中の人々よ。私は中継地点を通り過ぎ、堕落の底へと堕ちていきます。……

 

 +++++

 

 どんな痛みが一人の人間を襲っても、世界は知らんふりをして朝を告げた。疲れ果てて屋上で眠った俺に降り注ぐ朝日は眩しくて、だけどもうそこから温かさを感じることはなかった。そればかりか朝の風の冷たさも感じられず、ザラザラした地面の触り心地もどこかおかしい。
 体を起こして自分の姿を確認すると、服は原形を留めていないくらいに破られていた。地面にアニスの十字架と黒いガラスのピアスが転がっており、それらを拾い集めて装着し、いつもの身なりに戻る。よく見ると破られた服は学校の制服だった。そうだ、私服は一昨日に破られたんだった。これじゃあ教室には行けないな。誰の前に現れることもできないや。
 鏡が欲しい。姿が映る物。乱れた髪を整えたい。こんな格好じゃ、自信を持って歩くことさえできない。
 立ち上がろうと足に力を入れてみても、込められた力がどこかに抜けて立てなくなっていた。風が優しく頬を撫で、どうかしたのかと問いかけてきた。その質問に俺は静かに答える。どうもしていない、どうかしていたのは、今までの自分だったんだ、と。
 目を閉じて深呼吸をし、風の気配を一身に感じた。どんな時でも風だけは俺を支えてくれていた。ぼさぼさになっていた髪が風によってほどかれてゆき、目を開けて朝日を見つめると、もうそこに眩しさは感じられなかった。俺は俺を取り戻した気がした。
 足に力を入れると立つことができた。ぼろきれのようになった制服で体を隠し、屋上から校内へと戻っていく。教室に行けば体操着があるからそれに着替えればいい。誰かに見つかる前に、この制服を隠してしまわなければならない。
 教室に辿り着くと、まず中の様子を確認した。一つの人影が動いている。駄目だ、中に入ることはできない。だとしたらどこへ行けばいいだろうか。
 職員室。図書室。体育館。音楽室。――どこへ行っても駄目じゃないか。俺にどうしろって言うんだよ。
 ふらふらと校内をさまよっていると、保健室の前に辿り着いた。思えばこの部屋には一度も入ったことがない。誰かいるだろうか。軽くドアを押してみたが、どうやら鍵がかかっているようだ。誰もいないなら入ってもばれないだろう。制服に忍ばせていた針金を使って鍵を開け、俺は白い部屋の中へと足を踏み入れた。
 机が二つとベッドが二つ。椅子がその辺に散らばっており、ロッカーのようなものが壁に沿って置かれている。あの中には何があるのだろう。鍵がかかっているのなら、またこじ開けてやるまでだ。ロッカーの前に立つと、それはなかなか大きいことが分かった。服の一つや二つは入っていそうな気がする。
「誰?」
 ロッカーに手を伸ばすと、後ろから女の声が聞こえた。振り返ると白衣を着込んだ女性が立っている。どこかで見た覚えがあるような、ないような。どちらにしろ頭がぼんやりしていて思い出せない。
「あなたは……一年生の?」
「服を――」
 なぜだろう、声がうまく出てこなかった。喉に何かが詰まっているみたいだ。同時に焦りや恥じらいも喉で詰まっているようで、驚くほど何も感じられない自分が立っていた。
 相手は俺の姿を見て何かを察したようだった。ロッカーの前まで足早に歩き、その中から白衣を取り出す。白の服なんて普段なら断固として断っただろうけど、今は相手の望みに反抗する気分にもなれなかったので、手渡された白衣をそのまま上に羽織るようにして着用した。
「座る?」
 相手が椅子を差し出してきたので俺はそれに座った。一気に体中から力が抜けた気がした。
「何か飲む?」
「レモネード」
 しばらくするとカップを手渡された。中には温かいレモネードが入っていた。
 カップに口をつけ、一口飲む。いつも感じていた温かいものが体の中へ入っていく感覚がなくて、本当に自分はレモネードを飲んでいるのか分からなくなってきた。喉に何かが詰まっているわけではなかった。ただ喉がカラカラに渇いていたことだけはよく分かった。レモネードを飲み続けていると病人のような咳が出た。口の中に異様な感触が広がっていた。
「う――」
 頭が冴えれば冴えるほど、昨日の夜の出来事が鮮明に甦ってくる。手が震えてカップを床に落としてしまった。頭痛がしてぐっと俯き、頭を両手で抱えた。何も見つけられなくて悔しくなってきた。
 背中に誰かの手を感じた。それは優しくトントンと叩いてくる。そのおかげでだんだんと頭痛が和らぎ、溢れかけていた涙が奥へと引っ込んでいった。顔を上げるとすぐ傍に白衣の女性がいた。俺の隣に椅子を置き、そこに座って俺の背に手を置いていた。
「名前、聞いてもいいかしら」
「ラザーラス」
 落ち着くと、声は普段通りにするりと出てきた。
「そう、ラザーラス君。君はいつも朝は早いの?」
「いいや……」
 この人は俺の傷を癒そうとしているのだろうか。この人は俺の傷を知ろうとしているのだろうか。
「じゃあ、どうして今日はこんなに早く学校へ来たの?」
「最近、家に帰っていないから」
「それは……どうしてなのか、話せる?」
 選ばせている。俺に、話すかどうかを選ばせている。
「俺は俺を売ったんだ」
「売った? それって、どういう――」
「そしてあいつは俺を食った。骨の髄まで食らい尽くした。……もう放っておいてくれ」
 今は誰にも関わりたくない。どんな優しさを向けられても、決して頼ることができないから、ただ虚しくなるだけだから。
「……そう。分かったわ。だけど、落ち着くまではここにいなさいね。担任の先生には伝えておくから」
 相手は立ち上がり、床に転がっていたカップを拾った。それを持って窓の方へと歩いていく。俺は彼女の後ろ姿を目で追いながら、大人しく黙って椅子に座っていた。
 やがて白衣の女性は扉の方へ行き、少しこっちを見てから部屋を出ていった。静寂が訪れた白い部屋は小さな宇宙を作っていた。その中央で俺がじっと座り込んでいて、儚い世界を描くあの人のようにぼんやりとした目で全てを眺めていた。
 チャイムと共に静寂は破られた。白衣の女性が部屋に戻ってきて、もう一度チャイムが鳴るとよく知っている人が部屋の中に入ってきた。
「ラザー! どうしたんだ、今日は……」
 四人が俺の前に並んだ。黒の中に茶色を帯びた目の樹、深い銀色をしている目のリヴァセール、生粋の日本人特有の黒い目を持つ薫とあかり。その中でも真っ先に声をかけてきたのは、お人好しで心配性な樹だった。
「別になんでもない」
「なんでもないことなんてないだろ! 昨日も、家に帰らなかったのか?」
「いちいち俺に構うな。前に言っただろ、俺のことより自分の心配をしろと」
 樹は不安げな瞳をこちらに向けてくる。不安になってるのはこっちの方なのに、彼は何も知らないから俺を心配しているんだ。俺は彼らを心配させたくて自分を売ったわけじゃない。彼らを安心させたいからあいつに食われたんじゃなかったのか。
「ラザー、悩み事があるんなら、遠慮なんかしないで言ってくれよな。俺達でよかったら力になるからさ」
「そうだよ。せっかく同じ高校に通ってるんだから、お互いに協力しないとね」
 樹に続いてリヴァセールまでもがお人好しなことを言ってくる。まさか彼の口から「協力」なんて単語が出てくるとは思わなかったな。彼ってまるで協調性のない人だから。
「ラザーラス君、私も協力するわ。あなたの為なら協力を惜しまないから!」
「ラザーって結構白衣似合ってるな。将来は医者とかになったらどうだ?」
 あかりと薫も口々に何かを言っている。調子のいい薫は樹に頬をつねられていた。
「ほらほら、あとちょっとで授業が始まるわよ。教室に戻りなさい」
 最後には白衣の女性によって四人は部屋を追い出された。誰もが不満そうな影を帯びた顔でこちらを見てきて、その後に部屋の中から消えていく。和気あいあいとした人たちだった。いつもあの中に、こんな自分も混ざっていたんだ。
「心配して来てくれるなんて、いいお友達ね」
「友達じゃない」
「あら、どうして?」
 今まで彼らを友達と呼んでいたけど、もうそう呼んではいけないような気がした。だってそう呼んでしまったなら、彼らも俺と同じ目線で世界を見ていることになりそうだったから。
 穏やかな光が窓から降り注ぐ。部屋の外では騒ぐ人々が声を上げていたけれど、すっかり扉の閉まっているこの部屋の中にいると、別の世界で孤独に佇んでいるような落ち着いた心持ちになった。

 

 

 小さな部屋に二人きり、世界から忘れられたように押し込められている。窓から差し込む光はオレンジを帯びており、温かな色合いからどうしようもない哀愁を感じた。
 俺はこの保健室の中で一日をぼんやりと過ごしていた。白衣の女性は何も聞いてこなかったし、俺も何かを話す気力がなかったから、白いベッドの上に寝転がったり座ったりしながら流れる時間を見下ろしていた。昼休みになったら樹たちが保健室に押し掛けてきたが、俺は女性に彼らを入れないように頼んだ。この静かな空間を壊されたくなかったんだ。今まではどれほど穏やかで安全な場所にいても、心の中で騒ぐ自己が黙る機会など訪れなかった。だけど今は無限の宇宙に漂っているかのように、何一つとして執着することがなく、何一つとして得られるものもないような、そんな空間に座っているような気がしていた。
 窓の外を眺めると、たくさんの生徒たちが自転車を押している姿が見えた。もう授業は終わったらしい。耳にチャイムは届いただろうが、それを意識することがなかったから気付かなかった。
「今日も家には帰らないの?」
 白衣の女性が目の前に立ち、湯気の出ているカップを差し出してくる。
「家の人、心配しているんじゃないかしら」
 受け取ったカップの中にはココアが入っていた。これはあまり好きじゃない。だけど自然とカップに口をつけていた。一口飲んで、やはり感じられない温かさに気付こうとした。
「明日は土曜でお休みだし、一度帰ってみたらどう?」
「土曜……」
 そうか、今日は金曜日だったのか。あまりにも長い一週間だったから、今日が何曜日かだなんて考えたことがなかった。だけど、もうこんなに時が経っていたのか。奴らに目をつけられたのは、一体いつのことだっただろう。
「それにその制服もどうにかしなきゃならないでしょ?」
「制、服」
 あいつに引き裂かれた制服。引き裂く必要なんかなかったはずなのに、あいつは悪ふざけでナイフを振り回したんだ。
「だから、今日は」
「帰らない」
 だって帰れない。
「……そう。だったら、今日はこの部屋に泊まりなさい」
 そんなに優しくしないで。どうか思いっきり遠ざけて。そうしてくれなきゃ甘えたくなってしまう。頼りたくなってしまう。俺が何かを守ると決めたなら、強い自分を演じなければ壊れてしまうんだから。
「だけど、私にはあなたを一人きりにすることはできないわ。私も一緒にここに泊まるから、それでもいい?」
「あんたここで働いてるんだろ。そんなことをしても構わないのか」
「そりゃあ、普通は駄目でしょうね。それでも私は教師として、一人の人間として、あなたを見捨てることができないから。学校の規律より、あなたの心の方が大切なのよ」
「……ふうん」
 近寄ってくる奴には警戒しないといけない。腹の底ではどんな策を練っているか分からないんだから。
 ――いや、違う。それは違うだろ。ここはあの汚い世界じゃない。世の中のあらゆる汚れを知らないような、平和ボケしたふわふわした連中が住んでいるような世界だ。何でもかでも疑ったらいけない。でも、頭から信じすぎてもいけない。
 いいのだろうか。俺みたいな堕落した人間が、こんな優しい言葉を受け取っても許されるのだろうか。誰かに怒られはしないだろうか。奪われたりしないだろうか。自分より不幸な人なんてごまんといるだろうに、その人たちを差し置いて、こんなどうしようもない自分なんかが光に手を伸ばしても構わないのだろうか。
 俺は俯いた。もう言葉が出てこなかった。俺は逃げたかった。この人の優しさの中に逃げたかったんだ。あの夜の世界に戻らなきゃならないのに、俺が自分を殺さなきゃ皆が傷つくのに、もうあんな絶望に満ちた思いを感じたくなかったから、光の中に飛び込んでいきたかったんだ。もう我慢したくなかった。もう耐えていけない気がした。こんなふうに、まっすぐ手を伸ばしてくれるのを、心の奥ではずっとずっと待ち続けていたんだ!
「大丈夫だからね、私が傍にいてあげるから、何も怖いことなんてきっとないわ。だから今日は一緒にいましょう。一緒に美しい夢を見ましょう。ね……」
 この純粋さが欲しかった。だから。

 

 

 日付が変わる頃、ふと目が覚めた。
 暗闇に包まれている部屋の中、ベッドの上で体を起こす。隣のベッドには白衣を脱いだ女性が静かに眠っており、昼間とは違った静寂がこの場を包んでいた。窓の外には綺麗な月が世界を照らしており、その周囲に散らばる星が芸術的な何かを描いている。そして俺の枕元には、すでに見慣れた紫色に光る石が転がっていた。
 俺は無意識のうちに石を掴み、窓を開けて裸足のまま外に出た。今日はこれをどこへ置けばいいのか分からない。いつものように小さな紙を添付しているわけでもなく、ただ風が導く方へと足を向けた。学校の裏庭には小さな池があった。宵闇に染められたその奥は、引きずり込まれそうな永遠が口を開けているように見えた。俺は石を放り込んだ。水面が揺れ、自分の姿もまた揺れた。
 部屋へ戻るとエダがいた。窓の近くで待っていた。誰を待っていた? それは俺を待って――。
 相手は俺の腕を掴み、屋上へと連れ込んだ。ここはいつもの場所。そろそろ習慣になってしまいそうだった。俺はここで俺を売ったんだ。
 そう。皆に迷惑をかけないようにって。
「……や」
「ああ?」
 知っている人たちを守りたかったから。
「や、やめて――」
「……」
 口から出てきたのは何だ? 俺は何を言ったのだろう。それは本当に自分の言葉だった? それは偽りのない本音だっただろうか。
「やめてって、お前が望んだことじゃないか」
 腕を掴まれ、顔を近付けられ、心臓の鼓動を聞かれている。彼なりの人の愛し方? 俺が求めていた愛の形?
「の、望んでなんかない」
「へえ」
「なんでこんなことばかりしてくるんだよ、他の奴のところへ行けばいいじゃないか!」
 地面に落とされ、上から足で踏みつけてくる。
「じゃあガルダーニアにでも行こうかな」
「行けよ! どこへでも行ってしまえ、もう他の奴らがどうなろうと知るもんか!」
「あのお姫様、まだ若いのになぁ」
「俺には関係ないことだろ!」
 守りたかったのに。守ろうとしていたのに。
「なんで俺ばかりがこんな目に遭わなきゃならないんだ、どうして俺ばかりがこんなに苦しまなければならないんだよ!」
 見下ろしてくる瞳が痛い。あんな棘に刺されたら、もう生きている実感さえ忘れてしまいそうだった。
「あんたたちは、あんたたちは! なぜ人が嫌がることばかり押し付けてくるんだ、俺はあんたたちに何もしていないのに!」
「そうだな、お前は俺たちに対して何もしていない」
 雨のように冷たく降ってきた声にはっとした。気が付けば俺は空を見上げていた。相手は俺の胸に足を置いており、鋭く尖った目でじっとこちらを見つめている。心臓の鼓動が徐々に速くなっていった。何か馬鹿げたことを口走ったんじゃないかって、急に恐ろしくなってきた。
「だけどお前は覚えているはず」
「な、何を――」
「お前が世間の人々に対して行ってきた全てのことを。お前は他人の不幸を舐め回して笑い、他人の嫌がるあらゆる行為を強要してきた。この平和な世界では決して触れられぬ闇の中で、お前が行動してきた全ては今でも生きている。足を洗う? 無理さ、お前の体に流れている血は、お前の正体を知っている。さっきの言葉だってお前の人格を表していたじゃないか。今まで我慢していたのに、他人のことなど知るものかと言った。自分が苛まれることに対して、なぜ自分だけがこんな目に、と言った。所詮お前は誰も守ることなどできない、自分のことだけを大切にする臆病者なのさ!」
 臆病者。臆病者! 違う、俺は確かに彼らを守ろうと思っていた、そう思っていたからこそ今までの凌辱に耐えられたんじゃないか! 自分を守るって? 自分だけが大切だって? そんなこと、そんなことは、違う……違うはずだろ!
 もう俺はロイじゃない、あんな子供じみた悪漢じゃない! もう罪を重ねていないし、何が善くて何が悪いのか、それだって分かるような大人に近付いている! 俺は、ああ、逃げようだなんて思ってなかった! あれは一瞬の気の迷い、悪魔の囁きだったんだ! 自分を犠牲にして、誰かの為に犠牲になって、それで他人を守れるんなら、これ以上に幸福なことなどないはずじゃないか! それなのに、どうして! どうしてこんなに手が震えて、喉が詰まって、声が出なくなってしまったのか! 今からでも遅くない、彼に伝えなくてはならない。俺の命などどうなってもいいから、俺の体などあんたの道具に過ぎないから、だから彼らには手を出さないでって。彼らに闇を押し付けないでって!
 エダは俺の上から足を下ろした。ゆっくりと背を向け、どこかへ歩き出す。駄目だ、いけない、彼を放置しては、ひどく後悔してしまう!
「待って――」
 視界がぼやけて、もう何も見えない。
「待って、待ってくれ、俺の……」
 相手の足にしがみつき、頭を擦りつけて懇願する。
「俺の身体をあげるから、好きにして構わないから、だからあいつらには近寄らないで、あいつらにおかしなものを植え付けないで!」
 エダは立ち止まっていた。
 だけど振り返らない。なぜだ。なぜ彼は黙っている。俺の身体だけじゃ駄目なのか。それ以上に必要なものがあるのだろうか。だったらそれを教えてくれてもいいじゃないか、そんなもの、すぐに用意してやるから。あいつらを守るためなら何だってする。どんな汚いことでも喜んで受け入れてやる! だから、早く、ああ早く、その残酷な顔を俺に見せてくれ!
「そう、そうやって、素直になっていればいいんだよ」
 月光に包まれた相手の笑顔は、俺から全ての感情を奪い去った。
 もう戻ることはできなかった。俺は堕落の底を突き抜けて、さらに下の方へと堕ちていたんだ。誰も俺を救うことはできない。上っ面だけの優しさじゃ、俺を光の中に戻すことはできないんだ、きっと!
 夜の風を浴びても冷たさを感じないのに、相手の身体が触れると温かさを感じた。もう何もかもがどうでもいいと思っても、陰部を弄られると体は激しく反応した。髪を引っ張られても怒ってはいけなかった。十字架に接吻されても払い除けてはいけなかった。俺は相手の道具に過ぎない。相手の欲望を全身に受け、絶望さえ知らない顔で、彼の動的な快楽の手伝いをしなければならなかった。相手が俺に命令したら、俺はそれに従った。どれほど淫らな行為であろうと服従し、自分の限界など忘れ去り、涙さえ出なくなった身体で、恐怖と恥じらいを自ら殺さねばならなかった。目を閉じても全てが見えた。見たくないものまで見なければならなかった! 全身の感覚が麻痺し、溜まっていた何もかもが放出された頃、奴は俺を見下ろしてどこかへ去った。長い長い夜を終え、彼は俺を捨てていったんだ。
 体が震えて動けなかった。羽織っていた白衣は破られていなかった。それは風で飛ばされそうになったが、誰かの情けで飛ばされはしなかった。俺は地面に寝そべったまま、太陽が昇る様をぼんやりと見ていた。
 アニス。もういない人。君はいつも、どんなことを考えていたのだろう。今俺が思っていることと同じかな。同じだったら、いいな。やっと君の気持ちを分かることができた。あの頃理解できなかったことが、ようやく俺にも受け入れられるようになったよ。
 小鳥の歌が空に響き、どこかで繋がっている景色が輝く。俺が守ろうとした人々もまた、この美しい世界を見つめているのだろうと感じた。

 

 

 

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